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犬の血を用いて妖怪を駆逐するのも古代ではよくみられる巫術だった。漢代にはすでに<正月、白い犬の血で不吉なものを取り除く><白犬を殺し、その血で門に題字を記す>といった風習があった。白い犬の血を使用することが強調されているが、それは五行説の観念から来ている。
五行説によれば、西、秋、白色はみな金行であり、犬は金畜である。白犬は金に金が加わったことになり、殺傷能力が高まり、邪悪なものに対しより攻撃的な力を発揮することになる。
葛洪の『肘後方』によれば、からだが冷えて、あるいはぬくもって病気にかかった六、七日後、熱が異常に高くなり、悪い霊が魂を奪おうとする。白犬が背中を破って血を吸い、熱に乗じて胸に入るが、冷めると出て行く。
古代の医師は、白犬の血が魔の起こした病気や小児癲癇、悪性のできものなどを治すと認識していた。これらの療法と巫術の犬の邪気祓いは関連がある。古代方術師の黄色い犬の血を使った療法は迷信の度合いが強かった。
伝説によれば、三国時代の神医華陀は黄犬の血を用い、患者の口から蛇に似た蛇でない虫を取り出した。このことから見るかぎり、華陀の療法は医術というより巫術である。
明から清にかけての時代、犬に対する感情は特別なものがあり、犬の血の迷信は増えこそすれ、減ることはなかった。
『本草綱目』は<方術家は犬を「地厭」とし、一切の邪気を祓う>と記している。
清代の栄葷によると、麻城の医師趙時雍に幼子があった。幼子は、自分は三年前に死んだ劉泰寧の生まれ変わりだと言い始めた。劉氏の生前のことをよく知っていたので、評判は高くなり、毎日たくさんの熱狂的な人々が訪れるようになった。趙時雍はしかしこれは不吉なことではないかと考え、犬の血を幼子に噴きつけた。すると「劉泰寧」は何も話さなくなったという。
清代の黄均宰は記した。蛟竜が地に卵を産みつけたため、付近は
<冬、雪が固まらず、春、草が生えず、鳥もまたやってこない。上方に気があり、朝は黄色く、夕方は黒ずんでいた。その声は雷のようで、秋の蝉が手の中で鳴いているかのようでもあった。そのため金の太鼓、火の武器、犬の血、汚物などによってこれを鎮め、土を掘って(卵を)取り除くことができた。>
犬の邪気祓いはもともと巫師が発明したもののはずだ。しかし、墓穴を掘るとでもいうのか、つねに犬の邪気祓いを行うと、それは巫師にかえってくる結果に終わってしまうのだ。古来より法術の使い手は犬肉を食べないようにしていたが、しばしばその禁を破ったため、能力を失ってしまうことがあった。
元代、民間の巫師劉先生は別の巫師王万里に、生きた魂をコントロールすることができる呪符(おふだ)を伝授した。
「牛と犬の肉は法を破る。食べるのはしばらく避けなさい」
巫師は犬の肉、犬の血を恐れていたので、聡明な人々はこれらのものによって巫師たちの妖術を解くことができた。
『聊斎志異』の一編「妖術」は、妖術によって人を害そうとする卜者と、犬の血で妖術を破ろうとする一般人の対決の物語である。
<豪放な于公は人からアドバイスをもらい、執拗な卜者に犬の気で対抗しようとした。卜者は隠形術によって姿を見えなくしたが、于公は馬上から犬の血をばらまいた。すると卜者の姿が現れた。その頭には犬の血がべっとりとついていたが、目だけはらんらんと輝き、仁王立ちしていた>
清代末期になると、巫術の信徒たちは犬肉と犬の血を避けるようになっていた。下記の文は義和団運動について書かれた記事である。
<三日、牛家荘の(義和拳の)拳民たちが一月近く取り調べを受けているとき、県令はひとりの拳民に黒犬の肉の麺を一碗食べさせ、それによってついにその法術を破ることができた。城内には県令に復讐をしようと各村から人が集まってきたが、老李村からはとくに数百名が武器を持ち、大砲を2台担いで参加し、県令を殺した。その勢いは恐ろしいほどだった。(作者の)弟や土豪は制止しようとしたが、彼らは東林寺を占拠、滞留し、城内に千貫の罰金を課そうとした。官吏も土豪も東林寺におもむいて叩頭し、祭壇を拝んで、謝罪した。>
義和団が汚職まみれの官吏を攻めるのであるが、事件をつぶさに見ると、県令が黒犬の肉麺を食べさせて拳民の法術を破ったことが、暴動の引き金となったのはまちがいない。義和団は呪符や法術を信じ、その法術は政治・信仰と関連していたので、拳民の法術をはずかしめるということは、彼らの信仰や組織をはずかしめるということだった。一碗の黒犬肉麺が暴動を引き起こしたのには、こういった背景があったのである。