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はねつるべ挙火法と比べると、民間に流行した火祓い法は、比較的簡単でやりやすかった。秦簡『日書』「詰篇」に言う、「たくさんの虫が人家に襲入した」。これは野火の精がなした怪である。「人火でもってこれに応じると、(怪は)すなわちやむ」。雷火が人体を焼くと、それを消し止めることはできない。「人火でもってこれに向かうと、すなわちやむ」。「雲気が人の宮を襲う。人火でもってこれに向かうと、すなわちやむ」。
人火とは、普通たいまつを指す。最後の一文はたいまつを使って雲気を駆逐すると述べている。物理学な説明はできないが、作者は、雲気は妖邪から成るととらえ、人火を、妖邪を制圧し、御する超自然的手段とみなしたのである。
漢代の祓禊礼(はらいみそぎれい)と年終駆鬼儀式では、巫師や彼を手伝う人々はみなたいまつを高く掲げる。後漢の杜篤の「祓禊賦」に「巫咸の弟子たちは、火を持ち、福を祈る」という一節がある。巫師が祓禊の儀式でたいまつを手に持ち、福を祈り、邪を祓う情景が描かれている。
後漢の儺礼のなかで、たいまつを持ち、疫鬼を送るのは重要なことである。呪文を念じ終え、疫病駆逐の舞踏を完了したとき、舞い手は「たいまつを持って端門まで行って疫を送る」。端門の外の人にたいまつを受け渡し、宮門から送り出す。最後に五つの大隊の騎士たちがたいまつを洛水に捨てる。張衡『東京賦』にはたいまつを伝える情景が描かれている。きらめく火が星の流れのように走り、赤疫を四方の果てに駆逐する」。情景が目に浮かんでくるかのようだ。
魏晋南北朝の時代から、少なからぬ節日(祭りの日)活動に、火祓い法術は用いられてきた。『荊楚歳時記』の杜公瞻(とこうせん)の注に言う、曹魏人は臘祭(十二月祭)と元旦に門前に火をつけ、煙を放つ。曹魏議郎[古代官職]の董勲(とうくん)はこの習慣は漢代に始まったと考えていた。「漢火(辺境の烽火)を起こし、火によって気の流れをよくする」。火を用いて祓除邪崇(邪悪なものを祓う)をおこなうのは秦代以前からの旧俗だった。漢代は伝統を継承し、発展させたにすぎない。
この書はまた言う、梁朝の人は正月末日夜、アシのたいまつで井戸や厠を照らす習わしがあった。これによって百鬼を駆逐すると考えられた。アシはもともと辟邪霊物である。秦代以前の「爝以爟火」(たいまつで祓う)および南朝の照井厠(井戸や厠を火で照らす)の法はどちらもアシと火の二重の駆邪の力を利用したものだった。
唐代には庭燎(宮廷のたいまつ)駆邪の習慣があった。唐人韓鄂(かんがく)『四時簒要』巻五にいう、「歳除夜、庭に柴を積み、火を燃やし、禍を避け、運気が上がるのを助けた」。
宋代の蘇州には、臘月二十五日の夜、「人家みな、貧富関係なく、門の上に燃える薪でいっぱいの盆を置いた。互いに暖かくなるという意味である」。范成大[1126-1193』『臘月村田楽府十首』の「焼火盆行」は俗説を描く。「春前五日(立春の五日前)初更(夕暮れ)後、排門燃火晴昼のごとし」「青煙満城(霞たなびく都で)天半(天高く)日、棲鳥(止まっていた鳥は)驚いて格磔(グジェ)と鳴いて飛び去った」。この火盆を焼くという習俗は、曹魏の正月、臘月の朝、門前で煙火を作っていた名残である。
また范成大は言う、呉中で、焼火盆と同日、村落は使い古した箒、若い麻やわら、竹枝などをくべて火を作り、長竿の先に縛って田を照らし、野や山を輝かせ、生糸や穀物が豊作であるよう祈った。
范氏の『照田蚕行』に「郷村臘月二十五日、長竿のたいまつを燃やして南畝(田)を照らす。雲が開き、森から風のように漂流してきたのは星々のようなホタルではないか」という一節がある。形式から見るに、宋代の「焼火盆」は秦代以前の庭燎が起源である。「照田蚕」中の「長竿燃炬」の起源は秦代以前の爟火のようである。呉中焼火盆と照田蚕の習俗は、清代に至るまで変わることはなかった。東夷の人はこれを「焼松盆」「照田財」と呼んだ。
顧禄『清嘉録』巻十二にはこれに関する詳細な描写があるが、内容や性質が宋の習俗と基本的におなじなので、ここでは引用を控えたい。