古代中国呪術大全 宮本神酒男訳

第3章 
4 偶像祝詛術(上) 典型的な呪術とその影響 

 

(1)

 偶像祝詛術とは塑像、彫像、画像、あるいはその他偶像に対して呪詛をかけたり、攻撃したりするものである。偶像が代表する人物や鬼神を攻撃するのが目的だ。世界のどの民族にも広がっている典型的な模倣呪術だ。

 偶像を使って祝詛術をおこなう風習は、商代にはすでに見られた。『史記』「殷本紀」によると、商朝後期帝王武乙は天神を代表する偶人と賭博をし、天神が負けると武乙はそれに対して懲罰を与えようとした。のちに世間は、武乙の懲罰というのは偶人を鞭打つとか、偶人を粉砕し焼き払うといったことだろうと推測した。

 商族首領はのちの宋国の君主が習慣的に実践した射天法術をおこなっていた。武乙は「革襄(かわぶくろ)を血で満たし、仰いでこれを射よ。命じていわく、天を射よ」という。両者は一つの轍のごときもの。宋康王は天を射たことで戦国時代において有名になった。

『呂氏春秋』「過理篇」でこれに関し詳細に描写されている。宋康王は高台を築き、その上面に血でいっぱいの鷂尾(大皮)を掛け、かぶとを被り、鎧を着て、台の下から上に向かって矢を射た。血が地面に流れ落ちると、大臣たちはいっせいに称賛した。われらの王は湯武より賢明である。湯武は戦いに勝利することしかできなかった。われらの王は天に勝利したと喜んだのである。射天に使用した革袋は特殊な偶像だった。というのも天は形がなく、混沌とした様子を革袋で代用したのである。当然革袋に血を盛ることは可能だった。天神が負傷して流血することは、心理的要求を満たし、呪術をおこなう者を満足させた。

 

(2)

 西周以来、偶像呪詛術はますます盛んになった。伝説によれば周武王が商王朝を倒したあと、丁侯は朝廷に顔を見せなくなった。周大臣師尚父は丁侯の肖像画を描き、三十日間それをめがけて矢を射た。すると丁侯は大病に伏せた。丁侯は人(卜官)に占いをやらせて病気になった理由を探らせた。卜官の報告によれば祟りと禍は周朝から来るという。丁侯は恐怖を覚え、あわてて特別使者を武王のもとへ送った。周朝の統治に服従することを示すためである。

師尚父は甲乙の日に画像頭部の矢を抜き、丙丁の日に目の矢を抜き、戌己の日に腹部の矢を抜き、庚申の日に股の矢を抜き、壬癸の日に足の矢を抜き、ついに丁侯は治すことなく自ら癒えた。これにより、四方の各族はみな彼のことを畏敬に思い、順繰りに貢物を持ってきた。

この伝説は『六韜』『太公金櫃』に収録されている。臨沂(りんき)銀雀山漢墓から出土した『六韜』抄本の一部が前漢初期のものであるため、この書が成立したのは戦国時代と考えられる。師尚父が丁侯の像を矢で射たとする故事は、秦代以前の古い伝説なのだろう。細事に拘らなければ、この故事が西周初期の偶像呪詛術を反映しているのは疑いの余地がないだろう。

 周代の貴族は弓矢の的に熊、虎、豹、麋鹿(シフゾウ)の皮を用いた。なかには布に動物の絵を描いたものもあった。こうした的は原始時代の狩猟巫術に源を発しているかもしれない。春秋時代後期の周霊王のとき、周大夫の萇弘(ちょうこう)はこの種の矢の放ち方をあらたに巫術に加えた。萇弘という巫師は気息(いき)がきわめて濃厚な政治家だった。『淮南子』「汎論訓」によれば、この人は「天地の気、日月の行、風雨の変、律暦(律法と暦法)の数、すべてに通じていた」という。

 戦国時代の文献『呂氏春秋』「必己」『荘子』「外物」によると、萇弘の死後三年たってその血が碧玉となったという神話は、民間も萇弘が法術において超越的な神人とみなしていたことを示している。

周霊王が即位したあと、諸侯は朝廷に出なくなってしまった。萇弘はこの状況を変えようと、巫術を用いて、天子の威厳を回復した。彼はまず「狸(たぬき)の首」を描いた。これは朝廷に来ない諸侯を象徴したものである。射礼(弓矢の儀礼)に参加した人はみな狸の首に向かって矢を放つことになった。狸(たぬき)は「不来」とも言った。「狸」と「来」の古音は同じで、「不」は周人がつねに用いた「語首助詞」(語頭に来る助詞)だった。「不来」とはすなわち「狸」の変音だった。萇弘の巫術ロジックからすれば、狸(たぬき)を矢で射るとはすなわち「不来」を射るということであり、不来を射るとはすなわち朝廷に来ない諸侯を射るということだった。

この解釈を経て、狸(たぬき)を射るとは伝統的な射礼の熊侯・虎侯を射る(侯は的のこと)とは同じでなかった。その目的は二度と猛獣を征服しないということではなく、命令を聞かない人を抑制し、懲罰を与えることだった。萇弘が狸の頭を射るのと師尚父が丁侯の像を射るのとは、まったく同じである。区別できるとするなら、師尚父の攻撃対象はただひとりであり、その絵を描いて射ることができる。一方、萇弘が呪術の対象とするのは人々である。すなわち「諸侯のなかで来ない(不来の)者」であり、たくみに音を利用する者を除いて、つまり「不来」を象徴する人たちのほか、さらに適合する偶像を探す方法はないのである。

 「狸首」は楽詩の名称でもある。諸侯が参加する天子主催の射礼のとき、狸首の楽の伴奏が必須となっていた。多くの古書が述べているように射礼のなかで祝辞を念じなければならなかった。

「嗟爾不寧侯、為爾不朝于王所、故亢而射女(汝)」

 この祝辞はつぎのような意味である。「なんと嘆かわしいことか。あなたがた諸侯は分をわきまえていない! 朝廷に来ていない(不来)ため、今(あなたがたを的にして)射止めなければならない」

 この句だけを見ると何を言おうとしているのかわかりづらいが、萇弘の「狸首を射る」を考え合わせると、つながりが見えてくる。清人の研究によると、この祝辞は散逸した詩編『狸首』の断片なのだという。

 さらに一歩進めると、「亢而射女」も、もともと萇弘の「明鬼神事、設射狸首」のときの呪語だったと思われる。射狸首と関係があることから、詩歌整理者は「狸首」を表題とし、楽曲に配置して、射礼の伴奏曲の一つとなったのである。

 『史記』「封禅書」に言う、「周人の怪しい物語は萇弘に始まる」。これは萇弘のあと、方術を用い、神怪を論じる人が増えたことを言っている。偶像祝詛術について述べているが、まさにその通りである。戦国時代に突出して見られた現象は、木偶土偶を利用して仇敵を攻撃する事例だった。宋康王は秦王の顔を思い浮かべながら木偶を作り、暇で何もすることがないときに矢でその顔を射た。また便所にたくさんの諸侯の塑像を置き、排便するごとに「その腕を折り、指先で鼻をはじいた」。

 睡虎地秦簡『日書』「詰篇」には桃の枝を用いて邪悪なものや祟りを駆除することが何度も論じられている。また「故丘の土」を利用し、暇な人、暇な犬が鬼怪を退治することについても論じている。

「詰篇」はとくに鬼を制圧する方法について述べている。それと関連した典型的な偶像祝詛術は奇怪というほどのものではない。偶像を用いて鬼を除くのと、偶像を用いて人に呪いをかけることの間にはもともと関連があり、術士は仇敵を攻撃する必要があるとき、宋康王が土偶や木の枝を用いて相手に呪詛したのとおなじようなことをするだろう。

 

(3)

 漢代、とくに漢武帝のとき、「巫蠱」の偶像祝詛術が空前の流行を見せた。「巫蠱」には広狭二つの意味がある。広義においてはすべての巫術を指す。狭義には偶像祝詛術を指す。漢代人は一般的に狭義の「巫蠱」の概念を用いる。彼らの言う「蠱」は多くは人を呪うための偶像として用いる。その本来の意味の「毒虫」として用いることはない。たとえば『漢書』中の「掘蠱」は発掘した偶人のことを言う。

 漢代の呪いの偶像はほとんどが桐木から作られている。『説文解字』には「偶、桐人なり」と書かれているほどだ。漢代の風習の代表な存在だろう。桐木から偶像を彫るのは、その木質が柔らかく彫刻を作るのに適しているからである。それだけでなく巫術意識から桐が選ばれるのだろう。

春秋時代以来、桐の棺桶はもっとも質が悪い棺材とみなされてきた。三寸桐棺[薄い棺桶の代名詞]で埋葬されるのは、懲罰による死者(処刑された者)だった。もっとも早い時期の木偶は、この観念と習俗の影響を受け、桐木から作られたものである。桐木偶は仇敵の化身か、仇敵の葬身の器(骨壺など)だった。言い換えるなら、攻撃対象は死んでも罪を償いきれないほどの悪人だった。 

 漢代の巫蠱術は相互に関連する三つの活動、すなわち埋偶人、祝詛、祭祀が含まれる。埋偶人は攻撃対象を(偶人にこめて)埋めて葬るもの。速やかな死をもたらすのが目的だ。祝詛は偶人にたいして呪文を唱え、ある種の願望を表明する。祭祀は、鬼神に祈り、その助けを借りて法術を成功させる。武帝陳皇后は巫女に「巫蠱、祀祭、祝詛」をひそかに行うよう要請した。公孫敬声[?~BC91 前漢の大臣]は「巫師に祭祀の際に呪いをかけさせ、甘泉殿へ行って道に偶像を埋めさせ、悪しき言葉で呪詛させよ」と言った。江充は巫蠱について調べ、駆除するために、あたり一面の「地面を掘り返して偶人を探させた」。あたりに酒をまき、地面を汚して祭祀が行われた証拠と偽り、無辜の人を捕えた。

 『漢書』のこういった記載は巫蠱の術が、埋偶、祝詛、祭祀の融合したものであることを示している。祝詛と祭祀はそれだけで行うことが可能である。しかし埋偶、あるいは巫蠱は、祝祭と結合することが必須だった。漢代の文献では、巫蠱と祝詛は同義であり、入れ替えも可能だった。

『漢書』巻四十一「酈(れき)商伝」に言う、酈終根は「坐して巫蠱を誅す」と。同書の巻十六「高恵高后文功臣表」、巻十九下「百官公卿表」に言う、酈終根は祝詛によって誅されたと。巻三十四「韓王信伝」に言う、「坐して巫蠱を誅す」と。「功臣表」には「坐して祝詛し、腰斬する」と記される。巫蠱は祝詛を伴うものである。ゆえにこの二つは入れ替え可能である。「祝詛」という言葉が指す範囲は広く、「巫蠱」は「祝詛」のなかの特殊な例の一つにすぎない。

 

(4)

 武帝以前の漢代文献を見ると、巫蠱術の記述がきわめて少ないのがわかる。その希少な例としてつぎの話が載っている。漢景帝は郅都(しつと)を雁門太守に任じた。一方匈奴人は郅都を象徴する木人を彫った。騎兵たちに木偶に向かって矢を射らせるためである。一部の学者はこのことと、江充が「胡巫」を帯同して偶人を掘らせたことは関係があり、起因しているとして、漢代の巫蠱術が外国(匈奴)から来たと認識している。しかしこの説は信じるに足りない。

上述のごとく、武乙、宋康王はみな偶像を用いて祝詛術をおこない、秦代以前の射天、射画、射狸首は巫蠱と性質がおなじといえるだろう。中原地区には偶像を用いて祝詛術をおこなう伝統がもとからあるのだ。

つぎに、埋偶人の方法と春秋戦国時代にさかんになった葬俑の風習は直接的な関係がある。漢代人が言うには、春秋末期にすでに「桐は器として用いられることはない。俑(木偶)として使われた」という。呪詛に用いた桐の偶像と葬送の副葬として用いた桐の俑偶とは源が同一なのである。埋偶の方法は葬送の俑偶の風習のもと、伝統的な射偶法術から生まれたもので、匈奴とは無関係である。江充が胡巫を重用したのは彼が「視鬼」の能力を持っていたからである。視鬼と巫蠱はおなじことではない。胡巫が巫蠱に長じていると推論することはできないし、胡族(匈奴など)の間で巫蠱が流行しているとも言えない。さらには漢代の巫蠱が匈奴から来たとも言えない。

江充が胡巫を用いた大きな理由は、胡巫が漢語を理解しないことだった。江充が他人を貶めるために巫蠱の証拠を偽造したとしても、その秘密が暴露される恐れはなかった。そして政治的に関与し、打撃を与えることによって、武帝の時期は巫蠱が社会政治生活のなかで人の注目をひき、焦点となった。

漢代はじめには民間で巫蠱法術がはやらなかったので意味がなかった。ただ当時は社会に比較的争いが少なく、政局も穏やかで安定していた。巫蠱は政治とは直接には関係がなかった。社会の注目を集める問題ではなかったので、一貫して政治史を重視する古い歴史家の注意をひくことはなかった。

 漢武帝晩期、「群盗が起こり、城邑まで攻め、郡守を殺し、山谷に充満し、官吏は禁じることができなくなった」。秦末の政局の二の舞を演じそうな勢いだった。このとき武帝は六旬を経て怒りやすく、疑いやすかった。「左右みな蠱道祝詛をなす」。大規模な反巫蠱運動をはじめ、五、六万人が命を落とすことになった。これを巫蠱の禍と呼ぶ。

武帝元光五年(前130年)、かつて巫蠱の罪名で廃された陳皇后が、女巫楚服を市で梟首(さらし首)の刑に処した。この件で連座した三百人も誅殺した。天漢二年(前99年)、民間において巫覡が路上で祭祀をおこなうことを禁止した。この事件は巫蠱の禍の前奏であったと考えられている。

 

(5)

 「巫蠱の禍」は、公孫賀父子の巫蠱案、太子巫蠱案、劉屈氂夫婦巫蠱案の三宗大案から成る。丞相公孫賀と武帝は連襟関係(姉妹の夫同士)にあり、その子公孫敬声は権勢を笠に着て横暴にふるまった。

征和初年、北軍の軍費を私用に使ったことが発覚し、逮捕された。公孫賀は子に替わって罪を贖おうと、自ら手下を率いて勅命で(武帝によって)手配されている都の大侠客朱安世を捕えた。朱安世は獄中から上書し、公孫敬声が馳道(甘泉宮に通じる道)に偶人を埋めたことなどを告発した。

征和二年(前91年)正月、公孫賀親子は獄中で死亡し、公孫氏一族は全員誅殺された。衛皇后(公孫賀の妻の妹)の娘陽石公主や諸邑公主、衛皇后の甥、長平侯衛伉も関りがあるとして処刑された。

 太子劉拠の母親は衛皇后である。衛皇后の色が衰え、寵愛がなくなると、その親族はみな公孫賀とともに捕まってしまった。太子の運命はすでに示されていたのである。都(京師)の治安を維持するために武帝によって任命された「直指(直接皇帝が指名した)銹衣(絹の衣を着た貴族の)使者」江充は、もとより太子に恨まれていたので、武帝の死後太子に報復されるのを恐れ、武帝に巫蠱の件を全面的に調査するようそそのかした。つまり太子と衛皇后に矛先が向くよう仕組んだのである。

江充は胡巫を連れていたるところで「地面を掘って偶人を探した」。呪術をおこなった痕跡を好き勝手に偽造すると、多くの無実の者を捕まえてきては「焼いた鉄鉗(かなばさみ)」で拷問し、供述を強要し、罠にはめた。一時は仇同士で互いに相手が巫蠱の術をおこなっていると告発しあった。江充らは巫、官吏を捕え、白黒をはっきり分けず、一律に「大逆不道」の罪に問い、数万人も処刑した。

征和二年七月、江充は「宮中に毒気あり」と宣称し、手下の者を連れて宮中に入り、蠱を掘り出した。武帝の御座も壊して掘り返した。最後に太子の居室である東宮から桐木人を掘り出した。そのとき武帝は避暑のため北山の甘泉宮に滞在していた。京師の宮廷内には衛皇后と太子しかいなかった。誰が埋めたのであろうと、木偶が出たなら弁明のしようがなかった。そこで太子らは詔書を偽造し、江充らを逮捕した。こうして江充は大衆の前で斬首刑に処せられ、蠱巫は上林苑で焼き殺された。

武帝はこのことを知ったあと、丞相の劉屈氂(りゅうくつり)に近隣の各県の部隊を徴集させ、太子を囲って攻撃するよう命じた。太子は長安の囚人を特赦し、武器庫を開けて兵器を取り、囚人と市民を率いて劉屈氂を迎え撃った。

両軍が交戦すること五日、戦死者は数万人にも上った。太子は敗れて逃走し、しばらくして湖県の泉鳩里で首をくくって死んだ。衛皇后も自殺し、衛氏一族は絶滅した。太子の賓客と太子が比較的深く親交のあった人々はみな処刑された。太子に従って参戦した人々もみな一族もろとも滅びることになった。

 丞相劉屈氂は巫蠱事変を平定した功臣である。ただし一年もしないうちに彼自身が巫蠱の網に引っかかってしまった。武帝は晩年、李夫人を寵愛した。劉屈氂と李夫人の兄李広利は子供同士(息子と娘)が夫婦になった親類だった。

征和三年(前90年)春、李広利は命令を受けて匈奴に出征することになり、劉屈氂はそれを見送った。両者はこのとき話し合い、李夫人の子昌邑王を太子とするよう武帝に勧めた。しかし当時は巫蠱を告発する風潮が著しくさかんで、劉屈氂の所作動作があやしいとして、劉の妻が巫師を使って社神を祀り、武帝を呪詛しようとしていると告発した者がいた。また共同で呪詛し、昌邑王を皇帝にしようとしていると、劉、李二人を告訴しようとする者がいた。

司法は劉屈氂が大逆不道の罪を犯していると判定した。劉屈氂は東市で腰斬刑に処せられた。劉の妻や子供たちも梟首(打ち首)の刑に処せられた。

この年の六月、李広利の家族はみな捕まったが、前線にいて戦っていた李広利は知らせを聞いて匈奴に投稿した。朝廷は李氏一族を全員死刑に処した。

 三宗大案のあとも民間の蠱毒活動はなおも衰えることがなかった。漢武帝の言葉を借りるなら「現在に至るまで巫師はまだたくさんいて、巫蠱妖術を止めることができず、邪悪なものがいつ体内に入るかわからない。あちこちで巫師が巫蠱術をかけている」。

武帝は心身ともに疲弊して、一日一食しか取れなくなった。何も考えることができず、音楽を聴くことしかできなかった。

征和四年(前89年)、ついに司隷校尉(古代監察官)という役職を置き、その主管が「とても陰険で狡猾な巫蠱を捕えた」。

 

 

(6)

 巫蠱の禍は漢代政治史上の茶番劇だ。巫蠱をおこない、おこなった者を罰するのはすでに社会の病状の反映であり、逆に社会の病状を狂気の発作に向かわせる地歩となるものだ。十六から十七世紀、西欧のカトリックとプロテスタントの宗教裁判所が大規模な巫師弾圧[すなわち魔女狩り]をおこなった。これはある種宗教裁判官がすべての人を保護する形を取った宗教を樹立する運動である。しかし漢代の巫蠱の除去は政治的迫害であり、目的は皇帝個人の安全を維持することだった。

 前漢以降、偶像祝詛術によって何度も宮廷事変が引き起こされている。巫蠱術を用いて仇敵を攻撃したり、巫蠱の証拠を偽造して他人を陥れたりとかが陰謀をたくらむ者のやり口だった。偶像の種類はしだいに多くなり、偶像祝詛術の形式も複雑化していった。後漢和帝のとき陰皇后と外祖母鄧朱が「巫蠱道」によって皇帝と鄧貴人を呪詛した。

和帝の死後、ある人が和帝の寵臣吉成を陥れるために埋めた木偶を盗んだという。

東晋の画家顧愷(こがい)は自分を愛してくれない女性に制裁を加えるため、彼女の画像に針を刺した。

石勒が統治していた時代、庶民は過酷な官吏沐堅の偶像を作り、武器(小刀など)でめった刺しにした。

南朝の宋文帝のとき巫女厳道育らは宮中で埋められていた玉人を盗んで文帝を呪詛し、のちに鞭打ち刑に処せられ、殺された。さらに遺体は焼かれ、遺灰は長江に撒かれた。

宋明帝のとき、盧江王劉は邪教の巫の左道を信じ、明帝の画像の上に明帝の名を書き、「矢刃(矢と刀)に切り裂かれ、大鍋・鼎(かなえ)で煮られた」。

南斉・東昏侯蕭宝巻は巫師朱光尚を相国に任用した。朱は毎日祭神を十回以上おこなった。そしてついには「巫師や巫婆の出入りが激しい」状態になった。あるとき菰草(こも)を用いて斉・明帝の形状を作り、刀でその頭をたたき割った。また草の頭を門の上にかけて大衆に見せた。

同時代の人徐世(じょせひょう)は十余幅の(東昏侯)蕭宝巻の画を描いた。「それぞれ斬刑に処され、矢が当たりバラバラになっていた」。

北魏・孝文帝の皇后馮(ふう)氏は女巫に「祷厭」妖術をおこなわせた。まさに孝文帝の偶像の両脇に白刃が刺さっていた。

北魏の末年、術士劉霊助は群衆を集めて割拠し、「ついにフェルトを刻んで人偶を作った。桃木から作った書を符書とし、詭道厭祝法を成すと、これを信じる人が多かった。

隋朝楊広は木偶の手を縛り、心臓に釘を打ち、鎖の足かせをして、隋文帝楊堅と漢王楊涼の名を書き入れた。人に華山の麓に(木偶を)埋めさせ、腹心の楊素をふたたび送って発掘させた。これにより太子楊秀が巫蠱によって謀反を起こそうとした証拠を捏造した。その結果楊堅は楊秀を追放し、庶民の身に落とした。また楊秀の罪行を責め立てる(読み上げる)声も顔つきも厳しくならざるをえない詔書を書いた。

唐末の高駢(こうへん)は術士の呂用之を重用したが、呂はかえってひそかに三尺ほどの長さの桐木人を製作した。その胸には高駢の二文字が書かれていた。手には手かせ、足には足かせがはめられ、心臓には釘が打たれていた。

元朝が正式に建立される前夜、戸部尚書李徳輝は山西懐仁県を視察したとき、妾らが偶人を埋めて正妻を陥れようとした蠱毒案の無実の罪をそそぎ、名声を得た。

清代以来、偶像祝詛術はなおも民間で広くおこなわれていた。仇を討つために小麦粉から食用にもなる偶人を作り、針、釘を布偶に刺した。『紅楼夢』に描かれているように用紙を切って作った青面白髪鬼と紙人を同時に使用する。あるいは相手の(十二支で表した)生年月日を書いた紙を穴蔵に埋める呪詛などさまざまな方法があるが、ここでは詳しく述べない。要するに巫蠱術は中国の歴史上もっとも広く、深く影響を及ぼした巫術と言える。