古代中国呪術大全 宮本神酒男訳 

第2章 
1 雨乞い(上) 竜蛇感応呪術 

 

(1)

 古代中国の雨乞い呪術には二つの系統がある。

一つは殷代の「舞」法や周代の(う)祭、すなわち雨乞い祭にはじまり、漢代以降、陰陽学説の指導のもと、あるいは土竜感応術を核心とすることによって発展してきた総合的な呪術活動である。のちに蛇、トカゲ、各種の竜の図像、およびたとえばこれら霊物によって、日照りをなくし、雨を求めるとき、伝統的な礼(雨乞い儀礼)を引き継いでいるとみなされるようになった。

もうひとつは、商代の「(こう)」呪法から生まれた呪術であり、「燎」呪法や「(ゆう)」呪法とも関連している。それらの目的は日照りの災害に至らしめた罪人や妖怪を焼き払うことである。古代の帝王や大臣は自ら焼き払いの儀式を行って雨を求め、火刑や日晒しの懲罰を巫師(シャーマン)に与え、形式的に旱魃(妖怪)を焼く活動をした。

 これらの雨乞い呪法は呪術の実践のなかで互いに影響しあい、混交し、結びついてきた面がある一方で、やりかたに違いがあり、歴史的な根源も同じではないので、独立した別々の系統とみなされてきた。

 

(2)

 秦代以前に流布した応竜と旱魃の神話伝説は、上述のように、二種類の呪術の観念の基礎を成している。

 『山海経』「大荒東経」に言う、大荒東北角に「凶梨の丘」があり、応竜はこの山の南端にいた。応竜は黄帝から派遣されて天から降り、蚩尤と夸父を殺した。しかしこのあと天庭に戻ることができなくなった。天上に雲を興し、雨を降らせる応竜が少ないため、下界は頻繁に干ばつに襲われた。大干ばつが起きるたび、にせの応竜が作られ、本物の応竜が感応することによって、願いに応じて雨が降ったかのようだった。

『山海経』注釈の郭璞が指摘するように、のちの土竜に雨を求めるようになるそのもとは、この伝説なのだろう。第一類求雨巫術は竜と関連した霊物と絡んで進行する。竜への信仰が長く栄え、衰えることがなかったのには、こういった巫術の存在が大きい。

 

 『山海経』「大荒北経」は女魃(じょばつ)伝説に触れている。大荒の中に昆の山と共工の台があり、ここに青い衣を着た「黄帝女魃」がいた。黄帝が蚩尤と戦った年、冀州の野で蚩尤と戦うよう応竜に命じた。一方蚩尤は風伯雨師に、疾風暴雨でもって存分に暴れまわるよう要請した。黄帝は雨を止め、戦いを助け、蚩尤を殺すよう天女魃を地上に送った。のちに魃も天上に戻れなくなり、彼女がいるところは長年雨が降らなかった。

周族の祖先叔均は黄帝に苦境を訴えたので、黄帝は女魃を赤水の北に安置した。叔均はこれにより、のちに世の人から「田祖」すなわち土地の神と奉られるようになった。赤水の北にいる魃は心に不安を抱き、どこの地方へ行こうと、そこに干ばつの害をもたらした。

女魃を駆逐しようと思ったら、まず水路を掘る。水を通したあと、「神北行」と叫ぶ。すると魃をもとの場所へ戻すことができる。この伝説が現れたのは相当早い時期だ。西周の頃にはすでに「旱魃虐をなす」という言い方があった。旱魃とはすなわち女魃である。

古代中国には魃神の来歴と形状の伝説はいくつかあったが、魃が旱(ひでり)神であるという観念が変わることはなかった。もうひとつの 求雨法は、おもに旱魃に対して実施された。

 

(3)

 はじめに呪術の変遷から見ていこう。

 舞いの求雨は商代には慣例となっていた。殷墟の卜辞に大量に「乎舞、有従雨」「今日奏舞、有従雨」といった記載が見つかっている。「乎(呼)舞」は群衆を招集した跳舞であり、「奏舞」は奏楽をしながらの舞いである。「従(縦)雨」は大雨を指す。占い師は、跳舞によって大雨のことを神に聞いて啓示を得た。舞踏求雨法は当時盛んだった。そしてこの方法はすでに長い間流行していた。

占い師はこの方法が霊験あらたかであるかどうかに注意を払っていた。しかし霊験がなかったとしても、信仰を捨てるということはなかった。つねにこの舞踏が雨を招くかどうかが問題だった。求雨舞踏は一般に宗廟や神祇の前で行われた。もっともよく見られたのは「舞河」や「舞岳」だった。おそらく殷人は河神や岳神が旱災を引き起こす主要神霊とみなしたのだろう。それゆえ舞踏によって彼らを感化することが重視されたのだろう。

 

 商代の求雨の舞は一種の集団舞踏活動だった。卜辞のなかに「貞、我舞、雨」という記載があるが、その中の「我」は誰かを指すのでなく、「我々」か、商朝の町を指している。商代には舞臣という専門職があり、舞踏の按排の責任を持つ「多老」だった。干ばつになると彼らは「呼ばれ」、祈雨をすることになる。重要な祈雨活動になると、商王は自ら載歌載舞に参加した。卜辞の中にはつぎのような一節がある。「貞、王勿舞」「王舞」「王舞、允雨」。最後の一文は注目したい。すなわち商王が自ら舞踏に参加し、それによって広範囲の甘霖(恵みの雨)が降ったことを報告しているのだ。

 

 甲骨文中の□(雨冠に舞)は、求雨の舞を一般的な舞踏と区別するために作られた字である。「于翌日丙□、有大雨」「乎□、無大雨」これらから、□と解は同じ音だろう。雨冠を加えることで、求雨の舞であることを示しているようだ。

 

(4)

 殷代の「舞法」は変遷して周代の雩礼(うれい)となった。これは規模の大きな求雨活動である。周代の雩祭のなかで雨を祈る舞踏の組織の主役は巫師だった。『周礼』「司巫」に言う、「もし国が旱(ひでり)であれば、帥巫(すいふ)が雩を舞う」。この書の「女巫」に言う、「旱暵(雨が降らず乾燥して暑いとき)すなわち舞雩(求雨の礼)」。

 『周礼』はまた「舞師」という官員について述べている。その職責の一つは一般大衆に求雨舞を含む各種舞法を伝授することだった。大旱のときは人々を率いて女巫といっしょに舞った。雩祭に必要なものは、「稲人」という官員を通して集められた。水稲などの作物を植え、育てるのを管轄する「稲人」は雨をもっとも必要とする人物であり、雩祭からもっとも利益を得る立場にあった。

 

 周代、祈雨の舞は「皇舞」と呼ばれた。舞踏する者はかならず頭に鳥の羽根を挿さなければならなかった。これは鷸(しぎ)の羽根である。伝説によればシギは「知天将雨」、天が雨を降らせるのを知っている。秦代以前、天文官は習慣として頭に鷸冠を挿し、目印とした。求雨者は鷸冠を挿して舞った。この鳥の羽根が上天の霊力に感応すると信じられていたのである。

 

 求雨者は狂舞するとともに、呼号(泣き叫ぶ)し、悲嘆(悲しみ嘆く)し、痛哭(激しく泣く)し、祷祝(祈り祝い願う)する。『爾雅』「釈訓」に言う、「舞号(舞い叫ぶ)、雩(う)なり」。雩祭の説明中、「有舞有号(舞い、叫びあり)」。

 雩(う)と吁(う)は同音である。雩礼中、総じて「吁嗟(うさ)」という悲痛の叫び声を伴う。それゆえ鄭玄らはつぎのように解釈する。「雩、吁嗟、求雨の祭なり」「雩の祭、舞者は吁嗟にして雨を求める」。

 『周礼』によれば「邦(くに)の大災」に遭えば、女巫に「哭いて歌って、(雨を)求めてもらう」。大旱に遭えば当然のことで、例外はありえない。この「歌」とは、祷祝の辞を歌うという意味である。現存する周代の最長の祈雨祷辞は『詩経』「雲漢」である。

 周宣王は即位後六年連続して大旱に遭い、大臣仍叔(じょうしゅく)が宣王に代わって祷辞を書いた。詩の中で言う、旱魃(干ばつ)が発生し、周人はほとんど死んでしまった。幸運にも生き残っている者は、生命の限界が来てしまったことを感じている。国家綱紀は無きに等しく、生活秩序は乱れまくっている。周王は心配で気が気でなく、群公先正[上公や前代の君長、昊天上帝(こうてんじょうてい)]に希求し、周人が神を祭り、勤勉であるさまを見て、すみやかに旱災を終わらせることを願う。

 

(5)

 周代の雩祭(うさい)には二種類あった。一つは不定期におこなわれた「旱雩」で、夏暦(旧暦)の五、六、七月に実施された。旱(ひでり)があれば祭があり、旱がなければ祭はなかった。もう一つは定期的におこなわれた「正雩」。旱(ひでり)がある、ない、関係なく夏暦四月に一度だけおこなわれた。

 『左伝』「桓公五年」に「竜が見えれば雩」すなわち正雩とある。これは旱災を予防するという意味合いがある。「四月の黄昏、竜星体が見えたなら、万物のはじめであり、雨の期待が大きくなる。ゆえに雩を祭り、雨を求める。正雩儀式は荘厳なので、大雩と呼ばれることもある。大雩礼では歌舞だけでなく、楽奏もたっぷりと用いられる。すなわち舞者の伴奏に各種楽器が用いられる。

 こうして上帝を祭るだけでなく、山川百源(すべての源)、先王、先公、かつて功を立てた古代の名臣などを祭った。

 

 商代の舞法と周代の雩祭について語ると、討論すべき問題が出てくる。すなわち商周の時代、求雨儀式で竜形の道具がすでに使われていたかどうかだ。裘錫圭(きゅうしけい)[1935~ 古文字学者]は「竜田有雨」などの竜や、雨と関連した卜辞、それとつながる社会習俗などを根拠に、商代にはすでに求雨の竜の造形を使った儀法(礼儀法度)があったと認識している。

 竜崇拝は新石器時代にはすでに流行していた。遼寧省西部の紅山文化遺跡から発見された玉竜、濮陽西水坡から発見された蛙塑竜、陶寺文化遺跡から発見された朱絵竜などがそうだ。

伝説によれば太たいこう)氏は竜名をもって官とした。[太皞は伏羲氏と同一視される。伏羲は竜の姿で描かれる]。

舜の時代、董父は竜を訓練し、竜を養った。ゆえに拳竜氏と称す。

上帝は夏代末の帝王孔甲に四条(匹)の「乗竜」を賜った。黄河、漢水にそれぞれ一対ずつである。帝王孔甲は劉累に竜の訓練をさせた。ならびに「御竜」という氏号を賜った。これらの神話は考古学的発見とも符合した。

『易経』乾卦の爻(こう)辞は「潜竜勿用」「見竜在田」「飛竜在天」「亢竜有悔」などに言及する。

 『左伝』「昭公二十九年」は春秋時代の人の話を記録する。もし朝夕に(日常的に)真竜を見ることができなかったら、どうやって竜を細かく描写することができただろうか。実際、「拳竜」「御竜」は、竜形の道具を作るのに長じていた人々ではなかろうか。彼らは代々竜を造る仕事に携わっていたが、それを神話によって表現していた。彼らが竜を生き生きと描くことができたのは、竜を特別に崇拝し、竜形の道具とつねに接触していたからだろう。

 秦代以前の人は竜を「水物」と認識していた。それは虫類の中でもっとも智慧のあるものだった。河(河南と河北)や漢中のどちらにも竜の活動が見られた。殷墟の卜辞に書かれる「舞河」求雨もまた、竜崇拝と関係があった。

 『淮南子』「地形訓」に言う、「土竜致雨」。高誘の注に言う、「湯は旱(ひでり)に遭い、竜をかたどった土竜を作る。雲は竜に従うので、雨もやってくる」。

 商代および商代以前の宗教の背景を見るに、高誘の説にも納得がいく。後世に伝わる文献中には、秦代以前の雩礼中の竜形道具や秦代以前に鋂号の作用を重視したという言及は少ない。土竜致雨法を使用したという記述もきわめて少ない。

 

(6)

 漢代に到り、雩祭儀式に重大な変化が生じた。漢代の雩礼の総合設計士は董仲舒である。彼は多くの伝統巫術をひとつにまとめ、陰陽五行の図式に表して見せたのである。雩礼はこうして整然として秩序立ったものとなり、雑多でありながら乱れていなかった。現代の整然とした大型マスゲームのような巫術儀式である。

 

 董仲舒の求雨術は、「開陰閉陽」(陰を開き、陽を閉じる)「損陽益陰」(陽を損し、陰を益する)を基本原則としている。彼の認識では、天と人は互いに感応しあうものであり、天候の変化が人体や情緒に影響を与えるのと同様である。人の行為によって上天からの反応を得ることもできる。旱災の原因は「陽気」が過度であるためである。さかんすぎる「陽気」を追い払うため、意識的に「陰気」を強化する必要がある。こういった考え方は、『春秋繁露』「同類相動」の中に明確に表現されている。

「天に陰陽あり。人にもまた陰陽あり。天地の陰気が起これば、人の陰気もそれに応じて起こる。人の陰気が起これば天地の陰気もまた応じて起こる。その道は一つである。これが明らかな者は、雨を欲するなら、すなわち陰を動かしてもって陰を起こす。雨を止めたいなら、すなわち陽を動かし、以て陽を起こす。ゆえに雨をもたらすのは神ではない。神であるのか疑わしければ(神をまねるのであれば)、その理は微妙である」

 開陰閉陽(陰を開き、陽を閉じる)についてだが、陰陽家[諸子百家の一つ]は事物に対し、陰陽のどちらに属するか、先験的(ア・プリオリ)に判断を下す必要がある。たとえば南方は陽に属し、北方は陰に属す。火は陽となし、水は陰となす。求雨のとき、南門を閉じ、北門を開放する。火をつけるのを禁止し、四方で水をまく。女は陰に属し、男は陽に属すので、求雨のとき、男はしばらくの間つらい思いをしなければならない。

 董仲舒は江都王へ宛てた奏上文のなかで、「求雨には、損陽益陰すべき」と説く。ゆえに祷祝に従事する広陵女子の一か月の租税を免除するようにと江都王に請願している。この分は、巫師に賜うといい。大巫小巫すべてを郭門[外側の城門]に招集する。そこに壇を建て、神を祭る。女性らには市場を広々とした、交通の便のいい場所に移させるといい。男たちは市場に入れさせない。

 求雨期間中、男は集まって飲酒するのが禁止される。官吏の妻はみな衙門[官署のこと。ここではその門]に行き、夫を遠くから見る。官吏は妻の姿を見ると、高貴な客に対するように恭しくもてなす。これを同時に挙行すると、すぐに大雨が降り、儀式を終える。

 

(7)

 『春秋繁露』「求雨」のなかで、董仲舒は彼自身が作った春、夏、季夏、秋、冬五種の求雨儀式について系統的に論述している。この儀式には季節の神霊の祭祀、雨を請う壇の建設、土竜(土製の竜)の安置、舞者の起舞、池を掘りカエルを放流、開陰閉陽の措置の実施が含まれる。そのどれも五行学に符合していないといけない。

さて各季節の求雨儀式には相通じるものがある。それを繰り返し書く必要もないだろうから、春の求雨儀式の例だけを以下に示したい。

 

 春の求雨儀式では「水日」に、すなわち天干の壬、癸日、地支の亥、子日に、社稷山川に向かって祈祷し、百姓(庶民)に「戸神」を祭祀させる。[天干は、甲、乙、閉、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸の十個。地支は、子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥の十二個]

 山林では伐採が厳しく禁じられ、八日間、巫尪(ふおう)を強烈な陽光のもとに曝す[巫尪は求雨儀式の巫女。現在も台湾では巫女の一種を尪姨呼ぶ]。

 県城東門の外に八尺四方の「四通の檀」が造られる。壇上に八つの青い織物が掛けられる。生魚、玄酒(水)を用いて共工を祭る。ひとりの清潔でことばが巧みな巫師を選び、彼に三日間斎戒させ、青い衣を着せ、祝辞をよませ、ふたたび拝させて、請雨させる。

 甲乙の日、八丈の長さの大青竜一匹と、四丈の長さの小青竜七匹を作って土檀中央部と檀の東部に置く。竜の頭部はどれも東に向くように、大竜と小竜は八尺あくように置く。8人の小童が檀のまわりで踊り、農田を管理する田嗇夫(でんしょくふ)が監督に立つ。彼らは三日の斎戒をする必要がある。青い衣を着る。

 社壇の上に八尺四方で深さ一尺のカエル池を掘る。池と外の用水路を通じさせておく。5匹のカエルを池に放つ。祝官は社壇で二度祈り、祝する。四通大路の神廟前で三歳の雄鶏と三歳の雄豚を焼く。各地に命じて南門を閉め、南門の外に水を置く。北門をあけ、門の外に老いた雄豚を放つ。号令を聞くと豚の尾を燃やす。原野で野さらしになっている死骸を埋葬する。山奥で禁止されているものを開放する。そこに柴を積み、火をつける。道路を整え、端を架け、溝や用水路の流れをよくする。もし大雨が降ったら、豚、酒、塩、黍を捧げ、神霊を祭る。

 

 夏(火に属する)、季夏(夏の最後の一か月、すなわち六月。土に属する)、秋(金に属する)、冬(水に属する)の求雨儀式の手順と春の求雨儀式の手順はほぼ同じである。ただし季節ごとに五行の属性は異なるし、具体的な儀法は微妙に異なっている。

 ほかに重要なことといえば、夏の求雨の前に、鍋釜と杵臼を七日間、陽光のもとにさらす。また季夏には南門の外に市を移し、十日中五日、男性が入るのを禁止される。巫師が市場のかたわらに集められ、官府は臨時の小屋を建てる。秋には巫師が九日間、陽光にさらされる。冬には六日間、竜鋂を舞う。夏と季夏は、成年が舞い、秋には鰥夫(男やもめ)、冬には老人が待った。

 ほかにも、大竜一匹、小竜がいくつか集められるが、それが今季作られた竜である。小竜の長さは大竜の半分ほどだ。大竜は求雨檀の中央に置かれ、どこも深いカエル池に五匹のカエルが投げ入れられる。三日間の斎戒をした者が祝し、舞う。どれも求雨礼のさいには必要とされるものである。

 

(8)

 董仲舒は強調する、求雨儀式を行うためには竜が必要であると。「水日」に清めた土からそれは作られる。竜が完成するまでは覆い隠さなければならない。求雨の期間中は、庚子の日まで、官吏、百姓(庶民)は夫婦生活を送る。求雨の期間、要求されるのは、男子は深居簡出(家の奥深くに隠れてめったに外出しないこと)であり、女子は尽情歓楽(言葉では尽くしがたいほど楽しむこと)である。

 

 董仲舒の新しい雩礼集は、いわば伝統的求雨巫術の集大成である。たとえば焚柴焚牲(柴を燃やし、犠牲動物を燃やす)、暴曝巫(巫師や尪姨を陽光のもとにさらす)といった法術はもともと秦代以前の別の巫術の系統に属していた。どれも董仲舒の雩礼のコレクションの中に納まってしまった。

 

 「開陰閉陽」理論は関連する求雨儀法に深い影響を与えている。漢昭帝始元六年(前81年)夏、宮廷を挙げて大雩をおこない、「不得挙火」(火をともしてはならない)の令を出した。董仲舒の没後すぐに朝廷は開陰閉陽理論を実際に運用した。董仲舒が言及した「城の南門を閉めてその外に水を置く」求雨法は、明代にいたるまで、一部の官吏は参考にしていた。置水の法はのちに変化して「溌水澆人」(人に水をかけ、そそぐ)の挙となった。

 東魏孝静帝の天平二年(535年)五月、きわめて大きな干ばつがやってきた。宮廷は「城門、殿門、省、府、寺、署(役所)の坊門で人に水をかけるよう命じた。すなわち王侯が門を通るとき、水をかけられることになった。「水かけ」に期限はなかった。『雨が降ると(水かけは)やんだ』のである。宋代、山西地区などでは、雨を祈る民衆が一糸まとわぬ姿で腕を振りまわし、気勢を上げた。「人の道に水をかけよう」。

 

 土竜感応術は董仲舒の新雩礼の核心であり、その歴史的影響はきわめて大きい。漢代の学者は、土竜求雨法の有効性について論争までしていた。揚雄『法言』「先知」に言う、「竜は雨をもたらしているように見えるが、難しいのではないか。竜よ、竜よ」。にせの竜は竜に数えられるだろうか。それを用いて雨を求めるのはむつかしくないだろう。楊雄と同時代の劉歆(りゅうきん)は違った考えを持っている。「劉歆が雨をもたらすに、まず土竜を作る。律を吹き(吹奏律管)、方術を使い、準備は怠らない」。

 棺譚は劉歆に質問する。「土竜が雨をもたらすのは、どういう道理なのか」。また「磁鉄は針ではないが、針を吸いつける」と例を挙げて同類感応説に反駁する。劉歆は返すことばがなかった。ずっとのち、王充も棺譚に反駁した。彼は感応する15の事例を挙げた。四つの方面から土竜求雨術が「礼」の意味に合っていると説明した。この議論は土竜の勝利でもって終わっている。

 『続漢書』「礼儀志」によれば、後漢の時期、大旱があり、公卿官長は雩礼でもって求雨儀式をおこなった。「それぞれの陽を閉じる[開陰閉陽]。衣は清潔にする。土竜(土製の竜)を作り、土人(土製の人形)を立てる。二列の子供たちの舞い。伝説のように七日に一度入れ替える」

 

(9)

 漢代以降、竜は雲を興し、雨を播くという観念が人々の心の中に入り、竜王に関する神話がますます増えた。竜と関連する雨乞い巫術はいっそう複雑になった。この巫術には4つの形式がある。

A)竜形道具の使用 

 この方法と土竜致雨術は一脈通じるものがある。後代の竜形道具の種類はさらに多くなり、複雑になった。「照妖鏡信仰」の節で述べたように、葉法善[616722 羅浮真人]が揚州蟠竜鏡を用いた故事がある。

 注目に値するのは段成式『酉陽雑俎』「貝編」に同じような話が収録されていることだ。その話の中の施術者は葉法善ではなく、僧一行である。これらの瓜二つの故事からわかるのは、唐代の術士はまちがいなく、揚州鏡に竜形の鏡鼻[紐を通すための鏡の突起部]をつけ、祈雨を行なっていたことである。

 

 『宋史』「礼志五」に記載されているように、宋真宗在位のとき、二度、竜形の道具と関係のある祈雨法術を挙行している。一回目の祈雨儀式は、平二年(999)、「李祈雨法」という法術をおこなっている。[李邕(りよう)は唐代の大臣、書法家 678747

 つぎのような順序で行われる。まず甲乙の日、東に壇を作る。そして土を取って青竜を作る。当地の長官は斎戒し、三日後にやってきて竜の居場所を設置し、水を汲んで檀にまく。お香や茶、果物などの祭品を準備する。これ以降毎日群吏や郷里の老人を引き連れて二度祝祭を行う。音楽や巫覡を使用することはできない。大雨を願って、土竜を流水に放流する。その他四方の西、中、南、北に壇を築き、竜を設置する。築壇の日時、檀の大きさ、竜の長さと、どれも五行の公式をもとにしている。

 「李邕祈雨法」と董仲舒の求雨法は基本的に一致する。ただ巫師を用いることはなく、舞い踊ることはなく、降雨のあと竜を水の中に送り、新しい意味が生まれる。

 二回目の祈雨儀式は、景徳三年(1006)に行われた「画竜祈雨法」と呼ばれる法術である。

 それはつぎのような順序で行われる。近くに潭(深み)や洞窟がある湖沼の密林の奥深くを求雨儀式の場所として選択する。庚辛壬癸日、刺史(しし 国主)、守令は当地の徳が高く、声望がある人々を率いて、酒肉で土地神を祭り、予定の場所で方檀を作る。檀は3つに分かれる。高さは二尺、幅は一丈三尺。檀の外二十歩のところに白い縄を張り、界(境界)となす。

 檀の上に竹竿を挿し、竜図を竹竿に掛ける。この竜図を白絹の上に置き、その上方に黒魚を画く。魚の頭は左を向く。魚の周囲を玄鼈(スッポン)と十の星辰が取り囲む。中間には白竜が画かれる。それは黒い雲霧を掃き出している。下方には波浪が画かれる。波浪の中に左から振り返る亀が画かれる。それは黒気を掃き出している。

 竜図の周縁の飾りは金銀丹砂で装飾した竜形である。竜図のほか、檀の上には樹と黒旗が立つ。配置が終わると、鵞鳥を殺し、その血を盆に入れて置く。柳の枝を用いて血を画竜にまく。

 三日後に一匹のブタを用いて竜神を祀る。そのあと画竜を水に投じる。「画竜祈雨法」には五行の公式を用いた形跡がない。「画竜を水に投じる」以外には、「李邕祈雨法」と共通する点はなかった。両種の祈雨法の実施には七年の隔たりがある。もし李邕祈雨法がうまくいっていたなら、なぜ継続しないでほかの方術を用いなかったのだろうか。咸平二年の土竜求雨活動を見る限り、失敗に終わったとみなさざるを得ない。

 

 雨を求める者は、土竜の類に対して、敬いながら畏れる態度をとる。彼らは雨乞いの道具に懲罰を与えることもあるだろう。とくに祈雨をしながらも、雨が降らないとき。漢代は、土竜だけが雩礼(うれい)、すなわち雨乞い祭祀の聖物ではない。儀式のあと塵土草芥(ちりあくた)すべてが聖物とみなされるのである。

 伝説によると、唐の玄宗は、術士羅公遠と和尚不空に同時に雨乞いをさせて、法術の力比べをさせた。

力比べのあと、雨が降ると、不空は高らかに言った。「昨晩、私は白檀香木を一本焼いて、小竜を作りました」。

 玄宗が侍臣を庭園に行かせ、雨水を両手のひらにためて匂いをかがせた。するとたしかにかぐわしい檀香が漂うのだった。不空の「焼竜法」によるのはあきらかだった。

 また伝説によると、不空はいとも簡単に祈雨法を駆使する。刺繍の入った座布団を並べ、数寸の長さの木神を手に取ってもてあそぶ。呪文を唱えたあと木神を地面に投げる。するとしばらくすると木神の口から歯が飛び出し、目玉がキョロキョロ動き出す。大雨が降ると降臨できるのである。

 不空の焚竜求雨儀式をもとに情報分析すると、彼が用いた木神は竜王の代りと考えられる。木竜を焼き、投擲するのは、竜王の責任を問い、懲罰を与えるという意味である。一種独特な竜形道具の使用法であり、巫術的色彩が濃い。

 張鷟(ちょうさく)は、徳州平昌の県令だった頃、干ばつが起こり、役所(郡府)の令によって「師婆」や「師僧」に土竜求雨の儀礼をさせた。二十日以上たっても効果が現れなかったので、張鷟はダメ元で人を派遣し、土竜を押し倒させた。そして結果としてその夜、大雨が降った。[師婆や師僧はいわゆるシャーマンのこと。師婆(シポ)という呼称は現代でもあり、たとえばヤオ族の儀礼に登場する。なお彼らは郡府が派遣しているので、公的な存在である]

 土竜を押し倒すことが必要であるかどうかはともかく、土竜に懲罰を与えるのは、求雨(雨乞い)法術の一つである。似た法術は清代まで広く行われていた。フレイザーは言う、「中国人は天庭を襲撃する法術を得意としていた。降雨が必要なとき、彼らは紙や木を使って雨神を象徴する巨大な竜を作った。彼らは隊列をなし、巨竜をかかげてあちこちを練り歩いた。もし雨が降らなかったら、これはニセ竜であったとして、呪語を浴びせられ、叩き壊された」。フレイザーが描写する竜舞は、清代末期にはじまったものである。

 

10

B)蜥蜴と蛇の使用 

 この法術と漢代の蛤蟆(カエル)感応術は相通ずるところがある。『易林』に言う、「蛤蟆(カエル)が群れ集い、天の雨を請う、集まればすぐに雨は降る、願ったとおりになるものだ」。

 カエルが群れ、一斉に鳴くのと降雨は関係がある。これを人は雨乞いの霊物とみなすのである。しかしカエルの見かけと竜では違いがありすぎた。それゆえカエル池を掘り、置五蛤蟆法術は後世まで行われなかった。これに代わって「駆旱求雨」(旱魃を駆逐し雨を求める)のために好まれるようになったのは外形がより近い蜥蜴(トカゲ)と蛇だった。

 

 トカゲは古代において竜子、蛇医と呼ばれた。この二つの異名は、人間とトカゲや竜蛇との関係を理解するためには重要だ。

 唐代の民間伝説によれば竜とトカゲはもともと親戚同士なのだという。段成式『酉陽雑俎』「広知」に言う、唐憲宗のとき、王彦威(おうげんい)は汴州で宴の用意をして李紳(りしん 唐順宗の子)の師季玘(きき)が来るのを待った。宴席でこの旱魃はどうにもしようがないという話題が飛び交っているとき、酔っぱらった季玘が現れて言い放った。

「雨を降らすなんて簡単さ。四匹のトカゲを捕まえてくる。十石の穀物が入る二つの大甕に水を満たしたあと、それぞれ2匹ずつトカゲを放り込む。そして木蓋でぴったりふさぐ。さらに泥を塗りこんで密封する。なかで(トカゲが)大騒ぎするまま放置する。甕の前や後ろに席を並べ、焼香をし、十人以上の十歳以下の男の子を探し出す。男の子たちは手に小さい青竹を持ち、昼夜輪班で一刻も休むことなく大甕を叩き続ける。そうするとかならず雨が降る」。王彦威は法術をいろいろと試してみて、二晩ののち、天井をひっくり返したような大雨が降ってきた。

 『宋史』「「礼志四」によると、宋神宗煕寧十年(1077年)四月、京師汴梁では雨が降らず、長い間旱魃が続いていた朝廷は「蜥蜴(トカゲ)求雨法」を実行した。城内の坊巷で儀式が行われた。まずトカゲを数十匹捕えて水甕の中に入れる。甕の中には雑然と木の葉を入れて置く。選び抜いた十三歳以下、十歳以上の男の子28名は青衣を着て、顔や手足に青い塗料を塗る。28人を二つの班に分け、順繰りに柳の枝で昼夜を問わず水をかけつづける。水をかけると同時に、水甕を囲い、呪語を唱える。

「蜥蜴よ、蜥蜴。雲を興し、霧を吐く。土砂降りの雨を降らせたのだから、汝を解き放とう。家に帰るがいい」

 どちらもトカゲを脅して雨を請い、雨を降らせる。

 ほかにも蜥蜴を神霊にして祭祀をするというのもある。宋祁(そうき)は鄭州で役人の職についたとき、旱災を消除するために「祈りの場所で蜥蜴を祭る」という祭文を書き写した。それゆえ「すぐに十分な大雨が降り、民には豊作がもたらされた」。

 

 蜥蜴求雨法が広く実践されるようになってから長い年月がたち、トカゲに形が似た壁虎(ヤモリ)を、雲を興し、雨を播く神物とみなす人も出てきた。

 『子不語』巻十七「鉄匣壁虎(てっこうへきこ)」に言う。雲南昆明池[滇池]のそばで農民が鉄匣を掘り出した。なかには一寸ばかりのヤモリが入っていた。その動きはのろく、生きているのかどうかもよくわからない。童子がそれに水をかけると、わずかの間にそれは伸び始めて、ウロコがぶるぶる怒りで震え始めると、空へ向かって飛んでいった。すると暴風雨がやってきて、天地が暗くなり、見ると一角の黒蛟竜と二匹の黄竜が空中で戦っていた。雹がパラパラと落ちると、あちこちの田んぼや民家が損傷してしまった。

 この故事はあきらかに、トカゲが雨をもたらすという古い言い伝えから生まれた観念をもとにしている。

 

 古代の巫師は雨を求めるとき、蛇を使った法術を駆使した。蛇に対しては、懲罰を与えることもあれば、逆に敬い、奉ることもあった。

 明代はじめ、松江一帯が大旱に見舞われた。地方官は方士沈雷伯が道術にすぐれていると聞き、部下にお礼の品を持たせて沈氏のもとを訪ねさせた。そして駆旱の術を行うよう依頼した。沈氏は雨を招致することができるとして、態度が傲慢だった。実際彼の道術は特に優れたものとは言えなかったが、祭壇を作り、符を書くほか、湖畔で「蛇やツバメを取ってこれを焼いた」。結果として、霊験があったということはなく、夜中にこそこそ逃げ出したという。蛇やツバメを焼くのは、悪竜を懲罰するという意味合いがあったろう。

 民間では「竜嗜燕肉」という言い伝えがあった。術士は竜の子孫である蛇を懲罰すると同時に、竜の最高の好物であるツバメを懲罰と称して施したのである。

 

 神蛇を供奉する求雨法(雨乞い法)も民間では広く見られた。清代綏邑(すいゆう)、現在の四川達県では、干ばつになるたび、巫師は村人の要請に応じて、髪を振り乱し、奇問を唱えながら深山の奥へ入り、洞窟の中で蛇虫の類を取り集めた。それらを持って帰って供奉し、一心に祈祷した。

 蛇神が現れる(顕霊)と、大雨が降った。村人はお金を出し合って銀の装飾品を作り、蛇を飾った。最後に銅鑼や太鼓を叩きながらもといた場所へ送っていった。

 ある年、岳渓、すなわち現代の四川万県の人が雨を求めて山に入り、蛇を捉えた。蛇には六つの銀飾がついていて、すでに何度か[少なくとも六度]供奉されていたことがわかった。毎回効果があり、雨をもたらした。それゆえこのようにたくさんの報奨を得ていたのである。

 

11

C)投物激竜(物を投げ入れて竜を激怒させる)

 これは竜のいやがるものを深淵に投げ込み、水底にひそむ「怠惰な竜」を激怒させる法術。竜はいきおいよく飛び出し、雲を興し、そこから雨を降らせるだろう。伝説のなかで虎と竜の力は同じくらいだが、互いに譲らない性分なので、争いが起きやすい。

 求雨(雨乞い)をする者は、これを根拠に、虎の頭骨を深淵に投げ込む求雨法を考え出した。ためしに虎の骨を淵に投げて挑発すると、「竜虎大戦」が勃発している。坐ったまま風雨が収まるのを待てば利が得られるという寸法である。[強い者同士を戦わせ、漁師は坐ったままで獲物が得られる。いわゆる漁夫の利]

 唐代の南中地区[南中は現在の雲南省、貴州省大半と四川省南西など]にこれと似た習俗があった。干ばつがやってくるたび、長縄に虎頭骨を結び付け、神竜が隠れている深い淵に投げ込んだ。聞くところによると、虎の骨は水に入ると激しく揺れ動いたという。岸の上から何人かの頑丈そうな男たちが縄を引っ張ったが、逆に引っ張りまわされてしまった。しばらくすると大きな雲気が淵から立ち昇ってきた。それは上空に昇ったかと思うと、雨水が激しく落ちてきた。

 李綽(りしゃく)は『尚書故実』の中でこれに関して評して言う。「竜と虎は(どちらも強く)いい勝負である。枯れ骨となっても激しく動いているだろう」。

 明人盧若騰(ろじゃくとう)は『島居随録』巻下の中で言う。「竜が水の中にもぐっていると、虎の頭が投げ入れられる。すると竜の怒りはすさまじく、(虎の骨を外に出そうと)水を掻い出した(それが雨になった)」。彼(盧氏)が依拠しているのは、唐代の虎骨激竜法である。

 

 激竜求雨の儀礼には犬、ブタ、羊の糞と(カズノコグサ)が欠かせなかった。

 『尚書故実』が引用する張延賞[唐朝の宰相]の説によると、舒州(じょしゅう)すなわち安徽省安慶市の灊山(けんさん)の麓に九つの泉があった。当地の人は、干ばつの災いが起こったなら、「犬一匹を殺して(泉に)投げ込んだ。すると大雨が降り、犬もまた流れ出た」という、

 五代の杜光庭『録異記』巻七に言う。「新康県の西百二十里の漳浦に清らかな潭水が流れていた。この渓流をさかのぼっていくと、源は奥深いところにあり、そこには白竜が棲んでいた。干ばつが発生すると、部下にブタや羊の糞を取りに行かせ、それを潭水に投げ入れさせた。すると大水が出て、洪水までもが発生したほどである。今に至るまで(この法術は)大いに効果がある」。

 盧若騰の『島居随録』は、竜の習性でとくに草が竜を怒らせると説く。「竜は燕の肉を好む。ゆえにツバメを食べる者は水を渡るのを嫌い、雨を祈る者はツバメを用いる。竜は鉄および草、栴檀の葉、五色の糸などをそろえた。また水を鎮める患者は鉄を用い、竜を怒らせるものは草を用いた。

 

12

D)竜の召役

 この法術は術士の個人の法力に依拠している。『晋書』「仏図澄伝」に言う、十六国時代、名僧仏図澄は「勅竜取水」を行なったことがあると。ある年、後趙の都城、襄国(河北省邢台)の護城河の水源が枯渇した。仏図澄と弟子たちは都城北西五里の源泉近くにやってきた。香を焚き、座し、数百の呪文を唱えた。施術をはじめて三日、泉から水があふれだしてきた。すると五、六寸の小竜が水といっしょに流れ出したのである。しばらくすると水はとめどなく出てきて、護城河は満ち足りていた。

 唐玄宗のとき、洛陽和尚無畏三蔵[善無畏のこと]は召竜致雨術を得意としていた。李徳裕『次柳氏旧聞』によると、ある年、干ばつがあり、無畏は唐玄宗や高力士からのたっての頼みを断り切れなかった、彼は小刀を取り出すと、水鉢をかき回しはじめた。呪文を唱えながらかきまぜていると、親指の太さほどの赤い竜が鉢から白い煙とともに姿を現した。それは鉢から上昇すると、堂からも広がり、ついには全城を覆うほどの大きさになった。矯枉過正(きょうおうかしょう。是正しようとして行き過ぎてしまうこと)という結果になり、暴風雨によって道路や樹木が破損してしまった。

 興味深いことに、『尚書故実』によると、李徳裕の政敵牛僧孺もまた似た故事を述べているという。牛僧孺が嚢州に赴任したとき、あらゆる干ばつ対策がうまくいかず、「竜を飼う者(竜者)」と呼ばれる処士に求雨の法術をおこなってもらうよりほかなかった。

 処士は言う。

「江漢の間[長江と漢水の間]に竜はおりませぬ。ただあるところの湖沼に黒竜が棲んでおります。それがひとたび動き出すと、手が付けられません。漢水があふれると、数えきれない民が命を落としてしまいます」

 

 一部の僧人は湖泊の竜を遠くからでもコントロールできると称している。それら(竜)を驚かせて雨を降らせるという。

五代の時代、蜀国梁州が大旱に見舞われたとき、外来の和尚である子朗は雨をもたらすことができると称した。子朗は大甕の中に坐り、頭のてっぺんまで浸るよう水を入れた。三日後、十分に雨が降った。のちにある人が興州で子朗に出会った。そして上述の求雨に関することを聞くと、子朗は言った。

「あれは閉気の術だ。一か月で修練が完成する。この法術は湖潭(湖の深み)に建造する楼台で竜と相結びつくものだ。人が(閉気によって)力を出すと、竜は驚いて雨を降らすことになる。だがこのやりかたでは、竜によってケガをすることもある。甕の中で術をかけるのは、そうならないためのいわば保険である」

 

 道教の経典中少なからぬ経典が祈雨経であり、竜王の召喚が主な内容となっている。たとえば『太上元始天尊説大雨竜王経』では、六十種以上の竜王を召喚する。そのなかでも多くの竜王の名称の意味が重なっている。

 たとえば大雨竜王、降雨竜王、雨水竜王がそうだ。あるいは有徳竜王、威徳竜王、道徳竜王もよく似る。また無上竜王、太上竜王もそうだ。天降竜王、地降竜王(地からどう降りるのかわからないが)も。

 雨を求める者にとって、竜王の名称が増えれば増えるほど、竜を呼ぶ方法も増えるということである。

 『竜王経』が説く雨を求める方法は、伝統的な召竜致雨術と密接に関連している。しかし明確に異なるのは、『竜王経』が雨を求める者の心の修練と善行を強調している点である。竜王の恵みを願うことに重きを置いているものの、雨を求める者はすでに竜王を使う方法を放棄してしまっている。ちなみに想像する限り、この種の権力を与えることができる最高の神仙は元始天尊である。