古代中国呪術大全 宮本神酒男訳 

第2章 
6 祓いの星雲と災いを移す呪術 

 

(1)

 星と雲の迷信と古代天文学は同様にきわめて古く、かつ両者は切っても切れない関係があった。多くの偶然の一致を必然現象とみなし、古代の天文観測者の多くは、星や雲の変化に人間の吉凶が現れると考えた。ここから系統的な占星術や雲気占い術が導き出されたのである。

 古代中国の占星術には二種類の基本理論があった。一つは星職説。それはどこかの星が物事を主管する、あるいは災禍をもたらすという説。春秋時代、人は彗星を「除旧布新」(古きを除き、新しきを布く)の災星とみなし、これ(災星)に分類した。星職説が現れたのは比較的早く、『史記』「天官書」はこれについて詳細に記している。

 もう一つは分野説。天上の星宿の区画と地上の十数か所の区域が対応していると考えられ、ある星の運行が異常であると、それに対応する国や地域に吉事か凶事が出現するとされるのである。分野説は春秋時代に基礎が形成され、戦国時代や秦、漢代に改善された。それは古代の占星術に多大な影響を与えてきた。

 『周礼』「保章氏」に言う、「星土をもって九州の地を分ける。封じるところ、地域、すべてに分星がある。それで吉凶を見る」と。すなわち星宿と固定された地区との間には相関関係があるということ。星の現象を見ることで吉凶がわかる。これは分野説に依拠している。

 

(2)

 秦代以前は雲気占法もはなはだしく流行していた。西周の慣例では春分・秋分、夏至・冬至、立春・立夏、立秋・立冬になると、国君は自ら人とともに、宮門の傍らの高台に上がり、雲気を観察しなければならなかった。記録、観察の結果から未来の吉凶を占った。当時は各国に「望国氛(ぼうこくふん)」「望祥」といった高台が建てられていた。神事のために使われたので、「霊台」と呼ばれた。周人はとくに太陽の周囲の雲気の観察を重視した。

 『周礼』の中で「視(ししん)」官は「十暉(き)の法を掌り、妖祥を観察し、吉凶を弁じた」。「十暉とは太陽の十種光気のことを言う。保章氏は「五雲の物で吉凶水旱を弁じることを掌り、降豊荒の現象を考察した」。いわゆる五雲の物は、とくに太陽の傍らの五色の色の雲気を指す。当時の人はそれが災禍か吉祥かを予示していると考えた。

「青を虫、白を喪、赤を兵荒、黒を水、黄を豊」とみなした。

 雲気占い法は秦漢の時代にいっそう普及した。

 陳勝起義軍中の将領周文(あるいは周章)は視日の法に通暁していた。視日とは「日を見るとその傍らに雲気がる」ということである。

 『漢書』「芸文志」に収録された『漢日傍気行事占験』三巻と『漢日傍気占験』十三巻はこういったことの専門の著作である。政府が組織した雲占と星占は「天官」が責任を負っている。『史記』「天官書」でも何度も雲占の方法に言及している。

 

(3)

 予測目的の採取措置は凶を除き、吉を呼び込んだ。星辰雲気が災禍をもたらすなら、占術を通して、あるいは災禍を予知して、どんな方法で災禍を除去するかが術士の重要課題となった。

 『周礼』「保章氏」は言う、星占い、雲気占いなどによって吉凶を予測する目的は「詔救政」、すなわち周王が相応の予防と解救(危険や困難から脱すること)の措置をとらせることである。星雲の災異に対する措置には二種類ある。一つは徳を積み、善を修め、政治を改めていくこと。二つは、禳解法術(神に向かって災禍を取り除くよう祈り求める法術)を用いること。

 『史記』「天官書」に言う「日変修徳、月変省刑(刑罰を軽くすること)、星変(星の異常変化全般)結和」は前者に属す。災異が出現すれば「太上(皇帝を指す)は修徳し、その次は修政し、そのつぎは修救し、そのつぎは修禳する」。すなわち二つの措置法を高低の等級にあてはめる。そして禳解法術を用いるのは下策である。

 実際、司馬遷がいう下策とは、古代の帝王が好んだ除災方法である。というのもそれが簡単で努力する必要がなく、帝王の奢侈な生活を変える必要もなかったからである。

 

 古代における星雲災異を禳除する法術には二種類の形式がある。一つは災星妖雲を直接駆除する法術。もう一つは災禍を他人や他の物に転嫁する法術。『周礼』中の「視(妖気を見る)」官は「安宅叙降」する。叙降とは、鄭玄によれば、「つぎの凶禍でこれを禳移すること」である。この「禳」は第一種法術を指し、「移」は第二種法術を指す。孫詒譲(そんだいじょう 18481908)は鄭玄注の「移」解釈を「禳できない者はすなわち転移させてもって吉とする」としているが、鄭玄の意図と完全に一致しているわけではない。

 

 春秋時代、斉景公の御用巫師柏常謇(はくじょうけん)は禳星の術を得意としていたという。前516年、斉国上空に彗星が出現した。「彗星があれば亡国あり」という言い伝えがあり、斉景公は非常に怖くなり、柏常謇に彗星の「禳去」(除去)を命じた。のちに妟嬰が諫めて、禳星計画は中止になった。

 唐朝後期、僧一行の禳星救人(彗星を除いて人々を救った)の故事が世間に広まった。『酉陽雑俎』「天咫(てんし)」に言う、一行は恩人の王の子を助けた。彼は法術を用いて北斗七星を丸ごと消し、そのあとこれは上天が皇帝に対して発した警告だと偽りの主張をした。心を動かされた唐玄宗は大赦を宣布した。獄に入れられていた王姥の子は最終的に自由の身となった。

 僧一行は天文暦法などで貢献したと一般的に認められている。ただ彼の思想のなかに多くの神秘的概念と巫術意識が含まれていたのも事実だ。段成式が記録した「大伝衆口」(広く普及した)故事は、まったくの虚構というわけではなかった。それはかつて一行が禳星術を用いて人をだましていたことを表している。さらに唐代の大衆が術士の禳星術を信じて疑わなかったことを表している。

 

 明清の時代の術士はしばしば禳除災星法を使った。『三国演義』のなかで諸葛亮は死の直前に禳星術をおこなう場面がある。微に入り細を穿つ描写で、読者はその場にいるような臨場感を覚える。この描写は古代伝説を取材したものではなく、作者の空想でもなく、明代の実践されている巫術だった。作者は巫師、道士の禳星儀礼の様子を目撃し、直接インスピレーションを得ていたのである。

 

 行う禳星術が人に信じられるには、かなりの天文学的知識を持つ必要があった。春秋時代、斉国の大巫師柏常謇は、斉景公の寿命を七年延ばすと称した。法術によって寿命を延ばせるかどうかは、そもそも検証のしようがなかった。かなりの長寿を得たとなると、いっそう法術によって七年寿命が延びたかどうか判定するのは至難のわざだった。斉景公と面したとき、柏常謇は答えた。

「兆しがあることを証明できます。長寿を得たときには地震が発生します」。

 長寿の儀礼を行う前、柏常謇は妟嬰に対して同じ話をした。彼は妟嬰が天文学を理解しているとは思わなかったのである。妟嬰は問いただした。

「数日前、私は維星が絶え、枢星が散るのを発見しました。これは地震の兆しです。あなたの長寿術が地震によって証明されたのです。どうぞこの天象をご覧ください」。

 柏常謇はしばらく黙ったままだったが、認めた。天象を長期観測する術士はしばしば天文知識が豊富である。彼らはこの知識を利用して予言を発表し、手段を示し、星辰軌道の変化は彼らの法力によると人に信じさせた。おそらく禳星術に霊験がある秘密はこのあたりにあるのだろう。

 

(4)

 星辰雲気(星と雲)の運行をコントロールするのは、根本から災異を消滅することであり、自然界でもっとも胸がすっきりすることだといえる。しかしこうした挙措を一般の巫師が担うのに適しているとは思えない。古代において、星雲災異に対する巫術でもっともよく見られたのは、移禍法だった。すなわち(本来、巫師でなく、それを担当した誰かによって)災禍を他者に転移する法術である。

 

 移禍法術の起源はかなり古い。周文王八年六月、文王は重い病気にかかり、五日後には大きな地震が発生した。人心は不安でいっぱいになり、大臣らはみな移禍を求めた。彼らは認識していた。「大衆を招集し、国城を増築し、災病を移そう」。この故事が明らかにしているように、周代初期には、城壁を増築し、災病を転移する方法がすでにあった。

 

 前489年、楚国の望気[古代方士の占候術]を行なった者が異常な天象を発見した。「赤い鳥の群れのごとき雲あり。太陽をはさみ、飛ぶこと三日」。

 楚昭王は周王室に人を派遣してこの天象の予兆の意味を問うた。周の大史は言った。「楚王にまさに災禍がふりかかろうとしています。もし禜祭(えいさい)を行うなら、災禍を令尹、司馬の身の上に移すことができましょう」。

 昭王はこの種の移禍法が「腹心の者の病を除いて股肱の者らに置く」にすぎないことを認識し、言葉に従わなかった[腹心も股肱も側近という意味。側近の災禍を別の側近に移すということ]。

 楚昭王と同時に宋景公にも同じようなことが起こった。ある年、熒(迷走)惑星が遠回りをして心宿[二十八宿の一つ]の位置に至った。宋景公は、これは何の兆しかと問うと、太史子韋はいった。「熒惑(えいわく)は天罰を表しています。心宿は宋の地域を表しています。つぎの災禍は君ご自身が見舞われることになります。しかし法術を用いることによって災禍を宰輔に移すことができるのです」。子韋はまた庶民や作柄に禍を転移することができると説明したが、景公はどれにも同意しなかった。

 楚昭王、宋景公は、当時移禍法を排斥したが、これはごくまれな例だった。史家がそれは珍しいとして、書き留めたのである。このことは、移禍行為が実際春秋時代にはよく見られたことを証明している。

 

(5)

秦漢時代の祝官に「祝(ひつしゅく)」という役職があった。皇帝の頭上に降りかかった災禍を各官吏や庶民に移す専門の役人だった。

『漢書』「郊祀志」は秦朝の祭祀制度について述べているが、そのなかで「祝という祝官がある。すなわち災禍があれば、すぐさま祝詞によってこれを移した」。祝のは現代の秘とおなじ。

 『史記』「孝文本記」駰『集解』が引用する応劭は言う、「祝の官、転移する。国家これを忌み、ゆえにという」。

 この祝官はほかの祝官が正々堂々と見えるところで祈り、祝するのと違い、秘密に活動をするので、「秘祝」と呼ばれる。漢代はじめに祝官設置を継続している。しかし漢文帝十三年(前167年)、廃止の詔が出された。詔書にはつぎのようなことが書かれている。

「けだし天道に聞くに、禍(わざわい)は恨みより起こり、福は徳から生まれる。百官の非、これは朕の身から出たものである。今祝の官は禍を転移する。わが不徳を示し、朕はこれを取らず、それを除く」。

 西周春秋時代の禜祭、祈禳活動は多くは祝官が担っている。ただし当時はまだ禍を転移する専門の官吏はいなかった。秦朝に祝官が設置されていたことは、移禍法術が春秋時代以降も発展していたことを示している。周代の移禍法は、おもに星雲災異に対して実施していたが、秦漢の祝は天禍の転移が中心だったのだろう。

 

 漢文帝が移禍法術に対する祝の廃止をおこなった影響はそれほど大きくなかった。高みから見ると、この説明は朝廷が移禍法術を二度と採用しなかったということである。低いところから見れば、祝の廃止は移禍専門の官吏を置かなかっただけで、天災に見舞われたならその他の祝官に災禍の転移を命じることを妨げるものではなかった。より実際的になったということである。

 葛洪『抱朴子』「覧」が列挙する道教経典の中に『移災経』一巻がある。その内容と移禍法は関係がある。移禍法は清代に至っても、術士が用いていた。

 『子不語』巻十三「飛星入南斗」に書く、蘇松道長官韓青厳は天文に通暁していた。彼は宝山で仕官していたとき、イナゴを捕えるために野宿していると、四鼓時分に客星が南斗に飛んで入るのが見えた。韓青厳は占いの書に「この災を見た者は一か月以内に突然死する。禳法に従って髪を切り、東西に禹歩で三周歩き、他人に禍を移すとよい」と書いてあったのを思い出した。それで彼は下僕を見つけなければならなかった。この書は法術を実施することを求めているのだ。

数日後、県の役所の文書係が理由もなく[実際は禍を自身に移して]、小刀で割腹自殺した。韓青厳はおかげで無事だった。韓青厳によると、天文がわからない者には災星を見たところで災禍に遭うことはないという。袁枚(子不語作者)は天文と禳解術を学習することに何の意味があるのかと韓青厳に質問した。それに対し彼は何も答えなかった。伝統的な法術の一部は伝える価値がないとされる。それが滅亡してしまうのはそんなに遠くなかった。韓青厳が言うように知らなければ災禍はやってこないという論法が現れたということは、移禍法術が終結したと宣言したに等しかった。

[韓青厳という人物はある夜、流れ星が南斗に入るのを見た。移禍(災禍の転移)法術を行わないと一か月以内に突然死すると占い書に書かれていたことを思い出し、禍(わざわい)を移す人を探していたところ、役所の文書係の李某が突然割腹自殺した。李某は韓の弟子のような存在だった。彼は若いが、非常に才能のある人物だった。李某は韓のために災禍を受け入れたのだった。話はこれで終わらない。子不語の作者が韓に問いただすと、天文のことを知らなければ、災禍は降りかかってこないという。ということは、天文や移禍法術のことを学べば学ぶほど災禍を呼び込んでしまうことになる。李某の死も無駄死にということになってしまう]