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 朱糸駆邪術は古い小説にも登場する。既述の『録異伝』に秦文公伐樹の故事が収録されているが、そのなかで朱糸に言及している。いま、もう一度この故事について考えよう。原文はつぎのようになっている。

秦文公のとき、雍南山[の怒特祠廟]に大きな梓の樹が生えていた。文公が[兵士を派遣して]これを伐らせると、そのたびに大風雨が起こり、傷口(切断面)もすぐに癒えるのだった。ときにひとりの病人[けがをした兵士]がいた。

彼が夜、山中に入ると[樹の根元に倒れ込むと]、鬼と樹神が語っているのが聞こえた。「秦国が髪を振り乱した兵士たちを送ってきたらどうする。樹の幹に赤い糸をぐるぐる巻かれて伐られたらどうする。巻かれることはないと思っているのか」

 樹神は何も言えなかった。

 翌日、病人の話を聞いて文公はそのことばどおりに樹を伐った。すると中から青牛が出てきて、走って豊水に飛び込んだ。

 伐ってもまた生えてくる神樹も朱糸を飾られると、抵抗力を失ってしまった。朱糸の威力をまざまざと思い知らされることになったのだ。鬼が朱糸について話すのを聞いたが、そのことを話さなかった。こういった描写はまさに現実生活における朱糸駆邪術のありかたを示している。


 朱糸辟邪の法術はかなり長い間伝わってきた。これを簡単に行うこともできた。清代の石成金は『幸運宝典』(原書は『伝家宝』で、現代の選集)に言う。

「家に目の病気の患者がいた。厨房のかまどの上の箸置きに赤い糸がくくられていたので、病気が伝染することはなかった」。

 この秘術の遠祖はまちがいなく先秦(秦代以前)、秦、漢代の朱糸縈社(しゅしえいしゃ)法術[赤い糸で社壇を囲うこと]である。


 朱糸駆邪法術の影響を受けて、後世の巫師はいつも赤い布を辟邪霊物(魔除け)とした。一定の時間、方位に赤い布切れをつるすのは、現代にいたるまで民間の術士の魔除け法として残っている。明代の一部の少数民族には、男の子であろうと女の子であろうと、子供が生まれれば門の上に赤い切れと腰刀を掛ける習俗があった。この赤い布切れは、外の人に子宝を授かったことを知らせると同時に、駆邪辟災(邪悪を駆逐し、災いを避ける)の意味があった。


 巫術観念の発展にしたがって、とくに五行学が隆盛をきわめたあと、単独で赤い色を使用しても施術者の心理を満足させることはできなかった。朱糸と比べてもっと複雑な威力ある辟邪霊物(魔除け)が必要だった。ここに朱糸駆邪法の基礎の上に五彩の絹織物、五彩糸を用いた駆邪法術が生まれたのである。

 霊物としての性質を持った五彩の絹織物、五彩の糸が朱糸のバリエーションとされるのは、基本的につぎのような理由がある。

 まず、五月五日、「朱索(赤い帯)に五彩印を押して、門の飾りにする」。そして五月五日に「五彩の絹を集めて辟兵(武器の災いを防ぐ)とする」。これらは漢代の風俗である。巫術の儀法(礼儀法度)の簡単なものが複雑なものになるという一般的な法則により、前者が変化して後者になったことはあきらかである。具体的に言えば、五彩の絹織物を使用するとは、実際朱索(赤い帯)と五彩印を一つに合わせた結果である。

つぎに、応劭は『風俗通義』で指摘する。「五月五日に五彩糸を腕につるす。それを長命縷(ろう)、一名続命縷、一名辟兵布、一名五色縷、一名朱索(赤い切れ)という」。

「朱索という呼称には味わいがある。五彩糸は青、黄、赤、白、黒の五色の糸のことだが、なぜ朱索(赤い切れ)と呼ぶのだろうか」。

 あきらかなのは、五彩糸は朱糸の変化形、あるいは代替ということだ。その効用は朱糸と同じということである。人は朱糸という古い名称で五彩糸を呼ぶ。後世の人が紙で作った春聯を桃符と呼ぶのと同じ。両者の間に深淵なる関係があるのだ。