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唐代のはじめ、唾呪(だじゅ)法術は全盛期を迎えてようとしていた。当時の名医がそれを公然と医典に入れるほど一般化していた。唾液の神力は極端に粉飾されたが、奇怪な呪文が疑いの目で見られることはなかった。こうしたことが医学として見られることは、後世の医学界にはなかった。
孫思邈(そんしばく)の『千金要方』と『千金翼方』が当時のその方面の代表作である。『千金要方』巻五の「治客忤法(ちきゃくごほう)」と巻二十五の「治金瘡法」にそれぞれ唾呪法術について書かれている。[客忤とは夜驚症のこと]
そのうちの一つ「治客忤法」とは、かまどの上に置いた刀で、子供の衣服をほどき、心臓のところを露出し、呪文を唱えたり唾を吐いたりしながら、同時に刀を揮って腹部を切り裂く動作をする。
孫氏は、呪文を唱えるとき、「啡啡(フェイフェイ)」という声を伴わなければならないと指摘する。「啡」は「呸(ぺい)」の古文字である。[擬態音で、日本語では「ぺっ」に当たる]呪文が14句あるとすると、「二七啡啡」が配されることになる。[二七は2×7=14]ゆえにこの呪文はつぎのようになる。
「煌煌日は、呸(ぺい)! 東方から出る、呸(ぺい)! 陰を背に、陽に向かって呸(ぺい)! 葛公、葛公、呸(ぺい)! 何公か知らず、呸(ぺい)! 子が来て、子が顧みずに去る、呸(ぺい)!」
14回唾を吐き、呪文を14回念じ、14回切って一遍とする。三遍おこなったあと、豆豉丸で子供の体を三度摩擦する。さらに呪文を唱えること三度、刀でこの団子を開く。
その中に毛が入っていたら、団子を道中に捨てる。客忤[夜泣きなど子供の病気]は癒える」。
治金瘡の唾呪法のために呪文を念じる。
「某甲(患者の名)は、今日の具合はよくない。某所に傷がある。天皇に上告し、地王に下告せよ。清い者は出るなかれ。汚れた血を揚げるなかれ。良薬百袋、熟れた唾には及ばない」。
一日に十四遍念ぜよ。傷口の痛みにはこれしかない。「これに唾をかければ(痛みは)止む」。
唾法の歴史は十分に長いが、巫師は呪文の中で噀唾(そんだ)の威力を無限に誇張する。自分の吐き出した唾は山を崩し、岩を裂き、天地をひっくり返すと豪語する。しかし秦漢の時代はまだそんなに唾の力を見ることはなかった。力を大げさに見せるのは、魏晋以来の巫師と道士の新機軸だった。
唐代の巫道(巫師と道士)は、呪文を丹念に作り上げ、唾液の神化を進めた。そしてそれはかつてない高みに達しようとしていた。
『千金翼方』の末尾の二巻には、唾と関連した代表的な呪文が収録されている。巻二十九の「大総禁法」中の呪文は、つぎのごとき。
「一唾止毒、二唾止瘡、三唾之後、平常如常」(一つば吐いて傷を止め、ふたつば吐いて瘡(はれもの)を止め、三つばを吐いたあと、つねのごとく平常である)。このように比較的つつましやかな方である。
しかし一部の呪文は瘋癲の人のようにたわごとが並ぶ。瘡腫の呪文はつぎのとおり。
吾口如天雷、唾山崩、唾木折、唾金缺、唾水竭、唾火滅、唾鬼殺、唾腫滅。(わが口は雷のようだ。唾は山を崩し、木を折り、金属は破損し、水は涸れ、火は滅し、鬼は殺され、腫物は消えた)
池中大魚化為鱉、雷起西南不聞音。(池の中の大魚はスッポンとなり、雷は西南に見えるが音は聞こえない)
大腫如山、小腫如気、浮遊如米。(大きな腫れは山のごとく、小さな腫れは気のごとく、米のごとく浮遊する)[気はおそらく粟(あわ)]
吾唾一腫、百腫皆死。(わが唾で一腫、百腫でみな死ぬ)
急急如律令!
禁疔瘡の呪文もある。
吾口如天門、不可枉張、唾山崩、唾石裂、唾金缺、唾火滅、唾水竭。(わが口は天門のようだ。捻じ曲げることはない。唾は山を崩し、唾は石を裂き、唾は金属を破損させ、唾は火を滅し、唾は水を涸れさせた)
急急如律令!