古代中国呪術大全 

章 15 減鼠呪術 

 

(1)

 いまだかつて人類は煙でいぶしたり、水浸しにしたり、捕鼠器具を設置したり、殺鼠薬をまいたり、ネズミ捕り用に猫を飼ったりと、さまざまなネズミを滅ぼす方法を試してきた。これらは殺傷能力の限界を示すものではなかったが、人間や家畜の安全を危険にさらすものでもあった。

 秦代以前、猫は「八臘(ろう)」の一つとされた。年末の臘礼(臘月、すなわち十二月の儀礼)には猫神として迎えられ、重々しく祭られ、つぎの年も多くの野ネズミを捕ることを人々は望んだ。漢代になるとほほえましい駆蟹捕鼠法なるものも登場した。すなわちカニの背中を艾草(もぐさ)で焼き焦がし、それをネズミの穴に放った。カニが痛がって走ると、「うまくネズミを生け捕りにした」(淮南子)という。さらには家の中で「狐目狸脳」を設置し、家ネズミを追い払った。このように人間の叡智とネズミの戦いに終わりはなかった。

 

 自然に任せたネズミ退治ではネズミを殲滅させることはできないので、巫師の超自然的な力がそれを補完するために必要となる。巫師はそこで敏速で手際のいい、マイナスの影響がないネズミ退治の方法を探ることになる。それは確実に目的を達する方法でなければならない。こうした方法には念呪、画符、断鼠尾、焚鼠骨、埋九鼠、塗神土などがある。

 

(2)

 漢代の術士には「北に向かわされ、巫鼠を呪い殺す」という言い方がある。「巫鼠」という名称は、巫と鼠に分けて細かく論ずるには及ばない。術士は、殺鼠・滅鼠のために用いる呪文として認識すればいいのである。伝説によれば術士はネズミをコントロールする禁呪を用いて、呼べばネズミがやってきて、去るよう命ずればネズミを追い払うことがでた。鼠神といってもさしつかえなかった。

 晋代の術士趙侯(趙度とも)は、姿形は俗物で、幼いころから法術の研鑽を喜んで重ねてきた。「目を閉じて気を吹いて禁をなし」、盆の清水に魚竜を出現させた。「(趙)侯は白米を持っていたが、それはネズミが盗んだものだった。髪を垂らし、刀を持って、地面に獄を描く。四面にそれぞれ門がある獄だ。東に向かって長嘯すると、ネズミの群れはそちらに向かった」。趙侯は白米を盗み食いしたネズミらに罪を認めるよう命じた。すると十余匹のネズミが「牢獄」の中で腹ばいになり、動かなくなった。趙侯はネズミたちを殺し、「腹を裂いてはらわたを見ると、お米がたくさんつまっていた。

 

 隋代、民間に「為蚕逐鼠法」が流行した。正月十五日、煮粥祷告(粥を煮て祈祷する)をし、そのあと粥の上に大肉[よく煮た豚肉]のかたまりを加える。施術者は屋根に登ってそれを食べ、食べ終わったら呪文を唱える。

「登高麋、挟鼠脳、欲来不来、待我三蚕老」。

 この意味は以下の通り。高いところに登って粥(麋)を食べる。そしてネズミの頭を捉えて言う。(ネズミよ)お前たちは来るのか、来ないのか。三番蚕が老いるまで私を待っても遅くはないぞ(それからお前たちを退治する)。

 「正月十五日に豆麋(とうび)を作る。油膏をそれに加える。門戸でそれを祀る」。これはもともと南朝の旧俗である。蚕逐鼠法はまさにこの種の習俗が変じたものである。

 

(3)

 『千金翼方』巻三十「禁経下」には、唐代以前に用いられた滅鼠呪法の締めくくりが載っている。孫思邈(そんしばく)が論じたように、ネズミたちに洞(あな)から出るように号令し、一か所に集めるのが「集鼠法」である。そのなかの一法は、まず家の中のネズミの穴の前をきれいに掃除する。そして桃枝の間を茅草で作った縄で結び、ネズミ穴の前に仕掛け、呪文を唱える。

 

天皇地皇、卯酉相当。(天皇よ、地皇よ、当てはまるのは卯と酉である)

天皇教我圧鼠、群侶聚集一処。天皇が我にネズミの制圧の仕方を教えてくれた。ネズミのつがいの集団を集めた) 

地皇教我圧鼠、群侶聚集一処。(地皇が我にネズミの制圧の仕方を教えてくれた。ネズミのつがいの集団を集めた) 

速出速出、莫畏猫犬、莫畏呪咀(詛)。(はやく出よ、はやく出よ。猫や犬を畏れるな。呪詛を畏れるな) 

汝是猫之仇、又非猛獣之侶。(汝は猫の仇である。また猛獣の仲間ではない)

東無明、南無明、西無明、北無明、教我圧鼠失魂精、群陽相将、南(西とも)目失明、呼喚尽集在于中庭。(東に明かりはない、南に明かりはない、西に明かりはない、北に明かりはない。ネズミを制圧し、それが魂精を失う仕方を教えよ。ネズミのつがいの群れは陽に集まり、相従う。南の目が失明し、中庭に集まって喚き騒ぐ)

急急如律令!(急いで律令のごとくおこなえ)

 

 べつの法術はこうである。施術者は香湯を用いて体を洗う。また香湯を家の中と庭にまく。ついで三本の刀を三家の「漿粉」を盛った三つの盆の上に置く。[漿粉とは、麩や麺から分離し沈殿したものを固めた食品]

 それぞれの盆のまわりに灰をまく。盆から三尺離れたところに筆を置く。

 あらゆるネズミ穴の前に、一尺幅の帯状に灰土をまく。また灰土の上に「子(ね)」の字を書く。一説には、ネズミ穴の上に「紫」の字を書く。[紫と子は音が同じ(zi)。また紫は皇帝や帝王といった統治者の崇高さを象徴する色。その権威でネズミを抑え込もうというのだろう]

 そして呪文を唱える。

 

北斗三台、招揺所録、天李目形、必帰所属、寄食附人、寄穴我屋、胡為楊時、飲食欲熟、急勅鼠王、召集眷属。(北斗、三台、招揺といった星々に記録されている桃の形の目をした者よ。かならず棲み処に帰ってくる者よ、人の近くに寄生して喰い、わが家の穴に棲む者よ。なぜ儒学者楊時が言うように静かにしないで、熟れた食べ物に喰いつくのか。ネズミの王よ、反省せよ。眷属を招集せよ)

大鼠小鼠、并須来食。(大ネズミも小ネズミも来て食べよ)

側立単行、洗蕩心垢、伏罪勿走。(一本の線に立ちなさい。心の垢を洗い流し、罪をつぐない、逃げてはいけない)

汝父小奚、汝母幽方、汝兄阿特、汝弟阿当、汝妹僕姜。(汝の父小奚、母幽方、兄阿特、妹僕姜、家族みな)

室家相将、帰化坐傍、固告勅汝、莫以旧為恒。(家の中に集まり、坐りなさい。汝に厳しく命じる。今までしたことをつづけてはいけない)

急急如律令!(急いで律令のごとくおこなえ)

 

 施術の前に、四方に香湯をまいているので、この種の呪法はネズミを召喚するためのものであることがわかる。

 

 『千金翼方』「禁経下」はネズミの群れを駆逐する方法を「去鼠法」あるいは「解放鼠法」と呼んでいる。呪文はつぎのとおり。

 

鼠必栗兜、牛必栗兜、蛾蛾必栗兜、犯犯必栗兜、母名必栗兜、三喚神来赴、欲辟之法。

悉在華上、勿得東西。

 

 この呪文の意味ははっきりしない。とくに栗兜の意味は不鮮明だ。

もう一つ、呪文がある。

 

日東向昿二里、西向昿二里、辟方八里、此広闊耐停止。

鶏零星、牽至庁。

鶏零禄、牽至獄。

汝得此中行、勿得与人相牽触、当断汝手足。

急急如律令! 

 

 これはネズミのために八里四方の新しい土地を按排し、そこに移住するように命じたものである。

 

 「禁経下」には「禁鼠耗并食蚕法」というのも記されている。呪文はつぎのとおり。

 

天生万虫、鼠最不良。(天は万の虫を生む。そのなかでももっともよくないのはネズミ)

食人五穀、啖人蚕桑。(人が五穀を食べるように。蚕が桑を食うように)

腹白背黒、毛短尾長。(腹は白く、背が黒い。毛は短く、尾は長い)

跳高三尺、自称土公之王。(三尺も跳び、自ら土公の王と称す)

今差黃頭奴子三百個、猫児五千頭、舎上穴中之鼠、此之妖精、呪之立死。(黄色い頭のやっこ、すなわちネズミ三百匹、猫の子五千匹、家の上の穴のネズミ、この精怪よ、呪をかければたちまち死ぬ)

随禁破滅、伏地不起。(禁によって破滅せよ。地面に倒れて起き上がるな)

急急如律令!(急いで律令のごとくおこなえ) 

 

 以上のネズミを集める呪文とネズミを駆逐する呪文を比べると、こちらのほうが、語気が強く、厳しく、凶悪でさえある。

 

(4)

 古代の術士はつねに符籙を用いてネズミを厭鎮してきた。[厭鎮とは、厭勝法術によって抑えこむこと]

 晋朝の劉柔は夜、ネズミに左手中指を噛まれ、走って術士淳于智のところへ行き、助けを求めた。淳于智は劉柔の手の横縞の下三寸(10センチ)のところに朱書きで一寸二分ほどの大きさの「田」の字を書いた。そして睡眠中手を露出しておくようにと言いきかせた。[手の横縞とは、手首の横皴(よこじわ)のことと思われる]

 その夜、はたして大ネズミが劉柔の寝台の傍らで死んでいた。符籙の「鬼」字の頭の部分はつねに「田」と書かれる。淳于智の書いた「田」は鬼頭を表している。

 

 古代小説中には符(おふだ)によってネズミを制圧する描写が数多くあり、一部の作者は故意に時間、地点、人物を具体的に書き、極力読者にそのことが実際にあったという印象を与えようとする。

 『究怪録』は書く、斉世祖永明十年(492年)、丹陽郡百姓(平民)茅崇丘の家の厨房から夜な夜な飲食しながら笑う声が聞こえるようになった。調べようと中に入ると、もとのように静まりかえっていた。外に出て入り口を閉めると、また中から騒がしい音が聞こえてくる。家の主人は対応するのに疲れたので、道士に頼んで除妖(お祓い)をしてもらうことにした。

 道士は懐から符を取り出すと、茅氏に渡し、言って聞かせた。

「符(おふだ)を竈(かまど)と連なる北壁に釘打ってください。明日の早朝に結果が出ているでしょう」

 茅崇丘は言われたとおりのことをした。翌朝早く、厨房の北壁の下に五、六匹の二尺余りの無毛紅ネズミの死骸を発見した。これ以降、奇怪な現象は起きなかった。

 

 五代の厳子休(旧題馮翊子)の『桂苑叢談』に言う、唐僖宗末年、広陵に杜可均という名の乞食がいた。酒屋の主人の厚遇に報いようと、小さい頃学んだ滅鼠符を贈った。店主は「この符を法命でもって燃やし、ネズミを絶滅することができた」。この故事をみるに、滅鼠符は天然の威力を持っていて、巫師の「精気」(生命の本源)に頼らなくてもよかった。

 

 『道蔵』中の「太上秘法鎮宅霊符」もは「厭蛇鼠食蚕符」が記されている(図A)。この書によれば、夫婦の不和も消すことができるという。古い小説[志怪小説]は霊符によってネズミ殲滅の奇跡を起こしたとおおげさに描くが、その符がどのようなものであるかは記さない。この図の符から杜可均が用いた霊符がどのようなものであったか、推論することができる。

 

 魏晋以来、民間に流行した滅鼠法術はいわば「殺一儆(けい)百」(見せしめに殺すこと)の断鼠尾法(ネズミの尾を切る法術)である。

 蝋月(十二月)にネズミを一匹捕まえ、その尾をぶった切る。正月一日の夜明け前にこのネズミを屋内に放り、祝言(呪文)を唱える。

 

付勅屋更、制断鼠虫、三時言功、鼠不敢行!(棲み処を変えるよう勅命を言い渡した。ネズミや虫に処罰を下す。朝昼晩と言ってきたが、ネズミは実行しようとしない!)

 

 もう一つの法術もこれとよく似ているが、やり方も呪文もさらにシンプルになっている。

 正月一日日の出前、手に十二月にぶった切ったネズミの尾を持ち、蚕部屋のなかで祝言(呪文)を唱える。

 

制断鼠虫、切不得行!(鼠や虫に処罰を下す。切ってしまえ)

 

 祝言を三度唱えてネズミの尾を蚕房の壁につるす。こうすれば「永断鼠暴」(永遠にネズミが暴れることはない)となる。

 

(5)

 術士から見ると、それぞれの動物に忌日や凶日がある。ネズミの忌日は辰日である。この日を選んでネズミに打撃を与えると効果が大きい。正月辰日にネズミ穴をふさぐ。すると「ネズミ自ら死ぬ」。正月の辰日に、柴草のなかにネズミの骨がはさまれたまま、ネズミ穴を燃やし、あぶり出す。そうすれば「永遠にネズミに患わされることはない」。

 

 段成式『酉陽雑俎』「怪術」に厭鼠法が記録されている。某月七日、九匹のネズミを九つの篭に入れる。二尺五寸の深さの穴を掘る。このとき九百斤の土を掘ったことを秤でたしかめる。そしてそれぞれの穴にネズミ篭を入れ、上から土をかける。こうしてネズミの害を厭伏する(制圧する)ことができる。

 術士たちは、盗賊を捕える官吏たちがネズミに対して震え上がらせる特殊な能力を持っていることを認識している。『酉陽雑俎』「怪術」が引用する古い方術書『雑五行書』に言う、「亭の役人が土を竈(かまど)に塗れば、水火盗賊[水害、火害、盗賊、窃盗]には遭わない。家の四隅を塗れば、ネズミは蚕を食べない。倉を塗れば、ネズミは稲を食べない。ネズミの穴をふさげば、百種のネズミが絶える」。

 亭部とは、亭卒のことであり、亭長の部下である。盗賊を捕まえることを専門とした役人だった。秦漢の時代、亭部には別名が多かった。[亭は道行く人のために各地の路傍に建てられた建物]

 『史記』「高祖本紀」には「令求盗之薛(せつ)治之」(高祖劉邦が求盗を薛県に送ったときに作らせた帽子)とあり、司馬貞『索陰』が引用する応劭が言う。「かつて亭卒は弩父といった。陳楚では亭父あるいは亭部といい、淮泗では求盗といったのである」。

 『雑五行書』の「亭部の地面の土」とは、亭卒の執務室の土か、亭卒の足元の乾燥した土のことだろう。亭部の土によって盗賊やネズミを駆逐する厭勝術をおこなうのである。

 これはネズミと盗賊を同類とみなし、治安の官吏の権威を使ってネズミを取り締まろうというのである。

 李時珍『本草綱目』巻七「太陽土」の章に付せられた「神后土」に言う。「月を駆逐して旦日に家の四隅の泥(神后土)を取り、ネズミの穴を塞ぐ。これで一年ネズミは姿を見せない。これが李処士の断鼠法である」。

 李時珍の解釈によると、「神后土」とは「正月、申から始まり、十二辰の順番通りに進む」ことを意味する。つまり正月はじめ申時に土を取り、二月一日酉時に土を取り、三月一日戌時に土を取り……と進む。それが神后土である。

 清代張宗法『三農紀』巻二十一にこの種の法術が載っている。「亭部土」を用いるということは、亭卒の力を借りるということである。「神后土」を用いるということは、特定の日時の力を借りるということである。この二つの方術は用途においてよく似ているが、その原理はまったく異なる。