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明鏡の迷信と明鏡運用の巫術活動は隋唐の時代に隆盛をきわめた。照妖鏡という言葉もこの頃生まれた。李商隠『李肱所遺画松詩』に「我照妖鏡および神剣鋒のことを聞く。照妖鏡の名称をはじめて見る」と記す。
隋唐時代の伝統を残す巫術用の鏡、その装飾、銘文はどれも神秘的な濃厚な雰囲気があった。『宣和博古図』巻三十に収録された鉄鏡を見れば、この雰囲気を理解するのはむつかしくないだろう(図A)。
清嘉慶年間に「銭唐(地名・会稽郡)の趙晋斎(書家 1746―1825)が呉門にやってきたとき、鉄鏡を携帯していた。その直径は6寸ばかりで、背面に2匹の金の飛竜が嵌められていた。そこに「武徳壬午年造辟邪華鑌鉄鏡」の十二文字が銘記されていた。武徳は唐高祖の年号であり、壬午年は622年だった。この鏡はあきらかに唐代はじめの遺物である。鉄鏡には呪文のような詩が書かれている。
「乾卦の鑌鉄(ひんてつ よく精錬された鉄)から成る鏡は大旱を寄せ付けない。清泉のような祈りで甘霖(ひでりのあとの雨)を求める。魔物(魅孽)たちはひどく驚く。双竜は、あごを垂らし、嚄略(大いに気勢がある)である。回禄(火の妖怪)は睢盱(上を見上げるさま。早々に鉾を収める)」
この銘文から考えるに、唐鏡のおもな目的は旱災を除去することだった。そして同時に駆魅除疫(魔物を駆逐し、疫病をなくすこと)することだった。