古代中国呪術大全
第3章 05 偶像祝詛術(下) 呪術のバリエーションとその解き方
(1)
ここでは偶像祝詛術の二種のバリエーションと古人の祝詛術の解き方について検証したい。二種のバリエーションとは、偶像への採生(人を捕獲して殺し祭礼を行う)魂入の法術(呪術)と樟柳神を用いた吉凶予測の法術のことである。両者とも偶像が使用される。ただし偶像の性質と使用方式は典型的な偶像祝詛術とは異なっている。
南朝陳の後主(陳叔宝)の弟陳叔堅はひとたび朝廷を倒しかけたが、後主は叔堅の実権を奪い返そうとした。「叔堅は動揺し、怨恨を抱いていた。左道の厭魅でもって福助を求め、木を刻んで偶人をつくり、道士の衣を着せて、祭壇をもうけ、跪拝をよくし、昼夜日月のもとで醮(儀礼)をおこない、祝詛(呪詛)を施した」。すなわち陳叔堅は木偶に道服を着せ、その前で跪拝しながら儀礼をおこなった。この木偶は陳後主に似ていたが、その代わりとなるものではなかった。これは偶像を使用した比較的早期の事例である。
(2)
採生(人を捕獲して殺し祭礼を行う)して偶像に魂を入れる法術はすでに宋代にできあがっていて、元、明代の人は「採生妖術」と呼んでいた。採生妖術自体が十分ブラックマジックであった。
この術を行う者は、人を殺したあと死者の五官[目耳鼻口舌]、手足の指、心臓・肝臓・肺などを割いて取り、干し、粉にして、収蔵する。また死者の頭髪、五色の彩絹、五色の絹糸を偶像(多くは紙像)にくっつけて、呪符を利用して偶像を遠隔操作し、他人を攻撃する。
これがまさに收生魂法、役鬼法、偶像祝詛術が融合して一体化したあとできた総合的な巫術である。それと漢代以降の巫蠱術に代表される典型的な偶像祝詛術とは区別すべきだ。採生妖術が使用する偶像はただの象徴で、死体として提供される人は、攻撃対象の人の代わりとなるものではない。それは侵攻するときの武器であって攻撃目標ではない。
術士はこの種の偶像に死者の魂が付着すると認識している。それは空中に飛び出して、門を破り、窓から侵入し、叫び声を発して相手を威嚇する。彼らは偶像を地下に埋めることも手を縛り、心臓に釘を打つこともできない。
(3)
陶宗儀『輟耕録』と長谷真逸(元末明初の華亭府の人・邵克穎か)『農田余話』は元末の術士王万里が採生妖術を用いて人を害した案件について記録している。両書は事の顛末を詳しく述べているが、役所の記録をもとにして書いたのだろう。妖気に満ちた奇妙な案件である。
至正三年(1343年)九月、陝西省察罕脳兒(現・内モンゴル烏審旗西南)南街礼敬坊百姓王弼は、同地区義利坊平易店で新しくやってきた算命先生(占い師)の王万里と暇を持て余していた。そのときに王万里先生が「この地は水が浅い。竜をとどめおくことができない」といった。王弼は納得がいかず、言い争いになった。
九月二十九日夜、王弼が寝室で休んでいたところ、窓の外から恐ろしげな瓢箪(ひょうたん)を吹くような風の音が聞こえてきた[葫芦簫という楽器があるにはある]。この怪しい声はとおきおり出現したので、王弼は法師李江に依頼して邪気を駆逐させた。
呪術をおこなっていると、空中に「冤枉」(えんおう。冤罪を着せるという意味)と称する鬼の姿を見た。鬼(女)は、ここに来たのは算卦先生のせいだと泣いて訴えた。
王弼は村長や近隣の多くの人を呼び、鬼に向かって告げた。「おまえは鬼なのか、神なのか、明らかにせよ」。
鬼はこたえた。「われは豊州黒河村周大の女(むすめ)の周月惜である。母の姓は張、兄の名は那海、母方の舅は張大といい、本家の西隣の姓は董、北隣の姓は呉である。至元二年九月十七日夜、后院で王先生(王万里)が殺され、そのとき奴婢であったわれはあなたの家の怪哭の毛となり、衣服を求めるようになったのである」。
王弼は鬼の話を記録させた。そしてそれをもとに官府が告発することになった。
官府は泥棒を捕えるため官吏の盧を派遣し、村長の呉信甫の手引きによって王万里の住居を捜査した。押収したのは木印2枚。上に鉄針4本がのった黒縄2条。五色彩絹で包んだ厭鎮用の小さな女性形の紙8枚。五色絹糸と頭髪。中に琥珀2個をよそい、五色の織物で包んだ、赤いヒモの付いた小さなヒョウタン。朱字で書かれた護符。
しばらくして王弼が告発するには。蝋月初三(十二月三日)、空中から鬼のことばが聞こえてきた。「われは奉元路南坊開織機の耿大(こうだい)の子、耿頑驢、先生によって名を改め耿頑童であるぞ。十八歳の年、ひとりの老先生と三名の弟子によって殺害されたのである」。
蝋月二十二日、またも空中から鬼が語った。「われは察罕脳兒の李貼の子李延奴、またの名を李抱灰と申す者である。ひとりの老賊によって名を<買買>と変えた。そのとき十一歳だった」。
官府は王弼の訴状を見てすぐに王万里を逮捕した。また怨鬼の故郷に人を派遣し、鬼が言っていることと符合するかどうか実情を調査した。
(4)
王万里は罪行を洗いざらい供述した。本人によると、王は五十二歳で、江西省吉安路の人である。襄陽の周先生から陰陽算命術を学んで以来、各地を放浪した。
至順二年(1331年)三月、王は興元府(陝西省漢中)で術士劉先生と出会い、意気投合した。劉先生は言った。「わたしは人の心を惑わす法術を心得ている。收採生魂、すなわち魂を奪えばその家に禍をもたらすことができる。そうすれば家の人はかならずわれらのところへ来て祓うよう依頼してくる。これでもうもうけることができるのだ」。
さらにはこうも言った。「わたしは手に入れた生魂(生きた魂)をそなたに一つ売ることもできますぞ」。
彼は手元から五色の彩絹と頭髪を入れた包みを取り出し、説明した。「これは延奴と呼ばれるものだ。わたしは占いをしたあと、性格がよくて聡明な童男童女を選び、符命(おふだ)、法水(清めの水)、呪文を用いて意識を朧気にさせ、鼻、口、唇、舌先、耳たぶ、目を切り取り、呪いをかけて生きた気を奪う。腹をさき、心臓や肝など内臓を取り出して小分けにし、日にさらして干したあとよく搗き砕いて粉末にし、袋に入れる。生魂とともに五色の彩絹を頭髪に結びつけ、紙で人形(ひとがた)を作り、符水呪(符命、法水、呪文)によってその家に怪異を起こすのだ」。
王万里は話を聞いたあと劉先生にしたがって家に行き、生魂を手に入れた。夜になり、劉は香を焚き、呪文を念じ、符を焼き、しばらくすると暗闇の中から声が聞こえてきた。
「師父よ、どの家から何を探せばいいか教えてくれたのはあなたである」。劉は声に指図する。「李延奴よ、おまえはこちらの先生をお連れするがよい」。
王はついに75貫銭で五色の絹と頭髪を買った。それで生魂の名を<買買>と改めたのである。劉は王に生魂の採取、駆使、そして拘束するための呪符について伝授し、戒めるように言った。「牛肉と犬肉を食べれば法を犯したことになる。食べてはいけない」。
至順三年(1332年)、王万里は房州(湖北省房県)にやってきた。ここで、以前広州で出会った術士の昿先生と再会した。昿先生は言った。「わたしは鬼魂をつかわすことができるし、手に入れた生魂をあなたに売ることもできる」。王はお金を渡して昿先生の手から、五色彩絹に頭髪を結んで作った紙人を買った。それに<耿頑童>という名をつけ、李買買とともに働かせた。その後王万里は大同路豊州(内モンゴル呼和浩特)にやってきて、占い(算命)で生計を立てるようになった。
至正二年(1342年)八月、王万里は豊州黒河村の周大家にやってきて、占い(算命)を試みた。見ると(娘の)周月惜が生まれながらに聡明であることがわかり、殺して魂を採るという考えを抱くようになった。
九月十七日夜、王は周家の裏庭に潜伏し、ひそかに呪文を唱えて、中から裏庭に出てきた周月惜を連れ去った。そして呪術をかけて、「月惜が直立するのを禁じた。身に着けているものすべてを脱がせると、魚刀(魚切り包丁)を用いて額の皮を切り裂いた。そしてぶらさがっている眼球を引きちぎった。それから頭髪を切ってひとまとめにすると、紙人と五色彩絹を頭髪で結びつけ、人形のようなものを作る。そして鼻、口、唇、舌、耳たぶ、目、手の指十本、足の指十本を切り取る。さらに胸と腹を開けると意識を失い、倒れる。また心臓、肝臓、肺をえぐりだし、日にさらして粉末になるまでよく搗く。この粉末は小さめのヒョウタンに入れる」。
翌年の九月、察罕脳兒にやってきて平易(算命)店を開いた。彼は王弼と仇敵の関係にあったので、周月惜ら三名の生魂を王弼家に送って禍を作らせた。その間に王万里は肉屋に行って食用の馬肉を買った。店は家用の牛肉を馬肉に混ぜて彼に売ったので、彼は間違って食べてしまい、紙人を収めることができなくなってしまった。
ここにおいて罪状があきらかになった。察罕脳兒宣慰司は本件の訴状を陝西行省に送った。陝西行省は中書省に送り、意見を求めた。のちに中書省と刑部の批准を経て王万里は凌遅の刑[バラバラにして、かつ息絶えるまで時間をかける残酷な処刑]に処せられた。王氏の家族(妻子)は海南島に流刑になった。
(5)
この巫術案件に始まって、王万里の件を含む妖術を信じこんだゆえの殺人などの罪状は真実だろう。おそらく王弼が故意に術士を迫害しようとしたのも実際は冤罪の案件だろう。もちろん実情がどうであろうとも、本件が常軌を逸していて、驚くべきことだったのはまちがいない。術士ら告発者から司法部門に至るまで、すべての人が採生(生魂を得る)妖術の威力はすさまじいと、そしてすべての霊魂は半分人間、半分鬼(幽霊)でできていると信じて疑わなかった。
採生妖術の迷信は全国各地に広がっていった。元代末期の社会には重苦しい妖気と鬼気が瀰漫していた。各地を流浪する術士は「呪取生魂」(呪術をかけて生きた魂を奪う)によって偶像を駆使する秘法を伝播した。
ときには聡明な少年少女を殺し、法術に磨きをかけて、迅速に富を得たいという欲望を満足させた。術士らは紙人でもって生魂の体を象徴した。つまり頭髪で紙人をくるみ、生魂を移した。また紙人に五色の彩絹や五色の糸をつけて伝統的な巫術霊物とし、紙人にさらなる強大な魔力を与えた。こうした手法は模倣巫術や接触巫術の原理を応用したものであり、古代巫術とかなり密接な関係にあった。
王万里の自供には、お金をもうけるために生魂を売るとか、自分で作り出すといったことへの言及はなかった。官府は王氏の住居の家宅捜査をしたが、値が張るものといえばせいぜい二個の琥珀くらいのもので、ほかは木印、紙人、頭髪、護符、瓢箪(ひょうたん)といった類のものだった。
王万里は南方の人で、北国に流れ着いたが、住所不定、食べるのがせいいっぱい。「葬家の犬」(身のよりどころがない)同然であり、着た切りのみじめな生活を送っていた。このことだけでも術士がなぜ嘘を吹聴し、官府に採生妖術の威力を大げさに言ったか説明できるだろう。実態はといえば幻想にすぎず、意識の上だけのことなのだ。
陶宗儀らは王万里の案件についてほとんどドキュメンタリーのように記述している。こうした法術の類の描写に、文学者気質でさらに想像を付け加える傾向はあるが。
『聊斎志異』「妖術」では、算命先生(占い師)が于公(うこう)に向かって「あなたは三日後に死にます」と予言する。予言を当てるため、先生は三日目の夜、偶人(人形)を駆使して祟りを起こした。しかし于公はまず紙人をぶったぎり、ついで土偶を叩き壊し、最後は巨大な鬼と取っ組み合いをした。
于公が猛然と大鬼の脇腹に切りつけると、カーンという音が響いて大鬼は前にばたりと倒れて、硬直した。于公がさらに弓を放つと、さらに拍子木のような硬い音がした。明かりで照らして見ると、それは人のように背が高くて巨大な木偶(でく)だった。弓矢を腰に巻いた木偶に彫られた顔は凶悪そのものだった。そのあちこちに剣を刺すと、どこからも血が流れ出た。
(6)
明清代の頃、木偶を用いて吉凶を予測する法術が民間に流布していた。この木偶は俗に「樟柳神」[樟(クスノキ)と柳を接合して作った木彫りの人形およびそれに宿る神霊。ほかに柳から作った説、商陸から作った説がある。商陸が訛って樟柳になった]と呼ばれる。木偶で未知の事を予測するのは漢代に始まった。
伝説によれば漢代、李子長[明代の画家 1436―1526]は政務を担当することになり、囚人の気持ちを理解したいと思った。そこでアオギリ(青桐)の木から囚人の人形を作った。そして地面に穴を掘り、アシで作った棺桶を置き、木の囚人を中に横たえた。もし囚人の罪がその通りなら(有罪なら)、木の囚人は動かず、冤罪であるなら、木の囚人は動いて出ていく。樟柳神を用いる法術は漢代から延々と受け継がれてきた伝統である。採生魂法術の影響も受けて確立された新しい予測法といえる。
樟柳神を作る手順と採生妖術、あるいは生きている人を呪い殺す、または鬼魂を招いて霊魂を偶像の表面に注ぎ込むのは近いものがある。明人陸粲[りくさん 1494―1552]の『説聴』上巻に言う、宦官の弟子文奎(ぶんけい)は、俗に樟柳神と呼ばれるひとりの術士と会った。鬼を使役することができたからである。
文奎は学問を心得た人間なので、術士はまず彼に四旬(四十日)の間禁欲させた。そのあと野外に連れ出し、施食会を開き、鬼を招いた。すると興味深そうな鬼が一匹、文公子についてこようとしたので、術士はさっそく小さな木偶(でく)をとり出し、鬼の姓名及び生年月日を書き記したものを着衣の襟の間に縫い込んだ。これは招いた鬼魂が木偶に附着した一例である。清人銭詠『履園叢話』二十四巻にはつぎのように書かれる。
今、呉越の間にはいわゆる沿街算命者(占い師)がいて、毎度新生児の占い(生辰八字)に用いられ、呪って人を斃すこともできるのが樟柳神である。星卜家(星相・人相占い家および八卦占い家)の売り買いの争いは激しく、これ(樟柳神)を得て(生辰八字を)占ってみたところ、霊験あらたかだった。しかし過去のことを変えることはできず、未来のことを当てることもできない。
乾隆甲辰の年の七月、隣人が荒野の中を進んでいるときに子供の声が聞こえた。「どうするの」と言っているようだった。耳を傾けるとやはり「どうするの」と言っているように聞こえた。草の中に小さな木偶が落ちていた。星卜家(占い師)が言ういわゆる樟柳神だった。兄の柏渓がこれを見つけて家に持ち帰って遊んだ。木偶を家に置いて二、三日たつと、子供たちは不安になり、熱を出して寒気がしたり、泣きやまなかったりした。
君子(高位の人)は言う、「これは不吉なものである」と。すぐにこれを(もとあった場所に)戻し、前のように落ち着いた。銭詠は樟柳神が未来を予知するとは信じていなかった。ただそれでも過去の命運を評価することはできた。彼は声を出すことはできたので、子供を発病させたり泣かせたりすることはできた。
清人宣鼎[1832―1880『夜雨秋灯録』は、樟柳神のみかけはたいへん風変わりで、動きは霊妙で面白く、愚昧な官吏とは対照的だと描いている。催租隷(租税を取り立てる役人)の張大眼は税を納めるために県城へ行く途中、ある家の豆花棚に木彫りの赤ん坊を見つけた。この木人は長さ二寸(6・7センチ)程度で、首には頭髪がかかっていた。顔はおしろいで白く、唇は赤かった。目と眉はきりりとしていた。歌と踊りがうまく、神のように予言をすることができた[樟柳神は張大眼が三十回ムチ打たれるが、千銅銭得られると予言する]。
張大眼は[笠の中に木偶を入れて]県城に入るときに、(盗賊と間違われて)県令に捕えられ、ひどく笞(ムチ)打たれた[三十回打たれた]。[誤解がとけ、謝罪した県令が張大眼に千銅銭払ったあと]木偶は県令のものになる。
これ以降、県官(県長官)は事件を審理するとき(笠のかわりに)帽子の中に木人を置くようになった。するとはたせるかな、ささいなことまで明瞭になり、善悪を間違えることはなくなった。満城[清代には21座の満城があった]の人はみなそれを神明と呼んだ。帽子の中に樟柳神があることを知らなかったのである。
(7)
術士は他人を呪詛する方法を知っている。他人もまた同様の方法で術士に対抗してくることを考慮しないわけにはいかない。招神役鬼(神を招き鬼を使役する)の術があるなら、送神遣鬼(神を送り出し、鬼をやる)の方術がある。攻撃の術があるなら、祓解(災いを祓う)法がある。攻撃術が長期にわたって流行したあと後者ができるのだとしても、術士は基本的に遅かれ早かれ破解(相手の呪術を解く)法の研究をする必要がある。
漢代の巫蠱活動が広まって大きな問題になったとき、朝廷はただ捜査し、犯人を捕まえ、処刑するだけだった。当時は巫蠱術の破解法(術を破り解決する方法)が知られていなかった。道教が形成され、仏教が伝来したあと、この種の破解法が確立された。道士と高僧は巫蠱術を見ることができなかったが、法力と呪符でこれらの攻撃を破解する自信があった。
方以智[1611-1671]は仏教と道教が入り混じった巫蠱破解法を記録している。この方法の理論は、巫蠱術が魂を制する術(制魂術)であることに依拠している。
「漢代においては巫蠱のことを桐木人(桐の木の人形)と呼んだ。桐木を人のように彫ったものである。薬で、あるいは血の呪詛によって魘(えん)術をかける、つまりかけられた人はうなされる。呪詛は夜間におこなわれる。人に憑いて家の中をうろつく。またたく間に乗っ取る。こうして人の魂を制御する」
巫蠱を破解するとは、根本的に、いかに自分の霊魂を把握するかということである。具体的には以下の方法がある。
(a)朝夕背筋を伸ばして座し、唵嚂金剛呪を八十一遍唱え、剣訣(剣指、すなわち中指薬指を曲げ、親指をつけ、人差し指と中指を伸ばした手の形。ムドラー)を作れば、出門入戸(門から出て家に入る)のようなもの、すなわち魂が吸い取られることはない。
(b)普通の床の余白に八卦を描き、「悉怛多般怛哆(しつたつたはんたつし)」と書き、軒轅鏡(けんえんきょう)を掛ける。すると呪術の力は弱まる。
方以智はまた指摘している。魂魄を安定させるにおいて、方術は「誠正」の二字にかなわない。それは簡易にして有効である。これらにおいては巫蠱も破解巫蠱の法術も価値がなくなると。巫術が霊験あらたかであるためには、自身が意気消沈すること、恥ずかしくて気がとがめること、恐れおののくことがかならず仲立ちにならなければならない。誠・正は呪詛が入る隙を与えない。防御と破解が巫蠱に対してもっとも有効な方法であるのはまちがいない。