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<衅礼器> 

 『礼記』「雑記下」に言う、「宗廟の器、その名が成る、すなわちこれを衅(きん)するに豚(ぶた)をもってする」。宗廟の礼器というのは名目上のものにすぎない。これを作ったあと、オス豚の血を塗りこまなければならない(それではじめて礼器となる)。

 『周礼』の記載によると、祭祀の雑務を担当する小子は「衅邦器および軍器」いわゆる「邦器」すなわち礼器楽器の類を掌る。宝物を収蔵する天府を掌り、毎年の開春にあたって鎮国のために宝物と宝器の衅礼をおこなう。

 『礼記』「文王世子」に言う、周代の貴族教育の中で教学用具としての礼器楽器をなし、作ったあとに動物の血を塗りこむ。


 『孟子』「梁恵王上」は斉宣王の衅錘のとき、牛に代えて羊を用いたと言及している。斉宣王がこのようにしたのは、衅錘のために一頭の牛を殺すのが惜しかったからである。しかし孟子は独自の見解を持っていた。斉宣王は「良知不泯」(良心が完全に失われたわけではないこと)で、仁政を発揮することができた。斉宣王が羊を牛に代えたのは、衅礼に対してあまり敬虔でないことを反映していた。これは衅礼が没落の兆候であるとみなされたからである。


<衅亀策>

 亀策とは、占い用の亀甲(甲羅)、蓍草(めどぎ)、筮竹のこと。亀甲、蓍草は本来、予知や吉凶の霊物だった。それに血を塗ることは、結果を予測し、さらに霊験を加えるということだった。

周人の習慣では、毎年正月には新しい亀甲に血を塗った。秦人は毎年十月に亀策をなし、亀卜・繇辞(ちゅうじ)の経書を記録し、衅礼をおこなった。秦人は十月を年のはじめとした。周、秦の礼俗は実際異なるものではなかった。いずれも衅亀策を新年の重要な活動とみなしていた。