古代中国呪術大全 宮本神酒男訳
第2章
3 相対的に貧弱な止雨呪術
(1)
複雑で多様性のある雨乞い呪術と比べると、古代の止雨呪術は単調である。呪術師が干害を追い払って雨を求めることに精力をそそぐが、それに対して暴雨や洪水を防ぐのは趣のないことだ。古代の水害は干害と比べると少なかったが、もたらされる危害は同様に大きかった。呪術師(方士)は災害を防ぐことに関してはそれほど積極的ではなかった。それは呪術自体に限界があるということでもあった。
雨乞いは「無」を「有」に変えることであり、成功する確率は高かった。荀子が言うように、雩(う)祭でもってしても、同様になかなか雨は降らないが、もし呪術を施して雨が降ったなら、彼は恥じることなく堂々と呪術に効験があったと宣言するだろう。雨乞い儀式は一般的に長期にわたっておこなわれる。長くなれば呪術と降雨がめぐりあう可能性がより高まることになる。呪術は成功したことになり、さらに多くの信仰者を得ることになるだろう。そして呪術師はいっそう研鑽を重ねていき、発展させていくのである。
それと比較して、「有」から「無」に変える止雨は逆に困難につきあたる。暴雨を止めることはなかなかできず、止雨者はその術が効果あることを示さなければならないが、雨乞いのように三日や五日で結果を出すのはむつかしく、しかも暴雨によってすでに町は水没しているかもしれない。雨を止めるだけならうまくいくかもしれないが、暴風雨によって起こった洪水に対してはなすすべがない。巫術はこのように苦境に陥りやすい。避難するだけなら簡単なことだといって、力のすべてをこの終身の役目に投じたいとは思わないだろう。そのわりに成功を収めることは少ないのである。
秦代以前は止雨に関しては「攻大水」儀式しかなかった。その内容は簡単なものだった。『春秋』「荘公二十五年」には「秋、大水、鼓、社や門にて牲(いけにえ)を用いる」と記されている。大水に対してできることは犠牲を用いて社神、門神を祀り、太鼓を叩くことしかできなかった。
周代には社神を祀った。これは共工の子句竜だった。「九土を平定した」ので社神に祭り上げられたのである。洪水が発生したあと句竜を祀ったところ、神威を示し、水患を平定したのである。門神を祀ったのは、大水を門のところで阻みたかったからである。太鼓叩きは威嚇手段であり、攻撃手段だった。『周礼』「詛祝」には「攻める」方法が書かれている。太鼓を叩く間に詛祝することも可能である。そばにいる神職の人は攻辞を読み上げる。
注意すべきことは、太鼓を叩いて攻める直接対象は大水でなく、社神である。『左伝』によると、大水が発生したときに「社で太鼓を叩く」のは慣例ではない。日食や月食のときのみ太鼓を叩くことができる。すなわち大水が発生したとき社で太鼓を叩くのは、日月食を救うときの方法を借りたにすぎない。救日礼の太鼓叩きは、基本的に社神に対するものであり、洪水を駆除する太鼓叩き法は、同様の性質を持って自ら解決するのである。
太鼓を叩いて社を攻めるのと、社で生贄を用いるのは、矛盾しているようにも見える。実際は、威嚇とうまい誘いである。目的は同じであり、衝突することはない。巫術と宗教が混合したあと、神霊に対する恩威と施した事例はしばしば区別しがたい。『穀梁伝』評論の魯荘公二十五年に「鼓、社で、門で犠牲を用いる」。すでに太鼓を叩き、犠牲を用いる必要はない。これは祭祀と呪術が結合して導いた誤った説である。་
(2)
古代中国で唯一系統的に止雨法術を論じたのは董仲舒だった。董氏は止雨の難題を回避したりはしなかった。というのも、彼はそれを難題とはみなさなかったからである。彼は陰陽が感応する原理をのみ見ていたので、止雨も求雨も同様にシンプルに考えた。「求雨、諸陽を閉にし、諸陰を縦(開)にする。止雨はその逆である」。すなわち求雨と逆のことをする。陰気を閉塞し、陽気を助長する。これで止雨は成功する。
『春秋繁露』「止雨」の中で董氏は以下のように「廃陰起陽」(陰を廃し、陽を起こす)を羅列し、止雨法を示す。
各県城は「土日(つちのひ)」をもって、すなわち天干中の戊己(ぼ、き、あるいは、つちのえ、つちのと)日、あるいは地支中の辰戌丑末(しん、じゅつ、ちゅう、び、あるいは、たつ、いぬ、うし、ひつじ)日、水路を塞ぎ、道路を隔絶し、井戸に蓋をする。
婦女の外出を禁止する。さらに彼女らが市場に入るのを許さない。
各県、郷、里はそれぞれも社壇の周囲を清掃する。三名以上の主祭者(当地の行政長官)と一名の祝官を推挙する。彼らは三日間斎戒し、季節に合った時衣(春の青衣、夏の紅衣など)を着て、一頭のブタ、適量の黍、塩、酒を捧げて社神を祀る。太鼓を叩き、三日後、祝官を通して祈り告げる。祝官はふたたび礼拝したあと、跪いて祈辞をよむ。そしてまた礼拝したあと身を起こす。祈辞は以下の通り。
「嗟(ジェ)! 天生五穀、人を養う。今、淫雨多く、五穀和ならず。肥えた動物と清酒を捧げ、社霊に請願する。幸いにして雨を止め、民の苦しみを除き、陰に陽を滅びさせない。陰が陽を滅ぼせば、天は不順になる。天の意はつねに人を利することにある。人は雨が止まることを願い、社に敢えてそれを告げる」。
祝言が終わると、止雨に参加した者は歌うことも、踊ることもない。ただ太鼓を叩き終わることはなく、疲労困憊してようやくやむ。
(3)
董仲舒は指摘する。「おおよそ雨がやむところでは、女子は隠れていたい、男子は調和して楽しみたいもの。陽を開き、陰を閉じる。水を閉じて火を開く。赤い糸で社(土地神の場所)を十周巡り、朱色の衣の頭巾を被る」。
朱糸(赤い糸)、朱衣と赤い頭巾はどれも陽気を代表している。陽で陰を抑えるのを助けることができる。これによって止雨は確実に陰陽感応原理と符合する。しかしある一点に言及せざるをえない。
董仲舒は五行学説をもとに止雨法を根拠に「各衣を各時節に合わせる」、すなわち雨を止める者は春、夏、季夏、秋、冬に応じて青、赤、黄、白、黒の衣を着なければならない。
ここで一律に要求されるのは、「朱の衣の赤ずきんを被る」である。おそらく董仲舒は冬に到り止雨のために黒の服を着るのは、「廃陰起陽」の原則に違反していると考えたのだろう。黒色は水に属し、陰に属す。黒衣を着て止雨することは、水でもって雨を止めるということである。それは陰気を助長するということであり、雨水をさらに多くするということである。それは「朱の衣の赤ずきんを被る」ことによって隙間を繕うことである。
戦国時代以降の陰陽五行の図式は削足適履(足を削って履をはくように無理に作ったかのような)の宇宙図である。陰陽についてもっぱら話すとき、あるいは五行についてもっぱら話すとき、矛盾はあきらかでないが、いったん陰陽と五行をこねあわせると、事物の解釈はいたるところで矛盾だらけになる。止雨に関して(雨乞いも含まれるだろう)何色の服を着るかについて矛盾があっても、その方法論はもとより欠陥があったのである。この矛盾は誰にも解決できない。
「止雨」には、漢武帝二十一年(元狩三年、前120年)董仲舒が江都相の身分で江都内史や中尉に書いた文書が収録されている。そのなかには「止雨の礼、廃陰起陽」と明確に書かれ、「女子は市に到ることができない」「井、これに蓋をする。(気を)漏らすなかれ」とも書かれ、太鼓を叩くこと、牲を用いること、祝祷などについて述べられている。
この文書の補足の文の内容はつぎのとおり。
江都国内十七県、八十郷および国都内千石以下の官員(役人)で、夫人が官府内に住む者は、かならず彼女らを家に帰さなければならない。
文書が届いた日、県、郷、里の各級の首領はかならず当地の男子を率いて社壇のもとへ行き、会食を三日間開かなければならない。もし三日間ずっと晴れたなら、晴天が終わったときに会食は結束する。
さらに注目すべきは、董仲舒の求雨(雨乞い)法は官吏の妻に官府に住むことを要求し、「官吏と庶民の夫婦みなふたりで住むこと」を要求する。同時に男は一緒に飲食することが禁止される。ここで述べられる止雨法と上述の求雨(雨乞い)法は相反している。それは「女子は隠れたがり、夫は調和を欲し、楽しみたがる」という方針が具体化されたのである。
(4)
董仲舒の止雨法は呪術と宗教のごった煮みたいなものだ。太鼓をいつまでも打ち鳴らす、社を赤い糸でぐるぐる巻きにする、水溝をふさぐ、道路を断つ、井戸に蓋をするといったことはみな典型的な巫術である。またひざまずいて祈り、家畜の犠牲を献じるなどの祭祀をおこなう。
止雨法の性質について、董仲舒は「攻」が主体であると認めている。当時の人が質問した。
「大旱のときに雩祭を挙行します。それは地上に雨がもたらされるよう、祈り求めるものです。大水が発せられると、太鼓を打ち鳴らし、社を攻めます。大旱、大水のどちらも天地のなすところであり、陰陽二気が変化したものです。なぜ祈求の法を用いるのでしょうか。なぜ怒攻の術を用いるのでしょうか」
董仲舒は答えた。
「天地の間、陽気を尊とし、陰気を卑とする。大旱の発生は陽が陰に勝ち、尊が卑に勝ったことによる。尊が強すぎるのである。尊卑の秩序はこのようなものだが。それゆえ大旱のときは尊貴の陽気をもう少し加えるよう哀願することになる。ほかにどうすることもできないだろう。
大水が発生するときは、同じではない。それは陰が陽を欺き、卑が尊に勝った結果である。つまり日食と同様、それは以下の犯罪にかかわる。賤が貴を傷つけ、天地の間の正常な秩序公理に違反する。不義の陰気に対して、情が移らないように気をつけながら、太鼓を打ち鳴らして攻撃し、赤い糸を巻き付けて脅す」
董仲舒は陰と陽の関係から世間の君と臣の関係を理解した。また水害を反乱とみなし、大水を攻撃する伝統巫術から政治倫理上の根拠を探した。止雨と大水を攻めるのは性質上おなじとする董仲舒の理解は、止雨法術に対する代表的な見方だった。
後漢の頃、王充は太鼓を打ち鳴らし、社を攻めることに言及し、批判した。王充の批判反論は現在から見るとやはりおかしなところがある。たとえば、と彼は言う。君主は天を父となし、父を母とする。陰気がさかんなため大水がもたらされたなら、すなわち地母を攻撃することになる。つまり母の親族の誰かが悪いことをするのを待ち、母親本人を攻めるのである。
また言う、ある人が社を攻めて水を止めようとしたとする。というのも、社は陰に属するからである。しかしそういったことはできない、なぜなら同族の陰だから。つまりだれが無差別攻撃を起こした主犯であろうと関係ないのである。たとえば甲という盗賊が目の前にいて、ためらうことなく乙の家に向かおうとしているとき、どうやって阻むことができるだろうか。
いま大雨が降り、大水が発生していて攻めることができないのに、社へ攻めに行く。これはまったく道理がない。王充は、社で太鼓を打ち鳴らすという止雨方法に反対しているわけではない。彼はただ太鼓を打ち鳴らして社を攻めることに意味はないと説明しているにすぎない。彼から見ると、太鼓の打ち鳴らしは社神に急を告げる方法である。
雨を止める者は、祝官が社神に陰盛陽衰(陰がさかんで陽が衰えていること)であることを伝達してもらうしかない。災害になるほど大雨が降るということは、まだ十分に社神の気を引いていないということである。そこで太鼓をさらに強く打ち鳴らし、急迫しているという雰囲気を出していく。
(5)
王充によれば、董仲舒は女媧を祭祀する止雨法を提唱している。漢代の神話に登場する女媧は、五色石を精錬して蒼天を繕い、大亀の足を切って天柱とした女の帝王である。董仲舒は女媧を祭る法を用いて雨を止めようと考えたが、それは陰陽学から出発するということだった。女媧は陰気を代表する神霊である。つまり陰気が害をなしたとき、彼女に祈って保護を求めたのである。
董仲舒の止雨法と求雨(雨乞い)法はともに後世、経典に収められた法術である。晋代は「雨が多ければすなわち禜(えい)祭をおこなう。朱衣赤ずきんをかぶり、諸陰を閉じ、社のまわりを朱索(赤い縄)でめぐり、朱鼓を伐る」。
唐玄宗の天宝十三歳(754年)、長安は連日暴雨が降り、朝廷は「坊市北門を閉じ、井戸に蓋をし、婦人が街市に入るのを禁じた」。これらの方法は『春秋繁露』から来ている。
古代術士の多くは求雨(雨乞い)をすることはできたが、止雨はできなかった。上述のように無畏三蔵と「豢竜(かんりゅう)者」(竜を飼う者)は軽々しくは竜を召して雨をもたらすということはしなかった。彼らは竜を放つことはできるが、収めることができないのである。
唐睿(えい)宗景雲年間、胡僧宝厳は止雨の法を有すると称した。壇場を設け、呪文を詠み、二十匹の羊と二頭の馬を殺し、神霊を祭った。五十数日間連続して施術をおこなうと、雨は次第に勢いを増していった。官府は宝厳を捕えて斬首刑に処した。すると雨が降らなくなった。
『酉陽雑俎』「貝篇」に言う、唐玄宗のとき、梵僧不空は仏教事務の総主持を任され、相当の信頼を得ていた。ある年、大旱が起こり、唐玄宗は不空が提供した設壇祈請という方法を採用した。しかし結果は暴雨を招き、あらたな災いを起こすことになった。
玄宗は不空を招き、今度は緊急に雨を止めるよう要請した。不空は寺院の庭で泥をこねて五、六匹の竜を作った。そして軒の上に立って梵語(サンスクリット)の呪文を念じた。しばらくして泥竜を放つと、大きな笑い声が響き渡った。すると雨はなくなり、空は晴れ渡った。この小説から術士は雨をもたらすことはできるが、雨を止めることはめったになかったことがわかる。