古代中国呪術大全 宮本神酒男訳

第1章 
27 鍾馗崇拝と関連した礼俗 

 

(1)

 中国民衆の鬼神や神霊をとらえるという迷信の来歴はひとつではない。一部の神霊は呪術がよくできたり、武勇が世に聞こえたりした人物が神化したものである。たとえば辟邪御鬼の神霊張天師、唐代以降に門神となった秦叔宝・尉遅敬徳らは歴史上実在した人物である。ほかの鬼神や神霊をとらえる話は虚構から生まれた神話伝説と考えられる。古くからの門神神荼・郁塁、唐代以降に民間で作られた石敢當、ここで述べられる捉鬼大神鍾馗などはみなこの部類に属す。

 

 鍾馗の名は「終葵」が変化したものだ。終葵は人や鬼を刺す武器である。戦国時代に書かれた『考工記』(すなわち『周礼』「冬官」)は、天子が大圭(玉器)の終葵首を用いていたと述べている。鄭玄は注釈で「終葵、錐(きり)なり」と述べている。終葵首とは、大圭の先端部が錐の形になったものである。錐を終葵と呼ぶのは斉国の方言だ。

『説文解字』によれば「椎、斉のことばで終葵のこと」。椎は錐とおなじ(音)だ。語音から見るに、錐は終葵の合音である。斉人は終葵を錐と称したが、それは彼らの話す速度が緩やかだからと考えられる。一つの音節が二つの音節になったのだろう。さかのぼれば、西周初期にすでに終葵のことばはあった。

周時代のはじめに康叔は「殷民七族」に封じられた。その中の一氏族は終葵族だった。つまり彼らは錐作りを専門とする一族だった。このとおりだとすると、斉人が錐を終葵と呼んでいたが、それは古い伝統を受け継いでいたということである。

 

(2)

 秦漢の時期、終葵と刀、剣、斧、杖はどれも武器だった。馬融は『広成頌』に、古代勇士が「終葵を揮い、関斧を揚げる」情景を描いている。この負の利器は鬼怪に対してつねに用いられる。睡虎地秦簡『日書』「詰篇」には二か所、錐で鬼を撃退する場面が出てくる。

一つは、人が哀鬼にまとわりつかれ、「棘の錐、桃の(柄)でその心を敲き、すなわち(鬼は)来ない」。桃木の柄の上の棘椎で哀鬼を駆逐する。

 もう一つは、「会虫」は家人を筋違いにさせる。「居室の西南の角を鉄錐で押す(と、かならず虫の首に的中する。掘ってこれ(虫)を埋め、取り除く」。文中のは段であり、打撃の意味がある。

 後漢の帛書『五十二病方』にも鉄錐で鬼を撃退する治病法術が記されている。陰嚢が大きくはれて小便がしづらくなったのを治すには、選んだ月の十六日の日の出のとき、患者を東方に面と向かわせる。巫医はまず三度禹歩をおこない、「月と日相当、日と月相当」と三遍唱える。そして父母の病鬼を威嚇する呪文を唱え、それが終わると、鉄錐で象徴的に地面を十四回撃つ(攻撃する)。『道蔵』所収の『太上秘法鎮宅霊符』中に「厭疫気百雑鬼」という霊符がある。[図参照]霊符に「椎」という文字が二つ書かれている。これは「錐」のかわりに用いられているのだろう。錐で鬼を撃つという意味である。

 『太上秘法』は称する、この書は漢文帝の頃の術士劉進平が伝えたものであると。これから推測するに、書中に載る霊符は漢代か、その少しあとに書かれたものだろう。顧炎武『日知録』は「終葵」の一節を示し、「古人は椎でもって鬼を駆逐する。大儺のためである」。のちに「終葵」となるが、鬼を駆逐する武器がかわり、人名や神名もかわったということである。惜しむらくは当時顧氏は「椎でもって鬼を駆逐した」という実例を見つけることはできなかった。秦漢の文書が大量に出土するにしたがい、錐で鬼を駆逐するのが古代では盛んであったことが確認されるようになった。顧氏は鐘道の起源について確信を深めたようだ。[顧炎武(16131682)は経世致用、明道救世思想を唱えた思想家]

 

(3)

 唐代以前、少なからぬ人が鍾葵あるいは鍾馗から名前を取った。このように名を取るのは、刺鬼武器である終葵(しゅうき)のように鬼魅を畏れさせ、彼(彼女)が侵害を受けず、一生平安に過ごせることを願ったのである。[終葵に「さいづち」という読みがあてられることがあるが、鬼を刺すことから、先の尖った武器と考えられる。あるいは利錐と解釈される。利錐はもともと農具で、収穫に使われたとすると、一種の剣状の農具で、武器としても使えたのだろう]

 顧炎武によると、唐代以前にすでに楊鍾葵、丘鍾葵、李鍾葵、慕容鍾葵、喬鍾葵、宮鍾葵、段鍾葵といった人名があったことが確認できるという。

 宋仁宗皇祐年間、金陵上元県で劉宋の征西将軍宗𢣯(そうこく)の母鄭夫人の墓が見つかった。この墓の墓碑銘には「𢣯(こく)には鍾馗という名の妹があった」と記されていた。女性にも鍾馗の名がつけられたのである。

 忍耐強く探せば、つぎの三名の名前に行きつく。北魏孝文帝時代の大臣堯暄(ぎょうせん)の本名は鍾葵であり、字(あざな)は辟邪だった。同時期の大臣だった張白沢も字は鍾葵である。その少しあとの大臣于勁(うけい)もまた字を鍾葵としていた。

 古代の名と字は密接な関係があった。名が鍾葵で字が避邪(辟邪)という組み合わせなら、鍾葵の名が辟邪の物(魔除け)であることを表明していた。鍾葵と「勁」の組み合わせなら、それが強くて危害が加えられることはないという特徴を持っていた。鍾葵と伝説の鬼神獣白沢の組み合わせなら、鬼魅を駆逐するのが鍾葵の本領であることを表していた。これら三人の人名は、どれも名字(名と字)中の鍾葵が鬼を攻撃する錐である「終葵」から取られたことを説明している。同時に利錐で鬼を打つ習俗は、南北朝の時期、ほとんど変化しなかったことを表していた。[鍾葵と終葵は同音(zhong kui)]

 

 唐代に至ると、利錐の意味を持つ終葵、鍾葵、鍾馗は最終的に姓・鍾、名・馗の捉鬼大神となった。鍾馗捉鬼図は(壁や門に)掛けられ、貼られ、それ自体が新しい辟邪(魔除け)法となった。

 北宋の皇宮が蔵していた一軸の呉道子画の鍾馗図には唐人の題記があった。これには鍾馗がいかに鬼を捉えたかという伝説が詳細に述べられている。開元年間、唐玄宗は驪山に行き、軍事演習を主催したが、皇宮に戻ってすぐ、瘧疾を発してしまった。一か月余り、巫医は全力を尽くして治療に当たったが、一向によくならなかった。ある夜、玄宗は宮中に二匹の鬼がいる夢を見た。小鬼が楊貴妃の紫香袋と玄宗の玉笛を盗んだ。そこに青い袍服を着た、腕をあらわにした、革靴に足を突っ込んだ大鬼が現れ、小鬼を食べてしまった。玄宗は大鬼に向かって名は何という、とたずねた。大鬼は「臣の姓は鍾、名は馗と申します。かつて考武の試験を受けましたが、受かることはありませんでした。落ちたとはいえ、陛下のために妖孽(ようげつ)を駆除しようと願います」と言った。

 夢から醒めると、玄宗の病はよくなっていた。記念にとどめようと、玄宗は画工の呉道子を招聘し、夢中で見たものを鍾馗図として描くよう命じた。呉道子は画聖の名に恥じず、すぐさま生き生きとした鍾馗を描き出した。唐玄宗は大いに喜び、百金を下賜した。そして言った。

 

霊祇応夢、厥疾全廖。(神霊夢に応じ、厥病も完治する)

烈士除妖、実須称奨。(烈士は妖魔を除く。じつに称賛すべき)

因図異状、頒顕有司。(そのさまが尋常でないため、それを分かち与えよ)

歳暮駆除、可宜遍識、以袪邪魅、謙静妖気。(年の暮の駆除について広く知られるべきだろう。邪悪を取り除き、妖気を静めなければならない)

告天下、悉令知委 (天下に告げよ。ことごとく知らしめよ)

 

 以上の文の意味は、つぎのとおり。鍾馗図を各官吏に配布し、鬼の駆逐に用いるよう命じる。同時に天下に布告する、すべての人は鍾馗の威力を知るべしと。

 

 この題記は唐朝皇帝が臣下に鍾馗図を分け与えたことに言及している。唐人は歳末に鍾馗図などを掛ける風習があった。この題記の内容は当時の風俗を反映しているのである。

 唐代詩人張説(ちょうえつ)の『謝賜鍾馗および暦日表』という一文があり、その中で言う。「臣某は言う、中使[宮中が派遣する使者。多くは宦官]至る、奉宣聖旨[皇帝の命令あるいは指示を奉る]、臣に鍾馗の画一軸および新暦日一軸を賜う。(……)邪をなくす絵の神像によって、疫鬼の群れを取り除く」。劉禹錫が書いた『為淮南杜相公謝賜鍾馗暦日表』『為李中丞謝賜鍾馗暦日表』も同様である。

最初の表に言う、「臣某は言う、高品(名士)某乙が至る。奉宣聖旨[皇帝の命令あるいは指示を奉る]、臣に鍾馗の画一軸、新暦日一軸賜う。星紀[十二星次の一つ。二十八宿の斗宿と牛宿に当たる]が戻り、年の瀬になり、突如輝かしい恩寵を賜ることになる。春が来たかのようである。臣某は感謝し、神威を画いた図でもって疫鬼を駆除する」。

 まさに後漢の儺礼が結束したあと、葦戟、桃杖を公卿や将軍に賜ったように、疫鬼の群れを駆除する鍾馗の図を分配するのは、皇帝が大臣に対して関心を持ち、守っていることを表していた。それゆえ図像を受け取った人は感謝の意を表す必要があった。文才のある人は謝表を代筆することもあった。すでに述べたように杜相公、李中丞が劉禹錫に謝表の選定と書写を頼んだのは一例である。

 

(4)

 大臣や貴族の上層社会において鍾馗図は疫鬼を駆逐する役目を負っていたが、民間でもおなじことが行われた。唐代の民間に流行した鍾馗逐鬼活動とは、鍾馗崇拝と伝統的な儺礼とが結合した巫術の新しい形式だった。年末の打鬼儀式において、ある人は鍾馗に扮し、狂ったように歌い、力強く舞い、疫鬼を駆逐した。

 敦煌文書唐写本のなかに『除夕鍾馗駆儺文』があり、それに駆疫活動をする鍾馗に扮した演者がいて、彼はつぎの歌詞の歌をうたう。

毎年自ら十万の大軍を率いて、ヒグマの硬い爪、鋼の頭、銀の額で、全身豹皮を着て、朱砂で身を赤く染める。そしてわれは鍾馗である、江遊浪鬼を捉えようと称す」。

 研究者らは、さまざまな比較を通して、ここに出てくる鍾馗は伝統的な儺礼中の方相氏に相当すると結論づけている。敦煌文献にも同様の描写がある。

「軒轅(黄帝)の昔より、駆儺によって、鍾馗と白沢(古代の瑞獣)が仙居(仙境)を統率している」

 実際のところ唐代以前は、鍾馗が各神仙を統率するという観念がなかった。鍾馗捉鬼神話が広く流行したあと、人の心の中に占める鍾馗の地位はますます高くなった。鍾馗は駆儺活動のリーダー格と目され、黄帝や白沢と並び称された。

 

 五代北宋南宋の時代、鍾馗駆鬼の習俗はそのままつづいてきた。五代の時期、銭倧が後を継いだばかりの呉越国で政変が起きた。この政変は「鍾馗撃鬼図」が誘発したものだった。新呉越王の銭倧と大将の胡進思は互いを疑い、忌み嫌った。その溝は日増しに深まっていった。

 銭倧が位を継いだ年(947年)の臘月三十日、画工が鍾馗撃鬼図を献上すると、銭倧は画の上に題詩を書いた。詩のなかで銭倧は、鍾馗は鬼と同様悪人も除去しなければならないと述べた。胡進思は鍾馗図のこの題詩を見て、「倧は(おれを)殺そうとしている」と悟った。それなら機先を制するにかぎると彼は考えた。大晦日の夜、彼は宮中の兵と武器を動かし、銭倧を監禁した。また銭倧の弟倧俶(そうしゅく)を王にたてた。

 唐代と同様、宋代にも鍾馗画を賜る礼があった。北宋煕寧五年(1072年)、宋神宗は画工に鍾馗像の拓本を取り、印刷し、それを中書省と枢密院に分配するよう命じた。大晦日の夜、神宗はまた供奉官梁楷(りょうかい)を派遣し、鍾馗の像を東西府[中書省と枢密院]に賜った。

 大晦日に鍾馗像を貼るのは、宋代の民間がもっとも盛んだった。『東京夢華録』に述べられるように、汴梁城内では、毎年春節が近づくと、「市井ではみな門神、鍾馗、桃板、桃符などを刷って売った。鍾馗像(画)を掛けるのは、新年の節俗のなかでも重要なものとなった。

 鍾馗図を掛ける習俗は清代に至って変化した。唐宋の頃は大晦日にかならず掛けていたが、清代になると多くの地区で五月の一か月か端午節のとき図を掛けた。

  顧禄『清嘉録』巻五に言う、「(五月の)一か月堂中[玄関ホール]に鍾馗図を掛ける。よって邪気を遠ざける」。顧氏はまた李福の『鍾馗図詩』を引用して言う、「(鍾馗の)面構えはひどく恐ろしいが、すこぶる大胆である。ザクロの花のように赤く、菖蒲のように緑が濃い(節日らしい賑わいに満ちた)図を掛ける。君(鍾馗)の力によって妖魔を取り除いたおかげで人に害が及ばない魔除けの図である」。

 富察敦崇『燕京歳時記』に言う。「毎年端陽[午月第一午日で端午節と同じ]に市の店舗で……絵画天師、鍾馗の像……掛けてこれを売る。地位ある人々もみな争って買い、家の門にこれを貼る。よって邪悪なものを避ける」。

 

(5)

 古代の医家は桃符、桃橛など鎮鬼の物が病を治し、邪悪を駆逐するのにも使えることを認識していた。同じ思考方式から出発し、彼らは鍾馗像を神妙なる薬材ととらえるようになっていた。

 李時珍『本草綱目』にも「鍾馗」という項目があり、それが「辟邪止瘧」の効用があると認識していた。李氏はまた二つの秘方を収録している。

一つは、画像の鍾馗の左足の部分を切り取り、焼いて粉末にし、水とともに服用すると婦人の難産を治すことができるというもの。

 もう一つは、鍾馗像を燃やして二銭の灰にし[一銭は5グラム]、阿魏、砒霜、丹砂末を「寒食麺」と混ぜて、こねて小豆ほどの大きさの丸薬を作る。瘧疾が発病するたびに冷水といっしょに丸薬を一つ服用する。すると瘧はやむ。秘方はまた、効力があるとして、正月十五日と五月五日に丸薬を作ることを求めている。

 

 中国人はひたすら伝統を重んじる。民間巫術の習俗はどれもその源はきわめて古い。鍾馗(終葵、鍾葵)は錐の同義語が変化して捉鬼の神の名称となった。錐撃鬼法が変じて鍾馗捉鬼伝説や関連した巫術となった。変化したとはいえ、伝統が途切れたわけではない。鍾馗捉鬼習俗は縮小された形で巫術によって代々継承されてきたが、その源流ははるかに遠いのが特長であるといえるだろう。