古代中国呪術大全 第1章23 

厭勝銭の作り方と使い方 

(1)

 貨幣というものが出現して以来、持てる者である支配者、抑圧者が巨大な能力を有し、人類の歴史上、それが天使と悪魔の二役を演じてきた。貨幣はすべての神霊以上に崇拝され、ひれ伏されてきた。

晋人魯褒の名風刺文『銭神論』に言う、「銭の形を見ると、天地(乾坤)をかたどっている。なかなか折れない(壊れない)のは、寿命のようだ。無尽蔵にあるのは道のようだ。ゆえに長い間それは命脈を保ち、ゆえに世の宝となる。親しいこと兄のごとく、字(あざな)は孔方(中央に方形の孔が開いていることをかけている)、失うとすなわち貧弱になり、得るとすなわち富貴となる。翼なくして飛び、足なくして歩く。厳しい顔をゆるめ、黙して話さないその口を開く。銭の多い者は前に出て、少ない者は後ろに下がる。前に出た者は主となり、下がった者は下僕となる」と。

 またつぎのように言う、「銭は泉(水の流れのごとし)と呼ばれ、遠くにまで行かず、人がいないところまで行かない。人を危うくさせるが(銭は)安泰で、人を死に至らしめるが(銭は)死ぬことはない。(銭は)高貴で(人を)いやしくさせる。(銭は)生き、(人を)殺すことができる」と。

 この銭を神のごとくみなす観念は晋人特有のものではなく、現代にいたるまですべての拝金者の共同認識である。

 『銭神論』は当時のことわざ「銭には銭以外何もないが、鬼神をも使うことができる」について述べている。それは「銭があれば鬼に臼を挽かせることもできる」ということわざの原型である。銭(硬貨)は神に通じ、鬼を使うこともできる。鬼を使うことができるということは、鬼怪を制圧する力を持っているということである。ここから類推すれば、銭(硬貨)は邪悪なものを辟除するすぐれた霊物(霊異あるもの)ということである。

 

(2)

 専門の製造所で作った厭勝銭が流行する前、辟邪目的で普通の硬貨を身に付けるという段階があった。資料が少ないことから、この段階の状況はあまり知られていない。除鬼辟邪(鬼を駆逐し、邪を避ける)を専門とする霊物性の厭勝銭は、漢代から見られるようになった。

後世にまで伝わった五銖銭のなかの一部の硬貨の表には、「君宜侯王」「脱身易宜子孫」の文字が刻まれていた。「君宜侯王」「宜子孫」は漢代の器の銘文によく見られる吉祥のことばである。「脱身易」の「易」は「傷」の借字であり、各種悪性のできものを指す。この五銖銭はあきらかに圧伏邪崇、除凶致吉をとくに目的として製作された。

後世に伝わった漢代硬貨のなかには、「千金銭」「辟兵銭」と呼ばれるものもある。千金銭の表面には「日入千金」の銘が、裏面には「長毋相忘」の銘が刻まれている。なかでも「長毋相忘」は漢の瓦当、漢の銅鏡に頻繁に用いられていて、当時流行していた吉祥のことばであることがわかる。辟兵銭の表面には「辟兵莫当」、裏面には「除凶去央(殃)」の銘文があった。どれも漢代は常用されていた吉祥文である。辟兵銭の銘文はこれが巫術的性質を持っていることを反映している。

 千金銭、辟兵銭、両方とも形式は似ていて、上に柄がつき、下に杯がつく。これは身につけるものなのである。剛卯が印章と似ているようで、かえって実用的でなかったように、厭勝銭も銭と呼ばれながら、実用性が乏しかった。貨幣としては役にたたず、厭勝のみが役に立った。この厭勝物は銭の形に鋳られたが、それは金銭と同様に制鬼駆邪の力を帯びることを願ったのである。

 

(3)

 漢代以降、厭勝銭の種類はますます多くなり、その巫術的用途はますます広くなった。厭勝銭は一般的な妖邪の駆除に、富貴と平安の保護に、宮殿を鎮めるために、疾病の治療のために用いられた。

 

 あらゆる厭勝銭のなかで、「斬妖伏邪」という銘のあるものや、符籙の呪文の銘があるもの、神像の神名が厭勝銭となっているものは、もっとも典型的である。世に伝わる「斬妖伏邪」銭の正面の四文字は楷書になっていて、裏面の四角い孔の上には「勅令」の二文字の銘が入っている。「勅令」は「急急如律令」に相当する。これは妖鬼に命令に従うよう厳しく命じるという意味である。

 そのほか「駆邪辟悪」銭というのがあり、表は駆邪辟悪の文字が刻まれ、裏面には北斗七星、宝剣、甕、蛇の図像が鋳られている。北斗七星は道士がその力を借り、亀と蛇は道士が喜んで利用する霊物であり、宝剣は道士が常用する「斬邪利器」(邪悪なものを斬る武器)である。これら鋳られた図像と「駆邪辟悪」の四文字の配合は、疑いなく、道教法術の影響である。

 道教の影響が顕著なのは、符呪が書かれた厭勝銭である。たとえば「天罡符呪(てんこうふじゅ)」銭の表にはつぎのような呪語が入っている。

 

天罡天罡、斬邪滅亡、吾有令剣、斬鬼不存。(天罡よ、邪を斬って滅ぼせ。われには剣がある。鬼を斬って存在なからしめる)[天罡は古代の星名。北斗七星の柄のあたりの36個の星][令剣は、勇猛果敢で剛毅な剣といった意味合い]

急急如律令。

上清撮。[上清撮は、道教呪語の一部。駆除邪悪][上清は天界を成す三清の一つ。上の層には玉清が、下には太清がある。また霊宝天尊の尊称として用いられることもある][上清撮の撮は代理という意味][上清派は晋代に形成された道教の一派。茅山に本拠地があるので茅山派ともいう。修練(存思)を重んじる。大成者は陶弘景]

 

 裏面にはつぎの呪語がある。

 

神清神清、捉鬼降妖、此符到処、滅鬼不存。(清らかなる神よ。鬼を捉え、妖魔を降す。この符のあるところ、鬼を滅ぼす)

雷煞撮。(凶神である雷神の代理)

 

 裏面には「捉鬼神符」という銘がある。

 

 このほか「太上呪」銭の表にはつぎのような銘がある。

 

太上呪曰:天園地方、六律九章、符神到処、万鬼滅亡。(太上、すなわち至上の呪に言う。天上の円形の地方[古代人は天を円形のドームのようなものと考えていた]で、六律九章の呪があり、符神の至る所で万の鬼が滅亡する)

急急如律令、奉勅撮。(急いで律令のごとく厳しくあれ。勅、すなわち皇帝の命を代わって奉る)

此符神霊。(これは神霊の符である)

 

 この裏面には、亀と蛇の形の履(くつ)をはく星官と神符、人形(ひとがた)が鋳られている。

 また「斬鬼大将」銭の裏面には、甲冑を身につけ、右手に剣を持った武士の姿が鋳られている。施術者から見ると、金銭は鬼を使うためのもので、符呪や捉鬼神将の形象を鋳るのは、駆邪の力量をさらに高めるためである。

 ほかにも裏面に星、剣、亀、蛇などの図像が入った「大泉五十」「常平五銖」「五行大布」「大観通宝」「秦和重宝」などの古銭があるが、どれも邪祟を駆除するのに用いられる。

 

 富貴や平安を祈ることに重点を置いた厭勝銭の種類はきわめて多い。国家の平安や社会の秩序を願った「天下太平」銭、「物阜民安」銭、「太清豊楽」銭などもある。「太清豊楽」は梁武帝太清年間に鋳造されたものである。このとき、災害や異変がたびたび発生し、民は生きていくすべがなく、梁朝廷は危険な局面に陥っていた。

 「太清豊楽」を鋳造した目的は、収穫が豊富で、民が安楽であることを願ってのことである。そして滅亡の危機に瀕した梁朝を救うことだった。

 人の富貴と長寿を祈って鋳造した厭勝銭には、「長命富貴」「長生保命」「金玉満堂」「嘉官進禄」「福寿延長」「亀鶴斉寿」などの銘が入った。「出入通泰」「合家清吉」「元亨利貞」など厭勝銭は一般的な吉祥や平安を求めたものである。

 

(4)

 中国の古代には多子多福(子供が多いほど幸福)の観念があった。世に伝わる古銭には、後継ぎなしの災い[後継がないことを災難と捉えた]を解除するために用いられた厭勝銭が少なくなかった。

 漢代の「五男二女」布は、一面には五人の男の姿が、もう一面には二女の姿が描かれた(鋳られた)。[布幣は鋤の形をした青銅の貨幣]

 北魏の「永安五男」銭は、当時の永安五銖(しゅ)とよく似ていて、裏面には竜風などの図像が鋳られた。

 五男二女銭のなかには、表に七星、宝剣、亀、蛇の図像が入り、裏には五男二女の喜び戯れる姿が鋳られた。

 伝説によれば、周武王には五男二女があった。この五男二女は理想的な家庭と見られていた。古代には性別をコントロールする医学手段はなかったので、五男二女の理想的な姿を実現するためには、巫術の力を借りるしかなかった。

 五男二女銭の佩帯(身につけること)は、当時の種々様々な求子巫術の一つだった。梁朝は「男銭」と呼ばれる四銖半銭を鋳造していた。当時の人は「これを佩帯すれば男の子が生まれる」と信じていたからである。

 注目に値するのは、古代には秘戯銭というのがあり、銭の両面に男女の秘戯の図像が鋳られていた。その用途は、邪祟を抑え込み、子沢山を求めることだった。古代には早くから性器や男女交合が描くことによって多産と感応する法術があった。ひそかに秘戯銭を佩帯するのは古い生殖巫術の名残である。

 

 厭勝銭を用いて富貴平安を願い求める風俗は、歴史の発展とともにつねに変化してきた。清代に至り、春節が来るたび、年長者は「朱縄(赤い縄)を通した百銭」を家の中の子供にあげた。これは圧歳銭と呼ばれる。

 地区によっては、虎の形に編む習慣があった、これを子供の胸の前に掛けた。猛々しいものに服従することを示した。またこれを「虎の頭」と呼んだ。

 ある地域では「色とりどりの縄を銭に通し、竜の姿を編み、床脚(ベッドの脚)に置いた。これを圧歳銭(お年玉)と呼んだ」。圧歳銭の風俗を古代の厭勝銭の風俗を比較すると、若干の変化がみられる。子供に施しを与えるのが春節の期間だけであること、実用的な銭幣(お金)を作って辟邪(魔除け)霊物としていることなどである。

 

 古代の人はつねに銭幣(お金)を建築物の中に置き、鎮物(しずめもの)とした。伝説によると、劉宋(南北朝の5世紀)の時代の大臣徐羨子(じょせんし)は少年時代、祖先の鬼魂と出くわした。祖先は助言した。

「おまえは貴相を持っておる。だが一度大厄に遭うな。二十八文銭を家の四隅に埋めるがいい。そうすれば禍を免れ、この厄を生き延びて、大臣として極めることになるだろう」。

 のちに徐羨子はたまたま役所の仕事で城外に出た。まさにこのとき県城は「盗賊」に襲われ、人々はみな被害に遭った。徐羨だけが外に出ていたため、難を逃れることとなった。当時の人は、除氏が(先祖の霊の)指示にしたがって銭を埋めたことが功を奏したのだと認めた。

 明万暦七年(1579年)五月四日、皇城北苑の広寒殿(現在の北京北海公園内)が突然傾いた。人々は宮殿の梁の上から「至元通宝」120文を発見した。これらの銭は、当時、宮殿を守る鎮物と考えられていた。

 

(5)

 厭勝銭のもう一つの重要な用途は、駆邪治病である。清の人が言うには、手に「周元通宝」を持つだけで瘧疾を完治することができるという。当時金陵一帯に、難産の女性が「周元通宝」を持ったところ分娩がうまくいったという話が流布していた。

 清代はじめ周亮工[16121672]は解釈して言った。周元通宝は、周世宗が天下の銅の仏像を壊して鋳造し、作った銭幣である。それは瘧鬼を駆逐する。なぜならそのなかに仏祖釈迦牟尼の神の力が含まれるからである。

 じつは清の人が瘧疾と難産の治療のために用いた「周元通宝」は一般に流布している同名の古銭ではなく、とくに厭勝のために作られた古銭だという。

 世に伝わる「周元通宝」の中で、裏面に日月、七星、竜風の図案が鋳られているものは、疑いなく厭勝にものであり、一般の貨幣とは異なる。

 この種の「周元通宝」はその他の厭勝銭と同じく辟邪のために鋳たものである。当時は巫術霊物とみなされていた。清の人はそれを用いて瘧疾と難産を治療した。それが継承され、拡大したのは、その巫術的効能によるところが大きい。いわんや周世宗が仏像を壊して鋳造した銭なんて話は関係ない。

 

 歴代の医家は、古銭は治療することができると信じていた。彼らの治療法は、古銭を水に入れてよく煮て服用するというものである。

李時珍『本草綱目』にも「古文銭」という項目が立っている。それによれば「古文銭は五百年の月日が経ってはじめて(薬として)使用されるようになる。

また唐高祖が鋳造したのが開元通宝である。重さも大きさも中くらいである。昔も今も思い部類に入るだろう」

 五百年以上前の古銭であることを強調する。また開元通宝であることを強調する。どちらも巫術的観点から述べていて、医学の道理とは関係がない。