古代中国呪術大全 宮本神酒男訳 
第1章
24 たいまつといぶりだし呪法 

(1)

 鬼怪に対して火を用いるとき、それは「燃やす」のと「照らす」の二種がある。人間は照明のために、また野獣を駆逐するために火を用いた。そして火の効能は呪術に取り入れられてきた。

 晋代の小説には「鬼、火照を畏れる」という表現が見られた。「談生という者がいた。年齢は四十で、妻なし。つねに意気込んで勉強に励んだ。ある夜遅く、十五、六の少女がやってきた。顔、姿、服装のどれをとっても申し分なかった。すぐにふたりは夫婦になった。彼女は言った。「わたしはほかの人とは違います。けっして火でわたしを照らしてはなりませぬ。ただし三年たてば照らしてもよろしいです」。

夫婦として過ごし、子供が生まれ、その子も二歳になった。談生はしだいに我慢ができなくなり、夜、彼女が寝ているところに忍び込んでひそかに照らして彼女を見てみた。すると、腰より上は人間のような肉づきをしているのだが、腰から下は枯れ骨にすぎなかった。

後世の学者は火を怖がる鬼の所作について理論づけをする。鬼は陰に属する。火は陽に属する。よって直接的な火、あるいは(たいまつを含む)火器を用いて悪鬼を征服することができるのである。

 

秦代以前、すでにアシのたいまつによる邪悪なものを排除する「火のお祓い呪法」があった。このお祓いをおこなうとき、たいまつを直接対象の人にかざした。たいまつを高く掲げる必要があり、そういうときには「はねつるべ」(桔)を用いてたいまつを高く吊るした。これらは「爟火」あるいは「権火」と呼ばれた。高く掲げた火という意味である。

火のお祓いを実施することは「爝」と呼ばれた。『説文』によれば「爝、苣火の祓いなり」。すなわちアシを束ねて作ったたいまつによって邪悪を駆除するのである。

『呂氏春秋』「本味」によれば、商の湯王は伊尹を得たあと、「爝以爟火」という儀式をおこなったという。高誘の注によれば、「火、不吉なものを祓う」という。また「爝以爟火」の具体的な方法として、はねつるべ(桔)に火を置き、これをロウソクとして照らすと述べる。商代にはねつるべ(桔)があったかどうか、はなはだ疑問ではあるが、高誘は後代の習俗で商礼を解説したのかもしれない。ただし商代の人がたいまつを用いて不吉なものを祓っていたのは事実である。

また『呂氏春秋』「賛能」によれば、斉桓公は魯国から管仲を招いたあと、「祓以爟火」の儀礼をおこなった。『淮南子』「道応訓」には強調されている箇所があり、百里渓、伊尹、太公、寧戚は卑賎な地位から三公、あるいは輔臣に昇格するとき、みな「湯沐で体を洗って(清め)、爟火でもって体を祓った」。秦以前の時代、人を歓迎するとき、この儀式をおこなっていたと思われる。

 

(2) 

 はねつるべ挙火法と比べると、民間に流行した火祓い法は、比較的簡単でやりやすかった。秦簡『日書』「詰篇」に言う、「たくさんの虫が人家に襲入した」。これは野火の精がなした怪である。「人火でもってこれに応じると、(怪は)すなわちやむ」。雷火が人体を焼くと、それを消し止めることはできない。「人火でもってこれに向かうと、すなわちやむ」。「雲気が人の宮を襲う。人火でもってこれに向かうと、すなわちやむ」。

人火とは、普通たいまつを指す。最後の一文はたいまつを使って雲気を駆逐すると述べている。物理学な説明はできないが、作者は、雲気は妖邪から成るととらえ、人火を、妖邪を制圧し、御する超自然的手段とみなしたのである。

 

 漢代の祓禊礼(はらいみそぎれい)と年終駆鬼儀式では、巫師や彼を手伝う人々はみなたいまつを高く掲げる。後漢の杜篤の「祓禊賦」に「巫咸の弟子たちは、火を持ち、福を祈る」という一節がある。巫師が祓禊の儀式でたいまつを手に持ち、福を祈り、邪を祓う情景が描かれている。

後漢の儺礼のなかで、たいまつを持ち、疫鬼を送るのは重要なことである。呪文を念じ終え、疫病駆逐の舞踏を完了したとき、舞い手は「たいまつを持って端門まで行って疫を送る」。端門の外の人にたいまつを受け渡し、宮門から送り出す。最後に五つの大隊の騎士たちがたいまつを洛水に捨てる。張衡『東京賦』にはたいまつを伝える情景が描かれている。きらめく火が星の流れのように走り、赤疫を四方の果てに駆逐する」。情景が目に浮かんでくるかのようだ。

 

 魏晋南北朝の時代から、少なからぬ節日(祭りの日)活動に、火祓い法術は用いられてきた。『荊楚歳時記』の杜公瞻(とこうせん)の注に言う、曹魏人は臘祭(十二月祭)と元旦に門前に火をつけ、煙を放つ。曹魏議郎[古代官職]の董勲(とうくん)はこの習慣は漢代に始まったと考えていた。「漢火(辺境の烽火)を起こし、火によって気の流れをよくする」。火を用いて祓除邪崇(邪悪なものを祓う)をおこなうのは秦代以前からの旧俗だった。漢代は伝統を継承し、発展させたにすぎない。

 この書はまた言う、梁朝の人は正月末日夜、アシのたいまつで井戸や厠を照らす習わしがあった。これによって百鬼を駆逐すると考えられた。アシはもともと辟邪霊物である。秦代以前の「」(たいまつで祓う)および南朝の照井厠(井戸や厠を火で照らす)の法はどちらもアシと火の二重の駆邪の力を利用したものだった。

 唐代には庭燎(宮廷のたいまつ)駆邪の習慣があった。唐人韓鄂(かんがく)『四時簒要』巻五にいう、「歳除夜、庭に柴を積み、火を燃やし、禍を避け、運気が上がるのを助けた」。

 

 宋代の蘇州には、臘月二十五日の夜、「人家みな、貧富関係なく、門の上に燃える薪でいっぱいの盆を置いた。互いに暖かくなるという意味である」。范成大[11261193』『臘月村田楽府十首』の「焼火盆行」は俗説を描く。「春前五日(立春の五日前)初更(夕暮れ)後、排門燃火晴昼のごとし」「青煙満城(霞たなびく都で)天半(天高く)日、棲鳥(止まっていた鳥は)驚いて格磔(グジェ)と鳴いて飛び去った」。この火盆を焼くという習俗は、曹魏の正月、臘月の朝、門前で煙火を作っていた名残である。

 また范成大は言う、呉中で、焼火盆と同日、村落は使い古した箒、若い麻やわら、竹枝などをくべて火を作り、長竿の先に縛って田を照らし、野や山を輝かせ、生糸や穀物が豊作であるよう祈った。

 范氏の『照田蚕行』に「郷村臘月二十五日、長竿のたいまつを燃やして南畝(田)を照らす。雲が開き、森から風のように漂流してきたのは星々のようなホタルではないか」という一節がある。形式から見るに、宋代の「焼火盆」は秦代以前の庭燎が起源である。「照田蚕」中の「長竿燃炬」の起源は秦代以前の爟火のようである。呉中焼火盆と照田蚕の習俗は、清代に至るまで変わることはなかった。東夷の人はこれを「焼松盆」「照田財」と呼んだ。

 顧禄『清嘉録』巻十二にはこれに関する詳細な描写があるが、内容や性質が宋の習俗と基本的におなじなので、ここでは引用を控えたい。

 

(3)

 火薬の発明に伴って、火銃(金属射撃火器)や火炮(火薬などによって弾丸を発する武器)などが出現し、それは呪術の領域でも運用されることになった。火器が鬼を制圧する原理に関して、紀昀はつぎのように説明している。

「余の郷里(河北献県)産の棗(なつめ)は、北は車に載せて運び、京師(都)に供し、南は水路を使って各省に運び、売った。地元の人はそれを家業にしていた。

なつめが熟していないとき、もっとも恐れるのは霧である。霧の湿潤のため、やせてしわだらけになる。すなわちなつめは皮と核(み)だけになる。

毎度霧が発生するとき、あるいは上手の風が積まれた柴草を燃やすとき、濃い霧は散らされてしまう。あるいは銃で迎え撃って鳥を排すとき、(霧が)散るのはもっと速くなる。けだし陽気がさかんであれば陰霾(いんばい)は消える[陰霾は暗い天候のこと。暗鬱な心理状態を指すことも。霾(つちふる)が黄砂と同一視されることもある]。

およそ妖物はみな火器を畏れる。史丈(帝王の言行録の編集を担当する官吏)松涛は言う、山あいの山中に黄雲が激しく起こり、風雹が作物に害を与える。巨炮で迎え撃つと、車輪のごとき大きさのカエルが落ちてくる。

余が福建の学校で指導したとき、山魈、あるいは夜行が屋根の瓦の上でギーギー声を出していた。轅門(えんもん)が炮を鳴らすと、あわてて逃げ出し、また静まり返る。鬼もまた火器を畏れるのだ。

余が烏魯木斉(ウルムチ)にいたとき、銃で厲鬼を撃つと、ふたたび集まってくることはなかった。妖鬼はみな陰類である」。

 『日書』は、たいまつ駆雲法とたいまつ避雷法、たいまつ逐鬼法をおなじようなものとして扱っているように見える。紀昀は北方人が煙と火、鳥銃(火縄銃)を用い、霧を駆逐する方法と火器によって鬼を駆逐する方法を提起し、論じている。しかし『日書』の作者は何気なく例として出しているのかもしれないが、紀昀は、現実的で信頼できる経験を基礎とするのは間違っていることを論証している。[ここでは経験主義的な考え方を、自然主義的な考え方と比較して述べている]

 この短文は個人の経歴と経験について書き、理論上の結論を導き出している。つまり呪術論の理論と実例の結合の規範である。中国の古代の巫師の多くは無学無知である。彼らの経験と理論は呪術意識の豊かな文人によって総括され、まとめられなければならないだろう。

(4)キョンシーを焼く 

古代において呪術を実践するとき、火は重要な役目を持っていた。すなわち巫師と「妖人」はときに焚焼(火あぶり)されることがあった。中原地区の華夏民族(漢族)は火葬を嫌悪してきた。しかしそのためかえってなかなか殺されない術士(呪術師)に懲罰を与えるためこの方法が用いられた。焚焼(火あぶり)を用いるのは、妖人を徹底的に消滅させるためだと人々は信じた。彼らが散布する毒素や遺留する汚濊までをも徹底的に除去しようとしたのである。巫を火あぶりにする現象が商代まで頻繁に見られたかどうかははっきりしない。

 周代に至ると、求雨(雨乞い)がうまくいかなかった巫(ふおう)が火刑に処せられたり、野曝しの懲罰を受けたりした。

 漢武帝のとき江充と「胡巫」が戻太子を陥れようとしたとして、戻太子は江充を殺し、胡巫は上林苑で焼き殺した。

 北魏の法律には明文化された規律があった。「蠱毒をなす者は男女とも斬られ、その家は焼かれる」。

 宋文帝のとき、女巫厳道育と東暘公主婢女鸚鵡はみだりに巫蠱を実施し、事が発覚したあと、ふたりは鞭打ちで殺され、そのあと屍は焼かれ、灰となった。この特殊な懲罰方式はもともと呪術の手段だった。ある人はこれを宗教清潔儀式と呼んだ。犠牲の血のように、糞穢も巫師が常用した霊物であり、民衆はこうしたものを巫師を攻撃するものとして用いた。火は巫師になかで駆邪の利器となっていた。また彼らが命を倒すときの陥穽にもなった。


 清代には「僵尸(キョンシー)を焼く」という習俗があった。ときたま大きな旱があると、人によっては某家の祖先の墓の中の僵尸が祟ったと噂し、大衆が集まって墳墓を掘り、柩を壊し、遺体を焼いて雨乞いをした。こうした習俗があるのは、火の駆邪という観念があったからである。


(5)

 呪術中の煙薫法について見てみよう。煙薫、火祓の両種法術は密接な関係にある。ただしどこに重点を置くかはそれぞれ異なる。

 『呂氏春秋』「本味」に言う。「湯(商開国の王)伊尹を得る。廟にてこれを祓い、葦で薫(いぶ)し、火を挙げてたいまつとし、雄ブタでこれを衅(きん)すなわち血祭にする」[伊尹は夏末商はじめの政治家、元帥]。たいまつを重点的に照らし、葦を重点的に燻し、また両方に点火し、燃やす。それらをうまく組み合わせる。

 戦国時代、城を攻める者が「穴攻法」を開発している。すなわち城の地下にトンネルを掘り、城内に入る直通の道を作る。兵士らは城の中心部に入り、一挙に占領する。

 それに対し城を守る側は煙薫法を開発している。城内に地下道を掘り、敵のトンネルと接続する。そして木炭、穀糟(もみがら)、柴草に火を着け、牛皮袋の送風器を使って煙を送り、敵を穴の中でいぶし、撃退する。

 戦争をしている間、頻繁に煙薫法が使われると、当然のごとく邪悪なる巫師はそれを利用して、薫鬼法術の威力を信じ込ませようとするだろう。

 秦簡『日書』「詰篇」はたびたび煙薫法に言及している。そのなかでも牡棘の呪術効用と汚穢駆邪術に少し触れておこう。牡棘と牲矢はどちらも辟邪霊物(魔除け)である。またそれらを焼いて出した煙で鬼を駆逐するという意味もある。

 「詰篇」は言う、遊鬼はつねに部屋に入ってきた人にまとわりつくので、たいまつの火でそれらが近づかないようにしなければならないと。鳥獣はつねに家の上でわめき叫んでいる。これを制止するには、鳥獣がいた場所で人の鬢髪や六牲の毛を燃やす。部屋一杯に人がいるとき、体が痒くなることがある。これは厲鬼が怪をなしているのである。このときは室内で新鮮な桐の木を燃やす。すると怪異はやむ。


 煙で鬼を燻す法は長い間おこなわれてきた。三国時代、元旦には「門前で煙火が作られた」。これは煙でいぶすとともに、火の明かりをつける役目があった。

のちに春節になるたびに煙花(花火)が上げられたが、伝統的に各種煙花は煙火と呼ばれた。この習俗の源をたどると、秦代以前の煙火駆鬼術にたどりつく。

ほかにも、古代の医家は呪術的な煙薫法によって疾病を治療した。たとえば「庚辰の日、門の外で鶏犬の毛を取り、これを焼いてかすかな煙を出せば、疫病を避けることができる」といったふうに。あきらかに伝統的な薫鬼法のバリエーションである。