古代中国呪術大全 

第3章 01 招魂(上) 周代葬送儀礼中の「復」の儀礼 

 

(1)

 霊魂の観念が生まれて以来、あらゆる巫術(呪術)は、とくに人をコントロールする巫術はその観念の影響を受けてきた。巫術を用いて人をコントロールする行為および感情は相手の霊魂に対する攻撃と支配があってこそ完成するものだった。それは直接相手の身体を攻撃する必要がなかった。亡霊や鬼魂をコントロールする巫術に至っては、術をかけるとき、形のない純粋な霊魂が対象となっていた。こうしたことから、巫術は霊魂をコントロールする方法の一つであることがわかる。

 古代中国ではつねに魂、魄二つの概念によって人の霊魂を表していた。秦代以前は魂、魄の意味が明確に区別されていた。しかし次第に混同されていった。一般的な信仰からいえば、魂は天に成り、魄は地に属す。それらは分かれて人の陽気と陰気を代表する。魄と形体は密接な関係にある。魂の独立性はさらに強く、自由度はさらに高い。魂と魄はどちらも精神的なものであり、つねに結合して一つとなっている。これらは肉体に付着して存在となる必要はなく、むしろ人の体のほうがこの両者に頼っているところがあり、それらが入ってくることによって生命があるのであり、活力があるのだ。

魂魄が肉体から離脱すると、人は死ぬことになる。あるいは考えや感情を失い、動くだけの人間になってしまう。人は死後、魂魄、あるいは鬼(亡霊)という存在になる。他人の体に入り、「託生」の存在になってしまうかもしれない。この状況下で、なおも魂魄は最初に身を寄せた人の考えや感情、性格や特徴を帯びているという。古代の迷信観念のなかでは魂と魄の性質は基本的には同じであり、人は両者の概念を同一視し、霊魂としてとらえるようになった。

 霊魂をコントロールするあらゆる呪術のなかで、巫師(シャーマン)がまず会得すべき基本的な技は、招魂術である。巫のもともとの意味は、「舞いでもって神を降ろす者」。現代の民間において巫婆(ウーポ)の術を「下神」と称するが、神霊や鬼魂を招来することによって巫術の目的が実現されるからである。そしてその前提として、用いられるこのもっとも基本的な手法があらゆる巫術の手法を含んでいるのである。

 古代、とくに秦代以前の招魂術の典型といえるのは、「復礼」である。亡霊に出現させて形を返す術もまた、「復礼」の変種といえる。降神附体、視鬼役鬼、収撮生魂、魂魄控制(コントロール)なども広義の招魂巫術(呪術)の範疇に入るだろう。

 

(2)

 秦代以前の復礼について考察したい。

 周代において死者のための葬送でまず重要なのが招魂儀式である。当時はこれを「復」と呼んでいた。「復」(魂よばい)とはすなわち魂を招き、魂を復するという意味である。この儀式を行う目的は肉体から遊離した魂魄をふたたび死者の体内に入れ、文字通り「起死回生」をはかることである。

 『儀礼』「士葬礼」などの文献によれば、周代、士の階層の貴族が死ぬと、まず死者が生前着ていたもっとも高貴な服装「爵弁服」(褐色の上着と赤い袴)の上下を縫い合わせる。「朝服」(朝廷に出仕するときの服)を着た招魂者は、この爵弁服を左肩の上にのせ、爵弁服の襟を自分の帯に挿し、そのあと家の東南の角から屋根に登り、屋根の中央に立つと、北を向き、左手に爵弁服の襟を持ち、右手に衣の腰回りのところを持ち、衣を振り回しながら叫ぶ。

「ああ、某よ、復せよ」。ああ、と長嘯し、某(死者の乳名)の名を唱える。「某よ、復せよ」とは「某よ、戻って来い」という意味である。これを三度繰り返し、招魂者は左まわりで南を向き、爵弁服を家の前へ放り投げる。屋根の下には衣装箱を持った人がいて、爵弁服を受け取る。そして東側の階段を上がって母屋に入り、招魂の衣服で遺体の上面を覆い隠す。招魂者は爵弁服を放り投げたあと、家の西北角の庇(ひさし)を壊して(魂が出入りしやすいよう)穴をあける。ここに至って、招魂儀式は完成したと宣言する。

 復礼の多くの儀式は巫術の意識や原始宗教信仰を基礎としていた。招魂の衣、招魂の方向、呼びかけ、拆洞(たくどう。穴あけ)などに注目したい。

 死者が生前に着ていた服を用いて招魂をするのは、典型的な接触巫術である。巫術をおこなう者は死者が接触したものと亡霊との間にはなおも密接な関係が保持されていると信じている。周代の復礼において服を通じて死者に対して巫術をかける場合、二つの段取りがある。まず魂魄を衣服の上に招く。そして衣服で遺体を覆う。つぎに衣服の上の魂魄を死者の体内に導く。接触巫術の原理を分析すると、前段部分は比較的原始的であり、後段部分はあとから追加されたと考えられる。つまり招魂礼の古い形態において、招魂者は魂魄を衣服に戻す。ほかのことをする必要はない。というのも彼らは衣服の上の魂魄が遺体に向かうと信じているからである。のちの人から見れば、衣服に魂を招いたところで、また招魂の衣を遺体にかぶせたところで、「起死回生」することは不可能なのだが。

 

(3)

 周代の貴族の服飾は等級によって厳格に区分されていた。天子、諸侯、大夫によって礼服が異なったのである。もちろん死者はどの階級の貴族であろうと、招魂時はつぎの原則を遵守する必要があった。「死者の祭服の再利用」あるいは「死者の上服をみなふたたび用いる」。祭服とは祭祀のときに着ていた礼服を、上服とは最上等の服を指す。ほとんどの場合、両者はおなじものを言う。死者が着たもっとも高貴な服装が求められるのは、それが招魂復魄(魂魄を招く)するからである。この類の服装は死者にとっても尊いものだった。それは亡魂を引き寄せた。浮遊している魂を召喚することができたのである。

 北に向かって服を振って魂を招く。基本的に「肉体を離れた魂魄は北に向かってゆらゆらと漂っていく」という概念がある。周人から見ると北方は幽暗の地である。これは陰間がある場所であり、鬼魂の大本営である。のちに霊魂が帰宿する極楽世界は西方ということになったが、これは仏教の概念が入ってきたためである。

 『礼記』「檀弓下」に言う、「北方北首に葬る。三代の達礼である。幽の故である」。夏、商、周の頃、墓葬区は城北(都の北部)に置かれていた。葬式のとき遺体は「頭北足南」に安置された。これは死者の霊魂が順調に北方の幽暗の地へと帰っていってもらうためである。発見された西周の墓葬の大多数は「頭北足南」を採用していた。『檀弓』に述べられていることは確認され、周人に北を幽の地とする概念があったことを示している。戦国時代の陰陽家は北方に黒色を配したが、それは西周以来の伝統を踏襲したにすぎなかった。

 『礼記』「檀弓下」はまた言う、招魂のとき北に向かって立ち、「諸幽を求めるという意味である」「諸幽に対し、魂魄を望み、諸鬼神の道を求める」。亡魂は北方に集っているが、招魂者は北方に向かって呼び、迎え入れなければならない。

 

(4)

 周代の貴族の「礼」によると、生後三か月の嬰児に「名」(乳名)が付けられ、二十歳前後(上流貴族の冠礼はもう少し早い)の成人儀式で「字」(あざな)が付けられる。乳名は生まれたときからほぼともにあるので、霊魂といっしょにいる時間が長く、霊魂と密接な関係にあるとみなされる。

 『礼記』「喪服小記」に言う、「復(魂よばい)と銘は、天子から士まで、言葉は同じだった」。招魂のとき、亡魂と関係が深い乳名を呼ぶ必要があった。貴族の等級ごとの招魂のために「通礼」をきちんと行わなければならなかった。

 『礼記』「曲礼下」に「復(魂よばい)という。天子の復である」と記される。これは春秋時代以降、「名諱(めいい)制度」が日増しに厳格になったことを反映している。

 鄭玄は、『喪服小記』に記されているのは殷礼、『曲礼』に記されているのは周礼であり、両者にはわずかな違いがあると述べている。

 西周春秋時代、「臣下は君主の名を呼ぶことができない」という決まりがあった。秦漢代の人には、厳格すぎると感じるほどではなかっただろう。周公は上天に向かって、病気になった兄の周武王の身代わりに自分が病気になってもいいと申し出た。このときの祝辞(祈りの言葉)のなかで、武王の本当の名を呼んだ。

 春秋諸侯の盟書[誓いを立てて同盟を結ぶさいの公文書]には、本当の国君の名を記す必要があった。盟書はすべて史臣[重要なことを記録に残す官吏]が読み上げた。

 似たような事例は枚挙にいとまがない。厳格に言うなら、「天子の復(魂よばい)」とは招魂のことで、巫術の原理とは一致しない。乳名と霊魂の特殊な関係を強調する必要はなかった。だれかの通名を、私名に置き換えるだけである。

原始巫術の観点から見ると、素朴な子供の遊びのようなものである。天子には指を折って数えるのがむつかしく、広く果てしない空に向かって「天子の魂よ、戻ってこい」と叫んでも、どの天子を呼んでいるのかわかりようがないではないか。誰を呼んでいるのかわからないのに、どうやって素直に体内に戻ることができるだろうか。

 [礼記]「喪大記」は言う。「(魂を)呼ぶというのは、男子は名を称することであり、婦人は字(あざな)を称することである」。同様の理由で「婦人は字を称するものだ」と決めつけるのは、後知恵にすぎない。

 

(5)

 招魂のときのけたたましい声を「皋(ごう)」という。それは人を戦慄させる耳に痛いすさまじい声である。現代においても耳をつんざくような叫び声を「叫魂」と呼ぶ。形のはっきりした比喩である。ただ現代人が言う「叫魂」の声が二千年前の「皋(ごう)」と同じであるかどうかはわからない。

 『士喪礼』によれば、招魂のあと、北西の軒(のき)を取り壊す。これは広く見られる儀法(儀礼と法度)であるが、後世の人にさまざまな憶測の余地を残した。

鄭玄はこれと招魂は無関係と考えている。すなわち屋内に凶気が充満していて、生者が居住するのには適していないとみている。しかしこの説は十分とはいえない。

 軒を壊して穴を開けることに関しては、清代の沈彤(しんとう)の解釈がもっとも合理的である。沈氏は言う。招魂のとき、遺体を室内の南向きの窓の下に留めおく。そして北西の軒に穴を開ける。その目的は「遮蔽しているものを取り去って、神を通すため」である。

 招魂儀礼をする者は家の前に衣を投げる。魂魄が衣服に付いたかどうかはっきりわからなければ、また魂魄が穴を通って中に入り、遺体に戻ることを期待して、北西の軒を壊す。北に向かい、衣を振って呼ぶのは、幽暗の地に向かって霊魂を探し求めるということである。軒を壊し、穴を開けるのは、幽暗の北方に穴を開け、遺体との間に道を通すということである。

 『礼記』「喪大記」は言う。北斉の軒から別の用途のために木を取り出す。死者の頭を洗った米汁で木をよく煮込み、この木を燃やす。多くの経師[経文を書くことを務めとする人]はこれに対し、想像をたくましくした。実際は、まさに沈彤(しんとう)が述べたように、軒を壊すのは米汁を煮込むだめでなく、壊した木にほかの使いようがなかったので、それを燃料にしたのである。

 

(6)

 周代の招魂儀礼の規模は死者の身分によって違った。上述のごとく、士のクラスの復儀礼の規模は比較的小さく、ひとりの招魂者と堂の下で衣を受け取る人の二人がいれば事足りた。天子、国君のための招魂儀礼となると、盛大に行われた。

 『礼記』「雑記上」は言う。国君の招魂者は儀式の前に北に向かって列をなし、列の先頭は家の西に位置する。この場合の招魂者はひとりではなかった。推測するなら、「復者(招魂復魄する者)の人数は、その命数によって決まった」。すなわち復者の人数は、死者の爵位の命数に応じて天子が決定を下した。

 『周礼』に記される夏采、祭僕、隷僕の三官は、天子の招魂を担当していた。賈公彦(かこうげん)はこれを根拠に、「王の葬送のときは、十二人の復者がいた」と推測した。

 天子や国君の葬送のなかで招魂をする地点は住居とはかぎらなかった。『礼記』「檀弓上」に言う。「(国)君は小寝、大寝、小祖、大祖、庫門、四郊にて復す」。

 『周礼』の夏采は大祖と四郊で、祭僕は小祖で、隷僕は小寝、大寝で招魂を行う。これらの記述は、上流貴族の「復」儀礼が士クラスの「復」と比べてはるかに隆盛に行われていることを反映しているのは疑いない。

 

 招魂儀式がいつも通りにできないとき、状況に応じた「変礼(異なる儀式)」を行なうことがあった。魯僖公二十二年(前638年)、小国邾婁(ちゅうろう)は魯国に勝利したが、かえってひどい代償を払うことになった。邾婁人の死傷者はきわめて多く、国力を大いに損ねたうえ、衣がないまま招魂儀式をおこなってしまった。招魂の衣のかわりに、仕方なく矢を使って「復」の儀式を挙行したのである。これよりあと、矢を用いた招魂儀式が邾婁のしきたりとなった。招魂に用いる矢は、戦死者が生前に作ったものであること、そして実際に使用したものである必要があった。「矢で(魂を)復する」のは接触巫術に属するものだった。

 『周礼』「夏采」に言う。郊外に出て天子の招魂をするのに、天子が生前乗っていた車に乗るのは必須である。そのとき竿の先に牛(ヤク)の尾をつけ、振り回す。

 『礼記』では何度も言及しているが、外国から派遣された卿大夫や士が途中で亡くなったら、招魂者は馬車の左の車輪の轂(こしき)の上に立ち、ヤクの尾を振りながら魂を招かねばならない。野外でヤクの尾を振る時代があり、戦国時代に至ると、それは慣例になっていた。

この慣例のもっとも早いバージョンが変礼である。ある使者がどこかへ向かっているとき、突然死した。同行者はあわてて招魂用の礼服を捜したが、見つからなかった。それで旗印にしていた竿の先のヤクの尾を代替として使ったのである。

 

 風俗習慣、文化的背景などは各地で違ったので、招魂儀礼も当然場所によって異なった。楚国は巫の文化が盛んで、ここの招魂儀礼はとくに盛大で厳かだった。『楚辞』中の「招魂」と「大招」は、巫師の口ぶりを模倣したものを書いた招魂の辞である。両方の文の構造はほぼおなじである。

 はじめに世界のあらゆるところに凶悪が充満しているので、もといた場所に戻ってくるよう魂魄を呼ぶ。つぎに宴席のごちそうが豊かで美しいことをおおげさにほめたたえる。あでやかな女性が歌い、舞い、人を虜にする。御座所はきらびやかである。暗黒、すなわち間違った世界から精神を救い出し、光を当てて正しい世界へと導く。

このように招魂儀式はきわめて複雑である。というのも根底には楚国の巫術文化があるからである。

 

 巫術が民間の冠婚葬祭となったあと、シャーマニズム的な性質は削がれてしまった。招魂術の儀式も例外ではなかった。「復」の儀礼は死者を蘇らせることはできなかった。このことを理解するのは難しいことではなかった。ただ長い間、この知識を持った人は法術が効を奏するかもしれないという希望は持っていた。もしかしたらという心理によって法術をおこなったのである。長く続けるうちに、「復」は完全に儀式となっていった。死者が起き上がるなんてことはありえないのだ。

 戦国時代以降、儒家は招魂儀式には合理性があるという仁愛学説の解釈を用い始めた。彼らが言うには、「復は愛を尽くす道である。神に祈る心である」と。[儒学の仁愛学説とは、命あるものへの尊敬と敬愛、そして慈悲に基づく活動の精神のこと]

 招魂復魄(魂を招き、魄を戻す)とは、生者の死者に対する愛と願望の表現である。

 「復してのち死事を行なう」(招魂儀式が終わったあと、葬送儀礼を続ける)とは、生者がひとりの生命を救おうと尽力することであり、死者に対する無関心を示すものではない。ぞんざいではあるが、死者を別の世界へと送ろうとしているのである。

 この解釈は受け入れられるだろう。葬送の前に招魂法術を実施するのは、生者の願望を体現するほかに、実際的な意味はないのである。

 この説は「復礼」を維持し、保護するというものだが、実際は願いと異なり、壊滅的な打撃を与えてしまうことがある。屋根の上に上って立ち、衣を振って叫びながら呼び、軒を壊して穴を開ける法術は感情を表した方法であって、巫術的な意味はない。祈りの気持ちを簡潔に表現したにすぎない。秦漢の時代に至って、葬送の前に「復礼」が行われることはまれになった。