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 漢代以降、竜は雲を興し、雨を播くという観念が人々の心の中に入り、竜王に関する神話がますます増えた。竜と関連する雨乞い巫術はいっそう複雑になった。この巫術には4つの形式がある。

A)竜形道具の使用 

 この方法と土竜致雨術は一脈通じるものがある。後代の竜形道具の種類はさらに多くなり、複雑になった。「照妖鏡信仰」の節で述べたように、葉法善[616722 羅浮真人]が揚州蟠竜鏡を用いた故事がある。

 注目に値するのは段成式『酉陽雑俎』「貝編」に同じような話が収録されていることだ。その話の中の施術者は葉法善ではなく、僧一行である。これらの瓜二つの故事からわかるのは、唐代の術士はまちがいなく、揚州鏡に竜形の鏡鼻[紐を通すための鏡の突起部]をつけ、祈雨を行なっていたことである。

 

 『宋史』「礼志五」に記載されているように、宋真宗在位のとき、二度、竜形の道具と関係のある祈雨法術を挙行している。一回目の祈雨儀式は、平二年(999)、「李祈雨法」という法術をおこなっている。[李邕(りよう)は唐代の大臣、書法家 678747

 つぎのような順序で行われる。まず甲乙の日、東に壇を作る。そして土を取って青竜を作る。当地の長官は斎戒し、三日後にやってきて竜の居場所を設置し、水を汲んで檀にまく。お香や茶、果物などの祭品を準備する。これ以降毎日群吏や郷里の老人を引き連れて二度祝祭を行う。音楽や巫覡を使用することはできない。大雨を願って、土竜を流水に放流する。その他四方の西、中、南、北に壇を築き、竜を設置する。築壇の日時、檀の大きさ、竜の長さと、どれも五行の公式をもとにしている。

 「李邕祈雨法」と董仲舒の求雨法は基本的に一致する。ただ巫師を用いることはなく、舞い踊ることはなく、降雨のあと竜を水の中に送り、新しい意味が生まれる。

 二回目の祈雨儀式は、景徳三年(1006)に行われた「画竜祈雨法」と呼ばれる法術である。

 それはつぎのような順序で行われる。近くに潭(深み)や洞窟がある湖沼の密林の奥深くを求雨儀式の場所として選択する。庚辛壬癸日、刺史(しし 国主)、守令は当地の徳が高く、声望がある人々を率いて、酒肉で土地神を祭り、予定の場所で方檀を作る。檀は3つに分かれる。高さは二尺、幅は一丈三尺。檀の外二十歩のところに白い縄を張り、界(境界)となす。

 檀の上に竹竿を挿し、竜図を竹竿に掛ける。この竜図を白絹の上に置き、その上方に黒魚を画く。魚の頭は左を向く。魚の周囲を玄鼈(スッポン)と十の星辰が取り囲む。中間には白竜が画かれる。それは黒い雲霧を掃き出している。下方には波浪が画かれる。波浪の中に左から振り返る亀が画かれる。それは黒気を掃き出している。

 竜図の周縁の飾りは金銀丹砂で装飾した竜形である。竜図のほか、檀の上には樹と黒旗が立つ。配置が終わると、鵞鳥を殺し、その血を盆に入れて置く。柳の枝を用いて血を画竜にまく。

 三日後に一匹のブタを用いて竜神を祀る。そのあと画竜を水に投じる。「画竜祈雨法」には五行の公式を用いた形跡がない。「画竜を水に投じる」以外には、「李邕祈雨法」と共通する点はなかった。両種の祈雨法の実施には七年の隔たりがある。もし李邕祈雨法がうまくいっていたなら、なぜ継続しないでほかの方術を用いなかったのだろうか。咸平二年の土竜求雨活動を見る限り、失敗に終わったとみなさざるを得ない。

 

 雨を求める者は、土竜の類に対して、敬いながら畏れる態度をとる。彼らは雨乞いの道具に懲罰を与えることもあるだろう。とくに祈雨をしながらも、雨が降らないとき。漢代は、土竜だけが雩礼(うれい)、すなわち雨乞い祭祀の聖物ではない。儀式のあと塵土草芥(ちりあくた)すべてが聖物とみなされるのである。

 伝説によると、唐の玄宗は、術士羅公遠と和尚不空に同時に雨乞いをさせて、法術の力比べをさせた。

力比べのあと、雨が降ると、不空は高らかに言った。「昨晩、私は白檀香木を一本焼いて、小竜を作りました」。

 玄宗が侍臣を庭園に行かせ、雨水を両手のひらにためて匂いをかがせた。するとたしかにかぐわしい檀香が漂うのだった。不空の「焼竜法」によるのはあきらかだった。

 また伝説によると、不空はいとも簡単に祈雨法を駆使する。刺繍の入った座布団を並べ、数寸の長さの木神を手に取ってもてあそぶ。呪文を唱えたあと木神を地面に投げる。するとしばらくすると木神の口から歯が飛び出し、目玉がキョロキョロ動き出す。大雨が降ると降臨できるのである。

 不空の焚竜求雨儀式をもとに情報分析すると、彼が用いた木神は竜王の代りと考えられる。木竜を焼き、投擲するのは、竜王の責任を問い、懲罰を与えるという意味である。一種独特な竜形道具の使用法であり、巫術的色彩が濃い。

 張鷟(ちょうさく)は、徳州平昌の県令だった頃、干ばつが起こり、役所(郡府)の令によって「師婆」や「師僧」に土竜求雨の儀礼をさせた。二十日以上たっても効果が現れなかったので、張鷟はダメ元で人を派遣し、土竜を押し倒させた。そして結果としてその夜、大雨が降った。[師婆や師僧はいわゆるシャーマンのこと。師婆(シポ)という呼称は現代でもあり、たとえばヤオ族の儀礼に登場する。なお彼らは郡府が派遣しているので、公的な存在である]

 土竜を押し倒すことが必要であるかどうかはともかく、土竜に懲罰を与えるのは、求雨(雨乞い)法術の一つである。似た法術は清代まで広く行われていた。フレイザーは言う、「中国人は天庭を襲撃する法術を得意としていた。降雨が必要なとき、彼らは紙や木を使って雨神を象徴する巨大な竜を作った。彼らは隊列をなし、巨竜をかかげてあちこちを練り歩いた。もし雨が降らなかったら、これはニセ竜であったとして、呪語を浴びせられ、叩き壊された」。フレイザーが描写する竜舞は、清代末期にはじまったものである。