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周代は、季節ごとに索室駆除をおこなった。これは時難(儺)と呼ばれる。『呂氏春秋』によると、秦代の駆疫は毎年三度に固定されていた。すなわち夏暦の三月、八月、十二月である。最初の駆疫は、国都の九つの城門前で、方相氏が率いる集団が犠牲獸を殺し、法術をおこなった。「もって春気を終える」ことから「国難」と称した。二番目の駆疫は、天子自らが参加することを求められた。天子は難(儺)をおこない、秋気に達する。三番目の駆疫は、全員が参加しなければならない。ゆえに大難と称せられる。その目的は寒気を送る(追い出す)ことである。


漢代に至り、疫鬼の神話伝説は定型化し、儺礼の儀法は規範化し、儺礼の規模は拡大した。漢代の人は、疫鬼には三種類あると考えた。それらは(五帝の一人)顓頊(せんぎょく)の三人の子が変成したものである。すなわち長江に住む鬼「虐鬼」、若水に住む鬼「罔両、蜮(いき)鬼」、そして一般の家屋の部屋の隅に住み、子供を脅かすのが好きな鬼の三種類である。

 一般的な言い方では、罔両は木石の怪である。しかしここでは水精であり、疫鬼である。罔象は、無傷(精怪の名)、あるいは水精と考えられ、あるいは墓が作られたときの地下の精怪とみなされた。この二つの精怪の名称はもともと厳格に定義されているわけではなかった。


 漢代の儺礼の中で規模がもっとも大きかったのは、年の終わりに開く大儺だった。後漢の大儺儀式は臘祭の一日前に行われた。大儺の前に「中黄門」すなわち宦官の弟子から10歳から12歳の少年120名を選出する。「子(しんし)」(男巫)と呼ばれる彼らはみな頭に紅巾をかぶり、黒衣を着て、手に(とう)という小太鼓を持っていた。儺礼の主役方相氏は、ひとそろい伝統的なかっこうをした。同時に任命された十二人が獣皮をまとい、頭上に角を挿し、悪鬼を捕食する十二頭の神獣に扮した。

夜になり、大臣がみな集まった。侍中、尚書、御史、謁者、虎蕡、羽林郎らとその下に属する者ら全員が紅巾をかぶり、宮殿前の階段の下に列をなして待った。皇帝が前殿に至ると、宦官のトップである黄門令は方針を示した。「侲子(男巫)よ、準備しなさい。疫病を駆逐してください」。皇帝が命令を下すと、一年に一度の大儺礼が正式に幕を開ける。

 まず中黄門[もっとも俸禄が少ない宦官]が呪文を高い声で誦する。呪文はつぎのような内容だという。

 甲作(十二神獣の一つ)は凶鬼を食う。胃(ひい 十二駆疫神の一つ 胃か)は虎を食う。雄伯(十二神獣の一つ)は魅を食う。騰簡(とうかん 十二神獣の一つ)は不祥を食う。攬諸(らんしょ 十二神獣の一つ)は災咎を食う。伯奇(十二神獣の一つ)は悪夢を食う。強梁、祖明(両方とも十二神獣)はともに寄付された人体の轢死鬼を食べる。委随(十二神獣の一つ)は「観」[鳥?]を食べる。錯断(十二神獣の一つ)は「巨」[鬼の一種]を食う。窮奇、騰根(両方とも十二神獣)はともに蠱を食べる。

 いまこの十二大神に凶悪を駆除させ、あなたの四肢を八つ裂きにし、あなたの身体を切断し、あなたの肉をかみ砕き、あなたの肺や腸を抽出する。逃走することができず、神の食糧に変身する。中黄門は毎度一句念じる。侲子は声をそろえ、一句唱和する。呪文を詠み終えると、方相氏は十二神獣とともに逐疫の舞踏を踊る。舞踏が終わると、鬼を追う者全員で高い声を上げて騒ぎ立てながら、前後殿の周囲を三周し、手に持ったたいまつで疫鬼を正門から追い出す。

 門外の数千名の衛士がたいまつを受け継ぎ、宮闕から送り出す。最後に数千名の五営騎士がたいまつを洛水に投げ込む。たいまつの伝達が結束したあと、各官府の供奉代表の儺人祖師の木面獣が門前に桃梗、郁塁を設置し、葦茭を掛ける。ここに至り、前殿階段下に並んでいた官員はつぎつぎと去っていき、大儺礼の完成が宣告される。