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青牛辟厭法術と同様、髯奴辟邪術の源も相当古い。
秦代以前は、勇武が尊ばれていた。当時の人は絡腮鬍(らくさいこ)[口のまわり、あご、頬に生やしたヒゲ]を男子の勇壮さのしるしとみなしていた。
『詩経』「盧令」の最後の章で詠まれている。「盧重鋂(ろじゅうまい)、その人美しく、偲(ひげもじゃ)である」。盧は猟犬の一種。鋂は狩猟のとき首にかける金属の輪。偲(さい)は男子の頬いっぱいに生えたヒゲ。絡腮胡子(ひげもじゃ)の大男が獰猛な猟犬を連れている。そのさまは、伝説中の青竜偃月刀を持った美髯公関雲長(関羽)にすこぶる似ている。最初に掲げた詩が女性の心をうたったものだと理解すれば、彼女が称賛した「美しく、偲(ひげもじゃ)である」が当時の女性のもっとも敬愛すべき男子の姿であることがわかるだろう。
春秋時代、宗国大臣華元は鄭国と戦っているとき捕らわれて俘虜となった。宗人は百両の戦車、百頭の馬と引き換えに華元を取り戻した。のちに華元は築城の監督を務めたとき、築城の現場で働く国人が彼を風刺する歌謡をうたっていることに気がついた。
「目は見開き、おなかは大きく、甲冑を捨て、また取り戻す。思い、思いて、甲冑を捨て、また来る」。
大きな目で刮目し、壮健勇猛で(原文は挺胸腆肚)、顔面いっぱいに立派な髯(ひげ)をたくわえ、威武そうそうたる風貌ではあるが、惜しいことに、かぶとをなくし、よろいを捨てた敗軍の将である。この歌謡をこまかく見ると、相貌と行いが不一致であることをうたっている。立派な美髯は無駄に生えているだけ。
前535年、楚霊王新しく建設した章華の台の宴に魯昭公を招いた。門は「長鬣(ちょうりょう)の士」という侍者に守らせた。「長鬣とは美しい須髯(ひげ)のことなり」。楚人から見ると、長鬣の士は大国の気風を表していた。長鬣は勇武を代表し、勇武の士は鬼魅を御することができた。「鬼畏髯奴」(鬼はひげやっこを畏れる)という観念はこうして形成されていった。
前525年、呉楚が交戦したとき、楚人は呉の前の世代から伝わる戦船「余皇」を奪った。呉の公子光は雪辱を誓い、三人の長鬣者を楚軍に潜入させた。戦船余皇の近辺に潜伏する前に、光は三人と約束を交わした。
「おれが余皇と声を上げるから、聞こえたら暗闇の中で答えてくれ」
その日の深夜、公子光は三度「余皇!」と呼んだ。戦船近辺に潜伏していた三人の呉国の長鬣の士は三度高い声でこたえた。
楚人は潜伏者たちを殺したが、混乱を収めることはできなかった。呉人はこの機に乗じて攻め入り、楚師を撃破し、余皇を奪回した。
なぜ長鬣者は前もって潜伏したのだろうか。長鬣者らは余皇と呼ばれて答えたとき、どんな雰囲気だったろうか。なぜ楚軍は三人の長鬣者らに撹乱され、大混乱を起こしてしまったのだろうか。当時の鬼神信仰から見ると、この戦役のなかで、長鬣者は戦船の神にしかみえなかったろう。公子光は三人の「大胡子(ひげもじゃ)」に「余皇」の呼び出しにこたえさせ、戦船に霊的な見せかけの雰囲気を醸し出そうとした。
戦船が自ら答えるのは気味悪かった。ヒゲを胸に垂らした三人の長鬣者が船から飛び出したら、さらに恐怖はつのっただろう。楚人は殺した三人の長鬣者が人か神かわからなかった。まさに恐れ、疑っていたとき、戦闘意欲は崩壊してしまった。これは公子光の狙い通りだった。
公子光は長鬣者に神霊の扮装をさせたが、当時、長鬣は神霊と関係あると考えられていた。長鬣者が扮する神と鬼を駆除する髯奴はまったく同じというわけではないが、よく似ていた。長髯は武勇の象徴であり、鬼神に扮するのはいわば自然の装飾である。鬼神を威嚇する自然のお面だった。
晋人は髯奴と青牛を同等の威力を持つ特殊な巫術霊物とみなした。今まで述べたように、観念が発展した結果である。