古代中国呪術大全
第2章 10 瘧鬼(ぎゃくき)を禁ずる
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漢代の神話伝説を見ると、顓頊(せんぎょく)氏の三人の子が死後疫鬼に変じているが、そのうちの一人が長江の虐鬼である。虐鬼とはすなわち瘧鬼のことである。この神話は漢代に瘧疾が大流行し、人々がそれをいかに恐れていたかが反映されている。瘧鬼が瘧を起こすという迷信の影響はきわめて大きかった。こうしてさまざまな禁治瘧鬼巫術(呪術)が生まれたのである。手っ取り早く説明するために、われわれはこの巫術(呪術)を依時治瘧法、呪符治瘧法、その他雑多治瘧法に分けよう。
(1)時間ごとの治瘧法(上)
魏晋以来,巫医の間に緻密な祓瘧法術が伝えられていた。巫医は、十二種の瘧鬼が十二の時辰を交替で当番に当たっていると認識していた。瘧疾の発作は十二種の瘧鬼が起こさせると考えたのである。瘧鬼にはそれぞれ由来があり、性質もさまざまで、瘧疾を祓除するためには発瘧時間を見て異なる措置を取らねばならない。作者不明の古医書は、黄帝の問いに岐伯が答える形式で十二種の瘧鬼に対処する方法を詳細に記述している。以下に要約する。
<寅時>に発作を起こす虐疾は「獄死鬼」の祟りである。病人を窯の上に置き、灰煙の中で連続していぶし、あぶると、全快している。
<卯時>に発作を起こす虐疾は「鞭死鬼」の祟りである。「五白衣」を焼いて灰を作り、酒、あるいは清水に少しばかり入れて患者に服用させる。
<辰時>に発作を起こす虐疾は「堕木死鬼」の祟りである。病人を大樹の上に登らせ、棘だらけの枝の中にいると、完全によくなる。
<巳時>に発作を起こす瘧疾は「焼死鬼」の祟りである。病人を地面に座らせ、巫師がその周囲に火をともしていくと、治癒するだろう。
<午時>に発作を起こす虐疾は「餓死鬼」の祟りである。瘧(おこり)になった者は手に動物脂肪とたいまつを持ち、無人の田野へ行き、脂肪を燃やし、油脂が香気を出すと、柴狩に行くように装って立ち去る。
<未時>に発作を起こす虐疾は「溺死鬼」の祟りである。虐(おこり)の病人は発作の前に三度東に流れる河を渡る。そうすれば病は癒える。
<申時>に発作を起こす虐疾は「刺死鬼」の祟りである。まさに発病しようというとき、虐の病人は刀を墳墓に突き刺し、墳墓の死者の姓名を呼ぶ。そして呪文を唱える。「瘥(やまい)め、われとおまえの決闘だ」。すなわち、私の病気を治してくれるなら、あなたが刀を抜くことを許そう。
<酉時>に発作を起こす虐疾は「奴婢死鬼」の祟りである。「瘧の病人に臼の少し上の棒の上に伏せさせる。ほかの人が姓を言ってはならない。すなわち「瘥」がよくなる」。臼の上に…の箇所は文意が通じないので誤字が含まれるのだろう。虐の病人には臼の上に寝てもらう。他者は病人の名を口にしてはいけない。そうすれば瘧の病は治癒する。
<戌時>に発作を起こす虐疾は「自絞死鬼」の祟りである。右回りに撚った縄で虐患者の手、足、腰を縛る。そうすれば完全によくなる。
<亥時>に発作を起こす虐疾は「盗死鬼」の祟りである。灰土を病人のまわりに撒く。刀を病人の腹の上に置き、矢を病人の身体の下に置く。
<子時>に発作を起こす虐疾は「寡婦死鬼」の祟りである。虐の患者に服を脱いでもらい、東の部屋の床の上に寝そべってもらう。巫師は左手に刀を、右手に杖を持ち、病人を打って絶叫させる。また水で満たされた瓦盆を路辺に置く。すると全快する。
<丑時>に発作を起こす虐疾は「斬死鬼」の祟りである。虐の患者は頭を東に向け、門に対するように寝そべる。その頭を刺して、頭の下に血が流れるようにする。そうすれば完全によくなる。
以上の十二時祓虐法を支えるのは二種類の原理である。第一に、巫医は、虐鬼が病人の体内に潜伏すると認める。第二に、各種虐鬼の同一でない心理に焦点を絞り、それに合わせた駆鬼方法を使用する。両者を結合し、いくつかの方法によって虐疾患者を震撼させ、懲罰する。
たとえば、辰時に祟りをなす墜木死鬼は、樹上から落ちた人が変成してなった虐鬼である。彼らはこのような経歴を経ているので、樹上を怖がり、辰時に病気になった虐疾患者は棘だらけの大樹に登らなければならない。こうして体内の虐鬼を鎮めるのである。
おなじ理屈で焼死鬼は火を怖がるので、周囲を火で燃やす方法を取る。溺死鬼は水を怖がるので、三渡東流水法を用いる。自絞死鬼は縄を怖がるので、縄で病人を縛る方法を用いる。寡婦死鬼は刀杖を怖がるので、巫師は手に刀杖を持ち、患者を叩くと女人のような叫び声をあげる。患者体内の寡婦死鬼が同時に杖の打撃を受けていることがわかる。もっともアンラッキーなのは丑時に発病する患者である。巫師は病人の体内に斬死鬼が隠れていると認定する。頭を斬られた人が変成した虐鬼である。ただ患者の頭を切って血を放出すれば虐鬼は畏れおののいて、逃げ出すだろう。
あきらかに、木に登ったり、縄で縛ったり、杖で打ったり、頭を切ったりする治療は、患者側に巫術に対する堅固な信念が必要だった。さらには強い身体と超常的な抵抗力が必要だった。
(2)時間ごとの治療法(下)
『医心方』巻十四に引用する『范汪方』につぎのような禳瘧法が記されている。それには瘧疾発生の時間に応じた十二種類の法術がある。ただ列挙した鬼名と駆鬼法には別の貌がある。
<平旦(卯時)>に発作を起こす瘧疾は、「外郷鬼」(外部の村の鬼)の祟りである。発作前に、病人に告別するかのごとく衣を持たせると、旅をしたいと言い出す。するとたちまち病は癒える。
<食時(辰時)>に発作を起こす瘧疾は、「客死他郷鬼」(客死した他の村の鬼)の祟りである。発作前に、病人に故郷に帰ると偽りを言わせると、(鬼は)大通りや橋の下へと出たあと、逃げて(故郷に)戻ろうとする。
<禺中(巳時)>に発作を起こす瘧疾は、「市死鬼」(受刑して死んだ鬼)の祟りである。病人に枷(かせ)をかけ、鎖につなぎ、北に向かって座らせる。また浅い坑(あな)を掘り、周囲をまわる。
<日中(午時)>に発作を起こす瘧は、「溺死鬼」の祟りである。両手のひらに受け止めた水を庭にまく。南に向かって座り、浅い坑(あな)の周囲をまわる。
<日跌(昳、昃、未時)>に発作を起こす瘧は、「亡死鬼」(有罪で逃亡した死鬼)の祟りである。発作の前に病人に「吏よ、庭で汝を捕えよ」と言わせる。吏は庭であなたを捉えなければならない。
<晡時(申時)>に発作を起こす瘧は「首吊り鬼」の祟りである。病人を家の中の梁の下に寝そべらせ、病人の首に縄を巻く。
<日入(酉時)>に発作を起こす瘧は、「人奴舎長死鬼」の祟りである。発作が起きる前に病人にそれをひきうすの間に逃がす。
<黄昏(戌時)>に発作を起こす瘧は、「盗死鬼」の祟りである。病人を遠くの地に隠れさせる。彼がどこに行ったか人に知られてはいけない。
<入定(亥時)>に発作を起こす瘧は、「小児鬼」の祟りである。「病人が小児の墓の上の草木を折ると、たちどころに癒える」。
<夜半(子時)>に発作を起こす瘧は、「凍死鬼」の祟りである。病人に暖かい衣を着せる。浅い坑(あな)に座らせ、周囲をまわる。手に桃枝を持って飲食し、そのあと屋内に逃げ込む。ほかの人に気づかれてもかまわない。
<夜過半(丑時)>に発作を起こす瘧は、「囚死鬼」の祟りである。病人に官家が用いる刑具(司空の刑具)を持たせる。というのもそれらは「汝を鞭打つ刑具」だからだ。これは病人が平素から畏れているものを指している。病人を鞭打つ人であり、病人は彼に従っていくだろう。
<鶏鳴(虎時)>に発作を起こす瘧は、乳死鬼(死産の子の鬼)の祟りである。病人に藁(こう)を真菰の敷物とさせ(この一節は意味不明)、また病人に桃枝を手に持たせ、浅い坑(あな)の周囲をまわらせる。
さて、考えてみたい。平旦、食時などの名称によって昼夜は十二の「時段」に分かれるだけでなく、それぞれ十二地支が配合される。この起源は秦代以前にたどることができる。
睡虎地秦簡『日書』乙種には「日出卯、食時辰」などの十二時表がある。これは十二時辰のもっとも早い記述である。
しかし「『史記』『漢書』『素問』「蔵気法時論」などの書や居延漢簡が記す時辰などを見ると、秦漢代の民間で広く使用されていたのは十六時間制であることがわかる。十二時間制は暦法家などごく一部の人が使用していたにすぎない。十二時間制が民間で一般的になったのは、前漢の終わりから新莽[王莽が簒奪して建てた新王朝のこと]にかけての頃である」。
これを根拠に上述の二種類の禁瘧医方時代について考察すると、その上限は前後漢代より前ではないと推測できる。また酉時に瘧疾の発作が起きると、病人を碓の中に隠したり、碓の間から逃走したりする。つまり碓で米を搗くことを医方の作者が知っていたということである。碓は、脚で杵を踏み、水力で米を搗く道具である。水碓は後漢末期にしだいに流行した。これらを総合的に考えると、上述に引用した医方が書かれたのは、魏晋時代であることがわかる。
引用した二つの医方は、酉時(日入)瘧鬼は「奴婢鬼」あるいは「人奴舎長死鬼」であると述べ、患者と碓に関係が発生するよう要求している。この種の描写は、きわめて古い考え方に起源がある。睡虎地秦簡『日書』乙種の十二時表には、「舂時酉」という語も見える。「舂時」は「日入」に相当する。舂者の多くは奴婢で、舂時の瘧鬼が死んだあと変じた鬼と考えられた。こうした想像と、秦人の考え方や習慣との間に密接な関係があった。
『范汪方』は禳瘧方法に言及している。それは瘧が発した時間に応じて異なる法術を行うよう要求している。また瘧鬼の特徴を捉えて薬物治療を行う点を強調する。たとえば「平旦に発作が起きた者は、市死鬼(の祟り)であり、恒山[五岳の北岳恒山のこと]はこれを主とする。薬を服し、刀を持つ。食時に発作が起きた者は、縊死鬼(の祟り)であり、蜀木[蜀の地に生える巨大な樹木]はこれを主とする。薬を服し、縄を持つ。日中に発作が起きた者は、溺死鬼であり、大黄[中医薬で使われる植物]はこれを主とする。薬を服し、盆水を持つ」。これはいわば巫術と医術の混合である。
(3)符呪による瘧の治療(上)
『千金翼方』巻二十九「禁瘧病」は十数種の禁呪法に言及している。この呪法は4種に分類される。
A <山水の神を呼び、瘧鬼を呑食する>
「高山に登り海を望むと、水中に竜が見える。三頭九尾(三つの頭に九つの尾)の竜だ。(五穀は)食べず、瘧鬼のみを食べる。朝に(瘧鬼を)食すこと三千、暮に食すこと八百」「南山一神字銅柱。天門を出て地戸に入る話す者がいる。瘧鬼を捉え、鑊(おおがま 刑具)で煮る。南山一神字長丘[浙江省の歴史的地名]。早く起きて門に至り、家の周囲をめぐる。瘧鬼を捉え、頭を斬る」。
B <呪文と磚(れんが)>
瘧疾を長年患う者は「まず磚(れんが)を一つ取り、病人を誰もいないところにいさせる。誰にも見られないようにする 」。この月の建日から破日まで、磚(れんが)を用いて地面をよく延(の)して平にし、磚の四角(よすみ)を持って地面に立てる。磚と対する地点の地面に北斗七星を画く。その近辺に「三台六星」[大熊座。二星ずつ、上台、中台、下台と呼ばれる]を画く。そして現在の旬(十日間)の「孤虚」を書く。すなわちこの旬に欠けていて、空虚とみなされる地支の名称である。北斗の中には小鬼が画かれ、北斗の柄のところには患者の姓名、年齢が書かれ、呪文が唱えられる。
小鬼字(あざな)〇〇、年〇歳、你従台入斗(台から北斗に入り)、瘧鬼断後(瘧鬼を断ったあと)……(不鮮明)
呪文を唱えたあと、磚(れんが)を寝かす。もし患者が毎日瘧の発作を起こすなら、磚を「二七」で叩く。隔日で瘧の発作を起こすなら、磚を「三七」で叩く。三日に一回で、あるいはそれ以上の間隔で発作を起こすなら、磚を「四七」で叩く。磚を叩いたあと、周辺の土を用いて磚を積み重ね、また左手で土をつまみ、磚の上に撒く。そこを離れるときは振り返ってはならない。この方法は「大験」と呼ばれる。
もし病人が術士に罪を着せるなら、術士は病人に瘧疾の発作を起こさせるのは簡単なことだと考える。十四日以内に患者の頭髪を取り、もとの場所に戻って磚を蹴り、呪文を唱える。
小鬼よ! 爾(なんじ)が斗[北斗]から台[三台六星]に入るなら、瘧疾は戻ってくるぞ!
病人はさらに瘧疾の苦しみを味わうことになる。
C <呪文と桃枝>
日中時に南方に向かって立ち、北西の(北西に伸びる)桃枝を首や手足に巻き付ける。灰土を三圏に撒き、中央に刀を挿す。
そのあと「頭上戴九天(頭上に九天を戴く)、両手把九弓(両手で九つの弓を持つ)」などの呪文を唱える。
桃枝に呪文を書くという方法もある。「南山有地、地中有虫、赤頭黃尾、不食五穀、只食瘧鬼、朝食三千、暮食八百」(南山に地あり。地中に虫あり。頭は赤く、尾は黄色い。五穀を食べず、ただ瘧鬼のみ食べる。朝に三千食べ、暮に八百食べる)。
朝、彼が顔面に泡を吹いていたら、呪文を十四遍唱える。そして病人の頭上に桃枝を掛ける。
D <呼鬼名法使用を偏重する呪文か、その他の魔除け使用を組み合わせた呪文>
たとえば、
唾! 瘧鬼翁字園(周)、母字欲、大児嬴長矣、小児如石、大女鬲甑炊、小女魯子因。玉道将軍取瘧鬼、不得停留、速出速出、不得停住。急急如律令! [唾を吐け! 瘧鬼翁字(あざな)園に。母字(あざな)欲に。大児嬴長矣(えいちょうい)に。小女魯子因に。玉道将軍は瘧鬼を取り、停留しない。速く出て、とどまらない。律令のごとく厳格に急げ]
登高山望海水、使螳螂捕瘧鬼。朝時来暮時死、暮時来朝時死。捕之不得与同罪。急急如律令![高山に登り海を眺め、螳螂(かまきり)に瘧鬼を捉えさせよ。朝に来て、暮に死す。暮に来て、朝に死す。これを捉えなければ同罪である。律令のごとく厳格に急げ]
呪文の内容から、術士は呪文を唱えるとき、実際に生きたカマキリを手に持っていた可能性が大きい。
(4)符呪による瘧の治療(中)
呪文を書く呪法がある。『千金方』巻十に呪文が記録されている。
瘧小児、父字石抜、母字石錘、某甲(患者の姓名)患瘧、人窃読之曰
一切天地、山水、城隍、日月、五星皆敬竈君、今有一瘧鬼小児罵竈君作「黒面漢」、若当不信、看文書。急急如律令!
この呪文はかまどの神である竈君(そうくん)を激怒させ、全力で瘧鬼を駆逐するよう仕向けた。無中生有、すなわち無の中に有を生じることができる術士は、「竈君の呪」を作り出し、瘧鬼に「黒面奴」という罪名を着せた。
呪文を使って要求する。真書(楷書)で書き、文字の前後に一行の空白を入れる。呪文の短冊を竈の額に置き、瓦石で圧す。ただし文字の上を圧してはならない。また灰土で文字を覆ってはいけない。また人が短冊にもたれかかってはいけない。もっともいいのは、そのために専用の看守を派遣して見張らせるといい。
もし瘧疾が明日の日の出のときに起きたなら、その日の夜に人を派遣して竈を掃除して清めなければならない。つぎの日、瘧の発作が起きる前、衣や帽子の端を竈の前に置き、呪文を唱え、あるいは別の人に代わりに唱えてもらう。唱えるときはとくに気をつけて、一字一字しっかり見て、毎回一遍だけ唱える。患者は跪拝し、自分の姓名を報じる。三遍唱えたあと、竈の額に呪文の短冊を圧しつける。
もし瘧の発作が夜間に起きたなら、黄昏時に追加して三遍唱える。
瘧を駆逐する者はときには呪文を身体の上に書く。『范汪方』の「治鬼瘧方」の記録によると、紅を用いて額に「戴九天」、腕に「抱九地」、足に「履九江」と書く。
背に書く。「南有高山、上有大樹、下有不流之水、中有神虫、三頭九尾、不食五穀、但食瘧鬼、朝食三千、暮食八百。急急如律令!」。
胸に書く。「上高山望海水、天門亭長捕瘧鬼、得便斬、勿問罪、急急如律令!」
『如意方』に言う、瘧が発作を起こす日、早くに起きて井華水(早朝一番に汲む水)を汲み、朱砂と混ぜる。額の上に「天獄」、胸の上に「胸獄」、背中に「背獄」、左手の上に「左獄」、右手の上に「右獄」、両足の土踏まずに「地獄」と書く。書き終わると東方に向かい、呪文を三遍唱えると瘧疾は癒えている。
また術士はこれを用いて小児瘧疾を治す。『産経』に言う、「(小児の)頭、顔、胸、背中に筆で天公と書く。胸には朱書で呪文を書く」。
太山之下有不流水、上有神竜、九頭九尾、不食余物、正食瘧鬼、朝食一千、暮食五百。
一食不足、遣我来索、瘧鬼聞之、亡魂走千里。
瘧疾患者は全身に紅色の呪文が書かれる。そのさまは怪異で、怖くなるほどだ。それを傍観する者には強烈な視覚的刺激を与えることになる。
(5)符呪による瘧の治療(下)
仏教徒や民衆が創り出した駆瘧呪法もまた数多く見られる。『堅瓠七集』巻四に収録される「瘧堙迦醯迦、瘧堕帝薬迦、瘧怛唎帝薬迦、瘧者特托迦」。これは仏教徒の瘧を治す呪文である。
古い小説『録異伝』には自称「邵公」が創った瘧疾を治す民間の呪法が載っている。民間の瘧を治す呪文の内容は、瘧鬼や瘧疾とは関係がない。たとえば『堅瓠七集』が引用する「少陵子璋髑髏血模糊、手提擲環大夫」「江西人討木頭銭、要緊要緊」などの呪文は、等しく神秘怪誕の類である。
十二種の瘧鬼は、十二時間の時間ごとの瘧疾という観念を作り出した。そしてその影響で符籙が創り出された。
晋代の道士陸修静らが編纂した『太上洞玄霊宝素霊真符』巻下「治瘧疾」章には、瘧を発した時間ごとに使用した三十六道の符を列挙している。三道ごとに符は一つの時辰を掌る。それぞれ一つの瘧鬼(の起こした瘧)を治す。
異なる時辰に使用した符に応じて異なる体の部位に符を書く。もし平旦に発作を起こしたのなら、瘧(兵死鬼)の符を左脇下に書く。日出時の瘧を治すなら(盗賊死鬼)の符を右腋下に書く(以下略)。符を記す者は、これらの符を用いれば十二時間の瘧鬼を収めて「たちまち癒える」効能があると称す。
道家の瘧を治す符の種類は非常に多い。直接患者の身体の上に書く符籙のほか、佩帯する符、呑服用の符などもある。組を成す符以外にも、ばらばらな雑多の符もたくさんある。
道士は五月五日の呑符は、瘧疾の予防に有益であると認識している。たとえば三十代天師虚静は治瘧秘法を伝えてきた。すなわち朱砂、雄黄を研磨して細かくし、五月五日に水と合わせる。そして5枚の銅銭ほどの大きさの槐紙(かいし)に「天地日月星」と書く。紙を丸めて桃柳湯によって服用する。すなわち「大治瘧疾」である。
ほかの秘法では、五月五日に香を焚き、叩歯し、七枚の橘の葉の上に魁、𩲃、□(鬼+雚)、□(鬼+行)、□(鬼+田+甲)、□(鬼+甫)、□(鬼+票)の七字を書き、焼いて、研磨し、井華水で調和し、北に顔を向け、服用する。瘧を治すのにおおいに効果があった。
古代の文人の多くは符呪によって瘧が治ると信じていた。熱心な人はただ信じるだけでなく、世間に広めた。『続子不語』巻五「駆瘧鬼呪」に言う、「瘧鬼は干支、日ごとに分かれ、名前がある。病を得た日、名前を調べれば、符でこれ(瘧鬼)を駆逐することができる」という駆除法がある。これでももっとも霊験があるというわけではない。もっとも霊験があるのは、『太平広記』に記載された呪文である。
勃瘧勃瘧、四川之神、使我来縛。
六丁使者、五道将軍、収汝精気、摂汝神魂。
速出速出、免逢此人!
瘧を発したとき、つぎの呪文を唱えるだけでもいい。
寒熱即散、汗出而癒。
張雨材という人の「試したところ験があった」という言葉どおり、台州に広がり、試せばかならず効があったという。信じられるものもあったので、巫術を信じる者らは一挙に広げておき、さらに多くの瘧疾患者が符呪の試供品となった。
(6)その他雑法
<刺影法>
古代においてよく見られた治瘧法に、刺影法術があった。巫師が左手に水の入った碗を持ち、右手に刀を持ち、瘧疾を患う子供に面と向かい合い、呪文を三度唱える。そのあと禹歩で病気の子供に近づき、碗の中を覗くようにと言う。巫師は息を吐き、その刀で碗の中の子供の影を刺す。
<呑豆法>
大豆を割り、皮を取り、「日」の字を書く。ほかの大豆に「月」の字を書く。左手に「日」、右手に「月」を持ち、これらを呑み込むと、病は癒える。
<蜘蛛の糸法>
四季の終わりに、「大きな蜘蛛を一匹取り、盧(あし)の茎の中に入れ、茎の口を塞いで密閉する」。盧の茎から垂れ下がる蜘蛛の糸を喉の上に掛ける。
<旧靴底焼灰冲服法>
古い靴底の両つま先を焼いて灰を作る。井華水とともにこれを服用する。
<雄鶏禳瘧法>
発作が起きる前に大きな雄鶏を抱き、その頭を懐に入れる。しきりに動き回る鶏に大きな鳴き声をあげさせる。するとたちまち瘥(い)える。
<獅子を画いた蟹を掛ける法>
北宋時代、陝西秦州の人は干し蟹を怪物とみなした。「家族に瘧を病む者があれば、(干し蟹を)借りて門に掛けた」。清代の人はなおも「干し蟹を掛け、門に蟹を画けば、瘧が治る」と信じていた。
<高官画押法>
昔、文潞公(文彦博)[政治家、書法家1006-1097]は「花押で瘧を治すことができた。公女(諸侯の娘)はそれを切ったものを食べて病人を治療した。
古代の民間には居住地や住所を変えることで瘧鬼を避ける風習があった。瘧を避けようとする者は、仮装することもあった。瘧鬼を迷わせることで目標からはずれようとしたのである。
宋の趙与時(ちょうよじ)『賓退録』巻七に言う、「世に瘧疾がはやると、ほかの場所に移して避ければいいと、唐以来巷ではそういわれてきた。高力士が巫州(四川・叙州の旧名)に流され、李輔国が懲罰を受けるとき、力士は「逃瘧」(瘧鬼を別の場所に逃がして難を避けること)の功があった功臣されている。杜子美の詩に言う。
三年猶瘧疾、一鬼不銷亡。
隔日捜脂髄、増寒抱雪霜。
徒然潜隙地、有靦屡鮮装。
すなわちこれを避けることができず、顔を塗布することになる。
周作人はこのことを『瘧鬼』という短文にまとめている。少年時代に見聞した避瘧のことと村の瘧鬼廟の情景を記している。逃瘧塗面のことはたいてい三代前に起こったこととされるが、唐代にはすでに記録されていると述べる」。
避瘧は消極的な逃避方法である。そして非典型的な攻撃的巫術である。しかし瘧鬼信仰を反映するものであり、上述の禁瘧法と完全に同じものである。