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春秋時代にさかんだった滅火法と祭祀の多くは関連があった。紀元前564年、宋国に火災が発生した。宋国の大臣は組織を組んで消火活動をするとともに、四つの郷の郷正(官職)に群神を祀るよう命じた。祝官と宗官には馬の犠牲で「四墉(よう)」、すなわち四面城壁で、また西門外で宋人祖先盤庚を祀るよう命じた。
紀元前524年、宋、衛、陳、鄭の四か国で同時に火災が発生した。鄭国執政の子産は消火組織を作る一方で都の郊外の居民に祝史の手伝いをさせ、城北で除地(整地)をおこない、祭壇を築かせた。そこで彼らは水神玄冥と火神回禄を祭り、「四墉」に向かって祈祷した。そして大規模な祭祀活動を挙行した。すなわち四方の神霊の祓いの儀式をおこなったのである。
この二つの火災のときに起きたことは後世に大きな影響をもたらした。
一つは四国大火が発生したときのこと。鄭国術士裨竈(ひそう)は大火の前に「予報(予知)」を明らかにし、子産に向かって鄭国が祭器を借りるよう求めた。それは鄭国が災難を逃れるためだと彼は主張した。また威嚇するように「わが言を採用しなかったら、鄭はまた大火に襲われるでしょう」と言ったが、子産は採用しなかった。
ある人は裨竈(ひそう)の予想は正確であると述べ、彼の火災を征服する能力を信じて疑わなかった。また子産が情勢を理解しないことを責めた。子産は責任を問われたのに対し、「天道遠し、人道邇(近)し」という命題で答えた。
子産は言う、天道は高く、深い。人の及ばざるものだ。生活の道理はまさに切実なものである。術士はどうやってある日天から禍が降ってくることを知ったのだろうか。裨竈(ひそう)はどうやって天道を理解することができたのだろうか。彼は預言を乱発しているが、そのうちのいくつが当たったろうか。子産は動揺しなかった。鄭国では二度と大火が発生することはなかった。
「天道遠し、人道邇(近)し」の観点は荀子に至って「天人相分」の思想に発展した。この種の思想は自然の運行が天真であり、正当であるととらえ、人の精神の外部の独立した客体であると考えた。その考え方はいわゆる「天人合一」説よりも、科学の発展、文明の進歩のなかでは説得力があった。
宋鄭の時代、禍を祓うために四墉(城壁)を祀ったが、これは後世に与えた影響が大きかった。のちの城隍神の祭祀はここに始まっているのだ。梁朝武陵王蕭紀は牛を烹(に)て、城隍神を祭り、北斉慕容儼(ぼようげん)は郢(えい)の城隍神廟の中で祈祷した。
唐宋の時期、城隍の祭りはさらに盛んになり、当時の詩文はそれについて述べることが多かった。
明朝の洪武初年、朱元璋は礼官の請求に批准し、京城と地方の城隍神を「昇福明霊王」「威霊公」「霊佑侯」「顕佑伯」などに封じ、しばらくして爵に封じるのをやめ、ただその地の城隍神と呼ぶようになった。京城内では毎年太常寺に官員を派遣し、礼によって祭をおこなった。地方の城隍神は現地の行政長官が祭祀を請け負った。城隍を祭ることによって国家的な祭典であることを世に広く知らしめた。秦代以前の四墉の祭祀は禳火(火祓い)と関係があった。しかし後世の城隍神は、かかわりのない神がなかった。