古代中国呪術大全 

第2章 13 竜蛇毒虫よけ 

 

(1)

 伝説中の蛟竜は雲を興し、雨を播く水中の精怪であり、水虫(水中の毒虫)の長である。古代において舟を使う人はみな蛟竜が舟を転覆させると信じていた。それに対処するために秦代以前の巫師(シャーマン)は水に投擲して鎮める呪術を考え出していた。牡橭(にれ)の木の幹の上に孔をあける。象牙を二本の幹の孔に通す。一本ずつ縦と横に並べ、十字架の形を作る。これを水底に沈めると、水神竜や罔象(ぼうぞう)を殺し、深淵を山稜に変えることができると巫師は認識していた。

 『周礼』には壺涿氏という小官が出てくる。水虫(水中の毒虫)を駆除するのが仕事である。彼らは「牡橭にれ)の木(の棒)と象牙を交叉させて十字形のものを作り、これを水中に沈めて」水神を駆除する。これは彼らが組織を作り、実施する。壺涿氏は水虫(毒虫)を駆除するのに瓦太鼓を叩き、水に「焚石」を投擲する。焚石を投げると、水の毒虫を熱死させることができる。これ(熱死させる)は巫術(呪術)ではない。しかし瓦鼓を叩くのは伝統巫術の鼓騒法である。この小官はつねに鼓を叩いて毒虫を攻撃している。それゆえ『周礼』の作者は彼らを壺涿氏と呼ぶ。「壺」は瓦鼓を指し、「涿」は叩くことを意味しているのである。

 

(2)

 漢代の術士は禹字の符や禹字の印による蛟竜の辟除に慣れていた。伝説によれば大禹は治水のために「地を掘ってこれを海に注ぎ、竜蛇を駆ってこれを沼地に放った」。術士はこのことから連想し、竜蛇は大禹を恐がっているので、禹字を用いて蛟竜と風波を制圧することができると考えた。

 

 応劭『風俗通義』は「五月五日に五彩絹を腕に着ける」という習俗と屈原の記念とは関係があると言及している。呉均『続斉諧記』によれば、漢代の人はお米を盛った竹筒をセンダンの葉で覆い、竹筒のまわりに彩絲をぐるぐる巻いて、それを水に投げて屈原を祭った。人々は蛟竜がもっともおそれているのはセンダンの葉と彩絹と認識していたので、彼らが屈原にささげた祭品をふたたび盗み取ろうとはしないだろうと考えた、また五彩絹は漢代に流行した辟邪霊物でもあった。応劭、呉均は漢代の人々が駆蛟活動をするにおいて彩絹を応用したことを描いた。

 

 晋代の葛洪は、「海や川をわたるとき、蛟竜を避ける法」について詳しく論じている。葛氏が述べるのは四つの方術である。

 一、洗濯。大きな川を渡る前、川辺に水で満たした容器を置く。それに鶏子(たまご)を入れ、さらに雑香粉末を加える。そしてむらなくよくかき混ぜたあと、それで体を洗い、衣服を洗う。「すなわち風波蛟竜を恐れず」。

 二、佩符(はいふ)。川を渡るとき「東海小童符」「制水符」「蓬莱札」「六甲三金符」「皆却水中之百害也」を佩帯(身につけること)する。帛の上に星辰図と「大」の字、あるいは「有北帝書」と書く。また「風波蛟竜水虫也」と書かれた符を佩帯する。

 三、禁呪。川に臨んでの呪文。「巻蓬巻蓬、河伯導前辟蛟竜、万災消滅天清明」。また「五木禁」。この内容は不明。

 四、神剣の佩帯。葛氏が引用する『金簡記』に言う、五月丙午日中に五石すなわち雄黄(鶏冠石)、丹砂、雌黄(石黄)、礬石(明礬石)、曾青(アジュライト)をよく搗いて粉末にし、「金華池」で水に濡らす。そのあとそれと銅鉱石を「六一神炉」に入れ、送風しながら精錬する。まず桂木を燃料とし、銅ができたあとふたたび「剛炭」を用いて重煉する。童男童女によって薪を加え、火を持続する必要がある。鉱石を溶かしたあと、童男童女によって銅に水をそそぎ、銅が自然と両段に分かれるようにする。一段凸になった部分を「牡銅」と呼び、一段凹になった部分を「牝銅」と呼ぶ。牡銅から鋳造した剣が雄剣で、牝銅から鋳造した剣が雌剣である。それぞれ長さは五寸五分となる。五行の体系の中で、数字の五と土を相配し、「土の数を取って」剣を鋳造する。つまり土が水に克ち、水精を圧伏する。渉江渡海するとき、左に雄剣を、右に雌剣を佩帯する。「すなわち蛟竜、巨魚、水神はあえて人に近づかない」。

 

(3)

 術士が用いた蛟竜に対する神薬はまだある。柳宗元『竜城録』には、術士賈宣伯が除虫神薬をつくったと書かれている。処方は簡単である。

 黄柏木をよく煮詰めて、煎じ、熱い酒をぶちまける。彼は松江で巨魚を捕える。一刀圭(薬さじ)ほどの神薬を魚網に入れると、すぐに魚は毒があたって死ぬ。奇妙なことに死んだ魚から八本の足が出てきて、それぞれに鷹のごとき爪がついている。のちに呉江は妖怪が出没したが、これは蛟竜の祟りとみなされていた。[古代の松江、あるいは呉江は、現在の呉淞江]

 賈氏が数刀圭の神薬を深みに投入すると、翌日一匹の老いた蛟竜の遺骸が浮かび上がってきた。さらに無数の水虫が薬によって死んだ。賈宣伯の「神薬」はおもに蛟竜や各種精怪を鎮圧するためのものだが、その性質は符呪(符籙と呪文)とほぼ同じである。

 

 古代の民間は竜と蛇をおなじ類とみなしていたが、竜の神通力は格段に大きかった。巫師は自ら法術によって蛟竜を鎮圧することができると称した。当然禁除毒蛇や毒蛇咬傷治療の法術を有していた。

 『五十二病方』治蛇咬の法術を記している。

a)息を吐き出したあと、大声をあげる。「啊呀、年、現在痛人了」(ああ、なんという痛みであるか!)。痛みが止まらなければ、大声でおなじことばを繰り返す。

b)呼吸をしたあと、呪文を唱える。「伏食(蛇)! 父親住在北方、母親住在南方、生下門兄弟三人、都不是好東西!」(蛇よ! おまえの父は北に住む。おまえの母は南に住む。おまえら兄弟三人を生んだが、どれもよからぬ者ばかりだ)。唱え終わると、好転する前に、傷口に薬物を塗る。[伏食は丹薬を服用するという意味だが、ここでは蛇を指す]

c)杯に汲んだ土漿を瓢(ひさご)に注ぐ。左手に瓢を持ち、北方に向かい、患者のまわりを禹歩で三周する。患者に姓と名を聞く。患者が答えると、土漿を杯の半分飲ませる。術士は言う。[この土漿は黄土のこと。解毒作用のある薬材]

「よいことである。毒はようやく消え行き、病はゆっくりとよくなるだろう」言い終わると、瓢を置き、一同は去っていく。

 

(4)

 魏晋代以来、道士は山に入って修練するようになった。ゆえに毒蛇を避け、駆除する方法がことのほか重要になった。葛洪『抱朴子』「登渉」は「隠居山沢辟蛇蝮之道」について詳しく述べている。そのなかで雄黄を佩帯し、生きたムカデを携帯し、牛羊鹿の角を焼き、身を薫ずるなどの法術は、一概に巫術とみなすことはできない。ただ葛洪が言うには、(き)と意を念じることによって武器を禁じる法術は、基本的に巫術に属する。その方法を以下に述べよう。

 

 道士は山に入る前、家の中でかならず禁蛇の法を修練しなければならない。まず神経を集中し、日月、朱雀、玄武、青竜、白虎の形象を思い浮かべる。そしてこれらの神霊に体が守られていると思念する。このあと山の森や草木の中に至れば、「左取三口炁閉之」(左から三口の炁(気)を吸って体内に閉じ込める)。そして山の草地に向かって炁(気)を吹く。このとき炁(気)が赤い霧のようになり、数十里も広がっていくさまを想像する。

このように禁法を実施したあと、山に入ると、蛇に遭遇することはまれで、たとえ蛇を踏んだとしても、危害を加えられることはない。

 

 もし蛇虫と出くわしたら、太陽に向かい、左から三口の炁(気)を吸ってこれを体内に閉じ込め、舌の先を口内の上に触れ、手で「都関」穴位(つぼ)をつまみ、「天門を閉じ、地戸をふさぐ」。[都関とは要害の地のこと。ここでは鼻のたとえ。天門は百会穴と印堂穴の間、つまり眉間と頭頂の間、地戸は会陰穴と命門穴の間、つまり性器の下と尾骶骨の間のこと。鼻・口と肛門の間に気を閉じ込める]

 あたかも指で上下をおさえ、気を出さないかのようである。そのあと蛇の頭を押さえつけるものを探し、蛇を押さえたまま、蛇の体を巻いて、地面に画いた牢獄に蛇を入れる。こうなると蛇は意のままになる。あとはこの禁法を解かなければいい。蛇のほうを向かないで「これを吹くことで炁(気)を吐く」。この蛇はこれで永遠に獄から脱出することができない。

 

 別のある人は蛇に咬まれ、「左から三口の炁(気)を吸ってこれを吹く」ことによって痛みを止め、癒すことができた。(蛇に咬まれて)傷を負った者と相隔てること十数里、病人の姓名を大声で呼ぶことで、炁を作る。異なる場所の男女の病人を治療するのに、呪術をおこなう者は自分の左手と右手に向かって呪文を唱える。

 

 山の中に入ると、五色の各色の蛇を思い浮かべる。炁(気)を閉じ込める。青竹あるいは小樹枝を用いて「蛇」を刺す。また左向きに禹歩でまわる。自身がムカデ数千匹に包まれるさまを想像する。歩くとき、蛇虫に遭遇することはない。葛洪によると、法術は著名な道士介休が創ったものである。

 

 葛洪が言及しているが、ブタの耳の中の灰垢と脚の指の爪にはさまった麝香は、蛇を駆逐する。というのも野ブタと麝(ジャコウジカ)はどちらも蛇を食べるからである。これらは厭勝作用を持っている。[厭勝とは、法術、呪詛、祈祷などによって人や物、鬼怪などを圧制すること]

 南方の人は山に入るとき、いつも亀(えいき)の尾と鴆鳥(しんちょう)のくちばしを身につけた。これも厭勝原理を利用したものだった。[亀は伝説中の蛇を食べる亀][鴆鳥は伝説上の蛇を食べる毒鳥。羽毛が毒を持つ]

 

(5)

 孫思邈『千金翼方』巻三十に「禁蛇毒」の章があり、駆蛇や解蛇毒のときに使用される呪文が記録されている。たとえば毒蛇出現の予防のために、三月三日の夜、北を向き、香を焚き、気を閉じて呪文を三七遍(21回)唱える。呪文はつぎのとおり。

 

日出東方、赫赫煌煌、報蛇虫、遠逃深蔵。(東に赤々とした、煌々と輝く日が昇る。蛇のおまえに知らせよう。遠くに逃げ深くに隠れるおまえに)

若不蔵、鸛鵲歩剛()、食蛇頭、呑汝入腸。 (もしおまえが隠れていないなら、コウノトリが強く歩いてくる。それはおまえを、蛇の頭を食べるだろう。汝を食べて腸に入れるだろう)

大蛇死、小蛇亡。(大蛇も小蛇も死ぬことになる)

急急如律令!(急いで律令のごとくおこなえ)

 

 毒蛇に毒を収めるよう命じる呪文は、蛇の天敵を一つひとつ列挙する。それは蛇を制圧するたんなる霊物リストというわけではない。

 

犀牛角、麝香牙、鸛鵲嘴、野豬牙、啄蛇腹、腹熟、啄蛇頭、頭爛。(犀牛角、すなわち犀の角、麝香牙、すなわちジャコウジカの牙、野豬牙、すなわちイノシシの牙、つついた蛇の腹、とろとろした腹、つついた蛇の頭、ぐちゃぐちゃの頭)

蜈蚣頭、鴆鳥羽、飛走鳴喚。(ムカデの頭、鴆鳥の羽根、飛んで鳴くもの)

何不急摂汝毒、還汝本郷江南畔!(どうして急いで毒を摂取しないのか。故郷の川の南畔に戻らないのか) 

 

 禁蛇の呪文は鳳凰にも言及する。「道辺一木、百尺無枝、鳳凰嘴如糸、速去速去吾不知!」(道端に一本の木がある。百尺あって枝がない。鳳凰の嘴は糸のごとく細い。はやく去れ、はやく去れ。我は知らず)

 

 孫思邈は書く、呪文によってはまさに毒を禁ずることを唱えるが、逆に毒を発することを唱えるものがあると。

ある人が蛇に咬まれ、傷を負うと、「寅加卯、寅加卯」(寅に卯を足せ)を三度唱えながら蛇の頭を圧すると、毒は消える。

逆に、蛇の尾を押さえながら「卯加寅、卯加寅」を三度唱えると、蛇の毒は激烈に拡散する。

 このように止毒の呪文を逆に唱えると、発毒になる。呪文の大半は「地支」の名称である。たとえば「庚寅卯、庚寅卯」と三度唱えれば止毒なのに対し、逆に「卯寅庚、卯寅庚」と三度唱えれば蛇毒を発することになる。すなわち「辰生巳、辰生巳」と唱えれば止毒で、「巳生辰、巳生辰」と唱えれば発毒である。

[「寅加卯」を見ると、八字命理(四柱推命)学のなかで、寅木と卯木はどちらも地支の「木」に属する。それらは一緒になるとおなじ元素なので、「相合」することはあっても、「相克」することはない。寅木は大樹、橋、高い建物などを表し、卯木は小樹、花や草などを表す。寅木も卯木も生火、泄水(水を排する)、耗金(金を費やす)、克土(土に克つ)、助木(木を助ける)の作用を有する]

 

(6)

 段成式が書いたように、十丈の長さの蛇(アナコンダ)は鹿を呑みこむことができるし、それが消化されるのを樹上にトグロを巻いて待ち、鹿の骨を吐き出す。体を休めている間のアナコンダにとって肉の味は極上に思えるだろう。大蛇は鹿を呑み込んで食欲を満たしたものの、エネルギーは使わず、女人が服を投げ込むと、うずくまったまま、動こうとしない。これは実際古代の女子汚濊物駆邪法である。

 

 宋代の民間に流布した辟蛇法術は、多くは端午節に実施された。たとえば五月五日の午時に「儀方」も二字を書いて家の柱の下のほうに貼る。これで蛇虫を避けることができる。

 湿気があり、汚らしい場所があったなら、そこにはマムシが棲んでいる。そういう場所には「儀方」と書いた瓦を放り込めば、蛇は自ら逃げていく。あるいは山林に入り、黙って「儀方」と唱えれば蛇に遭うことはない。

 端午の午時に朱砂で書いた「荼」の字を家の壁に貼る。「蛇、蠍(さそり)、蜈蚣(むかで)は近づこうとしない。

 逆流の水を用いて墨を溶き、「竜」の字を書いて四面の壁の柱に貼ると、同様に蛇蠍の類を駆逐することができる。「荼」は神荼の略称であり、竜は蛇の首領である。彼らは圧伏された蛇類の大神とみなされるのだ。「儀方」というのは一種の神霊の名称である。神名をさかさまに貼ることを要求されるが、住まいに蛇を制した神があるとするなら、頭部が下を向いていれば、天から降ってきたという意味になるからである。

 

(7)

清代、蘇州と漳州に蛇王廟が立っていた。伝えるところによると、四月十二日を蛇王華誕[誕生日の尊称]とし、当日になると、蘇州人は群衆となって押しかけ、「香を焚いて符(おふだ)を求め、蛇の毒を遠ざけるように、家に帰ってから符を門に貼った」。

 ここで蘇州人が用いるのは蛇をもって蛇を制すという方法である。天空の蛇王が実際の小蛇を管理するというわけである。

 漳州人は蛇に咬まれたとき、蛇王の霊性を求めて治療をおこなう。都の人は蛇に咬まれると、廟に行って痛みを止めてくれるよう訴える。そしてすぐに蛇を探し出せば、路傍で捕えて叩き切る。あるいは廟のなかでその脳をつぶす。これによって「蛇王が罪を治した」とみなされる。漳州人が理解しがたいのは、山林や野で咬まれた人が蛇王に告訴したとしても、何ら効果がないことである。

 蘇州蛇王廟で参拝する者に辟蛇符を分け与えるのは道士である。端午節の日、おなじ蘇州の尼姑会で五色の切紙細工で作ったカエル、トカゲ、蜘蛛、蛇、蚿(ヤスデ)が施主に分け与えられる。

 これら切紙細工は五毒符と称される。人々はそれを門や横木、寝台に貼り、毒虫を厭勝によって(法術や呪詛によって)制圧した。

 山東一帯では、谷雨節のとき別の五毒符を書く習慣がある。「蠍子(さそり)、蜈蚣(むかで)、蛇(まむし)、蜂、水中に棲む妖怪である(よう)である。それぞれの画に一針刺し、印刷した符を各家に配り、虫毒を祓う。

 

 祝由術が好きだった清代末期の文人は「治蛇纏呪」(蛇のまとわりつきを治す呪術)に言及している。彼らが言うには、「蛇纏」は蛇に咬まれることを指すのではなく、人の影が蛇の襲撃を受けたことを指すという。症状は、腰に赤い腫物ができて、痛みが堪えがたく、なかなか治らないどころか、生命の危険さえあるという。当時はこの病を纏身竜(てんしんりゅう)と呼んだ。

 治療法というのは、右手に稲を持ち、腰の周囲に巻く。そして患っているところに向かって呪文を七回唱える。

 

天蛇蛇、地蛇蛇、青地扁烏稍蛇、三十六蛇、七十二蛇、蛇出蛇進。(天の蛇よ、地の蛇よ。青い扁平の螣、空飛ぶ蛇、烏稍蛇、カサントウよ。三十六蛇、七十二蛇よ)

太上老君急急如律令!(太上老君、急いで律令のごとくおこなえ) 

[螣(とう)は伝説上の空飛ぶ蛇]

 

 呪文を唱え終わると、稲の茎を門の上に置く。刀で七つの部分に分かれるよう切って、火をつけて燃やす。

 

(8)

 禁治やその他の毒虫に対して使用する呪法を以下に掲げる。

 『五十二病方』には治蠍螫(サソリに刺されたときの治療)の呪文が記されている。その一つは「風貫而(爾)心」(風は汝の心臓を貫く)に言及している。これと上述の禁蛇呪文の「鳳凰嘴如絲」(鳳凰の嘴は糸のごとし)は「互いに証明している」のである。古代の人から見ると、鳳凰のくちばしは尖って、長く、鋭利だった。もっぱら蛇やサソリ、つまり毒虫をついばむからである。

 

 後世、流伝する禁蠍(サソリを禁ずる)呪文はきわめて多く、『千金翼方』巻三十が列挙している。その一つは、サソリに刺され、二日間斎戒し、三日目、沐浴し、手を浄め、北堂の東側で三七(21回)呪文を述べる。

 

天有八節、地有九枝、一非草木、二非蒿枝。

上他床上、傷他婦児。

速去速去、戴勝来追。

不痛不疼、不腫不膿。

急急如律令!

 

 同書は禁蜂毒の呪文も挙げている。

 

兄弟三人走出野、大兄名蝮、南山上下、中兄名蛇走田野、小弟名蜂看屋梁。

堅如瓦、熱如火、二七唾、毒当堕。

急急如律令!

 

 後世に伝わった治蜂法(ちほうせきほう)があった。「蜂が来た方へ向かい、右手中指で空中に草書体で帝の字を書き、そのまま真下の地面に中指で土を掘り、それ(土)を刺された箇所に塗ると、痛みは止まった。

 

 治蜈蚣(ムカデ)刺し傷法術は以下の通り。右手で刺し傷を押さえ、 一息に呪文を唱える。それを七度繰り返す。

 

止見土地、神知載霊、太上老君急急如律令!(土地を見るのをやめる。神は霊が載るのを知る。太上老君よ、急いで律令のごとくおこなえ)

 

 別の法術では、指で花枝の下の泥土に田の字を書く。その泥土を患部にすり込む。この法術をおこなうとき、人に知られてはいけない。

 

『千金翼方』巻三十に禁治帯毒毛虫の呪文が記録されている。

 

蛆似蜂、著山叢、(蜂に似たウジ、山の草むらにあり)

、著山腹、(に似たカキ、山腹にあり)

蚝蚑、縁木枝、兄弟五人吾都知。(蚝蚑、木の枝にあり、兄弟五人、我はみな知る)

攝汝五毒莫令移、汝不攝毒滅汝族。(五毒を吸収して移してはいけない、汝の一族を滅ぼす毒を吸収してはいけない)

急急如律令!(急いで律令のごとくおこなえ)

 

 また禁毛虫呪が禁治狐尿刺人の作用を持つ。一つの呪文が多くの作用を持っているのである。