古代中国呪術大全 宮本神酒男訳

第2章 
7 厄病退散(上)周秦代の追儺祭とその変遷 

 

(1)

 古代中国に流行した疫病の駆除にはおおよそ二種類あった。一つは、集団で参加する疫病駆除の活動。それには儺祭とのちの変化した祭礼の形式が含まれる。もう一つは、各個人や家庭の各種秘術の実行。それには小豆(あずき)駆疫、古磚(こせん=古レンガ)駆疫、その他各種駆疫呪符が含まれる。

 儺礼は集団で遂行する疫病鬼駆逐儀式である。儺礼の儺はもともと難と書かれていた。難(去声)と読み、「非難する」「問いただす」の意味があり、攻撃的な疫病駆除活動を表していた。のちの人は儺礼のもとの意味を知らず、難のかわりに儺の字を用い、かつヌオという音をあてた。この書き間違い、読み間違いは、漢代には見られた。ただし当時の多くの経師(経典を書写する人)は儺が難であるべきことを知らなかった。

杜子春も「儺、これは難問の難と読むべきである」と述べている。高誘も言う、「儺もまた除くなり。(……)儺は躁難の難である」。鄭玄は直接『周礼』「占夢」中の「始儺駆疫」を「始難駆疫」と改め、「難、兵を執るのに難却をもってする」と指摘する。

梁朝皇(こうかん)は儺礼を解釈して言う。「儺、儺と口にして疫鬼を駆逐する」と。彼は儺のもとの意味を知らなかったようである。陸徳明が選んだ『経典釈文』は経典中の「儺」の注音を「乃多切」(nuo)とし、儺字がすなわち駆疫礼を指す標準的文字であることを示している。

 

(2)

 秦代以前、儺礼は慣例どおり巫師が掌っていた。『周礼』の記載によると、儺礼を組織するのは占夢、男巫、方相氏の三官である。この三種の人はみな実質巫師といえる。占夢の本職は夢の解釈と悪夢の駆逐である。ただ彼は、冬の大儺儀式においては、ほかの人たちに進行していいことを伝えねばならない。

男巫の仕事には「春、招(しょうじ 福を招き、禍をなくす)によって疾病を除く」と「冬の堂で贈る、方もなく、算もない」とあるが、どちらも儺礼と関係がある。この「冬の堂で贈る」は、冬、駆疫のとき、男巫はお堂のなかにいて、疫鬼を駆逐し、方相氏が鬼を攻撃するのを手伝う。贈るは送るである。すなわち駆逐する。「無方無算(方もなく、算もない)」というのは、どの方角でも、どれだけの距離であろうと、疫鬼をできうるかぎり遠くに追いやることができればいい、という意味である。

 

 儺礼の主役は方相氏である。疫鬼を駆逐するとき方相氏は熊の皮を頭にかぶっている。馬皮上には四つの黄金の目玉がついている。上半身には黒衣を着て、下半身には深紅の裙裳(スカート上の衣)をはいている。片手に鉾を持ち、もう片方の手に盾を持って舞う。百名ほどの打鬼する者たちを従えて居室に入り、四面を捜査し、疫鬼を残らず捕まえて外に追い出す。

 

 『周礼』「夏官」の叙官のところで言及しているが、方相氏は「狂夫」四人組から成る。狂夫とは、瘋狂で凶暴な男子のことである。そういった瘋癲(ふうてん)で、つむじ曲がりの人がリーダーシップを取って鬼を打つ。こうして才能をいかんなく発揮する。ある人は、方相氏は儺礼中の表現が十分奇怪である、それゆえ狂夫という別称で呼ばれるようになった、と認める。狂夫によって方相となることと、方相が狂夫となる状況は、同時に存在しうる。二つの状況は方相氏がシャーマンとしての気質を十分に持っていることを説明する。

 

 方相氏が着ける「黄金四目」の熊皮仮面を、周代には「倛(き)」あるいは「皮倛」と呼んだ。『荀子』「非相」は言う、「仲尼の状、面は蒙倛のごとし」。ここでは孔子の顔が醜怪で、打鬼の仮面のようだと述べている。仮面を着けて疫鬼を駆逐するのは儺礼の伝統である。歴代の仮面にはそれぞれ独特の風格がある。漢代においては、仮面は魌頭(きとう)と呼ばれた。魌、倛、などと呼ばれたが、どれも意味は同じで、醜悪であることを指す。儺礼の仮面は醜怪で恐ろしい。だから魌頭と呼ばれたのである。

 

(3)

 方相という名称については探っていくべきである。『周礼』「夏官叙」の鄭玄の注は言う、「方相はすなわち放想を言い、畏怖の貌である」。「放想」を用いて恐ろしいと形容する。秦以前の文献に見いだすことはできない。孫詒譲『周礼正義』はさらに一歩進んだ解釈をおこなう。「放想、言は想像を彷彿とする」。彷彿、想像と「恐ろしい」とはどんな関係があるのだろうか。鬼を打つ官吏は彷彿からどのように命名したのだろうか。鄭、孫の説明ではだれも満足させられないだろう。

方相の呼称は唐代にも用いられていた。段成式『酉陽雑俎』「尸穸(しせき)」は方相のもとの意味について「四目を方相という。両目を(き)という。李蛾薬丸を知る費長房によると、これは「方相脳」とも呼ばれる。すなわち方相は鬼物である。古代の聖人はこれを象(かたど)って官を設けた」と説明する。

 費長房が薬丸を知っていたことは『後漢書』「方術列伝」に記載されていないので、唐代以前の小説から出てきたものかもしれない。段成式の方相の名はもともと鬼物の名かもしれないという推測は、われわれにとって啓発的である。

方相とは「罔象」すなわち伝説の土中の精怪、あるいは水中の精怪と考えられる。

 『周礼』の方相氏のもう一つの仕事は葬送時の前面の開路だった。墓地に至ると、墓穴に入り、戈(ほこ)で四隅を撃ち、方良を駆逐する。この「方良」は応劭の『風俗通義』の中では「罔象」と書かれる。「罔」と「方」、「象」と「相」の古音は近く、方相、方良、罔象はみな同一の名称であった可能性がある。

 甲骨文の中で、馬を管理し、狩りをする官を「馬」と呼ぶ。猟犬を管理する官を「犬」と呼ぶ。『周礼』では獣を管理する人を「獣人」と呼び、鼈を管理する人を「鼈人(べつじん)」と呼んだ。牛を管理する人を「牛人」と呼んだ。これとおなじように、方良、罔象を駆除する人を方相氏と呼んだのかもしれない。正確に言えば、方相氏は方相を打つ官である。

 傍証を挙げていこう。『論語』「郷党」は「郷人儺」に言及し、『礼記』「郊特牲」は「郷人(しょう)」とする。禓と儺(ついな)はおなじ意味である。

 儺はなぜ禓とも呼ばれるのだろうか。鄭玄は言う、「禓、強鬼なり。儺のとき、索室(鬼を探し、部屋を清める)し、駆疫(疫病を駆逐)し、強鬼を逐う」と。劉宝楠『論語正義』はさらに明確に言う、「強鬼とは疫鬼のことである。二つに分ける必要はない。鬼の名は禓、この鬼を駆除することを儺という。その後鬼の名を借りて祭名とする。すなわち禓と呼ぶ」と。

 禓はもともと強鬼の名称だったが、のちに打禓儀式をこう呼ぶようになった。儺礼はすでに鬼名を借用して禓と称していたが、儺礼を開催する人が「方相」「罔象」など鬼名を借りて「方相氏」と称するのはごく自然のことだった。


(4)

周代は、季節ごとに索室駆疫をおこなった。これは時難(儺)と呼ばれる。『呂氏春秋』によると、秦代の駆疫は毎年三度に固定されていた。すなわち夏暦の三月、八月、十二月である。最初の駆疫は、国都の九つの城門前で、方相氏が率いる集団が犠牲獸を殺し、法術をおこなった。「もって春気を終える」ことから「国難」と称した。二番目の駆疫は、天子自らが参加することを求められた。天子は難(儺)をおこない、秋気に達する。三番目の駆疫は、全員が参加しなければならない。ゆえに大難と称せられる。その目的は寒気を送る(追い出す)ことである。[索室駆疫とは、上述のように、部屋の中で疫鬼や瘟鬼を捜し出し、駆除すること」


漢代に至り、疫鬼の神話伝説は定型化し、儺礼の儀法は規範化し、儺礼の規模は拡大した。漢代の人は、疫鬼には三種類あると考えた。それらは(五帝の一人)顓頊(せんぎょく)の三人の子が変成したものである。すなわち長江に住む鬼「虐鬼」、若水に住む鬼「罔両、蜮(いき)鬼」、そして一般の家屋の部屋の隅に住み、子供を脅かすのが好きな鬼の三種類である。

 一般的な言い方では、罔両は木石の怪である。しかしここでは水精であり、疫鬼である。罔象は、無傷(精怪の名)、あるいは水精と考えられ、あるいは墓が作られたときの地下の精怪とみなされた。この二つの精怪の名称はもともと厳格に定義されているわけではなかった。


 漢代の儺礼の中で規模がもっとも大きかったのは、年の終わりに開く大儺だった。後漢の大儺儀式は臘祭の一日前に行われた。大儺の前に「中黄門」すなわち宦官の弟子から10歳から12歳の少年120名を選出する。「子(しんし)」(男巫)と呼ばれる彼らはみな頭に紅巾をかぶり、黒衣を着て、手に(とう)という小太鼓を持っていた。儺礼の主役方相氏は、ひとそろい伝統的なかっこうをした。同時に任命された十二人が獣皮をまとい、頭上に角を挿し、悪鬼を捕食する十二頭の神獣に扮した。

夜になり、大臣がみな集まった。侍中、尚書、御史、謁者、虎蕡、羽林郎らとその下に属する者ら全員が紅巾をかぶり、宮殿前の階段の下に列をなして待った。皇帝が前殿に至ると、宦官のトップである黄門令は方針を示した。「侲子(男巫)よ、準備しなさい。疫病を駆逐してください」。皇帝が命令を下すと、一年に一度の大儺礼が正式に幕を開ける。

 まず中黄門[もっとも俸禄が少ない宦官]が呪文を高い声で誦する。呪文はつぎのような内容だという。

 甲作(十二神獣の一つ)は凶鬼を食う。胃(ひい 十二駆疫神の一つ 胃か)は虎を食う。雄伯(十二神獣の一つ)は魅を食う。騰簡(とうかん 十二神獣の一つ)は不祥を食う。攬諸(らんしょ 十二神獣の一つ)は災咎を食う。伯奇(十二神獣の一つ)は悪夢を食う。強梁、祖明(両方とも十二神獣)はともに寄付された人体の轢死鬼を食べる。委随(十二神獣の一つ)は「観」[鳥?]を食べる。錯断(十二神獣の一つ)は「巨」[鬼の一種]を食う。窮奇、騰根(両方とも十二神獣)はともに蠱を食べる。

 いまこの十二大神に凶悪を駆除させ、あなたの四肢を八つ裂きにし、あなたの身体を切断し、あなたの肉をかみ砕き、あなたの肺や腸を抽出する。逃走することができず、神の食糧に変身する。中黄門は毎度一句念じる。侲子は声をそろえ、一句唱和する。呪文を詠み終えると、方相氏は十二神獣とともに逐疫の舞踏を踊る。舞踏が終わると、鬼を追う者全員で高い声を上げて騒ぎ立てながら、前後殿の周囲を三周し、手に持ったたいまつで疫鬼を正門から追い出す。

 門外の数千名の衛士がたいまつを受け継ぎ、宮闕から送り出す。最後に数千名の五営騎士がたいまつを洛水に投げ込む。たいまつの伝達が結束したあと、各官府の供奉代表の儺人祖師の木面獣が門前に桃梗、郁塁を設置し、葦茭を掛ける。ここに至り、前殿階段下に並んでいた官員はつぎつぎと去っていき、大儺礼の完成が宣告される。


(5)

 張衡『東京賦』は文学言語を用いて洛陽城内の大儺礼の壮観たる場面を描写している。

爾乃卒歳大儺、駆除群厲。(なんじはようやく年の大儺を終え、疫鬼の大群を駆除した)


 方相秉鉞、巫覡操茢侲子万童、丹首玄制。(方相は手に斧を持ち、巫覡は茢、すなわち箒を、また侲子万童、すなわち駆疫をする子供たちを操り、誠意ある指導者は黒衣を着る)

桃弧棘矢、所発無的。(桃弓棘矢を放つも的はなし)

飛礫雨散、剛癉必斃。(石の礫が雨あられのごとく飛び、過労のあまり斃れてしまう)

煌火馳而星流、逐赤疫于四裔。(まばゆい火が迸って星流となり、四方に赤疫を逐う)

然后凌天池、絶飛梁。(そののち天池に昇り、空に架かる橋を越える)

捎魑魅、斮獝狂。(魑魅を退かせ、獝狂、すなわち悪鬼を断つ)

蜲蛇、脳方良。(蜲蛇、脳方良を斬る)

囚耕父于清泠、溺女魃于神潢(耕父を清冷にとらえ、女魃を神潢に溺れさせ)、

夔魖罔像、殪野仲而殲遊光。(夔魖と罔像を破壊し、野仲を殺し、遊光を殲滅する)

八霊為之震慴、况蜮与畢方。(八方の神これのために震撼する。蜮と畢方も同様だ)

度朔作梗、守以郁塁。(度朔で梗を作り、郁塁で守る)

神荼副焉、対操索葦。(神荼を侍らせ、葦の縄を操る)

目察区陬、司執遺鬼。(隅々までよく見て、残余の鬼を取り押さえる)

京師密清、罔有不韙。(京は静かになり、鬼どもはおとなしくなった)

[耕父は神の一種。清泠、神潢(しんこう)は河の名。夔魖(ききょ)は山怪の名。罔像、野仲、遊光はみな悪鬼の名前。蜮(しいく)は水中に棲む子供の鬼。畢方は鶴に似た怪。度朔は東海中の山。梗は枝や茎を指すが、ここでは桃の杖。郁塁と神荼は門神]


 張衡の描写から、後漢の大儺礼のなかで葦の箒で疫気を掃き出し、桃弓棘矢で疫鬼を射て、石ころを投げて疫鬼を打ち殺す儀法が明らかになった。

 『続漢書』「礼儀志」劉昭が注に引く『漢旧儀』に言う、「方相は百人の奴隷と童子を率いて、土鼓(古代の打楽器)を叩き、桃弓棘矢を射て、赤丸五穀を撒く」。これにより駆疫活動にはさらに土鼓を打ち、赤丸(狡猾な悪人を示すため使われた赤い弾)や五穀を投げつけるなどの制鬼法があることがわかる。[訳注:節分の豆まきの源流]


 全体的に見ると、漢代の儺礼は基本的に周秦の古いやり方に沿っている。たとえば『周礼』の方相氏は大司馬の属官である。彼らは一般の巫師ではなく、軍隊に属する巫師である。このことから、周代の儺礼に軍人が参加していたことがわかる。またそれとともにある種の軍事的な特性を帯びることになった。

 漢代の大儺のなかで宮門の衛士と五営騎士がつぎつぎとたいまつを受け渡して疫鬼を送る儀式は、軍人の駆疫の伝統だった。疫鬼が殿門を出て、宮門から洛水に入る「逓遠逐鬼法(ていえんちくきほう」は秦代以前の古い習俗である。

 劉向『説苑』「修文」は示す。「古く菑(災)がはなはだしくひどく(……)死者が多く、死体だらけのとき、急遽童子が集められた。人々は太鼓を叩き、たいまつを持ち、宮中に入る(……)そのあと彼らは里門を出て、邑門を出て、野外に至る。彼らは匍匐してこれを救う」。手にたいまつを持ち、次第に鬼を追いやっていくさまは、たしかに漢代以前の古いやりかたである。


 周秦の儺礼と比較して、漢代の儺礼は新しい特徴を持つ。周秦の儺礼は国儺、天子の儺、大儺の三種があった。漢代に至ってこの三つが合わさって一つになった。高誘注解『淮南子』「時則訓」によれば「国難」は「現在の駆疫駆除である」。「大儺」は「今の陽を導くための逐陰駆疫である」。ただ彼は「天子の儺」に対応する漢代礼俗には触れていない。可能性として考えられるのは、後漢の時期に独立した天子の儺がなかったということである。漢代以降、もともと季春(三月)に挙行する国儺と仲秋に挙行する天子の儺は廃絶するしかなかった。伝統的な儺礼は事実上年の終わりの大儺だけだった。

 漢代の儺礼を反映したもう一つの動向は、年の瀬の大儺が「逐疫」の名のもとに多くの要素が詰め込まれ、逐疫を核心とするも、疫に限らない一切の悪鬼を駆除する儀礼になっていたことである。たとえば宮廷の大儺で呪詛に使われる呪語の「虎」は、疫病とそれほど深い関係にあるわけではない。「不祥」と「咎」も広く知られているが、疫病とまったくおなじではない。これらの悪鬼は漢人に引っ張ってこられて、斬られたり、追い出されたりしている。

 駆除される対象が増えるにつれ、鬼を追いやるために請来される神霊も、自然に増加する。たとえば十二食鬼神獣舞は、逐鬼の増加に応じて加わった漢代儺礼の演目である。

(6)

 東晋の時代、都の建康で毎年臘月三十日に儺礼が挙行された。駆疫をする者は「集まって群れを成し、夜を通して暁(あかつき)まで、家から門まで、送り出した」。人となりが自由人の名士孫綽(そんしゃく)は楽器を取り、面具をつけて、大隊に混じって駆疫をし、大司馬恒温の家で悪鬼を駆逐した。

梁朝曹景宗は「酒と音楽が好きで、臘月(十二月)家の中で、野呼をして鬼を駆除するために、酒食を求めた」。「野呼」あるいは「邪呼」とは、駆鬼の際に太鼓を打ち鳴らして大騒ぎをすることである。

曹景宗は臣下に儺人に扮させ、「野呼逐除」をさせた。これは本来遊戯にすぎなかったが、一部の者はこの機に乗じて女性を凌辱し、財物を略奪したので、都全体に悪名が轟いた。のちに年末の儺礼が「野雩戯」と呼ばれ、誤って「野雲戯」とも呼ばれたが、「野呼逐除」が訛って変化したのである。


以上の史実から年末の儺礼に重要な変化が発生したことが明らかになった。

 その第一。東晋南朝時代、儺礼をおこなう者は家を一軒一軒まわり、鬼を逐った。受け入れた家族は鬼と戦う人のために酒食を提供し、感謝の意を表した。

 第二に、迷信意識が薄弱になり、儺礼の厳粛さが低下してしまった。多くの人が「野呼逐除」を娯楽活動とみなすようになった。駆疫儀式も風化して、中身のないものになってしまった。

 第三に、鬼と戦う者の身分が一挙に落ちて、乞食に成り果ててしまった。そのまま発展して、唐代以降は、年末に駆疫活動を専門にするのは貧乏人と乞食になってしまった。

 

(7)

 儺礼の形式は時代によって推移してきた。梁朝には金剛力士遂疫礼、唐代には儺翁儺母遂疫礼、宋代には埋祟と打夜胡の挙、清代には跳竈王と跳鍾馗活動があった。これらの儀式はどれも臘月に行われた。当時もっとも流行った神霊が駆鬼の主力だった。


 宗懍(そうりん)『荊楚歳時記』は言う、梁朝では十二月八日を臘祭の日とし、毎年この日になると、「村人は細腰鼓を打ち鳴らし、胡公頭をかぶり、金剛力士を作って疫を逐った」。この胡公頭は仮面である。金剛力士は仏教の名詞であり、手に金剛杵をもつ力士である。儺礼はもともと中国の土俗であるが、梁朝の人はインドの金剛力士を打鬼者の列に加えたのである。


 唐代には鍾馗に扮する「駆儺」に習俗があった。鍾馗信仰がさかんになったあと儺礼が生まれるという一大変化があったのである。唐人李綽『秦中歳時記』によれば、毎年大晦日に儺礼が挙行され、儺をおこなう者は「いずれも鬼神のようになった。鬼神は二人の老人で、儺翁、儺母と呼んだ」。儺翁儺母はあまたの駆疫神仙の首領で、彼らの身分は秦以前や秦漢時代の儺礼の中の方相氏に相当した。違ったのは、彼らが演じたのが一対の夫婦の神であった点である。


 宋代の宮廷内の儺礼と民間とでは、表現形式に大きな違いはなかった。宮廷儺礼は「埋崇」と呼ばれた。それは漢代の儺礼の儀法を多く継承していた。北宋の頃、大晦日になると、禁中で大儺儀式が行われた。大儺に参加するのは禁中の官兵と御用芸術家だった。

「諸班直(随駕衛兵)は仮面をつけ、刺繍を施した衣を着て、金槍、竜旗を手に持った。教坊使(管女楽の官員)孟景初は立派な体躯の持ち主で、金メッキの銅の鎧をまとって将軍に扮した。鎮殿将軍(体格で選ばれる御殿の衛兵)の二人は鎧兜をまとって門神に扮した。教坊「南河炭」は醜悪で太った判官に扮した。また、鍾馗、小妹、土地神、竈神など千人以上が何かに扮した。禁中で祟りを駆逐したあと南薫門(汴梁外城門)から出て、竜湾で転じる。これを「埋祟」という。そして終了する」。

 南宋の時の宮廷儺礼もほぼ同じである。宮廷儺礼の各神霊の役目と漢代大儺中の十二神獣も同じである。儺を行う人々が門を出て「埋祟」を行うが、それは漢代の「伝火棄洛中」が儀演(演出された儀式)化したものである。

 

(8)

 宋代の民間の儺礼は「打夜胡」と呼ばれた。臘月に貧民や乞食によって各家で駆鬼がおこなわれた。梁朝の「あまねく人家に酒食を乞う」の遺風である。北宋の頃、十二月になると、汴梁城内に「貧者三人ほどでひとまとまりになって、婦人や神鬼に扮し、銅鑼を鳴らし、鼓を叩き、家々をめぐって銭を乞うた。俗にこれを打夜胡と呼ぶ。また駆祟ともいう」。

この習俗は南宋の頃から変わっていない。文献に記載されていないので、「夜胡」がどういう鬼怪であるかは不明だ。ある人は、夜胡は夜狐の訛りだというが、信じられる説ではない。むしろ「打夜胡」が「野呼逐除」の訛ったものとする説のほうがありうる。「夜胡」は「野呼」「邪呼」であり、現代人の「咋呼」(呼びかける)に近く、もとより鬼怪の名ではない。

のちの人は意味がわからず、耳にした打夜胡の説を取り、夜胡を、打たれる悪鬼とみなすようになった。

これと対比されるのは、儺字の変化である。儺はもともと駆疫の意味だが、のちの人は駆儺という言い方をするようになった。そして駆儺の儺が一種の鬼怪と誤解されるようになってしまった。


清代の跳竈王(ちょうそうおう)と跳鍾馗(ちょうしょうき)の習俗が三千年もつづいた儺礼の最後の一幕である。褚人獲(ちょじんかく)『堅瓠(けんこ)続集』巻二に収録されている儺礼の変遷についての文のあとに一文が付されている。「今、呉中では、臘月一日に儺を挙行し、二十四日までつづけられる。行うのは乞食である。これを跳竈王という」。

 顧禄『清嘉録』巻十二にはさらに詳しく記される」。「(十二月)月朔、乞食が三、五人と一隊を組んで、竈公竈婆に扮し、それぞれ竹枝を持ち、庭で騒いで銭を乞う。二十四日までおこなう。これを跳竈王という」。

 顧禄はまた呉曼雲『江郷節物詞小序』を引用する。「杭(杭州)俗跳竈王、臘月下旬乞食は顔に墨を塗り、街市を跳び歩き、お金や米を乞う。詩に言う、司命(生命神)の名を借りて郷儺(迎神駆鬼)をなす。酔わずとも踊り続け、派手な仮装を嘲笑される。ただ袋は集まった銭ではちきれんばかりだ」。

 跳竈王の人はお金と物を乞うばかりだが、喜んで嘲笑を受け入れる。この点は秦代以前や秦漢の時代とはえらい違いである。跳鍾馗と跳竈王は同じ系統に属するが、駆鬼の主役は竈王から鍾馗に代わっている。

 顧禄はまた言う。「乞食が壊れた甲冑をまとって鍾馗に扮する。家から家へ踊りながら訪ね、鬼を逐う。また(十二月)月朔に開始し、除夕に終わる。これを跳鍾馗という。周宗泰『姑蘇竹枝詞』に言う。破れた帽子をかぶり、ぼろぼろの衣を着ているが、一万両の黄金(春節のとき黄金万両の字を貼る)があり、進士試験のための香を焚き、切れのいい宝剣で鬼を斬る。意外にも護国の心があり、忠誠心もある」。

 周詩には、鬼を駆逐するぼろぼろの衣裳を風刺している。周秦、前後漢代、儺礼は厳粛なものと受け止められていたが、唐宋以降はいとわしい乞食に演じさせるようになった。儺礼の末路は大衆の信仰の喪失だった。人々はそれに対する情熱を失い、それが歴史の舞台から退場するのは必然だった。