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重陽節中の各地の茱萸の用い方は異なっていた。三国時代、茱萸を頭に挿す人もいた。『歳時広記』巻三十四は『風土記』を引用して言う。「九月九日は人気があり、上九と呼ばれた。茱萸(ぐみ)はこの日までによく熟れ、はちきれそうで、色は赤身を帯びた。人々は争って房を折り、髪に挿した。悪気を取り除き、初寒(最初の寒気)を乗り切ろうとした」。のちに流行した、九月九日に茱萸を髪に挿して高山に登る法術は、これが発展したものと考えられる。
茱萸は辟邪の力を持っているので、茱萸酒を飲むだけで自然と辟邪の力が得られる。南朝の小説家劉敬叔は書いている。
晋の人庚紹は湘東[江西省の一部]の太守の任に就くために向かっているときに死んだ。ある日、人の形を取って(亡霊になって)表弟[父の姉妹の息子または母の兄弟姉妹の息子で自分より年下のいとこ]の宋協のもとを訪ねた。時候のあいさつのあと、庚紹は酒を飲みながら話をしようと提案した。宋協は発泡して飲み頃の茱萸を持って庚紹を招いた。
庚紹が酒杯を飲み干していくと、次第に眉が険しくなり、言った。「この酒には茱萸の気がありますぞ」。すなわち酒杯を置き、それ以上飲まなかった。
宋協は聞いた。「お兄さんはこの酒が恐いんですか」
庚紹は上ずった声で答えた。「鬼どもの役人はみな怖がるかもしれないが、おれは怖がらないよ」。大衆が茱萸酒の鬼を制圧する力を信じていなかったら、劉敬叔はこの物語を(編集の際)選んでいなかっただろう。
『歳時広記』巻三十四に引用する『提要録』に言う。「北方の人は九月九日に酒を研ぎ、門の間に垂らして邪悪を避ける。また塩を少し入れて飲む人もいる」。
また男女がそれぞれ18粒、9粒の茱萸の実を酒といっしょに丸のみする。これで「邪悪を避けることができる」。
茱萸酒は内服として用いられるだけでなく、桃湯と同様にさらして用いることもできる。九月九日に飲むのはもちろんだが、普段から邪悪なものを避けることのできる神秘的な薬物でもあるのだ。
茱萸を着け、茱萸を髪に挿し、茱萸酒を飲むという習俗は唐代に至って隆盛を極めた。漢代とよく似て、唐朝も九月九日に官僚に茱萸を下賜する制度があった。唐代の詩人が茱萸を着け、あるいは挿すさまを歌った例を挙げたらきりがないくらいだ。そのなかでももっとも広く詠唱されたのは、王維の『九月九日憶山東兄弟』と杜甫の『九日藍田会飲』だろう。
異郷の地にいた王維が、重陽節の日、故郷の家族・親戚が髪に茱萸を挿し、山に登る情景を思い浮かべて詠んだ詩が前者。重陽節の日の邪鬼を祓う茱萸でさえ、何ら根本的な解決法になるわけでなく、人は老いやすく、はかないものであると嘆いたのが後者の杜甫の詩である。これらの詩に重陽節の巫術的な意味あいが見え隠れするものの、かなり薄まってきている。
重陽節のときに茱萸を用いる習俗は宋代にはじまったが、次第に衰微していった。宋代の詩に茱萸を詠んだ詩はたくさんあるが、孟元老『東京夢華録』や周密『武林旧事』などの宋代の風俗を描いた書のなかではこれの記述が少なくなっている。ヨモギと同様、茱萸は中国人の観念の中で薬物から巫術霊物になったが、霊物からまた薬物に戻ったように見受けられる。