古代中国呪術大全 宮本神酒男訳
第1章
25 爆竹と騒ぎ立て呪術
(1)
古代中国では二種類の互いに関連した騒音駆鬼呪術が流行していた。一つは防ぎようがないほど突然、大声あるいは大きな音を炸裂させて、鬼怪を追い立てる。さまざまな音を立ててその勢いで鬼怪を征服するのが目的である。二つの駆逐法と生活上の経験とは関連がある。稲光のあとの雷鳴、火中の竹、器や皿の割れる音、人の絶叫などがそうだ。人と鬼は互いに考え方や習慣が影響しあっている。これらのどれも鬼を駆逐する霊物(霊異なるもの)の範疇に入るのだ。
ほかの一種は、鼓騒法にさらに戦争の体験を組み入れたものである。両軍が対峙しているとき、太鼓や鈴を鳴らし、馬がいななき、殺せという叫び声が飛び交う。声に勢いがあるほうが勝利を得やすい。集団で鬼と戦うときは戦争のようで、おなじように太鼓を鳴らして騒ぎ立て、威圧的な声を発する。
初期の爆竹は烈火に竹を投入したときの爆裂の音だった。爆竹の名はまさにこれから発生したのである。爆竹法はもともと火祓儀式と関係がある。邪悪なものを祓い除くたいまつやかがり火から竹の爆発音が聞こえ、人を驚かせるとともに、人を啓発し、鬼怪を驚かせる音を作り出すことができると人に理解させた。爆竹は火祓儀礼から分離したもので、独立したあたらしい駆鬼呪術を成した。
隋代になると、多くの人が爆竹の起源が秦代以前の照明用の大たいまつの「庭燎」にあることを知っていた。爆竹と火が密接な関係にあることから、この説はもっともだと思われている。
(2)
最初爆竹は山鬼専用に用いられてきた。東方朔選『神異経』「西荒経」に言う、「西方の深山に人あり。身長は一尺余り,半裸で、エビやカニを捕っていた。人を畏れず、人が宿に泊まるのを見ると、暮れてからエビ、カニを炙った。人が不在だと、塩を盗んでエビ、カニを食べた。名を山臊(さんそう)といった。自らそういったのである。
人が火の中に竹を置くとすさまじい爆発音がして、臊はみな驚愕した。これによって(爆竹によって)人は寒くも熱くも感じた。人の形をしているとはいえ、変化し、鬼魅の類となり、今は山中にいる。
『神異経』には異本が多く、ある版本には、山臊は一本足、すなわち独脚だと述べている。このことから、『神異経』の山臊が古代文献でおなじみの独脚山鬼、つまり夔(き)であることがわかる。山鬼には異名が多い。段成式『酉陽雑俎』「諾皋記下」が紹介するのは、山臊以外に、山繅、山魈などおなじみの名前だ。山鬼は山簫、山魅、山駱、蛟あるいは蛂(べつ)、濯肉、熱肉、暉(き)、飛竜、治鳥とも称す。これらの異名は、人々の山鬼に対する迷信を反映している。
静寂な山林に響く竹の爆裂音は大きな効果をもたらしたろう。爆竹は山鬼に対して用いられたにちがいない。施術者の深層心理から分析すると、焼いた竹が破裂するのは、山鬼を駆逐するということである。それは静寂と重苦しい空気を打破するということである。
時代の変遷とともに爆竹の用途は増え、しだいにいっさいの妖魅を駆除する武器となっていった。これだけでなく、山鬼に対して爆竹がもっとも効果的であるとみなされるようになった。
唐宋時代の小説が描くように、山魈はつねに李畋(りでん)の隣の仲叟(ちゅうそう)の家で怪をなした。仲叟は菩薩に保護を求めたが、かえって山魈は今まで以上に手に負えなくなるのだった。李畋は老人のためにおこなうことについて説明した。「これから除夜ですが、夜、庭で数十の竹竿を破裂させます。どうなるか見てください」。実際、これ以後、山魈は来なくなった。この描写から、山鬼を駆逐するのに、爆竹のほうが菩薩に助けを求めるより効果が大きかったことがわかる。
(3)
爆竹駆鬼法が春節に欠かせなくなったのは、晋代以降のことと思われる。三国時代の春節には爆竹がおこなわれなかったが、「門の前で煙火を作る」ことはおこなわれていた。それと爆竹駆鬼法はかなり近いといえるだろう。
『荊楚歳時記』に言う、南朝人は正月一日の習慣で「鶏鳴とともに起き、まず庭の前で爆竹を鳴らし、山臊悪鬼を退ける」。これよりあと、爆竹を鳴らしながら、古い年を送り、新しい年を迎えるのが中国人の伝統となっていった。
范成大『臘月村田楽府十首』に述べるように、宋代呉中民間の習慣では臘月二十五日夜間に爆竹を鳴らす。「ほかの郡もおなじだが、とくに呉中は盛んだった。悪鬼はこの音を畏れた。いにしえは(新しい)歳の朝に、呉では二十五日とした」。
呉自牧『夢梁録』巻六、南宋臨安の除夜に「禁中の爆竹がけたたましく鳴り、巷でも聞こえた」。当時各地で年節の爆竹が鳴らされたが、時間はまちまちだった。
范成大『村田楽府十首』之五「爆竹行」は生き生きと描いていて、風俗の考証の助けになっている。たとえばつぎのごとく。
「歳朝(正月一日)の爆竹は昔より伝わるもの。呉儂(呉の地)の政(まつりごと)は五日前から(爆竹を)鳴らしている。食べ残しの豆粥から塵を取り払い、竹を五尺ほど伐って薪の中に入れて熱する。節の間に汗が流れ、火力がとおる。丈夫な下僕さえついに逃げ出す。こどもは弾けてくるものを避けて立ち、地面には雷が落ちたような音が響く。一、二発の音で(パンパン鳴り出すと)百鬼が驚きあわてふためき、三、四発の音で鬼の巣が傾く。十発の音で神道(神道穴)はやすらかになり、八方上下、平穏が訪れる。床の下から焦げた頭(爆竹)を拾うと、なおもそれによって悪鬼が駆逐される。火薬のなくなった袋に酒杯が見つかる。昼はぞんぶんに遊び、夜は熟睡する」
詩からわかることは、南宋の時代になっても、呉中には非常に古い竹筒を焼く方法があったということである。すなわち五尺ほどの竹筒を火でこんがりと焼く。竹筒が「汗を流す」のを待って、壮健なる男が「当階撃地」を取り出す。その使用方式は現在の「捽炮」(かんしゃくだま)とよく似ている。
火薬炮仗(爆竹のこと)が出現したあと、爆竹の形式は大きく変化した。素朴な焼竹爆裂法は徹底的に淘汰された。爆竹の品種は次第に多くなり、爆竹の音の大きさも次第に増し、お正月気分は震天動地の爆竹の音でいっそう濃くなっていくのだった。たとえば清代、「花火と爆竹を作ることにかけては、京師の工芸の右に出るものはなかった(……)さまざまなものが複雑にからみあい、それらをすべて挙げることはできない。
除夜、亥子の刻、「爆竹の音は撃浪轟雷(波が砕けるような、雷が轟くかのようなすさまじい音)のごとし。朝野に(宮廷の中にも外にも)広がり、夜通しで、とどまることを知らない」。千年以上もの間、爆竹を鳴らしながら古い年を送り、新しい年を迎えてきた。そのスタイルはそのまま巨大化した社会のなかでも生き続けてきた。それは無数の傷ついた魂をいやしてきたであろうし、絶望の谷底におちてしまいそうな下層の民衆に希望を与えてきた。それは秦代以前の年末の臘祭の一張一弛(いっちょういっし)や宣泄郁悶(せんせついくもん)の精神である。
[一張一弛は、周代における文王や武王の時代の厳しさと緩やかさを組み合わせた国家の治理法のこと。宣泄郁悶は、憂いを(年越しの行事を体験することで)晴らすこと。一種のカタルシス]
時代を経るにしたがい、節日に爆竹を鳴らすことにおける巫術的意味合いは薄らいでいった。除夜や元旦に爆竹を鳴らすように、妻を娶ったとき、子が産まれたとき、出世したとき、財を成したときに爆竹を鳴らした。しかし爆竹駆鬼法は個別の領域では変質しているとはいえ、この種の巫術がすべて変質したと考えるべきではない。
明代の蘇州のもっとも盛り上がった集会は「五方聖賢会」である。これは五行の神あるいは五湖の神を祭祀する大型祭典である。祭典の中で使った火器は、4人の屈強な男の力が必要な大型の爆仗(爆竹)だった。このような大型爆竹に火を着けて鳴らすのは、たんなる娯楽ではなかったということだ。
清代の文人は爆竹駆鬼法術を深く信じて疑わなかっただけでなく、陰陽学を運用してその原理を解釈しようとした。紀昀『閲微草堂筆記』巻二十三に言う、某士人は僧舎に部屋を借りていたが、夜、灯下を凝視すると、壁に掛けられた天女散花図の天女が突然話しかけてきた。士人は妖怪が惑わそうとしているのだと思い、その画幅を火炉に投げ込んだ。
それ以来夜になるとしくしくと泣く声が聞こえるようになった。士人は言った。「妖の余気は尽くさざるか。また集まって形を成すのだろう。我に陽剛のものを持たせて陰邪を破除せしめよ」。
士人は十数串の爆竹を買い、撃発装置(信管のようなもの)をつなげると、悲鳴が起こった。しかしすぐに点火すると、爆音が響き、「雷が落ちたかのように窓や扉が震えた」。このとき以来妖怪の声は聞こえなくなった。
紀昀は士人の口を通して、爆竹が陽剛に属するものであるゆえ陰邪を破除することができたという見方を示している。これはつまり「陽気盛んであれば陰霾(ばい)を消す」「およそ妖物はみな火器を畏れる」という見方と一致する。[陽剛の反対は陰柔。日常的に男子の精核、気質を表すのに用いられる。剛強]
(4)
爆竹法も含まれる鼓噪法術は、人が大勢集まり、多くの噪音を混ぜ合わせ、その圧力で鬼怪をひるませ、撃退する法術である。鼓噪法術は、爆竹が発明されるはるか以前に出現していた。
『夏書』に言う、夏人は日食が起きると太鼓を叩き、太陽を救出しようと狂奔する。『夏書』は「噪」という言葉に言及していないが、救日しようとする者は、狂奔すると同時に大きな声で叫んだはずである。
春秋時代、「伐鼓于社」は救日の主要な方法であったはずである。[伐鼓と言っても太鼓を伐るわけではない。戦争を開始するときのように太鼓を打ち鳴らし、声を上げるのだろう。社は土地神を祭る場所のこと]
近代の多くの村で、人々は太陽が天狗(天の犬)に喰われるのを目撃した・村の人たちはみないっせいに盆を叩き、缶を打ちながら声を張り上げて天狗を追い払おうとした。この鼓噪救日の習慣は夏代以来の伝統である。
『荘子』の逸文にも「今、疫病を駆逐し、魅鬼を追い出すのに太鼓を叩き、噪を呼ぶ」とある。戦国時代、逐疫活動をするとき鼓噪法術を使ったことを反映している。
秦簡『日書』「詰篇」はたびたび鼓噪法術に言及している。無敵の鬼――丘鬼――は宮廷を支配し、怪をなす。そこで荒れた丘の土から土の人、土の犬を作り出し、建物の壁の上に五歩ずつの間隔で土人、土犬を置いていった。それらは宮廷を取り囲むように置かれた。
丘鬼がふたたびやってきたとき、灰土を放り投げ、箕(み)を叩き、大きな声で叫んだ。すると丘鬼は遁走した。
「詰篇」はまた言う。室内に見えないが太鼓があり、しばしば太鼓の音が聞こえる。これはつまり響きのなかに鬼鼓があるということだ。(鬼鼓は)人が普段使用している太鼓から叩きはじめ、なんとなく敵対的である。鬼鼓の音は自然に消えていく。
外部の人、鳥や獣、六畜が宮廷内に入って勝手に走り回る。私情を持った天神が人間の世界に降りてきて愛情をかける。童男童女を宮廷に入れさせると、彼ら(童男童女)は太鼓を叩き、鈴を鳴らし、叫びはじめる。しかし天神は二度とやってこない。
秦代以降、鼓噪駆鬼法は広まる一方だった。後漢の大儺礼には呪詛があり、舞踏があり、「嚾呼」(かんこ)もあった。すなわち百二十人以上がいっせいに大きな声で叫ぶのである。
唐代には鼓噪によって鬼兵に抵抗する習俗が残っていた。伝説によれば唐玄宗開元二十三年(735年)六月、洛陽の民衆は「鬼兵に驚き、みな逃げて行方がわからなくなるか、自ら突っ込んで負傷した。鬼兵ははじめ洛水の南の坊市で騒ぎ立て、ようやく洛水の北に至った。それらが過ぎたとき、空中に数千万の騎甲兵が現れ、人馬の音がざわざわと聞こえたが、にわかに消えていった」。
鬼兵は夜になると天空を過ぎていった。毎晩二度から三度現れた。唐玄宗は非常に恐れ、「巫祝に禳厭(災いをもたらす邪悪なものを駆除する)をさせ、毎晩洛水の浜辺で飲食の場を設けさせた」。
一部の地域の民衆は洛陽の人々と違い、玄宗のように肝っ玉が小さいわけでもなく、伝統的な団体の鼓噪法によって鬼兵を攻めた。天宝年間、晋陽一帯に鬼兵がやってきたという噂が立った。「民衆は銅や鉄を叩いてこれ(鬼兵)を畏れさせた」。この場面やムードは救日礼と酷似していた。
(5)
南宋程大昌『演繁録』に「臘鼓」の条の記載がある。宋代「湖州(浙江省)土俗、歳十二月、人家多く鼓を設け、これを乱れ打つ。昼夜止まらず、来る年の正月半ばに泊まる。そのもととなるところを問うに、知らざるなりと。ただし代々これを伝え、打耗(だこう)[打耗とは、臘月、太鼓を打って鬼を駆逐する習俗のこと]と呼ぶと。打耗とは警告を発して鬼の祟りを駆逐することである」。
北宋南宋の時期、京師汴梁と臨安城内では臘月二十四日の夜「床底に火を灯す」習俗があった。当時はこれを照虚耗と呼んだ。
[虚耗は古代中国民間の鬼怪の名。赤い袍服を着て、牛の鼻を持ち、脚の一本は鞋をはき地面についているが、もう一本は腰に掛かっている。また腰に鉄の扇が挿してある。虚耗は禍をもたらすと信じられていた]
湖州人の打耗活動は照虚耗の別の形式であった可能性が高い。照虚耗は灯火を使用するが、打耗は昼夜打つ太鼓を手段とする。ほとんどの湖州人は「耗」がさらに大きくなることを理解している。太鼓を乱れ打って駆逐しようとは思わない。
方以智『物理小識』巻十二は言った。音が幽霊を感動させることがある。優美で調和のとれた音楽は「異類をも感じさせる」。耳が震えて聞こえなくなるほどの鐘の音は妖魔を降伏させることができる。「押し寄せる音に叩き潰されて、鬼もすっかり従順になってしまう」。
清代の少なからぬ文人が当時の鼓噪駆妖活動について詳細に描写している。民俗や民間信仰の角度から言えば、荒唐無稽な内容でも事実の作と自称する。
李王逋(りおうほ)は『蚓庵琑語』の中で言う。
「順治丁酉年の七月から八月にかけて、摂生魂とよばれる妖人が現れた。白昼、妖人に姓名を呼ばれると、魂は辺地に連れていかれて売られるという。一時は蘇州、常州の交易の市場で、口の代わりに筆でおこなう者も現れた[いわゆる自動書記か。私(訳者)は台湾などで見たことがある]。事が露になって極刑に処せられた者もいた。
やがて妖魔(妖人)は、鎮江を起点に、北から南へと伝播したという噂が広がった。はたして妖魔は夜やってきた。
まず、あやしげな風が吹いて、なまぐさい空気が漂った。屋根の瓦がみなコトコトと音をたてた。はじめ数斗の甕のように見えたが、いつのまにか黒鬼に変わっていた。それは屋根の高さほどの大きさがあった。タヌキのように見えたが、くちばしが一尺余りもあった。両目が星のように輝いていた。あるいは禽獣犬馬に属し、変幻自在だった。
人が臥室(寝室)に入ると、体を圧迫され、死に至ることもあった。あるいは爪で傷つけられ、血が滴り落ち、数日は病におびえた。人は刀剣でこれを切り、家族が傷を受けるのを防いだ。妖魔は銅鑼や太鼓の音、大衆の騒がしい声をおそれた。正月まで、人々は毎晩金伐鼓を鳴らし、銅器や木板を叩き、声を張り上げた」。
李王逋によると、明代の文献を細かくしらべると、成化(1465―1487)、嘉靖(1522―1566)、隆慶(1567―1572)、万暦(1573―1620)年間にこの種の怪異現象が出現したという。
李氏本人は文献を調べ始めたものの、妖魔の存在を信じていなかったという。ただある夜、「鏡のような眼を持つ妖魔を目撃した」ことにより、信じるようになった。「その眼から火光が出ていて、炯々として人を射た」。
李氏の言う妖魔と唐代の鬼兵はよく似ている。おそらく奇異な天象や怪鳥の群れなどから生まれる幻覚なのだろう。この種の「妖邪」が大規模に襲来する頃には、巫師らは対抗策もなく、民衆は自分たちの理解をもとに、組織を作って、太鼓や銅鑼を鳴らし、「これ(妖邪)を駆逐するために声を張り上げた」のである。
(6)
袁枚(えんばい)は浙江呉江一帯の駆鱟(くご)の習俗について述べている[鱟(ご)はカブトガニのこと]。鱟は長い甲殻をつけた魚であり、形状は鱉(スッポン)に似る。[甲殻をつけた魚というのは奇妙な言い方だが、節足動物で、甲殻類である。中国では鱉魚と呼ぶことがある。鱉(スッポン)もまた鱉魚と呼ばれる]
袁枚の鱟(カブトガニ)は鱟精のことである。
「呉興の卞(べん)山に白鱟洞があった。毎年春と夏の間に(鱟精が)連なって空中を漂うさまが見られた。それが空中を通り過ぎると、その下の蚕がいなくなった。ゆえに養蚕のときはもっとも忌むべきものとされる」。
鱟精は手強かったが、致命的な弱点があった。それは銅鑼や太鼓の音を畏れることだった。
乾隆年間、呉興の范某は城隍廟で神の啓示を得た。玄衣真人なる者が現れ、鱟を駆逐するので、洞の入り口で硫黄と柴草を準備して待つようにというのだ。約束の日に范某は数十人を集めて洞の入口で待った。ほどなく一丈の長さのオオコウモリが大小のコウモリの群れを連れて飛来してきた。范某はこれが玄衣真人であると認識した。のちに洞から白い軍団が飛び出したとき、コウモリの群れは彼らを取り囲んで撲殺した。このとき村人たちは「集団で銅鑼や太鼓を叩き、爆竹を鳴らして助けた」。コウモリは鱟精がいなくなるまで殺した。
呉興の村人は同時に煙火を起こし、爆竹を鳴らし、銅鑼と太鼓を叩いた。妖魔を駆逐するにはこれがもっとも効果が大きいと考えたからである。しかし小説を読むと、噪音駆妖法はすでに巫術活動の中心ではなくなり、たんなる引き立て役になっていることがわかる。秦代以前の鼓噪救日、漢代の鼓噪駆疫、唐代の鼓噪駆鬼兵、宋代の鼓噪打耗は、どれもいくらか懐疑の目で見られていたふしがある。袁枚に至って、大量のコウモリが妖邪を攻撃するのを助けるのだが、「鬼怪は銅鑼と太鼓を畏れる」という表現自体に、十分な自信が感じられない。三千年以上も演じられてきた鼓噪駆鬼のドタバタ劇は、そのフィナーレが近づいているようである。