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まず官印の使用法を見てみよう。一部の術士は辟杖、寄杖といった術(妖術)を使った。それによって杖(つえほこ)による攻撃をさけることができた。あるいは杖の攻撃を受けても、痛みをほかの人の体に移すことができた。
古人がこの種の妖術に対抗する武器としたのが官印である。方以智、周亮工らはこれらの方法を紹介している。たとえば
「遁形[形跡を消すこと]のできる妖人に対し、犬や豕(ぶた)の血を使って祭り、邪を祓い、二度と遁形させないようにした。辟杖(杖の攻撃を避けること)、寄杖(杖の攻撃による痛みを他者に転移すること)をよくするものに対しては、官印で攻撃し、痛みを与えて屈服させた」
「役人が妖人および寄杖することのできる者を捕らえても、役人には処刑する権限がないので、その背中に印を押すか、それに向かって印を振りかざすか、犬や豕(ぶた)の血を浴びせるしかなかった。そうすれば妖術が施されることはなかった」
褚人獲[1635-82]は、官印を用いて妖術を破解した実例を収録している。
「わが郡の尤定中(ゆうていちゅう)は、康煕乙卯(1685年)の挙人(科挙合格者)であるが、神水県の県令に選ばれた。あるとき奸計に問われた道士の審問を行なうさい、残酷な体罰を加えてもどれだけ痛みを与えても、口を割らなかった。しかしある役人に教わって、貯水槽の清水を口に含んで道士に吹きかけ、県印を取り出して照らすと、一気呵成に真相をしゃべりだした」。
小説家は官印の辟邪法術に関して生き生きと描写している。袁牧『子不語』巻九「呂道人駆竜」に書く。河南帰徳府呂道人は法術がたくみで、歳は百を超えていた。雍正年間、王朝恩(おうちょうおん)は黄河の治水工事をせよとの命を受けた。もとの計画では張家口に石堤を作るということだったが、多くの予算を投じたのにもかかわらず、未完成だった。
ちょうどこのあたりを通りかかった雲遊の道士、呂道人が王朝恩に言った。「石堤が完成しなかったのは、川の下にひそむ毒竜の祟りのせいなのです」。
またこうも言った。「この竜は二千年も修行しているので、胆力はすさまじいものがあります。梁の武帝が建てた浮山の堰(せき)も崩壊し、数万の命が損なわれてしまいました。これもこの竜が引き起こしたのです。石堤を築くなら、貧道[道家の自称の謙遜語]自ら川に降り、竜と戦うといたしましょう」。
呂道人が提出した要求は、皇帝が授与する「王命牌」を油紙でくるみ、それを彼の背中に縛りつける。そして油紙の上に「河道総督印」の官印を押して封じるというもの。王朝恩自らの手で自分の姓名を書いた。
呂道士は王命牌、河道総督印、総督手書の神威を借りて、水中で毒竜と一日戦い、ついには毒竜を東海(東シナ海)に追い出すことができた。
『続子不語』巻十に、「人がネズミに化けて盗みをおこなう」が、最後は官印によって調伏される故事が載っている。
小役人の王某は長沙公館で休息していると、「三更に至り、突然梁の上に塵の塊が現れ、何かが木を齧る音が聞こえてきた。その音がかなりやかましくなった。帳(とばり)をあけてよく見ると、羽目板にお椀のような穴があいていた。そこに何かが落ちたのである。それはネズミだった。二尺ばかりの大きさがあり、人のように立って歩いた。王は驚いて、床と枕の間にあった縄で攻撃したが、それに打撃を与えることはできなかった。枕の傍らに印章を入れた箱があったので、今度はそれをぶつけた。すると箱から印章が飛び出してネズミに当たった。ネズミはひっくり返り、はずみで衣が脱げると、中から裸の人間が出てきた」。
戦国時代から魏晋時代まで官吏は一般的に殷賞を肱の上に着けたり、懐の中に押し込んだりした。まるで片時も離さないかのように。
隋唐以降は、官印はいつも箱の中に入れていた。簡単に取り出されて施術に使われないようにしていた。それゆえ用いられる官印は前の時代のものだった。
『安化県志』に言う。巫師寧均は「飛霜崖にネズミがうがった道を見つける」。あとを追ってついにネズミの穴の底から一枚の銅印を見つける。その銅印の上には篆文で「扶蛮王印」と刻まれている。
寧氏は捺印や符籙を用いて風雨を呼ぶことができた。のちに印章の柄が壊れてしまい、霊験がなくなってしまった。
またある古書に言う。福建侯官[福州市内]の農夫は、田を耕しているとき鉄を鋳た「文信国印」を見つけた。ある学究(ありきたりの学者)がその鉄印を用いて邪祟を鎮伏するのに使うと、思いもよらない効力を発揮した。
「家に疫病や祟り、瘧(おこり)のある者がいても、これ(鉄印)を用いれば癒すことができた」
遠くて鉄印を借りることができないとき、印章が押された白紙を門に貼るか、瘧の患者の額に貼るだけで、病鬼を駆除することができると信じられていた。
*私(訳者)が四川南部大涼山のイ族の民家に滞在していたとき、主人に代々伝わる鉄印らしきものを見せられ、これは何かとたずねられたことがあった。残念ながらよくわからなかった。今考えるに、それはこの鉄印と同じようなもので、治病などに用いられたのだろう。「文信国印」か「扶蛮王印」のようなものだったろうが、それが何であるか正確には思い出せない。
清の人王士禎(おうしてい)は『隴蜀余聞』に言う。成都府衙内に亀蛇碑が立っている。碑に亀蛇が描かれているが、これは唐代画家呉道子の真筆である。毎年端午節になると、石碑のもとに亀や蛇が集まってきた。そしてついには「屋根の瓦や庭の樹木も(亀蛇で)いっぱいになった」。
麻城の人、梅氏は郡守に任命されると、人を派遣して、石碑の図像をえぐりとって持ってこさせ、石刷りとし、印章として用いた。それによって「邪祟を鎮め、瘧(おこり)の治療に効果があった」という。