古代中国呪術大全 宮本神酒男訳 
第1章
26 妖怪掘りと鎮墓呪術 

(1)

 古代鬼神信仰を見るに、天地の間に鬼怪精霊が満ちているだけでなく、地下にも多くの妖怪が潜伏しているのがわかる。『国語』「魯語」によると、春秋時代季桓子家が井戸を掘ったとき、地底深くにつぼを発見した。そのなかには生きた羊が入っていた。季桓子はふと孔子の学識が本当に深いかどうか試そうと考え、人を派遣して聞いた。「桓子が井戸を掘ると、一匹の犬が出てきました。それはなにゆえなるぞ」。孔子は従容として答えた。「わたしが知るところによると、掘り出したのは羊に違いありません。古い言い伝えによると、夔(き)と罔(ぼう)というのは木石の怪です。竜あるいは罔象というのは水中精怪です。羊(ふんよう)というのは土中の精怪です」。このエピソードは孔門の弟子たちが老師の博学を誇大に見せるために捏造したものだろうが、当時の人たちが地下にどんな精怪がいたと想像していたかが容易にわかる。

戦国時代以降となると、孔子がおなじように地中から掘りだした精怪を羊と認定したなら笑われただろう。当時の人は地中に羊がいるとは信じず、犬や豚、はなはだしくは人間がいると信じていたのである。

『屍子』に言う、「地中に犬あり、名を地狼という。人あり、名を無傷という。『夏鼎志』にも言う、「地を掘って犬を得る。名を賈という。地を掘って豚を得る。名を邪という。地を掘って人を得る。名を聚といった。聚、無傷[妨げるものは何もないという意味]ともいう。これは自然の存在であり、鬼神にして怪であるという必要はない」。晋人干宝が記すには、地中から二匹の子犬を掘りだしたという。表現は真に迫っていて、干宝自らが見たかのようである。

 古代の人たちが地面を深く掘っていき、大量の蛇を見つけたらおおいに驚き、恐れたことだろう。地中深くに多くの精怪が活動していると考えるのはもっともなことである。古代の人はまた互いに変身することができると信じていた。

『礼記』「月令」などによると、春分に鷹が鳩になり、秋分に鳩が鷹になった。鼠が変じて鶉(うずら)になり、腐った草がホタルを生んだ。スズメは大水(海)に入って蛤(はまぐり)になり、雉(きじ)は大水に入って蜃(はまぐり)となる。人によっては地中の羊、犬、豚、人はみなある種の物質が転化してできたと考える。

『夏鼎志』によると「これらは自然の存在であり、怪であるという必要はない」という考え方はこの種の観念を代表している。この説は鬼神を信じないのと似ている。実際は素朴な気化理論を利用して地中の精怪の形成と存在を論証しようとしている。

このほか、古代中国では土葬がさかんであり、死者はみな「地府」に行くと信じられていた。死者が地中に埋められるたび、鬼はそれを見に来た。地府中の鬼はますます増えつつあった。

 

(2)

 古代の呪術師が地中の妖怪に対処する簡易な方法は地面を三尺(90センチ)掘ることだった。これは「掘って送り出す法:と呼ばれた。秦簡(秦代の木簡)『日書』「詰篇」にいう、「家の中に人がいっぱいいて伝染病がはびこると、軽くて病気になり、重ければ死亡する。これは部屋の地下に「棘鬼」がいて怪をなすのである。棘鬼の頭頂は地面にあり、日照りのときは湿り、水害で水浸しのときは乾燥している。棘鬼を掘りだして遠くに放逐すれば、疫病の流行はぴたりと止まるという。

 あるとき家族全員が疫病にかかり、ほとんどが夢を見ながら死亡した。これは地中に潜む子鬼[勹の中に子]のせいである[おそらく瘧(おこり)、つまりマラリアのこと]。子鬼がいるところの地面には草が生えず、むしろのごとく、つるつるしていて光っている。「掘ってこれを取り払うと、すなわちやむ」。

家の中が人でいっぱいで、わけもなく筋違いを起こしたなら、これは部屋の西の壁の下にいる「会虫」[蛇のようなもの]が怪を成したのである。部屋の西南角の高さ五尺(1メートル半)に鉄錐を強く刺す。するとかならず会虫の首に突き刺さる。それを掘りだして取り除く。怪異現象はこれでなくなる。

家族の誰かのよだれがとまらなくなったら、それは「愛母」が部屋にいるためである。「愛母」は杵ほどの大きさで、体は赤白まだらである。それが接する地面に水があればすなわち干からび、乾いていればすなわち湿る。屋内の地面を三尺掘り、猪矢草を焼くと、よだれの病は自ら癒える。

古代巫術の書はつねに妖怪を掘りだして食べることができる、そしてその味ははなはだおいしいと述べている。『日書』「詰篇」にいう、家族の人がみな息をするのが困難になり、動きが鈍くなることがある。これは「状神」が室内に潜んでいるだめである。地面や泉を掘ると、状神を捕まえることができる。馬の尾と犬の首を持つも五赤い豚である。「これを煮て食えば香りよくおいしい」という。

 この書にまたいう、狼はいつも門の前で叫ぶ。「おれのために門をあけてくれ!」と。これは鬼ではない。しかし「殺して煮て食べると、おいしい」。これと掘りだし呪法は関係ないが、方士の好物の妖怪なのである。

『白沢図』には何度も妖怪を捕食したことが書かれている。「彭侯という名の木の精、見たさまは黒犬のようで、尾はなし、煮てたべるとおいしい。また千載木というのがあり、その中に虫がいる。名を賈詘といい、見た目は豚に似て、頭が二つある。これを煮てたべると犬肉のようでおいしい」。この書はまた水を飲む精怪罔象に触れている。「これを縄で縛り、煮て食べることができる」。

 

(3)

 伝説によれば植物は精となって祟りをなすという。この種の妖怪を征服する方法は、これもまたそれを掘り出して食べることである。陶宗儀『輟耕録』巻九に言う、臨海章安鎮の蔡大工、はある晩、酒を飲みすぎ、家に戻る途中、棺桶置き場にさしかかると、家に着いたのだと思い込み、棺桶の上で眠ってしまった。

夜半、冷たい風のなかで目を覚ますと、棺の中や外の鬼魂の会話が聞こえてきた。ある鬼が言った。「〇家の娘が原因不明の病気にかかっているな。後園(後ろの庭)の葛兄貴が原因なんだけどな」。

翌朝早く、蔡大工は直接その家に行き、娘さんの病気を治しましょうと申し出た。この家の後ろの庭に葛があるかどうか尋ね、蔡大工はそこに行って、そこら中を掘り返した。ようやく太めの葛の根を探し出した。斧でそれを切ると、血が噴き出てきた。葛の根をよく煮て娘に飲ませたところ、奇病はたちまち治ったという。


古代中国では掘法が盛んだった。これは住宅の地下に埋まっている死体を掘り出し、べつの地方に移して葬ることをいう。春秋の頃、斉景公と季武子の宮殿をほかの人の墓地の上に建てたところ、ふたりの統治者は事情に通じていたが、父母の合葬を要求して宮殿に入ってきた者がいた。彼は遺骸を地中から掘りだした。これらは呪術活動ではないが、後世の遷葬駆鬼の先駆けとなった。

 古代の小説の描写から、家の下の地面に死人が埋まっているなら、かならず鬧鬼(とうき)がいて、遺骨が掘り出されることによって平静を回復することができた。ときには鬼が報いてくれることがあった。

 唐人張鷟(ちょうそく)『朝野僉載(ちょうやせんさい)』巻二にいう、左司郎中[官職名]鄭従簡の担当している地域には、しばしば怪異現象が起きていた。実地調査をするためにやってきた巫師は、地面の下に死人が埋まっていると言った。巫師は死者になぜ怪をなすのかと尋ねた。鬼は回答する。

「鄭君は毎日われらの大門の上に座っておる。出入りしようとしているわれわれにとって、不便このうえない。鄭君は自ら好んでやっているわけではない。われらに復讐しようとしているわけでもない」。

 鄭従簡は人に地面を三丈ほど掘らせ、その結果死者の骸骨を発見した。死者を移葬すると、怪異現象はなくなった。

 ほかにも、隋朝の将軍史万歳が古い骨を掘って移すと、鬼兵が助けてくれたという故事、唐朝の張琮が鬼の遷葬をして鬼怪の保護を受けるようになった故事、狄仁傑が死者を遷葬したところ官府で騒いでいた鬧鬼がおとなしくなった故事、趙叔牙が鬼の遷葬をして求めていた大雨を得た故事などがある。どれもみなテーマはおなじである。

(4)

 地下にはいくばくかの妖怪がいると認定し、呪術を信仰する者は法術を重視し、墓の中の死者の安全を保障する。周代の天子が葬られる前、打鬼専門家の方相氏は長戈を手に取って墓穴に至り、戈を振り回し、四処に突き刺した。目的は「方良」という妖怪を墓から駆除することである。この「方良」とは、『国語』に言う木石の怪「蛧蜽」(もうりょう)、あるいは「罔象(もうぞう)」のことである。

 漢代の人は地下の妖怪を駆逐するために、つねに墓中画に方相氏が打鬼をする場面を描いた。この類の画像が出土した漢画像石に含まれる割合は小さくない。漢代の人は「罔象は亡者の肝脳[肝臓と脳。身体あるいは生命を指す]を好んで食べる」と信じていた。彼らは方相氏を用いて死者のために駆鬼(鬼やらい)をすると同時に、柏樹、石虎あるいは画虎を組み合わせて罔象に対処する。

 漢代の伝説によると、秦穆公のとき陳という姓の小役人が羊の形をした怪物を掘り出したので、穆公に献上しようと考えた。しかし途中で会った二人の童子が指摘した。

「これは(うん)という化け物です。いつもは地中にいて死人の脳を食べています。二本の柏樹の枝で拘束してその頭をつぶす必要があります。それでやっと殺すことができます」。

 このとき以来人々は墓の横に柏樹を植えるようになった。

 漢代の人は「虎、陽物、百獣の長である。それは(鬼を)捉えて噛み殺し、鬼魅を食らう」。罔象は虎と柏樹を畏れる。それゆえ人は墓の前に「虎と柏を立てる」。漢代画像石のなかには白虎の頭がたくさん並んでいる。これらの画虎と墓の傍らの石虎の巫術的な意味合いは同じと言えるだろう。


 墓の中の平安を保証するため、術士は数多くの奇怪な形状の鎮墓獣を作ってきた。秦代以前の楚人は巫鬼を信じていた。葬る際の鎮墓獣に関しては、楚国がもっとも盛んだった。湖北江陵雨台山、江陵馬山一号楚墓、包山楚墓、江陵望山、沙塚楚墓、湖南長沙楚墓、河南長台関楚墓、どれからも鎮墓獣が出土している。

 

(5)

 陰曹地府(人が死後行く場所。地府とも)に提出する文書を記す葬俗(葬送の習俗)は漢代にはじまり、さかんになった。長沙馬王堆3号漢墓から出土した木簡にはつぎのような文が記されていた。

「十二年二月乙巳朔戊辰、家丞奮移主蔵郎中、移蔵物一編、書到先選具奏主蔵君」。

木簡の背面に侍従、車騎、副葬の食品、器物、衣物(衣服と手袋や帽子等)などが記されている。主蔵郎中と主蔵君はどちらも地下(冥界)の官吏である。

 文の内容は、つぎのとおり。漢文帝十二年二月(一日を乙巳とする)戊辰日、死者の家吏「奮」が陰間の「主蔵郎中」に書信を送る。副葬品とともに明細書も送られる。書信が届いたあと、詳しい状況が「主蔵君」に報告される。

 江陵鳳凰山漢墓出土の二つの文書もよく似ている。一つはつぎのとおり。

「(文帝)十三年五月庚辰江陵丞は地下丞に敢告する(自分の罪業を告白する)。(江陵の)市陽五大夫〇少言と大奴良ら二十八人、大婢益ら十八人、軺車(ようしゃ)二乗、牛車一両、駟馬(しば)四頭、騮馬(りゅうば)二頭、騎馬四頭などを令吏(文書を管理する役人)は従事させることができる。敢告主」。[〇は上部が隊、下部が火の文字。遂、隧とも][軺車(ようしゃ)は古代の小さい車。駟馬(しば)は四頭立ての馬車の四頭の馬。騮馬(りゅうば)は、たてがみが黒く、尾も黒い、赤い馬のこと][敢告主は秦代の竹簡によく見られる文章形式で、文が結束したことを示す]

 もうひとつの文はつぎのとおり。

「(景帝)四年後九月辛亥、平里五大夫倀(張)偃、地下主に敢告する。偃、衣器物、すなわち祭具器物を各律令に基づいて処理をする」

 地下丞と地下主の関係は、主蔵郎中と主蔵君の関係に似ている。どちらも人間世界の君臣関係を模倣しているのだ。「令吏(役人)は処理することができる」「各令(役人)は律令に基づいて処理できる」とは、地下主に対し、法律にもとづく処理を考えながら、部下が副葬品を細かく点検するよう地下主に請求するということである。埋葬される人から見れば、細かい検査を経て、妖邪が死者の財産を勝手に侵害するなどできるはずがないのである。そして地下主はそのことを理解しているはずである。このように、これらは考古学者から「告地策」文書と呼ばれる。実際は、妖邪を圧伏する鎮墓の文書と呼ばれている。[告地策とは、後漢時代に現れた葬送文書。その格式は秦漢時代の官府の上行文書あるいは平行文書とほぼ同じ。ただ文書が送られる相手は地下世界の官吏]

 

(6)

 「告地策」(葬送文書)の特性は道士によって変えられる。保護を求める文書が、地下官吏に向かって発せられる施令の文書に変化するのだ。

 後漢熹平(きへい)二年(173年)に術士が死者張叔敬のために記した告地策は以下の通りである。


「熹平二年二月乙巳朔十六日庚申、天帝使者が告ぐ。張氏の家、三丘五墓、墓左墓右、中央墓主、塚丞塚令、主塚司令、魂門亭長、塚中遊幽士(?)。移丘丞〇(墓)伯に敢告する[〇は木扁に墓]。地下二千石、東塚侯、西塚侯、地下幽卿、耗里伍長等。

 今日は吉良、ほかの理由では用いない。ただし死人張叔敬は、薄命で早(蚤)死に。まさに丘墓に帰す。黄神は五岳に生まれ、主に死人を記録する。

 招魂招魄、主に死人の籍を作る。生人は高台を築き、死人は深みに帰り自らを貍(埋)める。眉とひげを落とし、下部は土灰と化す。今も昔も若返りの薬を求め、のちの世には死者がなくなればと願う。上党人参(党参)九つ、生人に代わって持つことを欲す。

 鉛人(鉛の人形)が死人に代わって持つ。

 死人に代わって黄豆、瓜を持ち、地下の官吏に税として納付する。

 中薬としての牡厲(蠣)すなわちカキを作り、邪悪を取り除き、咎(ろが)を止め、災禍が起こらないように欲す。このことは伝わり、地吏(役人)に言うことをきかせる。張氏の家を二度と煩わせてはいけない。急急如律令」


 格式や語気などを見ると、告地策は道教徒の手によって書かれた可能性が大きい。文書は諸鬼吏に向かって告げる。彼らが死者を保護していること、もう一方で張氏の親族に危害を加えないよう戒めている。

 一般の告地策と違うのは、文書が消極的に地下主の保護を求めているのではなく、多くの巫術的手段をも羅列している点である。たとえば党参を生者に代わって用いるとか、鉛人を死者の代わりに用いるなどである。死者が地下でも税を収められるように副葬品として黄豆や瓜を持たせる。カキを副葬品として入れるのは、邪祟を鎮めるためである。このように積極的に攻めているのは明らかである。

(7)

 告地策に似たものとして、ほかに厭勝文書の「買地券」がある。漢代の告地策はじつは買地券の前身である。両種の文書の違いは、後者が「買地」に重きを置いていることである。買地券は、死者のためにすでに若干のお金が出ていて、地神の手のうちから一定の土地を買うことができる。孫行者(孫悟空)が如意棒を用いて、後ずさりしながら、鬼魅が入れないサークルを描くように、買地券を用いて、つまり虚構の金銭で、死者のために安全区を設立することができる。

 武漢東呉墓出土の呉景帝永安五年(262年)「彭盧買地鉛券」に記す、死者彭盧のために「丘父土王」から「買地縦広三千歩(縦横三千歩の土地を買った)」。費用は一万五千で、東王公と西王母が証人となった。しかし神々は、この協定に違反することが許されていなかった。

 武漢南朝墓出土の斉永明三年(485年)、劉覬(りゅうき)買地券はレンガに刻んだ文書で、全文四百余字である。そのなかにこう書かれている。

「封域の内、東極甲乙、南極丙丁、西極庚申、北極壬癸、上極青雲、下極黄泉。これより土神地を買い、雇い賃八万万九千九百九十九文、すでに払い終わっている。日月を証しとし、星宿を明として[日月星宿を証明(あかし)として]即日葬送をおこなう。丘墓の神、地下□長、[不鮮明]。生人は用心深くなければいけない。明確に遂行しなければいけない。泰(太)清玄元、上三天炁(気)極大神、太上老君陛下の青詔書律令」

 この買地券はのちに符籙が付せられるようになるが、整った文書、霊符はあきらかに道士の「作品」である。


 買地券を副葬品とする習俗は魏晋代から明清の時期までつづいた。買地券はレンガや鉛板に刻まれたほか、玉板、陶柱、石板、木板、鉄板に刻まれた。

 宋人周密は言う。「今、墓を造るのに買地券が必要である。それは梓木から作り、朱書で記される。九万九千九百九十九文のお金を用いて某地を買うという。この村の巫の習俗はこのように笑止なるものである。

 元遺山『続夷堅志』によると、曲暘県燕川の青陽壩[壩は山間の小さな平地のこと]に墓を造るために鉄券を得た人がいた。鉄券にはつぎのような金字が刻まれていた。

「忠臣王処存のための勅葬[皇帝の命によって行われる葬送]において賜銭九万九千九百九十九實九十九文なり。唐哀宗のときに決められて以来、久しくつづく(ならわしである)」。

 時代の限界もあり、周密は買地券が魏晋の頃にはすでにあったことを知らなかった。専門家によると、五代から宋朝まで、買地券は一行順書、一行倒書(さかさ文字)など特殊な書式で書写された。地下の鬼怪の読み方は常人と異なっていたのである。