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 裸の女人を用いて妖邪を制圧するのも起源の古い巫術である。『国語』「鄭語」や『史記』「周本紀」の列伝にも記されている。

 夏代末期のこと、王庭で二匹の神竜が交わっていた。夏人は竜の口から吐き出される涎沫(よだれ)を匣(はこ)に収めた。時は流れ、商朝から周初めの頃、誰もこの匣を開けようとしなかった。周厲王はどうしても匣の中を見たいと思い、大胆にも開けさせたところ、竜沫が四方に飛び散り、掃除しきれなかった。周厲王は宮廷の女性たちに一糸もまとわないよう命じた。取り囲んだ竜沫は大声でわめきちらした。この大声のなかで竜沫は突然巨大なトカゲに変身し、王府深くに逃げ隠れた。逃げる途中、童女の身体に触れてしまったが、彼女は夫もいないのに孕んで、妖女を産んだ。この妖女こそのちに周朝を滅ぼす一因となった褒姒(ほうじ)である。故事中の「厲王は婦人らを裸にして騒ぎ立てさせた」という場面は実際にそういう習俗があったということである。褒姒の神話は西周が滅亡したあとすぎに現れた。ここから推察するに、裸女を用いて妖邪を駆除する方法は、春秋時代の末期には出現していたようである。


 裸の女人の威力を術士はひしひしと感じたろう。明清の時代になると、たくさんの人が、裸女が大砲に向かうと大砲の火が消えると信じていた。明清の頃になると、方以智はこの特異な厭勝法を、具体例を挙げて説明した。

 「李霖寰(りりんかん)大司馬が播州に攻め入ったとき、楊応竜は囲いの上を逃走した。李公は大砲で攻撃し、楊は裸の女たちに大砲に向かわせた。すると突然大砲は燃えなくなった(使えなくなった)。これは厭(厭勝術)をかけられたためである。

崇禎乙亥[明崇禎乙亥は1635年]、賊軍は桐城を取り囲んだ。城の上から大砲を構えたが、賊軍も人(女性)を裸にして城に向かって立たせた。それに対し、犬の血をぶちまけ、羊の角を焼き、その煙でこれを解いた。ようやく大砲が使えるようになった。剣や鏡を鋳造し、丹薬を合成したが、裙衩(くんさ)の厭を恐れたからである」[裙衩は女性を意味する間接的表現]。

 方以智は深い学識があったが、裸婦厭勝の術を信じてしまった。巫術に毒されてしまったのだろうか。