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 星辰雲気(星と雲)の運行をコントロールするのは、根本から災異を消滅することであり、自然界でもっとも胸がすっきりすることだといえる。しかしこうした挙措を一般の巫師が担うのに適しているとは思えない。古代において、星雲災異に対する巫術でもっともよく見られたのは、移禍法だった。すなわち(本来、巫師でなく、それを担当した誰かによって)災禍を他者に転移する法術である。


 移禍法術の起源はかなり古い。周文王八年六月、文王は重い病気にかかり、五日後には大きな地震が発生した。人心は不安でいっぱいになり、大臣らはみな移禍を求めた。彼らは認識していた。「大衆を招集し、国城を増築し、災病を移そう」。この故事が明らかにしているように、周代初期には、城壁を増築し、災病を転移する方法がすでにあった。


 前489年、楚国の望気[古代方士の占候術]を行なった者が異常な天象を発見した。「赤い鳥の群れのごとき雲あり。太陽をはさみ、飛ぶこと三日」。

 楚昭王は周王室に人を派遣してこの天象の予兆の意味を問うた。周の大史は言った。「楚王にまさに災禍がふりかかろうとしています。もし禜祭(えいさい)を行うなら、災禍を令尹、司馬の身の上に移すことができましょう」。

 昭王はこの種の移禍法が「腹心の者の病を除いて股肱の者らに置く」にすぎないことを認識し、言葉に従わなかった[腹心も股肱も側近という意味。側近の災禍を別の側近に移すということ]。

 楚昭王と同時に宋景公にも同じようなことが起こった。ある年、熒(迷走)惑星が遠回りをして心宿[二十八宿の一つ]の位置に至った。宋景公は、これは何の兆しかと問うと、太史子韋はいった。「熒惑(えいわく)は天罰を表しています。心宿は宋の地域を表しています。つぎの災禍は君ご自身が見舞われることになります。しかし法術を用いることによって災禍を宰輔に移すことができるのです」。子韋はまた庶民や作柄に禍を転移することができると説明したが、景公はどれにも同意しなかった。

 楚昭王、宋景公は、当時移禍法を排斥したが、これはごくまれな例だった。史家がそれは珍しいとして、書き留めたのである。このことは、移禍行為が実際春秋時代にはよく見られたことを証明している。