古代中国呪術大全 宮本神酒男訳 

章 
4 滅火呪術  

 

(1)

 古代中国の滅火呪術には祓(ふつじょう 邪気を祓う)、水(そんすい 水を吹きかける)酒(そんしゅ)、埋火(まいかおう 火事の予兆となるものを埋める)、設鴟尾(せつしび 屋根にしびを作って火事を防ぐ)、聚鵁鶄(しゅうこうせい 伝説のコウセイ鳥を集める)、画水于壁(がすいうへき 呪文を唱えながら碗の水で壁に絵を描き、碗の水を患者に飲ませる)などが含まれる。最後の四つは予防の呪術である。古代の雨乞い・止雨法は陰陽五行体系に取り入れられ、理論化され、整然として秩序立っている。一方滅火呪法は理論体系化を経ていないので、多くの呪術の間には何の関連性がなく、結果として雑多で混乱した状態になっている。

 

(2) 

 春秋時代にさかんだった滅火法と祭祀の多くは関連があった。紀元前564年、宋国に火災が発生した。宋国の大臣は組織を組んで消火活動をするとともに、四つの郷の郷正(官職)に群神を祀るよう命じた。祝官と宗官には馬の犠牲で「四墉(よう)」、すなわち四面城壁で、また西門外で宋人祖先盤庚を祀るよう命じた。

 紀元前524年、宋、衛、陳、鄭の四か国で同時に火災が発生した。鄭国執政の子産は消火組織を作る一方で都の郊外の居民に祝史の手伝いをさせ、城北で除地(整地)をおこない、祭壇を築かせた。そこで彼らは水神玄冥と火神回禄を祭り、「四墉」に向かって祈祷した。そして大規模な祭祀活動を挙行した。すなわち四方の神霊の祓いの儀式をおこなったのである。

 

 この二つの火災のときに起きたことは後世に大きな影響をもたらした。

 一つは四国大火が発生したときのこと。鄭国術士裨竈(ひそう)は大火の前に「予報(予知)」を明らかにし、子産に向かって鄭国が祭器を借りるよう求めた。それは鄭国が災難を逃れるためだと彼は主張した。また威嚇するように「わが言を採用しなかったら、鄭はまた大火に襲われるでしょう」と言ったが、子産は採用しなかった。

 ある人は裨竈(ひそう)の予想は正確であると述べ、彼の火災を征服する能力を信じて疑わなかった。また子産が情勢を理解しないことを責めた。子産は責任を問われたのに対し、「天道遠し、人道邇(近)し」という命題で答えた。

 子産は言う、天道は高く、深い。人の及ばざるものだ。生活の道理はまさに切実なものである。術士はどうやってある日天から禍が降ってくることを知ったのだろうか。裨竈(ひそう)はどうやって天道を理解することができたのだろうか。彼は預言を乱発しているが、そのうちのいくつが当たったろうか。子産は動揺しなかった。鄭国では二度と大火が発生することはなかった。

 「天道遠し、人道邇(近)し」の観点は荀子に至って「天人相分」の思想に発展した。この種の思想は自然の運行が天真であり、正当であるととらえ、人の精神の外部の独立した客体であると考えた。その考え方はいわゆる「天人合一」説よりも、科学の発展、文明の進歩のなかでは説得力があった。

 

 宋鄭の時代、禍を祓うために四墉(城壁)を祀ったが、これは後世に与えた影響が大きかった。のちの城隍神の祭祀はここに始まっているのだ。梁朝武陵王蕭紀は牛を(に)て、城隍神を祭り、北斉慕容儼(ぼようげん)は郢(えい)の城隍神廟の中で祈祷した。唐宋の時期、城隍の祭りはさらに盛んになり、当時の詩文はそれについて述べることが多かった。明朝の洪武初年、朱元璋は礼官の請求に批准し、京城と地方の城隍神を「昇福明霊王」「威霊公」「霊佑侯」「顕佑伯」などに封じ、しばらくして爵に封じるのをやめ、ただその地の城隍神と呼ぶようになった。京城内では毎年太常寺に官員を派遣し、礼によって祭をおこなった。地方の城隍神は現地の行政長官が祭祀を請け負った。城隍を祭ることによって国家的な祭典であることを世に広く知らしめた。秦代以前の四墉の祭祀は禳火(火祓い)と関係があった。しかし後世の城隍神は、すべての神と何らかのかかわりがあった。

 

(3)

 陰陽理論を考えるに、火災と大旱はどちらも陽気がさかんでもたらされたもの。火を滅し尽くせば救旱法術を用いることも可能だろう。しかし漢代の経師[経典を教えた教師]は特別であり、董仲舒は類似の説明をしなかった。このようであるゆえんは、ひとつには、閉陽開陰理論および関連した法術で大火を消すのは荒唐無稽なことであり、もうひとつは、董仲舒個人が遭遇したことと関係があった。

 董仲舒は『春秋』に記載された火災について全面的に論述したことがあった。彼は火災がすべて政治の不良なことから引き起こされると考えた。

 漢武帝の初年、遼東の漢高祖廟と長陵(漢高祖陵)横の高園殿で相次いで失火が起こったことに対し、董仲舒は武帝に上書を出し、これは上天が発した警告であると説いた。遼東高廟の失火は外地諸侯の不法行為と説明されるが、長陵高園殿の火事は、中央内部の一部の大臣が関わっていることと考えられた。彼は武帝に天意を尊重し、傲慢で奢侈にふける皇族や近臣に懲罰を与えるよう勧めた。この上書は反応を引き起こさなかった。

のちに董仲舒は職を辞したあと、家の中で火災と政治の関連についての研究を継続した。そして災難は天意の表れであるという推論を得て、新しい著作を書き始めた。

あるとき大臣の主父偃が彼の家を訪ねた。董仲舒は不在だったが、主父偃は中に入ってこの書の草稿を見てしまった。そこには大臣を風刺する内容が書かれていたので、主父偃は怒り、恨めしく思い、草稿を持って武帝のもとへ行った。

武帝はこの書について討論するために儒学者を一堂に集めた。討論の場に董仲舒の弟子呂歩舒(ろほじょ)がいたが、彼はこの書が師の新作と気づかなかった。彼はこの草稿を手に取ってすべてをけなした。

漢武帝は董仲舒を逮捕し、処罰するよう命じた。そして司法官吏は死刑の判決を下した。武帝は朝野で(朝廷でも在野でも)高名をとどろかせていることを考慮し、すぐに赦免の詔を出した。この風波は乗り切ったものの、董仲舒は災異についてふたたび論じることはなかった。董仲舒は滅火法術について触れるのを回避し、語ることはなかった。しかし打撃を受けたことには間違いなかった。

 

(4)

 前漢の時代、経師の滅火法術に関しては空白があるが、それを埋めてくれるのが少数民族の巫師である。漢武帝太初元年(前104年)、柏梁台で火事が発生した。越族巫師「勇之」が言うには、越人の習俗では、楼台家屋から失火する場合、より高い建築物を建て、それによって火災を圧伏するという。

漢武帝はこの願ったとおりの言葉を聞いて、即時建章宮を建てる決心をした。建章宮の中に「千門万戸」が建てられ、外側数十里に虎圏(虎を養う場所)が設けられ、特大の人工湖[太液池]が造られるという雄壮な建築物群だった。

 

 馬王堆漢墓帛書『五十二病方』に見られる噴法、すなわち噴気、噴水、噴唾によって駆邪治病をする。術士は酒や水を吹きかけて火を滅ぼす術を応用してきた。

『後漢書』「方術列伝」には郭憲や樊英(はんえい)がこの法術を利用したという記録が残っている。

郭憲は後漢光武帝建武七年(31年)光禄勲(宮殿の護衛などを担当。九卿の一つ)に任じられ、皇帝に従って南郊に行ったとき、途中で突然酒を口に含み、東北に向かって三度噴き出した。執法官不敬罪に当たるとして予懲処に送ったが、郭憲は自ら行動の説明をした。「当時斉国で失火がありまして、私は噴酒の法を用いて火災を圧伏しようとしたのです」。

のちに斉国は火災の状況を報告した。すると失火があった時間と郭憲が噴酒をした時間はぴったりと重なり合った。

 もう一人の術士樊英はすでに「風角星算」「河洛七緯」「推歩災異」などの法術を会得し、儒家の経典に通暁していた。樊英は河南壺山の麓に隠居していた。道術を学ぼうと多くの人がやってきて列をなしたという。

 あるとき学問について話していると、西方から暴風が吹いてきた。樊英は弟子に言った。「成都の市場で火事が起きている。火勢はますます盛んになっておるぞ」そう言うと、水を口に含んで西方へ向かって噴き出した。同時に弟子たちに水を噴いた時間を記録させた。

 のちにある客人が成都からやってきた。その人は言った、「ある日成都の市場で火事が起こりました。そのとき突然黒い雲が東方からやってきて、大雨が降ってきたのです。あっという間に火は消えました」。

この時間と樊英が水を噴いた時間は一致した。これによって樊英の名声は高まり、各朝廷は彼を礼遇した。

 

(5)

 葛洪『神仙伝』によると、後漢の方士欒巴(らんば)と成仙公もまた「噀酒(そんしゅ)滅火術」を使うことができた。漢順帝のとき欒巴は若いときから宦官で、のちに「陽気通暢(ようきつうちょう)」(活気があり、なんでもうまくできるさま)と評された。彼は朝廷を出て外部の職に就いたが、最終的には戻ってきて中央の尚書に任じられた。欒巴は「もとより道術を有し、鬼神をつかうことができる」と言われた。

 ある年の春節のとき、皇帝は宴を開き、群臣を集めた。欒巴はひとり遅れて席につくと、酒を口に含み、西南に向かって噴き出した。官吏の誰かが欒巴を不敬であると問い詰めると、彼は釈明した。

「臣(おみ)の故郷である成都の市で火事が発生したので、酒で雨を降らせ、火を滅したのです。臣はあえて不敬を働いたわけではありませぬ」。

 皇帝はすぐに成都に人を派遣して調査させた。まもなくして回答が寄せられた。「元旦にたしかに火事がありました。食事時に東北から雨がやってきて、火を消したそうです。その雨は酒臭かったといいます」。

 成仙公は後漢初期の人で、姓を成、名を武丁といった。道術を使うことができたので、桂陽太守周昕(しゅうきん)は彼を高く評価していた。春節の宴会で行酒(監酒)を担当していた成武丁が「突然東南に向かって酒杯の酒を口に含んで噴き出した」。そして「臨武県で火事が発生しました。(人々を)救うためにこうした(酒を噴き出した)のです」と説明した。

のちに臨武県の上書の中で述べられている。「元旦で祝って酒を飲んでいるときのこと、晡(ほ 申時、午後3―5時)の頃、突然広間の北西から火事が発生した。空はすみやかに晴れていたが、強烈な南風が吹いてきて、さらに北西から陣雲がやってきて県を覆い、大雨が降り、火を消した。雨は酒臭かった。

 樊英と欒巴はどちらも成都の火事から(人々を)救っている。欒巴と成仙公はどちらも春節の宴会で酒を噴いて火を消している。どうしてこうも辻褄がうまく合っているのだろうか。どちらかが模倣したか、あるいは誤伝だろうか。後漢時代は、突如としてこのような奇跡的に方士によって火が消されたような話がたくさん出てくるが、偶然ではない。官僚が腐敗し、政治の統治能力が弱まると、道教組織や巫術活動が入り込んで有利な条件を提供するのである。道教の教徒が勢力を拡大していくにしたがい、奇跡的な話を作って信徒たちを威嚇する必要があった。また作り出した奇跡によって論議を起こす大胆さも必要だった。このように噀酒滅火(酒を噴いて火を滅す)などの行為は、いわば奇形社会が生み出した怪物なのである。

 

 噀酒滅火はもともと道士のいわば専売特許だった。仏教が入ってきたあと、信徒を取り合っていた仏教は、高僧もこの種の技能を持っていると主張した。

 『晋書』「仏図澄伝」によると、仏図澄は石虎と(五台山に)登る途中、突然「変なり、変なり、幽州に火災が発生しましたぞ」と大声で叫んだ。あわてて酒を取り、口に入れて噴き出した。しばらくたってから、笑顔で語った。

「(人々を)助けることができました」。

 石虎は人を幽州に派遣して検証した。幽州人が語るには、当日「四門から火が出ました。南西から黒雲がやってきて、驟雨が火を消しました。雨はすこぶる酒臭かったということです」。

 この描写はあきらかに道教の故事をまねたものだ。銭書(19101998)が指摘するように、噀酒滅火は「道家が自画自賛すること」だ。しかし「仏教はそれをうらやましく思い、僧侶もその能力を持っているとしたのだろう。もちろん道士は自分たちだけのものと自慢している。

 

(6)

 古代の民間には「火殃(かおう)」が火を起こすという伝説があった。火殃は回禄(かいろく 火神)と同類の神霊ではない。一種の怪物である。

 『朝野僉載(ちょうやせんさい)』に言う、「唐開元二年、衡(こう)州では五月に頻繁に火災が起こった。そのとき人々が見物していると、甕のように大きく、灯籠のようなものがあるところから火が発生していた。人々はこれを見て「火殃だ!」と叫んだ。火殃に対処するには、それを覆うか、圧する必要があった。

 明人の伝説では、ある年の夏、村人の目の前で巨大な火殃が天から落下してきた。それは沸き立ったまま庭から家の中に流れ込んできた。あわてて石臼でそれを受け止め、さらに土をかけて石臼をうめた。

 村人の死後、子孫は彼が「この盛り土を掘ってはいけない」と言い残したのに、忘れて石臼を掘り出してしまった。そして土中の黃蟻(イエヒメアリ)を燃やした結果、強烈な火炎が屋根のてっぺんにまで達し、そのあと家全体を焼き尽くした。この火殃と周密の旱魃はよく似ている。二つの伝説には関連性があるだろう。[訳注:天から落下する火殃は隕石のようでもあるが、たぎるような火が流れてくるさまは、溶岩そのものである。土に埋まった石臼を掘り出すと火炎を放つのは、不発弾のようにも見える。黃蟻は放射能物質の比喩にも思える]

 

 漢代以降、火災の予防のために人々は厭勝作用を持つ「海獣」を想像で作り出し、宮殿上に置いた。漢代の宮殿は火災で焼けることが多かった。ある巫師が言うには、天上に魚があり、名を鴟星(しせい)といった。鴟星を象徴する魚形のものを屋上に置くと、火災を祓い、除いた。唐代の寺院の建物に魚形の霊物が置かれているが、これは鴟星に由来するのだろう。屋根の庇の角に火を制圧する霊物としての蚩尾(しび)を置く習慣は漢代に始まっている。

 蚩尾と鴟星は、用途はおなじだが、鴟星は魚形で、蚩尾は獣形という違いがある。

 伝説によれば漢武帝が柏梁殿を建てるとき、ある人が上書のなかで述べた。「蚩尾、水の精。火災をよく避けます。堂殿に置くべきでは」。蚩尾、または鴟尾、あるいは鴟吻、螭吻(ちふん)ともいう。蚩尾の設置は皇帝と三公の特権であり、一般の官吏がおこなうのは僭越な行為とされた。たとえば陳朝の古い規定では三公だけが執務大広間の蚩尾を設置することができた。のちに陳後主は功臣の蕭摩訶(しょうまか)に公事堂と寝堂の上に蚩尾を置くことを認めた。このとき蚩尾の設置はまだ特権だったのである。

 唐代以降、これ(蚩尾、鴟尾)は次第に普及した。明代以降、物好きの文人は蚩尾を「竜九子」の一つに数えられることもあった。竜九子の名称には多くの異説があった。その中の一説は、贔屭(ひき 亀に似た動物)、螭吻(ちふん シャチホコの原形)、蒲牢(ほろう 竜に似た動物)、狴犴へいかん 虎に似た動物)、饕餮(とうてつ 羊身人面、目は腋、歯は虎、声は嬰児)、蚣𧏡(はか 水を好む)、睚眦(がいしん ジャッカルの身で竜の首)、金猊(きんげい 獅子に似た動物)、椒図(しょうず タニシやカエルに似た動物)である。これら九種の神獣はそれぞれ特性があり、所司がある。螭吻の性格は「よく呑む」であることから、「火を呑む」ために庇の上に置かれる。

 

 古代には(コウノトリ)や鵁鶄(サンカノゴイ)を用いた避火法術があった。王子年『拾遺記』に言う、三国時代の糜竺(びじく 劉備の義兄)は多くの宝を持っていた。ある日倉庫が火事になったが、財物の九割を搬出して焼かずにすんだ。

火がさかんに燃えているとき、見ると数十人の青衣の童子がやってきて鎮火しようとした。雲のような青気が出て、火を覆い、滅した。童子は言う、「たくさんの鸛鳥(コウノトリ)が集まって災いを祓いました。鸛鳥は水の上の巣に集まるのです」。家人は厭火用に数千羽の鵁鶄(サンカノゴイ)を集め、池で飼った。

 鵁鶄を集め厭火する法は、唐代に到り、術士から珍しいとみなされた。陳蔵器は言った、「鵁鶄、水鳥である。南方の池沢から出る。鴨に似る。緑の衣。人家これを養う。慣れると去らない。火災を厭う」。聚鵁鶄法(水鳥を集めて火に対処する法術)と設蚩尾法(ひさしに蚩尾を設けて火に対処する法術)はどちらも霊物に対する迷信や巫術中の相似法則をもとにしている。ただ前者が実際の水鳥を利用しているのに対し、後者が想像上の水精を利用しているという相違はあるが。

 

 滅火巫術は水と無関係ではない。ただしその水は本物の水ではなく、「画水」である。周亮工は言う、「伝え聞くところによると、家に画水を貼る人が多いという。多くは火を厭う。ゆえに古刹は壁に画水を貼るところが多い。常州太平寺仏殿の後ろの壁に徐友の画水がある。戦火のもと寺の建物は焼き落ちてしまった。しかし大きな仏殿だけは焼け残った。画の力のおかげともいう。趙州柏林寺の仏殿の後ろに呉道子の画水があり、今も残っている。われら梁人に貴賤はなく、趙州印板水を貼っている。壁の上に画水を貼らない家はない。汴水の洪水のあと、人は画水を悪兆とみなすようになった」。

 画水には水を招き、火を厭う威力があると信じられていたので、古刹が火災に遭わないのは画水のおかげと思われていたが、洪水に見舞われると、画水の罪とみなされたのである。巫術形式から見るに、画水は一種の特殊な霊符だった。