古代中国呪術大全 

第3章 06 工匠魘魅(こうしょうえんみ)術 

 

(1)

 唐代以降、とくに明・清の時代、巫術を強烈に意識した木工職人、泥瓦職人、石匠らの一部は常に職業を利用して新築の家屋や家具、船の中に秘密裏に放置した。あるいは木石の材料に特殊加工を施したり、うまくはめこむように作ったりした。こうして家の居住者や器具を使った者は謎の伝染病にかかり、人は亡くなり、家はつぶれてしまった。この種の巫術には職業的特徴が生かされていた。そして巫術の手法において、その体系は自ら作ったものだった。そして必要なら、関連する巫術から取り出し、単独で論述をおこなうことができるのだ。

 工匠魘魅(こうしょうえんみ)術にはおもに三種の表現形式がある。それは偶像の使用、外的なその他の霊物による偶像の使用、特殊建造方式の採用の三つである。それぞれ別個の歴史の源がある。

 

(2)

 偶人(人形)を置く呪法は偶像祝詛術に由来する。ただし職人の偶像使用伝統的巫蠱術と、明清時代の偶像を駆使する呪法とは区別される。職人は家の中や器物の中に偶人を隠した。それは普通の家や器物を凶宅・凶物に変え、凶宅・凶物を通して居住者・使用者に影響を与えるためである。この種の偶人は攻撃対象の代わりとなるものではないが、邪気を拡散し、生活環境を毒するためのいわば人工的な鬼魅といえる。職人が使用する木偶の性質と作用は採生妖術の中の人を脅し、人を害する偶像と比較的似ている。違いは、攻撃対象の住まいと器物のなかに置いて固定させるのが有効であることを職人が認識しなければならないことである。

 五代の孫光憲『北夢瑣言』巻九にはつぎの話がある。唐僖宗文徳年間に、張某という少年が官吏の陸某家に行き来していたが、そこにいたひとりの美女に惑わされ、病を得てしまった。道士呉守は道教の霊符(護符)を少年に与えたが、効果はなかなか現れなかった。のちに人々は空き部屋の柱の洞(うろ)の中に女俑(女の人形)を発見した。その女俑の背中に「紅英」の二文字が書かれていた。女俑を焼くと、美女は消えた。怪しげな祟りも消えたのである。柱の洞に女俑を置いたのは職人に違いなかった。この話が意味するのは、工匠(職人)の魘魅術が唐代にはすでに出現していたことである。

 宋人洪邁は、工匠魘魅術は当時蘇州、常州一体で相当流行していたと記述している。『夷堅丙志』巻十の「常熟圬者」(常熟県のコテを塗る者)の条に「呉人の俗では、建物の屋根の瓦を覆うとき、ひどく暑くても、子弟を登らせて直に監視させた」と記されている。というのも職人(泥瓦匠)が瓦の下に厭勝物を置くのを恐れたからである。洪邁は例を挙げる。山東人呉温彦は客として平江の常熟県にいた。南方の風俗を知らないため、家を建てるとき、警戒を怠ったため、職人に鎮物(厭勝物)を入れられてしまった。新居に移り住んだとき、「毎晩かならず夢の中に白衣を着た七人が屋根裏から出てきた。するとまもなくして病にかかり、起きられなくなってしまった。その子供は物の怪の仕業ではないかと疑い、使用人に命じて屋根の上に登らせた。瓦をはがしていくと、その中に七枚の紙人が見つかった。職人(圬人)が不満を持ち、厭勝術を用いて主人に禍をもたらそうとしたのである。郡守の王顕道はこれを聞き、工匠(職人)をみな捕まえて獄に入れた。のちに背を鞭打ち、遠州に放逐した」。

 この記述から明らかなのは、唐代以降、工匠厭勝術など巫術活動がさかんになり、某地区では人はみなこのことを学び、熟知していた。

 

(3)

 工匠魘魅術がもっとも勢いがあったのは明清代だった。当時の人は「梓人(大工)が家を建てるとき、かならず魘鎮をなす」「凡そ梓人が家を建てるとき、瓦職人が覆う瓦も、石工が積むレンガも、飾る五墨絵(水墨画)も、みな魘鎮、呪詛がなされている」。この「凡そ」という文字からも、すべての工匠が日常的な邪術の徒とみなされていることがわかる。

 明清代に流行した工匠魘魅術は偶人(人形)を放置するのが主である。明代初めの長谷真逸は言う、「愚民が妖巫に惑わされるので、官府はこれを厳禁したが、止めることはできなかった」と。

 山東のあるところにひとりの富豪がいたが、巫覡(ふげき)をまったく信じていなかった。巫師は富豪が家をたてるとき チャンス到来と思い、大工をそそのかし、木人を作らせ、柱や斗栱(ときょう)の中に入れさせた。何年かたって富豪一家は全員が重い病にかかってしまった。巫師が大工に人を害する呪術をかけさせたのだろう。この地区は工匠魘魅術が発達していないようだ。

さらに多くの人は、工匠(職人)の内輪で偶人(人形)を安置し、禍を作り出す方法を代々伝えていると認識している。人によっては極端なことを言う。「凡そ梓人(大工)には代々厭鎮をなさざる者はない。もし人に対して呪術をかけなければ、自ら悪に陥るのは必至で、耐え忍ぶ心を失うことになる」と。

あるところの莫氏一家は夜になると取っ組み合いをしているかのような音を聞いた。家が売り出され、それを買った人は、家が解体されるとき「梁の間に、相撲をとっている、髪が逆立った裸のふたりの木刻(木彫りの人形)」を発見した。

 常熟県のある家族が家屋をあらたに建てたあと、三代にわたって女性はみな放蕩で不貞だった。ある日屋根を葺き直していると、「垂木の間に木人を発見した。それは女で、三、四人の男(木人)を誘惑し猥褻なことをしていた」。木人を持ち去ったところ、家の中の雰囲気がよくなった。「この類のことに関して、言葉では言い表せない」。

 明人の高濂(こうれん)は言う、一部の木工(大工)は成人の像を彫り、上に呪語を書き、屋根の上で釘を打つ。この人像のどこかに釘を打ち付けると、家主の体のその箇所が傷を受ける。「目に釘を打ち付けると目が見えなくなり、耳に打ち付けると聞こえなくなり、口に打ち付けると話せなくなり、心臓に打ち付けると心の病になり、門(顔のこと)に打ち付けると家にいられなくなる」。

 ある泥瓦匠(レンガ職人)は棟瓦の下やかまどを造るとき、土人を置いた。ある石工は(石から)人形を作って石の台座の上に置いた。どれも家の主人に禍をもたらした。高濂に言わせれば、法術と伝統的な巫蠱術は基本的におなじである。元来の工匠魘魅術の技法を直接引き継ぎ、変化していない。

 

(4)

 紀昀(きいん)はつぎのような例を挙げて説明した。いとこの紀東白の住まいには、毎晩門を叩く恐ろしい音が聞こえた。ある日正門の傍らの塀が突然倒壊した。「そこから木人が一つ出てきた。その姿は手を張って門を叩いているように見えた。その上には護符が貼ってあった」。

紀氏はこのことからつぎのように説明する。「世に蠱毒魘魅の術がある。刑法にも明確に記されている。蠱毒を私は見たことがないが、魘魅は数多く見てきた。術をなすのは瞽(めしい)の巫者と土木の工匠にすぎないが、禍福をもたらし、人を生かすことも死なせることもでき、明確に効果があるのだ。そのなかにかならず理はあるだろうか。ただし人が知ること能わざるが」。

 一部の人は工匠魘魅術を妄信する。彼らは工匠(職人)が隠し持つ木偶によって鬼魅が生まれ活動して、人と格闘すると認識している。またこの木偶と工匠の間にはとくに通じ合うものがあり、木偶を廃棄すると、木偶を作り、放置した工匠もともに死ぬことになる。

袁牧は明経(官吏)高某が木偶を制圧した故事を書いている。高明経は結婚したあと突然倒れ、昏睡状態に陥った。目が覚めたとき、耳元で「ルールー」という音が聞こえた。見ると一尺ばかりのきらきら輝く童子が寝床の前に立っている。高明経は宝剣で童子を刺した。すると家人が銅盤(たらい)の中に木偶(人形)を発見した。赤い衣を着て、首に赤い糸をかけて、両手で引いて絞めつけている。この小さな木偶を焼き払うと、怪しい童子の姿も消えた。のちに聞いた話では、ある職人がその日のうちに死んだという。

明経が婿入りしたとき、妻方の家を修理することになった。職人は要求にこたえることができず、厭魅術をかけた。しかし術が見破られると、職人は即座に死んだ。

 ある文人はこう書いている。余杭(杭州市)の章某が住まいを建てたところ、毎日夜になると官吏が出現し、事件を審理するという怪現象が起こった。これにより章家は絶えず訴訟を起こすようになった。

のちにひとりの袖弩(小型の弩弓)を得意とする親戚が夜、この家に泊まりブタや羊の血を塗った弓を放つと、梁から小官のような鬼が落ちてきた。鬼を起こすと、それは紗帽をかぶった青い袍(伝統的な長い上着)を着た小さな木像だった。このあと章某は家の柱を持ち上げてもらうと、底がくりぬかれていて、そのなかにたくさんの小さな木像が隠されているのを発見した。家を建てた大工を呼んで問い詰めたが、大工は認めようとしなかった。章家が木像をすべて焼却したところ、大工は家に戻ったあと心臓の痛みに襲われ、数日後に死亡した。

 職人が雇い主に反抗し、恨みを晴らすとき、木人を置いて呪詛をおこなうのは、比較的平穏で安全な方法だった。雇い主が病気になり、家の中に怪異現象が現れるようになった。そこで木人を燃やすと職人が死んだ。これは魘魅術(悪夢の魔術)がかけられていることを示している。不可思議な意識からおこなった強い感情的な推論である。

工匠の死の例を挙げるなら、厭鎮行為がいったん露見したなら、工匠は厳しく追及され、譴責を受けることになる。罪を犯したことを認めれば、官府に送られ、巫蠱の罪で懲罰を受けることになると連想できる。木人が焼かれるということは、自分の生命が重大な危機に直面しているということである。それにいろいろな要素が加わり、「術破」されるにいたったのである。こうして工匠(職人)は即座に死ぬことになった。レヴィ=ストロースの魘魅の理に対する巫術作用理論を上述のように分析すると、紀昀の言うように、魘魅活動には「かならず道理というものはある」という話には意義があるのだ。

 偶人を置く法術が実際に効果あるかどうかはなかなかわからない。それゆえ人によっては木工(大工)が木偶を置いたときの最初の言葉がこれの性質と作用を決定するとみなす。最初の言葉は災禍を作ることが可能な呪語である。第一句は「吉祥語」であり、福をもたらす。「木工厭勝術は、最初の一言をもって基準とする。これによって禍福が決まる」と言うことである。

 つぎのような例が挙げられている。婁門(ろうもん 蘇州の城門)の人李鵬が高い建築物を建てたときのこと。木工が悪念を起こし、刑具を付けた木人を敷居の下に埋めていたところ、李鵬に見つかってしまった。李は彼をしかりつけ、問いただした。木工はおそるおそるなんとか取り繕う。「旦那さま、おわかりにならないでしょうか。婁門一の家になるため(木人を置いた)なのです」。李はこの言葉を聞いて、もう邪魔はしなかった。こののち李家は突然富裕になり、町で一番の金持ちになった。木偶を置くのが吉と出るか凶と出るかはわからないが、偶人は禍をもたらす凶神となることもあれば、富をもたらす霊物となることもあるということ。魘魅術の効果がどちらに出るかは、人の心によるのである。

 

(5)

 木工(大工)の一部は習慣で草人を用いて災禍をつくる。焦循は自らの体験を記している。嘉慶庚申年(1800年)、焦は息子の婚儀を執り行ったさい、江南出身の木工謝某に木製の寝台を作らせた。しかし数年のうちに二人の孫が相継いで死亡してしまう。

「ある日床が突然割れ、なかから二つの草人(草人形)が見つかった。それらは転がって互いに背を向けて倒れていた。これの祟りか、もともと小口(子供の死者)はいなかったが、これを焼いたのち、小口が出るようになった」。

子供の夭折の原因が草人の祟りであることを焦循は認識していた。木工が草人を置いたのは事実である。その他魘魅の事例はどれも同様に理解された。

 工匠(職人)はつねに絵を用いて厭鎮を実施する。清東軒主人は言う、崑山の李左君は工匠に(しょうもん)の修理を依頼した。しかし粗末な食事でもてなされた工匠はひそかに厭鎮の物を置いた。のちに曹某がこの家に引っ越してきたところ、家族がみな病気がちになった。

康煕三十五年(1697年)偶然門が倒壊したとき、家族が墻(へい)の中に木の切れ端[木人だろう]を見つけた。それには「緑衣判官を描く。そばに鉄索(くさり)を持つ小鬼あり。跪き、手のひらに妙訣という文字が書かれている。字ははなはだ清楚な楷書で書かれている」。この絵をそぎ落とすと、平安が戻ってきた。

似た描写はこのほかにもたくさんある。蔡某家の人は三代つづけて吐血して死んだ。ある日蔡の母が何斗もの血を吐いた。劉という法術に通暁した親戚がよく観察して、裏庭の建物の下に妖気なるものが埋められていると主張した。「ここを掘ると竹片があり、絵に人が描かれていた。その人の口から赤い点が多数滴り落ちていた。工匠人が厭鎮をしたと思われる」。

 

(6)

 工匠魘鎮術の二番目の形式は、古い鎮宅術から派生したものだった。漢代には家屋のまわりに青石や桃木を埋める類の鎮宅術があった。それは鬼魅や邪気が侵入してくるのを防ぐのが目的だった。のちに工匠は建物や器物に偶像だけでなく、ほかの厭鎮物を入れるようになった。すなわち邪祟や災禍を作るようになったのである。狙いはおなじでなかったが、手法は基本的に一致していた。

 曹魏の時代、預言家管輅(かんろ)は鹿を盗もうとする男を垂木の下に瓦といっしょに閉じ込めた。すると鹿泥棒の父親が頭痛発熱に苦しんだ。

 明清時代に流行した第二種工匠魘魅術とはすなわちそのはじまりだった。管輅の法術には専門の巫師がおらず、工匠が広く使われてきた。塀に上がり、屋根に登るには便利だったのである。

 

(7)

 明清時代の工匠が使用した魘鎮雑物には以下の何種類かがある。

<孝巾> 

『説郛(せつふ)』に引く『西塾雑記』によると、明代、「蘇州皐橋(こうきょう)韓氏は建築・造園に従事し、四十年以上喪服を着てばかりだった。風雨によって塀が崩れたとき、壁の中から孝巾(頭巾の一種)が見つかった。磚(せん レンガ)の弁(帽子)というわけである。すなわち孝を戴く磚(せん)である。孝巾とはいわゆる孝帽子のことだ。磚は専の同音。孝を戴く磚は孝を戴く専門に通じる。工匠が障壁の中に孝を戴く磚(レンガ)を発見したことから、韓氏の家族は四十年以上累々と死者が出続けたのはこれが原因であると確信した。

 

<船傘模型> 

明代の一部の瓦職人は合背(合竜)[橋や堤防などの建設を両端から始め、最後、中間点で完成するとき縫合する地点のこと]に土人(土人形)や船、傘などを入れた。船は穿と、傘は散と読める。この呪法によって雇い主を呪詛すると、家屋には洞穿(壁や門の穴)が開き、家屋は四散する。

 

<食器食物> 

高濂は言う、一部の工匠は障壁のなかに蓮華や箸を入れる。呪文をかける。「少し住めば、たちまちその家は壊れる!」。門の敷居を作るとき、階段の下に蓮の葉で包んだごはんを置く。また蓮の葉の上に箸で十字を書く。家の所有者を呪詛し、喉の詰まりや嘔吐の病を起こさせた。

清代末期の兪樾(ゆえつ)は、湖北人が首を吊ることを、油麺を食べると称す、と記している。油麺は小麦粉の中に油を入れて作る長麺のこと。咸寧(かんねい)の章某が家を建てるとき、待遇が過酷であったため、工匠は憤怒し、恨みを抱いた。あるとき油麺を食べ、その食べ残りを門の敷居の下に埋めた。すると、しばらくして章の妻が首つり自殺した。章某はしばしば子供を連れて人に言った。「おれはどこで首を吊ったらいいんだろうか」。家族は陰陽先生の指示を仰いで、門の敷居の下を掘ると、わずかだが油麺が出てきた。章某の病気はそれ以来好転した。

 

<灯檠(とうけい 燭台)> 

 紀昀はつぎのように描写する。堂兄(父方のいとこ)紀旭昇家の三代はみな動悸や不眠症で死んだ。旭昇の子汝允もまたおなじ疾患で死んだ。のちにある工匠が建物の隅に異物を発見する。レンガの隙間に古い灯が置いてあったのだ。工匠は言った。「この器物は人を眠らせない。泥匠(建築職人)の魘術だ」

 

<針とお金> 

 上述の焦循書によると、焦循の叔父と木工(大工)の殷某はよしみがあり、家を建てるとき、「大事に扱ってもらい、食事もふるまってくれてので、(木工は)厭を防いだ」。ただし最終的に殷某は魘物を置いた。七年後、焦氏が物故した。それから六年後、焦家は家を壊すことにした。屋根の垂木を壊すとき、「瓶が一本出てきた。閩の中に針一本と雍正銭(銭貨)が入っていた」。針を隠すのは、人を刺すという意味である。銭を入れるのは、厭勝銭法術のバリエーションである。

 

<紙符> 

 『聴雨軒筆記』に記す。いつも賢くて敏捷な邱蒼佩(きゅうそうはい)は田舎に引っ越したあと、「だんだん落ち込んでいって、いびきをかいて眠るだけになった」。弟子の王学は、これは工匠の魘魅のせいだろうと考えた。のちに明鏡で室内をあまねく照らし、中門の上に紙片を発見した。紙の真ん中には「心」の一文字が書かれていた。まわりには濃い墨が塗られ、月に雲がかかっているかのようだった。「もとあった場所で髪を焼くと、邱翁の病気はよくなり、魘を作った工匠のあたりに上空から黒雲が降りてきて、工匠を覆った。すると発狂し、終生癒えることはなかった。

 

<木竜> 

 王用臣『斯陶説林』が引用する『便民図簒』に言う、蘇州のある富裕の翁が工匠に造船を依頼した。処遇の仕方がよくないという意識もあり、翁は工匠が不満を持ち、悪巧みをするのではないかと恐れた。それで作業が完了する夜、翁は船尾に隠れて様子を探った。工匠は斧で船体を叩きながら呪文を唱えた。

「木竜よ、木竜。わが祝詞(ことば)を聞いてくれ。最初の年、船が走る、利益は倍になる。つぎの年、利益は十分の三になる。三年目、人は財をすべて失う」。

 このあとの二年の経済状況はほぼ祝詞のとおりだった。三年目、翁はあえてこの船を用いなかった。

「ある日、その舟を壊すと、長さ一尺ばかりの木竜が出てきたので、油を沸かし、これを焼いた。臨家にいた工匠は病気になり、目論見が失敗に終わったことを知り、命乞いをした。しかしふたたび木竜を焼くと、工匠はばたりと地面に倒れ、絶命した。

 

(8) 

 兪樾『右台仙館筆記』によると、工匠は意図せず血液を梁の上に滴らせてしまい、それによって居住者が病気になってしまったという。この件は、強烈な巫術意識を反映しているといえよう。それはまた工匠が無意識に呪術をかけて、関連したものを作って危害をもたらしてしまったことを意味する。

 通常でない建造方式によって主人に災禍をもたらすのも工匠魘魅術の一種である。この法術は昔から建築の禁忌と言われていた。材料の使い方によって吉、凶が出るのである。また棟上げの仕方によって吉、凶が出た。これらはもとより迷信・禁忌の類である。人を害することを図った工匠は禁忌を犯したことになる。もっぱら凶を起こすのは、新しい巫術といってもいいだろう。

 宋人孔平仲『孔氏談苑』巻一に言う。船首が船体より高いと望路と呼ばれ、凶をもたらす。

船底は六板、八板など偶数が吉とされ、五板、七板など奇数は凶とされる。

 家を建てるとき、主人は工匠(職人)のことを気にしない。そのため工匠は呪法によって人に魘(夢魔)をもたらす。

 丸太は通常上が細く、下が太いが、木匠(大工)は下を細く削ってさかさにする。こうして凶がもたらされる。高濂は言う。家を建てるときもっとも忌み嫌われるのは、木工がさかさにして木柱を使った場合である。

 サイカチの木を用いて閂(かんぬき)を作るときも、凶をもたらすことができる。高濂は言う。家を建てるときもっとも忌み嫌われるのは、木工(大工)が木柱をさかさまに用いることだ、と。

 植物はかならず生気を吸収するもの。根は下へ向かうもの。魘の呪術をおこなう者はこれをさかさにする。家族はもはや、進歩することも向上することもなくなる。やることなすこと逆になる。

工匠は言う。棟上げのとき、前梁を後梁に合うように調整しながら呪文を唱える。「前梁調後梁、かならずまず母が死ぬ」。

工匠は卯孔に竹楔(くさび)を入れながら、呪文を唱える。「(バラ科の木)卯放竹、不動自哭」(卯孔に竹を入れると、動けず泣くばかり)。

 ある人は言う。床に竹釘を十字に打つ。あるいは人形(ひとがた)を描く。紙符を中に入れる。臥せている人は病気が不安になる。

 泥瓦職人はかまどを作るとき、泥瓦の刀で寝室や食堂に切りつける。この家は「刀兵相殺」の状態になる。

 この類の法術にはあきらかに禁忌に対する反発が見られる。

 

(9)

 工匠魘魅術がさかんな頃、その破解法もまた発展した。明清代に流行した禳解法は呪語が主流だった。高濂はいった。「建築のはじめ、まず四方の土木の神を祭り、(神に)告げなければならない。その祭文にいわく、「ここに家屋を建てるに、その木、泥、石、絵の人に魘鎮呪詛をかけるも、百日以内なら、自ら禍を受けるなり」。あらかじめ霊たちと盟を結び、災禍と無関係なら、あちらは被害を受け、こちらの家は安寧である。また船を造る場合も同様である。木工(大工)が木柱をさかさまにして使っているのを発見すると、斧で木柱を叩きながら、呪文を念じる。

「さかさもよし、さかさもよし。この家に住めば、代々衣食に事欠くことはない」。

家屋が完成すると、家族全員が柳の枝を持ち、家屋のまわりに水を浴びせる。水をかけては、呪文を唱える。

「木郎よ、木郎。すみやかによそへ行け。作った者は苦しむ。なす者は耐え忍ぶ。すべての魘(夢魔)を鎮めよ。我を妨げるな。急急一如太上律令勅!」

 呪法のほかにもまた「説破(明確に言うこと)法」がある。高濂は言及する。どんな種類の工匠(職人)であろうとも、魘鎮をおこなっていることをはっきりさせ、「説破不妨」すなわち言葉に出してそのままにすれば、たくらみは明るみになり、危害は加えられない。

 もう一つの呪法は木工(大工)の用具やのこぎりから落ちたものに注意すること。「木匠が人に魘の呪術(魘魅術)をかけるとき、(木偶の)頭に木の串を挿すが、これを挿せとは不令(命じない)、すなわち不霊(霊験なし)である」「木工が器物(すなわち魘物)を作るとき、かならず頭に棒墨を挿す。このままにしてはじめ木をもこぎりでひくと、脳がこれを認識し、無数に裂ける。すなわち知恵はあるが、霊験はない。

 ある人は言う。「家屋が建て終わったとき、まず工匠(職人)は墨壺、墨糸、棒墨を留め、絹の包みに入れて棟所(屋根の下の棟)に隠さなければならない。とくに工匠には魘の法術をやらないように、そして家屋の中を鎮めるよう命じなければならない。それで吉が得られる」。それで木工の手によって魘魅術をおこなったことが発覚する。雇い主は魘魅術を破解することによって巫術の意義も理解できるのである。

 魘鎮物とそれを置く者との間には深い関係があると信じられているので、これらを破棄するのは破解の術とみなされる。すなわち呪術を行う者への罰なのである。上述のように偶人を焼き、沸騰した油で木竜を揚げるのも罰の一例だ。沸騰油で魘鎮の物を揚げるのは厳しい制裁法とみなされる。

「沸騰した油で揚げられるなら、魘鎮の術をおこなった者はたちどころに死んでしまうだろう」「厭勝をおこなう者はかならず油で揚げられる」。

術士は刀や槍を寄せ付けない。邪悪なものはかなりしつこい。魘鎮物を油で揚げる(油炸)のは、まさに妖物・妖人のしたたかさに思い至り、さらに辛辣な措置を取るということである。