古代中国呪術大全
第2章 14 イナゴよけ呪術
(1)
螟蝗(めいこう)[稲につくズイムシやイナゴなど害虫]を駆除する呪術は原始農業の発展と虫害の概念の出現とともに進化してきた。その歴史と滅虫方法の発展も悠久の過程を経ている。
『周礼』「秋官」に言う、周王朝には除虫専門の官員がいると。たとえば庶氏は毒虫の消滅を担当する。翦(せん)氏は蠹(と)虫の消滅を専門とする。赤発氏は墙屋の虫の駆除を請け負う。蝈(かく)氏は蛙黾(わぼう)を除く。壺涿(こたく)氏は水虫(水中の毒虫)を取り除く。
これらの除虫官員は虫を滅すのに自然の手段を使うと同時に、特別な巫術(呪術)である呪詛の方法を用いる。たとえば庶氏は「毒蠱(どくこ)の除去を掌り、攻説して(太鼓を叩き、声を浴びせて)これを襘(除去)した。また嘉草でこれを攻めた」。翦(せん)氏は「蠹物(とぶつ)の除去を掌った。また禜(えい)でこれを攻める。莽草でこれを燻す」。みなこれらは「攻」「説」など薬物を配合し、除虫する呪詛法である。
周王朝の専門家である庶氏、翦氏らの除虫官員の描写は信用できないが、『周礼』が示した除虫巫術は虚構とは思えない。西周以前には広く(巫術が)行われていたのではなかろうか。
(2)
『詩経』中の「大田」という詩は西周の農業生産状況を描いたいわば農業詩である。その中の一節はこうである。
「既堅既好、不稂不莠(ふろうふゆう)、去其螟螣(めいとう)、及其蟊賊(ぼうぞく)、無害我田稚。田祖有神、秉畀(ひんひ)炎火」。
螟(めい)、螣(とう)、蟊(ぼう)、賊(ぞく)はどれも農作物につく害虫である。田祖はすなわち田神。後半の一節に「神通広大なる田祖の霊験はあらたかで、すべての害虫は烈火に放り込まれる」と述べられている。[不稂不莠の稂と莠は、]前者は狼尾草、後者は犬尾草と呼ばれる雑草で、苗に雑草が混じっていないことを言う][秉畀炎火とは、田んぼの害虫をすべて捉え、焼き払うこと]
『周礼』と関連したところを分析すると、「去其螟螣」(害虫はいなくなれ)という言葉は現実の除虫活動を描いたのではなく、命令口調を帯びた呪文であることがわかる。この理解が間違っていないなら、『大田』本文中の「攻説」の状況が見えてくるだろう。
『礼記』「郊特牲」に記されるように、秦代以前は毎年年の終わりに「臘祭」と呼ばれる大祭を挙行しなければならなかった。臘礼で少なからぬ呪文を念じたが、その一つが「昆虫毋(ぶ)作」である。この呪文こそ害虫に対して発する「攻説」の言葉である。
古代においてもっとも甚大な虫害は、蝗(イナゴ)害だった。『春秋』中に少なからぬ螽(ちゅう)害の記録がある。螽とは蝗(イナゴ)のことである。歴代正史の「五行志」(『南斉書』を除く)や「霊異志」「災異志」などはどれも専用の章を設けて蝗害の状況を記述している。そのなかでも「飛蝗蔽日」「飛蝗蔽天」「覆地尺許」「積地二尺」などはみなこれである。
明朝崇禎甲申年(1644年)、「河南では蝗が飛んできて子供を食べるという。群れてやってくるさまは、猛雨か毒矢のごとくで、人を包んで食べつくした。皮も肉もすべて食べつくした」。
開封(カイフォン)府の城門がイナゴの大群で塞がれてしまい、通行することができなくなった。県令は仕方なく部下に大砲を持ってこさせ、イナゴの大群に向けて砲撃させた。この一撃でようやく人が通行できるようになった。しかしまたたく間に道路はまたイナゴで塞がれてしまった。
清康煕丁卯年(1687年)、江寧で郷試が行われたとき、イナゴの大群が試験会場に入ってきた。試験を受けていた士子たちはイナゴにひげや髪の毛を抜き取られ、狼狽するばかりだった。イナゴの群れに一掃された地域は米粒ひとつの収穫もなく、やむなく故郷を捨てて難民となる人が後を絶たなかった。
(3)
三千年の悠長な歴史の中で、人間は有効なイナゴ撃退方法を探し出すことができなかった。このようなことになったのは、古代の士大夫の蝗災(イナゴの災害)に関する観念が根本的に錯誤していたからである。『呂氏春秋』「十二紀」や類似した暦書のどれもが、蝗虫(イナゴ)こそ、災いをもたらすものととらえ、季節ごとの政令の組み合わせが当を得ていなかったことに起因する。
漢代の儒学者の『尚書』「洪范」の提供する五行式を根拠に、イナゴの害を強引に「水不潤下」[水は本性として下に向かって流れる、あるいは潤すこと。それに反すると、蝗災がもたらされる]や君主の「聴之不聡」(一面だけを聞いて、偏ったことを信じてしまうこと)を同じ枠の中に入れ、皇帝が適切でない人を重用し、官吏が利を貪ったことが原因でイナゴの災害が起きたと認識された。
これにより、歴代史家は『五行志』を編纂し、蝗災(イナゴの災害)を「水不潤下」と「聴之不聡」の範疇に入れてしまったのである。
唐玄宗開元四年(716年)五月、太行山より東で「螟蝗害稼」(ズイムシやイナゴによる穀物の害)が発生したので,朝廷は各地に御史を派遣し、滅蝗(イナゴの絶滅)を推し進めた。とくに「イナゴを捕って埋める」ことを推進した。
汴(べん)州刺史倪若水(げいじゃくすい)はしかし、御史が当地にやってきて滅蝗の指揮をふるうのを拒絶した。理由は、「蝗(イナゴ)は天災である。自らよく徳を修める」。(イナゴを)捕えて殺すことを承諾しなかった。
宰相の姚崇は中央の命令を執行しようとした。しかし倪若水は「すでにイナゴを埋めるという方法をとらないことに決めていた。彼はイナゴ十四万石を捕獲し、汴河に投げ捨てていた。数え切れないイナゴが流された」。
この件によって朝廷は大騒ぎになった。一部の官吏は、捕えて埋める方式の強行を指弾した。唐玄宗はどうしたらよいかわからず、姚崇に戒めて言った。
「虫を殺しすぎるな。穏やかな世の中の空気まで傷ついてしまいそうだ」
皇帝にはきわめて高い威光と人望があったので、大臣は蝗災の機会に乗じて時政を批判したのである。このときどのように徳を修めてイナゴを殲滅するかは、皇帝の自覚によるところが大きいのである。
貞観二年(628年)六月、大旱後、長安にイナゴの大群が発生した。ある日唐太宗は禁苑で一匹のイナゴを拾い上げて言った。
「人は穀物に頼って生きている。おまえは収穫に害を与えるためにやってきた。害を与えられるのはわが民である。民に罪があるなら、それはわたしが負うべきものである。もしおまえが、ものわかりがいいなら、わたしだけを害せよ。民を害してはならない」
そういい終わると、阻止しようとする侍臣を振り切ってイナゴを飲みこんだ。伝説によれば、この年天は唐太宗の壮挙に感動し、イナゴの大群がやってきたとはいえ、大災害とまではいたらなかった。呑蝗(イナゴを飲み込む)の挙も、自焚求雨(自らを燃やして雨を願う)も、自懲(自らを罰す)という意味ではおなじである。徳を修めてイナゴを殲滅するという俗信ではないが、統治者がイナゴの災害を前にして、ほかに何か良策があるわけではないことを表している。
(4)
一般人がイナゴの害に対して無力なとき、道士や和尚が術士として特殊才能を発揮するまたとない機会となる。道教経典『太上元始天尊説消殄虫蝗経』は、虫蝗に対する専門の経文である。作者は元始天尊の口吻で説く。
「天下の人民は毎年収穫期のとき、敬い、信じる気持ちがなく、三光(日月星)に感謝せず、米や穀物を蔑視し、ニワトリや犬に踏まれるままにし、糞や汚濊とともに捨て、間違った利用をし、大事に扱うともない」
こうしたことが虫蝗水旱の災難(イナゴなどの虫害や洪水、干ばつの災害)を招くのである。元始天尊は下民を守るために「五帝大魔、三元官属、六甲神将、五岳四涜、風伯雨師、雷公電母、二十四炁(気)神君、洞府名山、八大竜王、五穀精霊、一切竜神を派遣し、下界で虫蝗を制圧し、風調雨順(穏やかな天候)をもたらした。
同時に要求した。
「天下万民は善を悪に改めた。宮観(道観)霊壇の仙靖洞府(神仙が住む場所)の中に道場を建立し、真像を按排し、一日二日ないしは七日、心を整え、清潔を保ち、各名香を焚き、行道(自分の考えを実践すること)し、経文を唱えた。斎醮(神に向かって祈祷すること)祭を設け、乾象(天象)星宿(日月五星)尊神(道教神祇)を報告し、大福利をなし、虫蝗を徹底的に消滅させた。雨順風調(天候はよく)で、五穀はよく実り、倉庫は収穫物で満ち溢れている。人民は喜び、国土は太平で、衣食は足りる……」
こうした経文は実質上、滅蝗呪文である。この箇所だけやや幅があり、内容はさらに複雑であるが。
(5)
『法苑珠林』巻七十五に、仏教の除蝗(イナゴ除け)陀羅尼(ダラニ)が二つ記されている。
一つは「呪穀子腫之令無螽(しゅう)蝗災起陀羅尼」。[螽はイナゴ、キリギリス、ハタオリムシを含む虫の総称]呪文は比較的簡単。
多擲咃、婆羅跋題、那蛇婆題
穀物を植えるとき、種子を一升取って、この呪文(ダラニ)を二十一回唱える。そのあと「大種子」の種子を植える。「大種子」とは呪文をかけた種子のことである。まだ呪文をかけていない種子を大種子に混ぜて、あらためて種をまく。このようにすれば、種子が虫に食べられることはなく、災いのイナゴも発生しない。
もうひとつの呪文は「呪田土陀羅尼」。内容はつぎのとおり。
南無仏陀蛇、南無達摩、南無僧伽蛇、南無弥留竭脾菩提薩埵怛提咃……
もし苗が育っているか心配なら、土を一斛(こく)取り、これに対して二十一回呪文を唱える。この「呪土」を農作物にまく。これは「諸悪鬼は穀精を吸ってはいけない」と命じたに等しい。命令に反したなら、悪鬼は頭を殴られ、血を流すことになる。この呪文によって一切のイナゴの災いが除かれるだけでなく、農作物に危害を与える邪悪な力が萌芽の段階で消滅する。
この二つの呪文はともに二十一回唱えることが要求される。あきらかに道教の呪法も剽窃である。道士は北斗七星の迷信から数字の七を特別と信じ、七あるいは七の倍数、呪文を唱えた。『法苑珠林』の二十一回は、術士がいう三七遍とおなじである。
(6)
清代のある文人が「祭蝗法」という文を記録しているが、これは民間の術士が書いたものだろう。この法によれば、一年のうちの何日かはイナゴの忌日である。「子午卯酉月の甲辰、甲戌は蝗(イナゴ)死日。辰戌丑未月の甲寅、甲申は蝗死日。寅申巳亥月の甲子、甲午は蝗死日」。
蝗死日を探すのはむつかしいことではない。夏暦(旧暦)十一月が子、十二月が丑、正月が寅、二月が卯というふうに、月ごとに地支が排列どおりに並ぶ。子午卯酉月は十一月、五月、二月、八月となり、その他の月も類推できる。毎月三十日の干支も暦書から探すことができる。蝗災(イナゴの災害)が発生したなら、「蝗死日」の夜明け前、家の部屋をよく掃いて浄め、「八臘」の神位を設置する。「八臘」とは古代において年の終わりに挙行される合祭の八つの神霊、すなわち先嗇(せんしょく)、司嗇(ししょく)、農、郵表畷(ゆうひょうてい)、猫虎(びょうこ)、坊、水庸(すいよう)、昆虫である。
ロウソクと祭品を準備し、さらに一升の米、公鶏(オンドリ)一羽をそろえる。少し煮え立った湯の入った盆にいっぱいになるまで米を入れる。オンドリを殺し、その血を米の上にかける。鶏血をかけて混ぜた米を神前にそなえ、拝する。最後にこの米をイナゴのいるところにまんべんなくまく。米をまいたあと、イナゴは斃れるか、あるいはどことも知れない方向に去っていく。霊験あらたかである。
蝗災(イナゴの災害)は洪災(洪水の災害)と似て、容易にはなくすことができない。滅蝗法術は失敗しやすく、巫師がこの法術を伝播していたとしても、実際の影響はそれほど大きくなかった。
唐玄宗の時代、方術大師は非常に多かったが、葉法善、羅公遠、不空和尚といった名高い面々でさえ、開元四年の大規模な蝗災のときには「捕埋」をおこなうことしか手立てがなく、術士がイナゴの撲滅には無力であることをさらけだしてしまった。
「飛ぶイナゴが災害をもたらす」という記述が絶えなかったことが、歴代の術士がイナゴの災害に無力であることを説明していた。これまで引用した滅蝗呪法が観念の領域に限定され、いまだ本格的に実践されていない可能性はあるだろう。ひたすら実用性が求められた雨乞いの巫術や関連した儀礼とはおなじように語ることはできないのである。