古代中国呪術大全 宮本神酒男訳

第2章 
02 雨乞い(下)罪人と旱魃を火あぶりにする 

 

(1)

 古代の雨乞い呪術の系統の二番目は、日照りの災難に至らしめた罪人と妖魔に火刑と日照りざらしに処すというもの。この呪術には四種類の形式がある。それは、①巫師を焼く、あるいは日にさらす。②統治者が自らを焼き、自らをさらす。③山林を焼く。④各種の旱魃を焼く。

 

①巫を焚き、巫を曝す(焚巫曝巫) 

 巫師を焼く雨乞いの呪法は商代には「(こう)」と呼ばれた。卜辞には呪法に関する記述が非常に多かった。たとえば「〇(女扁に才)を(こう)する。よって雨あり」「(こう)と聞く。よって雨なのか」などだ。卜辞は状況から焼かれた者の名を挙げることはないが、(こう)呪法を実施したあと、雨が降ったかどうかが問われている。呪術がさかんだった商代において、日照りの災難と関係があると認定された巫女が火に焼かれる状況から脱するのは難しかった。〇という巫女は何度か占いによって罪を問われていたが、焼かれずにすんでいた。しかしどうやらこれは特別なことであったようだ。

 

 周代は商代の焚巫の俗を継承しているが、変化している部分もある。魯公二十一年(639年)夏、公は干ばつの災難から民を救うため「焚巫(ふんふおう)」を挙行しようとした。しかし文仲(ぞうぶんちゅう)はそれをやめさせようとした。氏がやめさせようとしたとき、次のように言った。「(巫が)もし日照りを起こすことができるなら、火あぶりにするときはなはだしく燃えるだろう」といった。当時の人の多くはが干ばつの災難を起こした主犯のひとりとみなしていた。

戦国初期、魯穆公はを、巫を日に曝す方法で雨乞いをすることを考えた。儀礼の専門家である県子は反対を表明し、穆公はその案を取り消し、最後には「市(しし)」の方法が採用された。この二つのことは統治者の明智を示していた。当時は特殊なことなので記述されたのである。巫を火あぶりにするのは、当時特別なことではなかった。

ここの巫は巫女を指し、は障害のある男巫を指した。最初は長い間雨が降らず日照りがつづけば二人とも火あぶりにされる必要があった。のちに火刑(火あぶり)に近い日曝しの刑に処せられるようになった。言い換えるなら、巫を曝すのは、巫を火あぶりにすることのバリエーションである。

鄭玄は「」という語がとくに天を仰ぎ見ることを指し、障害を持つ人々がかがみこむことを指すのではないと認識している。野曝しにされたは上天の心に憐れみが生じ、雨が降ってきて彼らを救ってくれることを願っている。曝巫には「天が憐れんで雨を降らす」という意味がある。こういった解釈には秦代以前の焚曝呪術のもとの意味とはなかなか合致しない。

 

(2)①焚巫曝巫のつづき 

 秦代以前の「焚巫曝巫(巫を焚き巫を曝す)」と舞雩(ぶう)は、それぞれ独立した求雨法だった[舞雩とは、求雨の際の楽舞を伴う祭祀のこと]。商代の舞自舞、という二種の儀式とは関連がなかった。周代の焚巫曝巫と雩祭(うさい)の礼は自ら成立した系統だった。漢代に至って、董仲舒は「暴巫聚尫」を、儀式の前に、祭壇、設竜、舞踏などの準備を整え、大旱に至る前にまず巫師を曝す必要があった。求雨の効果がなければ、彼らを罰しなければならなかった。曝巫の固定は舞雩の前奏だったが、それは董仲舒の革新的なところでもあった。

 

 後漢末期、孫策は渡江して許を攻める準備をしていた。道士于吉にも軍に従って出征するよう命じた。時に大旱(ひでり)があり、孫策は将兵たちに船を加速するよう促したが、官兵たちは于吉のところに集まり、道術についての話に耳を傾けていた。

 孫策は「神を装い、鬼をもてあそび、軍の心を破壊している」として于吉を縛り上げて、白日のもとに曝した。そして彼に請雨の法術をおこなうよう命じた。そしてもし正午に雨が得られるなら、罪が許されるが、失敗すれば斬首であると告げた。

 しばらくすると雲気が蒸留し、微細な雲が集まり、正午頃、大雨が降ってきた。大地は水で満たされた。于吉を崇拝する将士たちは、これで于大師が赦免されると非常に喜んだ。しかし孫策は約束を守らず、于吉を処刑した。この伝説は後漢末、曝巫請雨術がさかんであったことを示している。この伝説を広めたのは于吉の弟子や信徒であったろうけど。

 

 焚曝巫師には、妖巫の懲罰と妖術の破解の二重の意味が含まれていた。漢代以降、人々はこの意味においてこれらの求雨法を用いてきた。

五代の時期、「降竜大師」と称せられた五台山和尚誠恵は風を呼び、雨を招くことができると豪語していた。後唐皇帝李存勗(りそんきょく)は彼を高く評価し、后妃や皇弟、皇子らを連れて会いに行くほどだった。

 同光三年(925年)、京師(都)が大旱(ひでり)に見舞われたので、李存勗は祈雨を請願させるために、使者を洛陽の誠恵のもとへやった。民衆は、高僧が法術をおこなうことを知っていた。空を見上げるまでもなく、雲気は早朝から出現した。しかし数十日たっても、雨粒ひとつ落ちてこなかった。

ある人が誠恵に戒めの言葉を伝えた。「大師が祈雨しても効果がないとは。皇帝は大師を焼き殺さねばならないだろう」。誠恵は驚いて逃げ出し、ほうほうの体でお寺に戻ったあと、病気になり、恥ずかしさと恐れも加わって、あっという間に死んでしまった。誠恵ははじめとらえどころのない話を聞いたと思ったが、その通りだと信じた。祈雨しても効果が得られない場合、その人が火あぶりの刑に処せられるのは、当時の慣例だったからである。

 

 古代の人は、ほかの手段で妖巫に懲罰を与えても、天を感動させれば雨水を得ることができると信じていた。唐武宗会昌年間、晋陽の県令狄惟謙は、祈雨しても験(しるし)のなかった巫女郭某を「晋祠」の神像の前に座らせ、二十回鞭打ったあと、河に投げこんで死なせた。じつは郭某は皇帝から「天師」の称号を賜っていたので、狄惟謙の行為は越権だった。幸いなことに、巫女に懲罰を与えたあと、大雨が降り、大旱はなくなった。晋陽の民衆から州官、皇帝はもちろんのこと、狄惟謙自身も大雨は巫女に懲罰を与えた結果だと思い、彼は罰を受けるどころか、大きな賞を受けたのである。

 

(3)

②自ら焚き、自ら曝す(自焚自曝) 

 伝説の商(殷)の湯王は夏朝を転覆したあと、七年の大旱に遭い、最後には「自焚求雨(自らを焚いて雨乞い)」をすることにした。湯は頭髪と指の爪を切り、沐浴して衣を着替え、飾りを一新すると、うず高く積まれた柴の上に坐り、待ってから自らを焚いた。臣下の者がたいまつで着火すると、突然大雨が降りだし、大旱対策の態勢は解除された。

 湯は自焚儀式で一篇の祷詞(祈りの言葉)を詠んでいる。『論語』「堯日」や『墨子』「兼愛下」にこの祷詞の断片が残っている。その中に名言「万方有罪、即当朕身。朕身有罪、無及万方」(すべての者に罪があるとき、それは私の罪である。私に罪があるとき、それは誰にも及ばない)が含まれる。祷詞が明らかにしているように、商の湯王が罪を有したまま自焚するのは、自裁的といえるだろう。巫師を燃やす「(こう)」(燃木祭天)もそれほど異なっているわけではない。

 『呂氏春秋』「順民篇」に言う、商湯王が自焚すると決めたとき、「民は意外にもおおいに喜んだ」。商の王族は、大旱が到来したことと、君主の罪行は関係があると信じていた。商の湯王が自らを焚き、雨を請うのは理にかなったことだった。道義的に今さら身を引くことはできなかった。彼らを喜ばせたのは、別の人が主張したのでも、強く誰かが迫ったのでもなく、自ら刑を受けたいと願ったことである。そして大雨を切望する王族の彼らは多くの面倒くさいことをやらずにすんだのである。

 

 後世の国君に言わせれば、商の湯王が自らを焚いて雨乞いをしたのは、たいへん勇敢な行為ではあるが、とうてい及ぶものではない。国君は人々に心から愛され、信任されることはますます少なくなったが、権力はますます大きくなり、繁栄の望みはますます高くなった。しかし国君は万民の罪のために生命を捨てることなどできなくなった。陽光のもとに自らを曝す法式はもっとも頻繁に行われたが、結局は外面を整えたにすぎなかった。

 春秋時代のある年、斉国は大旱に見舞われた。斉景公は卜官の「高山大川(の鬼神)がもたらした災禍」という報告を聞いたあと、増税を始め、その収入を用いて霊山と河神の祭祀をおこなった。

 妟嬰(あんえい)[小柄の名宰相]は言う、霊山は石を身とし、草木を髪とする。河神は水を国とし、魚や鼈(すっぽん)を民とする。干ばつがつづき、雨が降らない。霊山は身がただれ、髪は焦げ、河神はその国家が滅亡しようとしている。彼らは旱災をもたらし、自ら不利な状況を作り出しているのか。山川を祭っても無意味だ。国君は宮廷を出て、田野に野宿し、数日間陽光のもとに曝されるといい。霊山、河伯とともに憂い、雨水を得る僥倖を願うといい。

 斉景公はこの諫めの言葉を聞いて、野外で三日過ごしたところ、突然大雨が降った。曝巫が焚巫のバリエーションであるように、自曝は自焚のバリエーションだった。妟嬰は斉景公に罪があると直言することはできなかった。ゆえに曝される懲罰を受ける必要があった。自ら曝すことを、「霊山や河伯とともに憂える」行為と解釈すればよかったのである。

 

(4)②自焚自曝のつづき

 自焚して雨乞いをする方法は後世の国君に継承されることはなかった。しかし一部の書物バカの官吏に継承された。後漢の時代、二人の官吏が先人を模倣して自焚し、雨乞いをする義挙をやってのけた。

一人は戴封(後漢の大臣)である。彼は西華県の県令を務めていたとき、雨乞いをしたが効果がなかったので、「薪を積み、その上に坐して自焚を試みた。火が起きると、暴風雨がやってきた。みなが感服した」。

 もう一人は諒輔(広漢新都、現在の成都市の官吏)である。彼は郡の小役人にすぎなかった。ある年干ばつが起こり、郡の太守が祈祷したが、効果がなかった。そこで諒輔は庭で自焚することに決めた。とくに注目すべきは、自焚する前に激越な口調で意見を述べていることである。

「私諒輔は股肱の臣なる者。諫言を聞いてもらえなければ、忠を尽くすことができない。賢者を推薦し、悪を駆逐する。陰陽を調和し、天意の通りにする。しかし天地の気が隔絶すれば、万物は枯れ、干からびる。百姓(庶民)は憂い、煩わしいと感じている。そうした罪はすべて諒輔の身にかかっている。近日中に太守は着ている衣を素朴なものに改め、自らを責め、自らを罰するだろう。民のために祈り、誠心誠意でもってしても、いい答えは得られない。そこでいま、私諒輔は天に向かって祈り、正午までに雨が降らなければ、自らを焚き、罪をあがないたい」

 そう言い終わると、周囲に柴草をうず高く積み、手に持ったたいまつで火を着け、自らを焚いた。正午前に暗い雲が空に垂れこめ、あっという間に大雨が降ってきた。郡すべてで干ばつは解消された。戴封は自焚雨乞い以外には称賛されるべきことは何もしなかった。諒輔が名を残したのはまさにこの自焚によることが大きかった。郡の小官吏が商湯王の口ぶりをまねて、天地が不通であることを説いたが、庶民の受難が「陰陽の調和と天意の通りにすること」がなかったことについて言わなかった。これでは狂言を乱発したと言われても仕方あるまい。清人兪正燮(ゆしょうしょう)の考えでは、当時の太守はこの点を根拠に諒輔を誅殺したと見ている。商湯王は自焚しても悲壮さを失わなかったが、諒輔はかえって人に疑心を与えてしまった。それは行為の背後に功名心が隠されていたからかもしれない。

 

(5)③柴焚山(柴を燃やし山を焚く) 

 商代の雨乞い祭法には「取法」と「尞法」があった。この二つの祭法はどちらも「焼柴木」(柴を燃やすこと)が必要とされた。尞法は牲(祭祀用家畜)を用い、取法は用いなかった。卜辞に「取河、有従雨(河の取祭を行う、それによる雨はあるのか)」「取岳、雨(岳の取祭を行う、雨がもたらされるか)」「其れ尞于岳、大牢、小雨(岳の尞祭をする、大牢、すなわち太牢宴か、小雨か」などは例となるだろう。

 

 取、尞、これらの祭法は周人に継承された。『周礼』「大宗伯」に言う、「槱(ゆう)、燎によって祀るのは、司命、風師、雨師である」。槱、燎は卜辞の取、尞に粗糖する。『説文解字』によると、「槱とは、積み木の燎のことである」。また「尞とは、祭天の柴(火)のことである」。柴木の燔焼(はんしょう)はこの二つの祭法に共通している。

 

 董仲舒『春秋繁露』「求雨」は言及する。「三歳の雄鶏と三歳の(おす)豚を取り、四通神の部屋の中で燃やす」「鼓の音を聞く。(おす)豚の尾を焼く」「山淵を開く。薪を積み、これを燃やす」など。どれも槱燎法を踏襲して用いたものだ。開陰閉陽の原理からすると、雨乞いのときに火をともすことはできない。董仲舒が無視できないのは、家畜を燃やし、柴を燃やすことと、開陰閉陽とが矛盾していることである。ただ彼は依然としてこれをおこなうよう求めている。つまり変更するにはあまりに古くから礼として行われてきたのである。

 

 なぜ雨乞いのために柴に火をつけなければならないのだろうか。董仲舒の「山淵を開き、薪を積み、これを燃やす」という言葉に答えが示されている。「山淵を開く」とは、山林を切り開くという意味である。「開山」のあと、雨乞いのために「薪を積み、燃やす」その薪は、山上で切った樹木である。推測するに、積んだ薪を燃やすのには、山神を罰するという意味が含まれるのではなかろうか。

 秦代以前の人は、長く雨が降らないのは、山川の神が怪をなしているからだと考えていた。殷人は河岳を「舞い」、河岳を「取った」。斉人は、大旱は高山、広水の祟りと考えた。どれもこの観念の反映である。

 『左伝』「昭公十六年」の記載によれば、この年鄭国大旱、執政官の子産は屠撃(とげき)、祝款(しゅくかん)、竪柎(じゅふ)の三人を祭祀の担当として桑山へ派遣した。しかし屠撃らは桑山で別の方式を取った。その木を「斬って」、最後に雨水を求めたのである。子産はこのことから三人の禄邑(臣下が君主からもらった田畑)を剥奪した。

 実際、屠撃らが山林を伐採したのは、山神を罰し、雨を降らせるよう迫ったのだった。典型的な雨乞い巫術である。この事例と董仲舒の「山淵を開く、薪を積み、これを燃やす」のと一脈通じるところがある。

 唐代、一部の地域では焼山雨乞いの習俗があった。『酉陽雑俎』「諾皐(だくこう)記上」に言う、「太原郡東に崖山がある。天旱。土人つねにこの山を焼いて雨乞いをする。俗に伝えるに、崖山神は河伯女(むすめ)を娶った。ゆえに河伯は火を見るとこれを救おうと雨を降らせる」。

 商周の時代、取(槱)、尞(燎)によって雨乞いするのは、もともと山川の神に懲罰を与えるという意味だった。法術の中には犠牲の家畜を用いてそれらを結合するものもあった。そうした宗教観念が発展して巫術と祝融を一体化させた。

 

 梁朝以前は、国家雩礼のなかに燔柴の儀を残していた。梁武帝天監七年(508年)、状況は一変した。あるとき梁武帝は群臣に問うた。「種類ごとに陰を求め、陽を求めるのは理にかなっている。陰によって陽を求め、陽によって陰を求める。いま雨乞い儀式で点火して柴を焚く。なぜ火をもって水を祈るのか。人に疑問を抱かせるものだ」。

経史笥[史書の入った箱のことだが、転じて博識な人を指す]と称される許懋(きょぼう)が回答した。「雩祭燔柴は、その元となる文がありません。この種の儀法が採用されるのは、先儒(古代儒者)が深く考えないで作ったものが多いと存じます」。そして証拠として『詩経』「雲漢」を出し、祭地礼儀に使う祭品ばかりが記され、燔柴の儀に関するものは出てこないと述べた。

 最後に建議を提出した。「柴を用いるのは停止してください。その牲牢(祭祀用の牛、羊、豚などの家畜)はことごとく坎瘞(かんえい)から出たものです[坎瘞とは祭地礼のとき家畜や玉帛などを地下に埋める儀式のこと]。周宣の『雲漢』にも述べられています」。

 梁武帝は許懋の意見を採用し、雩祭の燔柴の儀を取りやめた。前述のように、舞は雩の別称であり、雩礼は設竜(竜の塑像などを作ること)を主としていた。焚曝巫師とともに、燔柴燔牲をおこなう雨乞い法は、秦代以前は二つの系統に分かれていた。だから許懋の話には道理があった。しかし許懋は燔柴の儀の歴史的深淵を否定していたので、かえって確かさが欠けていた。開山燔柴は、はじめ雩祭と一体であったかどうかはさだかでないが、古い雨乞い法術であったことは間違いない。

 

(6)④焚撃旱魃(旱魃を焚いて攻撃する) 

 漢代以後、旱魃の伝説は秦代以前の「女魃」神話の基礎の上に変化し、発展してきたものである。人によっては、魃を一種の怪獣[文字通り怪異なる獣]と理解する。旧題東方朔撰『神異経』に書く、「南方に人あり。長さ三二尺、裸で頭の上に目がある。風のごとく走り、名を魃という。これを見る国は大旱で、赤地千里(土地が荒涼としているさま)である。いわく旱母、いわく貉(かく)。これにたまたま遭った者は、それを(こん)すなわち便所に投げ込めば死んでしまう。すると旱災は消えてなくなる」。

 これが言っているのは、旱魃という怪異なる獸を捕まえて茅厠(便所)に投げ込めば、旱(ひでり)を除くことができる、ということだ。史書にも「晋陽、長さ三尺、面頂に各二目の死んだ魃を得る」「長安、女魃を得る。長尺二寸あり」といった怪誕(奇怪な話)の記載がたくさんある。これらはどれも好事の徒が魃を怪異なる獣とする荒唐無稽な伝説を集めたものである。

 宋人周密は記す、金朝貞祐初年、洛陽に大旱あり。伝えるところによると、登封の吉成村(鄭州市)で旱魃が祟りをなした。老人は言う、旱魃が来るときはかならず火の光があると。一部の青年たちが高いところに登って眺めていると、火光が一団となって農家に入っていくのが見えた。そこでみなで杖を持って叩くと、火星(火の星)が散り散りになった。また怪物が駱駝のような叫び声を発した。

 清代、ある村人は旱魃を見て怪異なる獣とみなした。「己卯の年(光緒七年、つまり1879年)の七月、光福山人[光福山は帰有光の詩作]はあちこちで喧伝して旱魃を有名にした。星と月が交わるたびに、山峰の頂に何かが出没した。木の間にべたりと座り、人に似て人でなく、鬼に似て鬼でなく、ぼさぼさの髪とヒゲが目立ち、直視できず、体全体を捉えることができず、鉛土のように輝き、頭上の冠はひっくり返った皿のようで、いつも白霧に包まれ、畏れ知らずといった風だ。山人はみな同じようなことを言う。これは我が物だという。一、二か月雨露なし。厳格に処す(魃を焚く)」。

 この怪異なる獣は旱魃である。清人はこれを「獸魃」と呼ぶ。

 『子不語』巻十八「旱魃」は、その姿は猿( なお)のようで、髪を振り乱し、一本足だと述べる。それを捕えて、僵尸(キョンシー)に対するのと同様に焼き殺す。すると旱(ひでり)が駆逐され、雨がもたらされる。

 

 また一部の人は、旱魃は女性が生んだ妖怪だという。宋人朱彧(しゅいく)は『萍(へい)州可談』に言う、「世に伝わるに、婦人は鬼のようなものを産むという。生かすことができず、これを殺すと飛び去って行く。夜また戻ってきて乳を吸う。母親は憔悴しきってしまう。俗にこれを旱魃と呼ぶ」。当時の人はこの魃に男女の性別があり、同じではない。「女魃はその家の物を盗んで出て、男魃は外で物を盗んで帰る」。この旱魃に対し、妖怪を産んだと認定された婦女は厳しい罰を受けることになる。

十六国の時期、北燕国でこの類の事件が発生した。太平十五年(423年)春から五月にかけて干ばつがつづいた。ある人が右部官王荀の妻が妖なるものを産んだが、どこかへ疾走したとして訴えた。朝廷は人を派遣して王の妻を逮捕し、彼女を社壇の上に置いて曝(陽光のもとにさらすこと)させた。しばらくすると雨があまねく降った。

 この悪習は清代までつづいた。当時、中原が大旱に見舞われると、だれかがどこかの家の妻が旱魃を産んだらしいというデマを流す。すると多くの人が集まってきてこの女性を引っ張り出す。そして彼女にいっせいに水を浴びせる。それは「旱魃への水かけ」と呼ばれる。デマを流すのは多く不良の輩であったが、彼らは仇敵を陥れる機会を待っていた。これに乗じて私憤を晴らしたのである。

 

(7)僵尸(キョンシー) 

明清の時代、僵尸を旱魃とする考え方が甚だしく流行した。ここから打旱骨術、焚旱魃術などの雨乞い呪術が派生したのである。

死者の骸骨と大旱に関連した観念の起源はかなり古い。『春秋繁露』「求雨」は、雨乞いのとき「死者の骨を取って埋める」必要があると強調している。

 後漢の河南の尹周暢(いしゅうちょう)は干ばつの状況を改善するために、洛陽城周辺の一万体以上の客死者の骨をきちんと埋葬した。これにより雨を得た。

 東魏の孝静帝天平二年(535年)三月、「干ばつのため京邑および諸州郡県に骸骨を埋葬するよう詔(みことのり)を出した」。このことからもわかるように、当時の人は骨の収集を旱災が収まるための重要な要素と見ていた。とはいえそのとき死者の骸骨と旱魃を同一視していたわけではない。おそらく明代からもう少し前の頃、民間では骨が旱魃になったと口々に言い伝えられるようになっていた。

 明人楊循吉『蓬軒別記』に言う、「河南山東の愚民は大干ばつに見舞われると、新しく葬られた死体の骸骨が旱魃になったとみなされた。群衆は骨を発掘すると、ばらばらで、腐乱した遺体に祈りをささげた。これを「打旱骨樁」という。長い間行われてきたが、しばしば偽りによって報復が果たされることがあった。孝子慈孫(祖先を大切にする人々)はどうすることもできない。干ばつを除くという名目で愚民が互い煽りあい、蟻のように群れるのを禁止することはできない」。

 弘治四年(1491年)ある人が俗を禁じるよう奏文を上程した。宮廷はすぐに「打旱骨樁」を企てた者や首謀者に厳罰を下した。一般の参加者やその周辺にも罰を与えた。これにより墓を暴いて骨に損傷を加える習俗はしだいになくなっていった。

 

 習俗というものができあがってしまうと、行政命令だけに頼っても完全に禁止するのは困難だった。清代に到ると、雨乞いをする者は古い墓を見つけて骨に攻撃を加えるだけでは満足できなくなった。彼らは激しい火で死体の骨を燃やすようになった。上述の袁枚の小説に書かれるように、旱魃は「首吊り死した死体が迷い出た者」であり、「鬼魃」と呼ばれ、「捕獲してこれを燃やせば、雨がもたらされる」のである。

 『閲微草堂筆記』巻七に言う、「近世に旱魃というのはみな僵尸(キョンシー)のことである。掘ってこれを焚く、しばしば雨がもたらされる」。僵尸を焚いて雨乞いをする方法は清代に流行したようである。

 

 古代の雨乞い呪術には二つの体系があったが、ほかにも分類しがたいもの、出所のわからない「雑法」がたくさんあった。上述の張皮雀の鏡致雨術、范希越の天蓬印致雨術などもこの類である。

 陶宗儀『輟耕録』巻四で紹介されているように、元代のモンゴル術士の間には特殊な禱雨法があった。漢人が雨乞いのために用いる印符、令牌、旗剣、訣(きけつ)などを用いず、「浄水を一盆取り、小石を数個これに浸す」。清水や小石を準備したあと、呪術師(術士)は秘密の呪文を声に出さないで唱え、繰り返し石を洗い、撫でる。しばらくすると、雨が降る。

呪術師は鮓答(さくとう)と称するものを用いる[はなれずしに近い]。これはじつは動物の内臓にできた結石である。なかでも犬、牛、馬の結石が有用だという。類似した雨乞い呪術のなかでも、呪術原理を根拠としているが、明瞭とは言い難い。民俗への影響は限られている。一つ一つ探し求めて列挙するまでもないだろう。