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 中国の古代には多子多福(子供が多いほど幸福)の観念があった。世に伝わる古銭には、後継ぎなしの災い[後継がないことを災難と捉えた]を解除するために用いられた厭勝銭が少なくなかった。

 漢代の「五男二女」布は、一面には五人の男の姿が、もう一面には二女の姿が描かれた(鋳られた)。[布幣は鋤の形をした青銅の貨幣]

 北魏の「永安五男」銭は、当時の永安五銖(しゅ)とよく似ていて、裏面には竜風などの図像が鋳られた。

 五男二女銭のなかには、表に七星、宝剣、亀、蛇の図像が入り、裏には五男二女の喜び戯れる姿が鋳られた。

 伝説によれば、周武王には五男二女があった。この五男二女は理想的な家庭と見られていた。古代には性別をコントロールする医学手段はなかったので、五男二女の理想的な姿を実現するためには、巫術の力を借りるしかなかった。

 五男二女銭の佩帯(身につけること)は、当時の種々様々な求子巫術の一つだった。梁朝は「男銭」と呼ばれる四銖半銭を鋳造していた。当時の人は「これを佩帯すれば男の子が生まれる」と信じていたからである。

 注目に値するのは、古代には秘戯銭というのがあり、銭の両面に男女の秘戯の図像が鋳られていた。その用途は、邪祟を抑え込み、子沢山を求めることだった。古代には早くから性器や男女交合が描くことによって多産と感応する法術があった。ひそかに秘戯銭を佩帯するのは古い生殖巫術の名残である。

 

 厭勝銭を用いて富貴平安を願い求める風俗は、歴史の発展とともにつねに変化してきた。清代に至り、春節が来るたび、年長者は「朱縄(赤い縄)を通した百銭」を家の中の子供にあげた。これは圧歳銭と呼ばれる。

 地区によっては、虎の形に編む習慣があった、これを子供の胸の前に掛けた。猛々しいものに服従することを示した。またこれを「虎の頭」と呼んだ。

 ある地域では「色とりどりの縄を銭に通し、竜の姿を編み、床脚(ベッドの脚)に置いた。これを圧歳銭(お年玉)と呼んだ」。圧歳銭の風俗を古代の厭勝銭の風俗を比較すると、若干の変化がみられる。子供に施しを与えるのが春節の期間だけであること、実用的な銭幣(お金)を作って辟邪(魔除け)霊物としていることなどである。

 

 古代の人はつねに銭幣(お金)を建築物の中に置き、鎮物(しずめもの)とした。伝説によると、劉宋(南北朝の5世紀)の時代の大臣徐羨子(じょせんし)は少年時代、祖先の鬼魂と出くわした。祖先は助言した。

「おまえは貴相を持っておる。だが一度大厄に遭うな。二十八文銭を家の四隅に埋めるがいい。そうすれば禍を免れ、この厄を生き延びて、大臣として極めることになるだろう」。

 のちに徐羨子はたまたま役所の仕事で城外に出た。まさにこのとき県城は「盗賊」に襲われ、人々はみな被害に遭った。徐羨だけが外に出ていたため、難を逃れることとなった。当時の人は、除氏が(先祖の霊の)指示にしたがって銭を埋めたことが功を奏したのだと認めた。

 明万暦七年(1579年)五月四日、皇城北苑の広寒殿(現在の北京北海公園内)が突然傾いた。人々は宮殿の梁の上から「至元通宝」120文を発見した。これらの銭は、当時、宮殿を守る鎮物と考えられていた。