古代中国呪術大全
第3章 02 招魂(中) 亡魂返形呪術
(1)
復礼の消滅と招魂呪術が未整理のまま流伝したことは、とてつもなく大きな影響をもたらした。復礼が淘汰された要因は、巫術を存続させてきた神秘性の喪失があげられるだろう。その他の招魂術に関しては、一般の人が操作することも運用することもできなかったので、神秘性が損なわれることはなく、そのまま存続し、発展することができた。これらの招魂術中、上流社会でもっとも影響が大きかったのは、亡霊をもとの形で出現させる返形呪術だった。
招魂術が実践されているとき、巫師以外の傍観者は魂魄の姿を見ることができず、ただ巫師本人の憑依した状態や言葉、その他様子を見て招魂に成功したかどうかを見極めることになる。返形術の目的は傍観者に死者の姿を見てもらうことである。返形術によって召喚するのは形のない魂魄ではなく、目撃することのできる形のある魂魄である。このように返形術はより複雑でより高級な招魂術ということができる。ただ大巫師だけがまっとうすることのできる絶技秘法なのである。
(2)
伝説によれば晋の恵公元年(前650年)秋、大臣狐突は曲沃ですでに死んで五年になる恵公の異母兄弟申生と出くわした[狐突は申生の御者だった]。申生が言う、彼は上帝の同意を得て晋国を秦の領地としようとしているが、それは礼節を守らない晋恵公への懲罰であると。狐突が懇願すると、申生はようやく上帝に新たな処置を願い出ようと答えた。そして七日後に新城の西側へ来るよう狐突に言った。七日後そこに行くと巫師がいた。申生は巫師の姿かたちをとって狐突と語り合った。狐突はあらためて会う約束をして、巫師の助けを借りて申生と会った。そして上帝の啓示を得ることができたのである。
史実から明らかなのは、晋恵公、懐公[二人は父子]が即位したあと、狐突は心から仰ぐことができなくなった。申生に会った云々といって恵公を糾弾するのは無礼であり、彼が受け取ったという予言は悪い報いだった。こうした言葉は狐突やその親族が捏造したものに違いなかった。しかしこうした伝説が史実を反映しているという面はあった。当時巫師は死んだ魂を招いたり返したりするのがいわば本業だった。この背景がなければ奇妙な物語を作ることもなかったろう。話を作ったところで、信じる人がいなければ、広まることもなかったろう。
(3)
漢武帝は李夫人の「招魂返形」(魂を招き、姿形を戻す)のために方士を起用した。李夫人は美しく、舞踏に長けていた。「一顧傾人城、再顧傾人国」(ひとたび顧みれば人の城が傾き、ふたたび顧みれば人の国が傾く)と号されるほどだったが、不幸にも早く逝去してしまった。
方士少翁(李少翁)は漢武帝の心を推し量り、李夫人の亡霊を現出させましょうと公言した。少翁は夜間に帳(とばり)を設置し、灯を張り、ロウソクを燃やし、呪術によって魂を招いた。武帝がほかの天幕のなかに隠れて向かいの帳を見ると、李夫人に酷似した美女が灯下に現れた。しばらく座ったまま動かなかったが、そのあとゆっくりと歩いてまわった。前もって少翁からは「見てはならない」と言われていたので、漢武帝は遠くから眺めるしかできなかった。見られないとなると、心は痛むばかりだった。
賦詩のなかでこう述べている。「これは邪(よこしま)か、邪ではないのか。立ってこれを望むと、女のしゃなりしゃなりと歩くのがなんと遅いことか!」。漢武帝は疑い深い性格だったので、少翁の法術を完全に信じたわけではなかったが、向いの帳に走っていくだけの勇気はなかった。そうでなければこの「邪か非邪か」の問題は簡単に解けたであろうに。
方士が李夫人の魂を招いて姿を現した故事は、後世の小説家の恰好の材料となった。前秦王嘉が選んだ『拾遺記』には、李夫人の死後、漢武帝が方士董仲君に「招魂返形」(魂を招き、姿かたちを戻す)をさせたと記されている。
仲君が言うには、黒河の北には「対野の都」があり、「潜英の石」が出るという。石は青色で、羽毛のように軽く、冬暖かく、夏涼しい。この石を用いて人の像を彫る。息はしないが声は出る。神に向かって人の考えを伝達することができる。石人をもって招魂し、李夫人はかならずやってくる。
漢武帝は百艘の楼船と千名の樹の上に乗って水上に浮かぶことのできる力士[古代官名:警備兵]を派遣した。董仲君はこれらを率いて石(の素材)を捜した。十年後、仲君は石を携えて漢朝に戻ってきた。すぐに李夫人の画を見せて石人を作らせた。絹の幕のなかで李夫人の魂を呼ぶと、石像は真人に変わった。
漢武帝は彼女の姿を忘れることができず、近づこうとしたが、仲君に阻止された。仲君は言った。「万乗の尊(天子のこと)がどうして精魅(妖精鬼怪)に惑わされるでしょうか。ましてこの石には毒があります。ただ遠くから眺めるのがいいのです。近づくことはできません」。
その後董仲君は従者に石像を木っ端みじんにさせた。これにより漢武帝は二度と思念の苦しみを味わうことはなくなった。葛洪『神仙伝』巻七に董仲君の事跡が記されている。「(仲君は)服気煉形をよくし、二百余歳にして老いていなかった」。こうして名立たる神仙として認められた。斉人少翁、のちに偽装が発覚し、武帝に死を賜った。『拾遺記』に載っているのは、考えるに、術を行った者が作り変えて名声を得た董仲君である。小説は続編に「潜英の石」を借りて亡霊を招き戻す場面を加える。その内容と原始時代の伝説はほぼ同じである。
「ただ眺めるだけがよろしい、接近することはできない」という禁忌の描写は、『漢書』に記される内容と完全に一致する。亡霊を近くで見る、あるいは接触するのは、たしかに返形術の大忌である。
(4)
『後漢書』「方術列伝」には返形術に長けたたくさんの後漢の方士の名が記載されている。「章帝の時代に寿光侯という者がいた[劾鬼者、すなわちゴーストバスター]。百鬼衆魅(たくさんの妖怪)を脅して、自らを縛らせて姿を現出させた。
また頴川(えいせん)に劉根という者がいた。呪術(法術)の腕がたった。劉根は嵩山(すうざん)に隠棲していたが、千里をものともせず遠くから道術を学ぶために志のある人が集まった。
当地の太守史祈は劉根が怪異で大衆を惑わしていることに気づき、彼を捕まえて郡府につきだした。彼の行っていることは効果があり、あきらかに技能があった。劉根は顔を左に向け、長嘯を発した。しばらくすると史祈はかなり前にこの世を去った祖父、父、近親ら数十人の姿を見た。みな囚人のように手を縛られていた。彼らは劉根の前にやってくると叩頭して謝罪し、また亡霊を巻き添えにしたことで史祈を罵った。史祈は彼らの驚き、恐れ、悲哀を見た。血を流しながら頭を下げ、亡霊にかわって懲罰を受けてくれないかと懇願した。劉根ははじめ黙って声を出さず、瞬く間に人・鬼すべて死んでしまった。(……)
後漢後期、一時的にさまざまな巫術が流行した。術士(呪術師)の門徒は非常に多く、民衆へのアピールはきわめて大きかったので、現政権にたいする脅威となった。統治者とは激しくぶつかったのである。
孫策は于吉を殺し、曹操は左慈を殺そうと欲し、史祈は劉根を殺そうとした。みなある種の葛藤があったのである。統治する側には腐った部分があるので、術士(呪術師)に広く同情が集まった。そのためこの種の葛藤から衝突が生まれる伝説の中では、術士(呪術師)が最後に勝利を得ることになる。
劉根伝説が形成されるとき、返形術の迷信はますます利益を得る。少翁は亡霊を招返し、帳を設置し、酒を置いた。劉根は臨機応変に呪術をおこなった。少翁は一人の姿を出現させるのが精いっぱいで、劉根は一群の鬼魂を招いた。少翁は夜間に呪術をおこない、劉根は白昼におこなった。少翁は白日に飛翔する奇跡は見せられず、劉根は風のごとく飄然と、一瞬で人や鬼を死なせることができた。伝説中の術士(呪術師)の本領はますます発揮され、世の人の返形術の信仰はますます篤くなるのである。
(5)
南朝の宋孝武帝劉駿はこっそりと叔父劉義宣の女(むすめ)を妾にした。人の目をごまかすために、宮廷内に女性は殷(淫)であるという噂を流した。ゆえに殷淑儀と呼ばれた。淑儀の死後、劉駿はすっかりしょげ返り、まつりごとにはまったく興味を失せてしまった。
亡霊を見ることができる(見せることができる)巫師がいた。劉駿はおおいに喜び、その法術を見せるよう頼んだ。巫師の準備が整い、帳(とばり)の中を見るとたしかに殷淑儀の姿がそこにあった。劉駿は彼女と話をしようとたが、相手は黙って何も答えない。彼女の手をひこうとすると、彼女は忽然と姿を消してしまった。この故事は少翁が李夫人をこの世によみがえらせた故事の翻案である。おなじでない点があるとすれば、巫師がいっそう大胆になっていることである。彼は殷淑儀を招き、さらに近づける。劉駿は妄想を抱くが、もう少しのところで巫師のトリックが見破られる。
北朝の某少数民族の巫師はこれと似た法術を用いる。ただその手法はお粗末なものと言わざるを得ない。蠕蠕(ぜんぜん)族首領丑奴(ちゅうど)が王位を継いだあと、息子の祖恵が忽然と姿を消した。そのとき蠕蠕族に「是豆渾・地万」という若い巫女がいて、丑奴の信任を得ていた。
巫女は言う、「この子は今、天上におりまする。呼んでみようぞ」。
翌年の八月、地万は大きな沢に帳(とばり)を設置し、斎戒を七日おこなって天神に祈った。すると夜が明けると、祖恵は帳の中にいた。この子が言うには、しばらく天上にいたという。丑奴は民衆が集まったおりに地万に「聖女」の称号を与えた。
数年後、母親が大きくなった祖恵に、行方不明のときどこにいたのかと尋ねた。すると祖恵は答えた。「ぼくはずっと地万の家の中にいました。天上になんか行っておりませぬ。地万に天上に行ったと言えと命じられたのです」。
この発覚が紛争を誘発し、血なまぐさい弔い合戦にまでなり、そのなかで祖恵、地万、丑奴みなが命を落とすことになってしまった。
地万の法術は漢代の少翁の方術とおなじではなかった。招いたのは霊魂や死者ではなく、行方不明になった子供だった。少翁の場合、亡霊の姿を「遠くから眺めることはできるが、近づいて触れ合うことはできなかった」。法術駆使し、露見しなかった。
一方地万が呼び戻したのは生きている人、とくに子どもだった。起こったことを話すまでに一日が経過している。これは地万の巫術の稚拙なところだろう。地万が天から人を招き(呼び戻し)、帳(とばり)を設け、斎戒し、神へ祈祷し、帳の中で人を取り戻すという段取りは、典型的な返形術に近かった。
(6)
白居易『長恨歌』や陳鴻『長恨歌伝』を読んだことのある人ならだれでも唐玄宗が術士に楊貴妃の招魂をした故事を知っている。巫術の角度から見ると、返形術の失敗例であるが。術士と唐玄宗が了解した目標は、少翁が招魂したのとおなじことを楊貴妃に関しても行おうとしたのである。
しかし結果として、術士が言うには、自身が海上の仙山で楊貴妃を見たというだけで、唐玄宗は何も見ることができなかったのである。ほかの野史(民間の史書)によれば、楊貴妃の魂を招返しようとした巫師の名は楊什伍(一説には陳)といい、広漢什邠(じゅうひん)の人である。小さい時に道士から檄召(げきしょう)の術を学んだ。これによって「鬼神を使い、たちどころに応えざるなし」だったという。
楊什伍がはじめて宮廷に参上したとき、唐玄宗が招鬼返形について問うたところ、楊什伍は肯定的に答えた。「天上地下、陰間、鬼神の中、これらすべての中に探してみましょう」。しかし三日にわたっていろんな法術を使って、九地の下、九天の上を、世の中すべてをあまねく探しても、楊貴妃の霊魂を見つけることはできなかった。
亡霊を探す手立てはもはやないと思われたが、楊什伍は最後に東海の蓬莱の頂に仙人が暮らす場所があり、そこで楊貴妃と出会ったという。そして開元年間の楊貴妃に関連した遺物とやらを提出して使命を全うした。
老いぼれた唐玄宗は証拠の遺物を見て、当初楊貴妃の霊を見るはずであったことをすっかり忘れ、道士を激賞した。「大師よ、おまえは天に昇り、地に入り、幽冥の世界に通じた、神仙のごとき道士である」と。唐玄宗は楊什伍に「通幽」という称号を下賜し、金銀、良田などの財物を賜った。
唐代の一部の術士たちは伝統を重んじ、「招魂返形」のときの秦代以前の復礼や漢代の帳を設置し、ロウソクを燃やす方法を厳密に守った。唐人参寥子(さんりょうし)は小説に書いている。
長安の韋進士は、「返魂の術」を得意とする嵩山の任処士に死んだ愛妾の魂を招魂するよう頼んだ。任処士はよい季節の吉日を選び、家の中をきれいにして、香を焚き斎戒し、塀を立てて帳(とばり)を作った。最後に魂を導くために死者が着ていた衣服を用意した。
韋氏が亡き愛妾の遺留品である金の刺繡に縁どられた裙(スカート)を探し出すと、任処士はそれを見ながら言った。「これでそろいましたな。今日の招魂では閉め切って、部外者は立ち入らぬようにしてください。亡霊に近づいてはいけません。そして悲しんで泣かないようにしてください」。
その晩、任処士は香火の前でロウソクに火をともすと、突然 長嘯(長くうそぶくこと)をはじめた。そして手に香裙を持ったまま、帳に向かって舞いだした。三嘯三揮(三度嘯し三度衣を振って舞う)のあと、帳の中から感嘆の声が聞こえると、赤い衣を着た女が走り出てくる。まなざしは斜めで、怒りをおさえきれないふうだ。韋は驚いて拝みはじめたが、任処士にすぐ引っ張り出された。
韋は霊と話そうとしたが、赤い衣の女は答えず、ただうなずいて意思を示すだけだった。それを見ているうちに任処士が決めた時間がいっぱいになってしまった。韋進士はタブーをものともせず、飛びかかろうとしたが、その結果、ロウソクは消えて、誰もいなくなってしまった。ただ強烈な神女の香気がいつまでも漂っていた。
任処士の三度長嘯し衣を振るのは、秦代以前の復礼とおなじである。知っておくべきことは、復礼は葬送前にかならず行うべき儀式だったが、すでに行われなくなっていた。ただこの種の招魂復魄の法術は術士の間に長く伝えられたのである。
(7)
宋代になって、招魂返形術によって富を求めようとする術士は少なくなかったが、成功した術士はごくわずかだった。
宋神宗のとき、姜術士は神宗が祖母の太皇太后曹氏の死を深く悲しんでいることを聞き知り、死者を復活させる神術の心得があると称し、宮廷に入って力を尽くした。姜は宮廷内で施術すること数十日、まったく何も成しえなかった。ただ調子よく言う。「わたしは太皇太后さまと仁宗が白玉の欄干にもたれてお酒を飲みながら花をめでておられるのを見ました。皇太后さまは人間世界に戻って来られることはないようです」。神宗はばかばかしいと思い、彼を都から追い出した。
宋徽宗のとき、「通真達霊先生」と呼ばれた林霊素が言うには、徽宗が寵愛した劉貴妃の臨終の際、異香(尊い香り)が漂い、流れる音楽が聞こえた。しかし亡魂を「招返」するようなことはなかった。翌年、「青坡(せいは)術士」と呼ばれる者が巫山で劉貴妃を見たと称した。
こうした類の話は楊什伍の欺く言葉と似たり寄ったりだが、亡霊の証拠を出さない以上、宋代の術士は楊什伍よりもレベルが低いと言わざるを得ない。
明清の時期、招魂返形は装いを変えて現れた。明崇禎甲申年間、呉江人薛君亮は嘉興に来ると、「少翁追魂の術」を大衆に見せた。
彼のやり方というのは、まず紙に死者の生年月日と命日を書く。密閉した家の中に壇を設け、檀に接するように机を置く。机の南に大鏡を吊るし、机の下に椅子を入れ、白紙を糊で貼って封じる。呪文を念じ、符を焚き、四十九日後、大鏡から煙霧が湧き出てくる。机の下から亡魂が昇ってきて、生きているがごとき容貌となる。[欧米の交霊会のエクトプラズムを想起する]
薛君亮は亡者の絵を描く。絵を描き終えると亡者はゆっくりと下降していく。当地では口々に言い伝えた。処刑された人の霊が現れ、その手には脳みそを下げていた、とか。出産時に死んだ女が全身血まみれで現れたとか、枚挙にいとまがない。
(8)
招魂返形(魂を呼び、元の姿に戻す)の例を挙げよう。返形の手法には二種類ある。姿かたちがよく似た人に故人に扮してもらい、装置を使って幻影を作り出すという方法だ。
返形術にはいくつかの条件がある。
一般的に、夜間実施する。静かで閉鎖的な環境が望ましい。
傍観者はひとりが望ましい。
帳を設けてロウソクに火をつける。
死者の魂が姿を見せる時間はきわめて短い。
死者の魂は絶対に口を開かない。
傍観者は死者の魂に近づいてはならない。
傍観者が違反したら、その瞬間、火は消される。
こうしたことが求められることから、また実際の現象から、返形術の内情もあきらかになるだろう。さて袁牧の一篇の文章をもう一度見てみよう。
婁(ろう)県のある道士は「天女をよく招くことができた」。道士に施術を依頼する場合、きらびやかで美しい衣や装飾品を要求された。
道士が天女を招くのは夜の初更(7―9時)だった。「(儀式を始める前に)まず室(へや)を掃除し、清める。他人に邪魔されない状態を確保する。そうして道士が部屋に入り、呪符を書き、呪文を唱えると、天女が姿を現す。天女はあでやかで、うつくしかった。体からは何ともいえないいい香りが発せられた。人と(性的に)交わっても、世の人と異なるわけではなかった。おしゃべりをしたり、笑ったりすることはなかった。明け方になると、また道士が来た。人を入れないようして、符を書き、天女を天上へ送った」。
天女はこの世界を去るとき、衣や飾りをことごとく持ち去らねばならなかった。道士はこのことを、人が納得できるよう説明した。天女と寝た人には、悪いことが起きなかった[彼女と愛を交わせば禍が起きないという評判が立った]。金持ち連中は、ぞくぞくと道士のもとにやってきて、法術をおこなうよう頼むのだった。その結果、みな湯水のごとくお金を注ぎ込み、家産を傾けることになってしまった。
こうして人々はようやく、天女が通常の妓女と変わらず、道士とグルになっていたことに気づくのである。道士は体が丈夫で背が高かった。法術をおこなうごとに「女は懐のところに隠れていて、大きな道袍[道士のマント状の上着]に包まれていた。暗いところでは見分けることができず、人も閉め出されるので、それらしい衣や飾りを着けただけの妓女であることがわからなかった」。そして天女が降臨したと宣言する。
夜明け前に天女を天へ返すと偽り、人ごみを避け、妓女を道袍に包んで抜け出す。法術を終えたあと、道士も妓女も衣や飾りを隠し持つ。以上は秘密だったが、道士がこの世を去ったあと、弟子が暴露したことから知られることとなった。
この例からもわかるように、少翁が李夫人を招いたのも、宋巫が殷淑儀を招いたのも、任処士が亡妾を招いたのも、説明が付く。
(9)
薛君亮(せつくんりょう)の追魂の術も、返形術の一種であるのはあきらかである。薛氏は大きな鏡を設置し、暗いなかで霧を放出する。特殊な装置を使って亡魂が姿を現したように見せたのである。この法術は、古代の他地域で見られた。
「エジプトの祭司はいつも自分の神殿のなかで神像を白い煙霧に反射させていた。揺れ動く幕を銀幕のように用いて、人間の姿や人の顔を作り出した。あらかじめ人の姿や彫刻を煙霧に投射させておけば、装置として十分だった。古代エジプトでは祭司が鏡を用いたが、カリオストロの時代(18世紀イタリア)には幻灯を用いた」。
薛君亮には絵描きの才能があり、記憶によって死者の輪郭を画き、人の像を描くことができた。大鏡を用いて、壁や白紙の上に、その煙霧に縁どられた像がゆっくりと現れた。
招魂返形術は、典型的なニセ巫術である。多くの人が招魂返形術の秘密の部分がわからないが、えてして荒唐無稽の面を見てしまう。
五代十国後蜀の何光遠は言う。後唐の時代、「楊遷郎という術士がいた。よく鬼神を使い、物に触れただけで(物が)変化した。これを見た人は彼を奇人[傑出した能力を持つ人]と呼んだ。やろうと思えば人を殺すこともできたが、霊異を起こすことはなかった」。
楊遷郎(ようせんろう)の叔父楊勲曽(ようくんそう)は王氏蜀国(前蜀)で活動していた。「九天玄女や后土夫人[土地の神様]を呼び、窓の簾帳(すだれ)から中に入れ、後に帰した。
足を一本切断し、西の市で斬首しても、薬も巫術も効果がなかった。しかも遺体が悪臭を放ち、見る者に嘲笑されるだけだった。[このエピソードは『史記』「扁鵲倉公列伝」に出てくる。秦武王在位のとき、斉国淳于髡(じゅんうこん)が秦武王の治療を担った。武王が病気による痛みに耐えきれなかったので、名医扁鵲を召集した。扁鵲は診断したあと、足を切る治療が必要だと考えた。ところが武王は讒言を信じ、扁鵲が彼を殺そうとしていると思い込んだ。そこで扁鵲の足を切り、斬首するよう命じた。しかし武王の病気はよくならず、最後には病気が癒えないまま亡くなった]
術士は鬼神を召喚することができたが、自分の足を守ることができなかったのだ。これはどうにも説明できないことである。歴史上、招魂術の神話は多いが、術士自らが暴露することが多かった。