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撃鼓(太鼓の打ち鳴らし)の儀は、歴代の救日礼のなかでも欠くことのできない項目だった。周代、たまたま日食が起こると、天子はかならず自ら撃鼓をして(太鼓を打ち鳴らして)救日(太陽を救う)をしなければならなかった。周代に神霊の祭祀を挙行する場合、八個の太鼓を叩く「雷鼓」を行なった。天子が救日のため雷鼓を打ち鳴らす際は、天子の左右の親兵や衛士は雷鼓以外の太鼓を叩いて天子を助けた。
政治的なヒエラルキーが厳密になっていくなかで、太鼓を打ち鳴らして救日活動をするのも上級官吏になるためには必要なことだった。
戦国時代の学者は言う、日食が発生したら、天子は食事をけなし、音楽をやめさせ、社壇で太鼓を打ち鳴らさねばならなかった。諸侯は鹿皮を捧げものとして社神を祭った。そして公堂で太鼓を打ち鳴らした。大夫は門を打ち鳴らした。士は拍子木(柝、現在の梆子)を打ち鳴らした。
こうした礼儀の等級は自然に形成されたものである。規定としてコチコチに固まってしまうと、理解できなくなる。魏晋以降は、官方の救日の礼は形式的なものになっていく。
『宋書』「礼志一」に言う、晋代に「もし日(太陽)に異変があれば、諸門で伐鼓する(太鼓を鳴らして信号を送る)」。もはや太鼓を打ち鳴らす際の階級など重要でなくなっているのだ。中書侍郎の孔愉はこういったことが『春秋』の旧典と合わなくなっていることに気がついた。それを知った晋元帝は修正を命じた。とはいえ効果がどうであろうと、史書に明記されてなかろうと、それほど大きな問題ではなかった。
朱絲縈社は比較的後代にできた救日法で、出現したのは戦国時代である。朱絲を社主(土地神牌位)に巻く。赤い色の縄を利用してその駆邪力で社神に懲罰を与える。こうして社神と同様の月に脅威となる力を与え、太陽に侵犯させない。
『公羊伝』「荘公二十五年」に解釈が列挙されている。すなわち日食のとき天が暗くなると、防備のため大胆に社主に近づき、標識として社主に目に鮮やかな縄を巻いた。この説は朱絲縈社の巫術的性質を否定し、儀法の原始的な意味を歪曲している。後漢の学者何休(129-182)は否定的だった。
戦国時代の人は陰陽学説を用いて、撃鼓撃柝(太鼓や拍子木を叩く)と朱絲縈社(赤い糸や縄を土地神像にぐるぐる巻きにすること)に対する新しい解釈をはじめた。
『公羊伝』に言う、「日食とは太鼓で何をするものなのか。社で犠牲を用いるのか。陰の道を求めるのか」。この「求」は責任ある求と祈り求める求を兼ねているだろう。
『穀梁伝』に言う、「大夫撃門し、士撃拆し、言は充分に陽である」。彼らは撃鼓、撃門、撃拆によって、陽気が陰気を攻撃するのを助けていると認識しているのだ。朱絲縈社は一般的に鼓噪法(太鼓を叩いて騒ぎ立てる法)の補助措置と考えられている。
王充『論衡』「順鼓」は当時流行していた説明を引用する。「社は陰、朱は陽である……陽色をこれ(社)にまき、鼓を(叩くのを)助けて救う」。
『公羊伝』の何休はさらに明確に説明する。「社は土地の主である。月は土地の精であり、天に掛かっているので日を犯したことになり、ゆえに太鼓を鳴らしてこれを攻め、そのもとを脅す。朱絲でこれにまき、陽を助け、陰を抑える」。
救日法は一種の「攻法」であり、実質陽で陰を責める(攻める)ということである。この点において漢代と後世の学者は考えが一致する。朱絲縈社は攻陰法とみなされるので、大水の災害に対しても借用された。
「陽で陰を責める」を用いて救日礼を解釈するのは、日食に対して人が多少とも科学的に認識するようになったことを意味する。春秋時代、魯国の術士梓慎と大臣の叔孫昭子は陰陽学説を使って日食の結果を推測した。
梓慎は、大部分の日食は水害をもたらすと考えた。なぜなら陽気が陰気を制御することができないからである。
叔孫昭子(?―前517)はつぎの日食で旱災(ひでり)が誘発されるだろうと予言した。つまり遅れて陽気が興ったことによって、一旦強盛になり、その過ぎた分で陰気を抑えるのである。
これらは陰陽学を用いて日食現象を解釈したもっとも早い例だろう。漢代には少数だが日食の真の原因を推測する人もいた。何休の「社は土地の主である。月は土地の精であり、天に掛かっているので日を犯したことになる」もそうである。科学的な日食の知識が出現したが、伝統的な救日の迷信が衰えていない時期、陰陽学説は天文知識と一致せず、衝突することもあった。また救日法術の合理性が論証され、術士と経師がおおいに歓迎することもあった。