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(B)蜥蜴と蛇の使用
この法術と漢代の蛤蟆(カエル)感応術は相通ずるところがある。『易林』に言う、「蛤蟆(カエル)が群れ集い、天の雨を請う、集まればすぐに雨は降る、願ったとおりになるものだ」。
カエルが群れ、一斉に鳴くのと降雨は関係がある。これを人は雨乞いの霊物とみなすのである。しかしカエルの見かけと竜では違いがありすぎた。それゆえカエル池を掘り、置五蛤蟆法術は後世まで行われなかった。これに代わって「駆旱求雨」(旱魃を駆逐し雨を求める)のために好まれるようになったのは外形がより近い蜥蜴(トカゲ)と蛇だった。
トカゲは古代において竜子、蛇医と呼ばれた。この二つの異名は、人間とトカゲや竜蛇との関係を理解するためには重要だ。
唐代の民間伝説によれば竜とトカゲはもともと親戚同士なのだという。段成式『酉陽雑俎』「広知」に言う、唐憲宗のとき、王彦威(おうげんい)は汴州で宴の用意をして李紳(りしん 唐順宗の子)の師季玘(きき)が来るのを待った。宴席でこの旱魃はどうにもしようがないという話題が飛び交っているとき、酔っぱらった季玘が現れて言い放った。
「雨を降らすなんて簡単さ。四匹のトカゲを捕まえてくる。十石の穀物が入る二つの大甕に水を満たしたあと、それぞれ2匹ずつトカゲを放り込む。そして木蓋でぴったりふさぐ。さらに泥を塗りこんで密封する。なかで(トカゲが)大騒ぎするまま放置する。甕の前や後ろに席を並べ、焼香をし、十人以上の十歳以下の男の子を探し出す。男の子たちは手に小さい青竹を持ち、昼夜輪班で一刻も休むことなく大甕を叩き続ける。そうするとかならず雨が降る」。王彦威は法術をいろいろと試してみて、二晩ののち、天井をひっくり返したような大雨が降ってきた。
『宋史』「「礼志四」によると、宋神宗煕寧十年(1077年)四月、京師汴梁では雨が降らず、長い間旱魃が続いていた朝廷は「蜥蜴(トカゲ)求雨法」を実行した。城内の坊巷で儀式が行われた。まずトカゲを数十匹捕えて水甕の中に入れる。甕の中には雑然と木の葉を入れて置く。選び抜いた十三歳以下、十歳以上の男の子28名は青衣を着て、顔や手足に青い塗料を塗る。28人を二つの班に分け、順繰りに柳の枝で昼夜を問わず水をかけつづける。水をかけると同時に、水甕を囲い、呪語を唱える。
「蜥蜴よ、蜥蜴。雲を興し、霧を吐く。土砂降りの雨を降らせたのだから、汝を解き放とう。家に帰るがいい」
どちらもトカゲを脅して雨を請い、雨を降らせる。
ほかにも蜥蜴を神霊にして祭祀をするというのもある。宋祁(そうき)は鄭州で役人の職についたとき、旱災を消除するために「祈りの場所で蜥蜴を祭る」という祭文を書き写した。それゆえ「すぐに十分な大雨が降り、民には豊作がもたらされた」。
蜥蜴求雨法が広く実践されるようになってから長い年月がたち、トカゲに形が似た壁虎(ヤモリ)を、雲を興し、雨を播く神物とみなす人も出てきた。
『子不語』巻十七「鉄匣壁虎(てっこうへきこ)」に言う。雲南昆明池[滇池]のそばで農民が鉄匣を掘り出した。なかには一寸ばかりのヤモリが入っていた。その動きはのろく、生きているのかどうかもよくわからない。童子がそれに水をかけると、わずかの間にそれは伸び始めて、ウロコがぶるぶる怒りで震え始めると、空へ向かって飛んでいった。すると暴風雨がやってきて、天地が暗くなり、見ると一角の黒蛟竜と二匹の黄竜が空中で戦っていた。雹がパラパラと落ちると、あちこちの田んぼや民家が損傷してしまった。
この故事はあきらかに、トカゲが雨をもたらすという古い言い伝えから生まれた観念をもとにしている。
古代の巫師は雨を求めるとき、蛇を使った法術を駆使した。蛇に対しては、懲罰を与えることもあれば、逆に敬い、奉ることもあった。
明代はじめ、松江一帯が大旱に見舞われた。地方官は方士沈雷伯が道術にすぐれていると聞き、部下にお礼の品を持たせて沈氏のもとを訪ねさせた。そして駆旱の術を行うよう依頼した。沈氏は雨を招致することができるとして、態度が傲慢だった。実際彼の道術は特に優れたものとは言えなかったが、祭壇を作り、符を書くほか、湖畔で「蛇やツバメを取ってこれを焼いた」。結果として、霊験があったということはなく、夜中にこそこそ逃げ出したという。蛇やツバメを焼くのは、悪竜を懲罰するという意味合いがあったろう。
民間では「竜嗜燕肉」という言い伝えがあった。術士は竜の子孫である蛇を懲罰すると同時に、竜の最高の好物であるツバメを懲罰と称して施したのである。
神蛇を供奉する求雨法(雨乞い法)も民間では広く見られた。清代綏邑(すいゆう)、現在の四川達県では、干ばつになるたび、巫師は村人の要請に応じて、髪を振り乱し、奇問を唱えながら深山の奥へ入り、洞窟の中で蛇虫の類を取り集めた。それらを持って帰って供奉し、一心に祈祷した。
蛇神が現れる(顕霊)と、大雨が降った。村人はお金を出し合って銀の装飾品を作り、蛇を飾った。最後に銅鑼や太鼓を叩きながらもといた場所へ送っていった。
ある年、岳渓、すなわち現代の四川万県の人が雨を求めて山に入り、蛇を捉えた。蛇には六つの銀飾がついていて、すでに何度か[少なくとも六度]供奉されていたことがわかった。毎回効果があり、雨をもたらした。それゆえこのようにたくさんの報奨を得ていたのである。