古代中国呪術大全 

第3章 07 蠱術(上) 毒蠱の性質と種類 

 

(1)

 蠱(こ)術とは、鬼魅の性質を利用して他人を攻撃する呪術のことである。この種の呪術は、古代の江南、とくに少数民族地区で流行した。

 『左伝』「昭公元年」は言う、「文字において、皿の虫と書いて蠱となす。稲穀のなかの飛虫もまた蠱とする」と。蠱の字は皿と虫を組み合わせたもので、皿に生まれた虫や虫・木食い虫に壊された皿のことを指す。さて、一歩一歩進んでいこう。穀物が腐敗するとそこに蛾などの飛虫が生まれる。ほかの物体を通じて変質し、形成される虫もまた蠱と呼ばれる。蠱は変幻し、測りがたい性質を持ち、尋常ではない毒性を帯びると認められる。そのため毒蠱とも呼ばれる。

 毒蠱が誘発した疾病は蠱疾、あるいは単に蠱と呼ぶ。秦代以前、秦代、漢代の人は蠱疾には二つの特徴があるという。蠱疾患者は鬼魅に惑わされ、神智昏乱に陥った患者とよく似ている。毒蠱はおもに飲食を通して人の体内に入り、体内で発作が起きる。(サソリ)が(刺す)、蛇が咬む場合とは異なっている。

 春秋の頃、秦国の医和(和という名の医師)が晋平公の病を診断するとき、「疾は蠱のようだ。鬼や食(が原因)ではない。惑わされて意志を失っている」と言った。注釈家によると、医和は晋平公の病は蠱疾とそっくりだが、鬼魅とも飲食とも関係なく、女色に惑わされたためだという。この診断は真逆と理解したい。すなわち蠱疾はかならず鬼魅や飲食と関係がある。のちに蠱という言葉は迷惑の意味で用いられるようになった。あらゆる人に迷惑をかける行為や神志不清(恍惚とした状態)はひとしく蠱と呼ばれた。これは蠱疾から進んだ状態である。

 

(2) 

 秦代以前の人々が示した蠱虫の多くは自然に発生した神秘的な毒虫だった。秦徳公二年(前676年)、秦人は「狗でもって蠱を御して」伏祭をとりおこなった。[伏祭は伏日におこなわれる祭礼。伏日は七月中旬から八月中旬の三伏のうちの一日] 

 『周礼』中、庶氏は「毒蠱を掌除する」官員と描かれる。この蠱駆除活動の対象となっているのは自然発生する毒虫で、人工的に飼育している蠱とは異なっている。

 蠱を作り、人を害する蠱術は、毒蠱の迷信が長期にわたって発展した基礎の上に形成された。『漢律』中の「賊律」に言う、「人に蠱(術)をかけた者も、そそのかして(蠱術を)かけさせた者も、棄市(市で衆人のもと首を斬られること)の刑に処せられる」と。鄭玄はこの条を引用して『周礼』「庶氏」の「掌除毒蠱」を説明している。「賊律」のもとになったのは、李(りき)の『法経』中の「賊法」である。これからわかることは、戦国時代の中原にはすでに蠱術を使う人がいて、蠱を作り人を害する方法が伝授されていたということである。

 魏晋以来、南方の地域が開発され、民族融和が進むにしたがい、蠱術と蠱疾に関する描写が増えていった。蠱術は民間にひそかに流布するだけでなく、社会の上層部にも入り、宮廷の事変を起こすに至った。蠱術は中国巫術体系の大きな流れとなり、古代の医学、法律、民俗に大きな影響を与えた。

 伝説中の蠱毒製造の一般的な方法は、一つの器の中に劇毒を持つ蛇やサソリ、トカゲなどを入れて、互いに食べさせたり、殺し合いをさせたりして、最後に生き残った毒虫を蠱とするものである。一部の造蠱者は五月五日に毒虫を集めるのがいいと強調する。これは五月五日が毒気の最盛期とする伝統的観念である。虫を戦わせる法以外にも、特殊な毒蠱があり、また特殊な製造法がある。

 造蠱害人(蠱を作って人を害する)法は、表面的には非巫術的な毒の犯罪のように見えるが、そういうわけではない。蠱術はたしかに蠱虫・蠱薬を食べ物や衣類に投じるような、原始的低級の巫術である。民間信仰においては、蠱は飛び回ることができ、変幻自在に姿を変え、光を発し、鬼怪のように見えるが、跡を残さず、神秘的で曖昧模糊としている。造蠱者は呪術を用いて蠱虫を飛ばして酒や食べ物に入れ、(蠱術の)対象者はそれを体に入れ、病気になり、死んでしまう。

 『捜神記』巻十二に言う、「蠱は一種の怪物である。鬼のような姿で、妖しい形はさまざまな種類に変化する。それは犬、豚、虫、蛇のように見える。その人(造蠱者)もその形を知らない。さまざまな人の中に放たれ、それに当たった人はみな死ぬ」と。造蠱者はこのような妖蠱を駆使して人を害する。明清代の呪術師は生きた魂を偶像に込め、人を害したが、実質これらはおなじことである。

 

(3)

 飲食物を通した毒蠱と一般の毒虫とでは、その性質は異なる。造蠱者は独特の解薬(解毒)を用いて毒蠱の原形を出現させる。それは呪術師が精怪の原形を出現させるのとおなじである。彼らは蠱虫を通過させてさまざまな超自然的な怪異なるものを製造する。ある人が言うには、中蠱者は解蠱薬を食べて「奇怪なものを吐く。たとえば人頭蛇身、八足六翼などである。オタマジャクシのようにそれは切っても切れず、焼いても焼けない」。

ある人が言うには、中蠱者(蠱が当たった者)は解蠱(げこ)の治療を受けると、(蠱を)吐き出し、刺さった針を抜かれたフナのようにぴちぴち跳ねると。またある人が言うには、滇(てん)の女は、薄情な男の体内に蠱を入れ、豚に変身させて食いあさらせ、ついには腹を裂かせて死にいたらしめるという。飲食によって放たれた蠱毒は、当時の人からは一種の特殊な鬼魅(ばけもの)に見えたことだろう。

 伝説の蠱術には二つの恐るべき側面があった。一つは、中蠱者(蠱が当たった者)の財産が知らぬ間に蠱者(蠱を施した者)の家に転移されていること。もう一つは、造蠱者(蠱を作った者)が人を害したあと、その亡魂を自由に使うことができること。この二つの面は蠱術の巫術的な面を反映しているといえよう。

 干宝は言う、「陽(けいよう)郡に廖(りょう)という姓の家族があった。代々蠱を成し、富を得るに至った」。晋代末期に蠱を作ることで到富法術(富を得る呪術)を実践した人がいたようだ。南朝の時期になると、南方の新安、永嘉、建安、遂安、鄱陽、九江、臨川盧陵、南康、宜春などでは「いたるところで蠱を畜(か)った」。なかでも宜春郡(現在の江西省中部)では蠱がさかんだった。「その法で五月五日、大は蛇から小は虱まで百種類の虫を集め、器の中に入れて蓋をする。互いに相食わせて、最後に残った一種をとどめる。蛇はすなわち蛇蠱となり、しらみはすなわち虱蠱となる。もって人を殺す。飲食とともに腹の中に入り、五臓を食らう。死んですなわち蠱主の家に生まれる。三年他人を殺さず、すなわち畜者(蠱を飼う者)自らその弊をあつめる。子孫代々途絶えることはなく、女子が嫁となって出ていくと、(蠱も)それに従う」。

 北朝と隋代に流行した猫鬼術は生命を害し、財産を移す蠱術である。(後述)

明代のチュアン族(壮賊)の女性は蠱術を用いていた。「蠱ができあがると、それを食べ物に入れた。すると味が百倍増した。(蠱が当たった者は)家に帰り、数か月、あるいは数年たち、心臓や腹部に激しい痛みを覚えて死ぬ、それは家の中の物に潜り込んで移動する。魂(亡魂)はある家に至り、使役させること、まるで虎の手先[倀鬼]となったかのようである。

 清人はつぎのように記す。「およそ蠱を飼う家は、かならず蠱神に誓いを立てて言う、願わくは、この生を富あるものにせよ、と。被害者は心の油断をつかれる。蠱によって人は死ぬのである。死者の家の財産はことごとく蠱主の家に運ばれる。死者は蠱によって蠱家の役鬼となる。男は耕し、女は紡ぎ、日常生活につかえる。命令があれば身を投げ出す。蠱主の意のままにならないことはない。虎の倀と同様である」。蠱は死者の財物に潜りこみ、被害者を使役鬼として耕作や織物をやらせる。こうして蠱を飼う者は、人力を用いなくても、倉は粟(あわ)でいっぱいになり、箱は絹織物であふれる。移財役鬼の蠱術は、伝説によってはさらに信じがたいほどばかげている。ある人は言う、「雲南人は家ごとに蠱を飼っている。蠱鬼は金銀の糞をするので、それでもうかることができる。男子を食べた蠱鬼の糞は金で、女子を食べた蠱鬼の糞は銀である」。移財役鬼のことを知らないため、蠱が金銀の糞の虫になったとも考えられた。

 

(4)

 古代の蠱術の種類は多いが、そのなかで比較的影響力の大きい者を以下に列挙しよう。

<蛇蠱> 

 干宝が言う「代々蠱をなしてきた」の廖氏が飼ってきたのは蛇蠱だった。のちに廖家に嫁入りした女性は内情を知らなかった。「たまたま家人がみな出払い、彼女ひとりが留守番をすることになった。家の中に大きな甕(かめ)があった。なかを覗いてみると大蛇がいた。彼女は熱湯をかけてそれを殺した。家人が戻ってくると、彼女は起きたできごとについて説明した。それを聞いて家人はおおいにあわてた」。しばらくすると廖家の人はみな伝染病にかかってしまい、みな死んでしまった。鎮物(厭勝物)と呪術師の匠の交感とおなじで、魏晋人は蠱と蠱主の運命の間には緊密な関係があると信じていた。蛇蠱もその例外ではなかった。

 隋代の医術家は中蠱[蠱の被害にあっていること]症状の相当細かいところまで分析している。彼らが言うには、蛇蠱患者の顔面が青黄色になり、腹の中が熱を持ちもだえるほど苦しくなり、舌の根が腫れて固くなり、ことばが出なくなるなどの症状を呈した。唐代の医術家が言うには、中蠱者が死ぬとき、蠱虫は「みな九つの孔から、あるいは脇の下の肉から出ていく」という。こうしたことから推理するに、蛇蠱患者の体内にはかならず蛇の活動があったはずで、患者が死んだとき蛇は体内から這い出して飛び立ったはずである。古代人はまちがいなくこのように理解していただろう。

 五代の王仁裕の『玉堂閑話』には「釘匠」が蛇蠱患者の口から蛇をつまみだした話が書かれている。また自称「蠱毒を出すことができる」医者についても書いている。彼は蛇蠱がとりついた女性の口から「長さ五から七寸の蛇」[15~20センチ]をとらえた。[訳注:私はミャンマーでこのような呪術師に会ったことがある。彼は患者の喉にピンセットを入れ、タール状のものをつまみだし、それが病気を起こしていたと主張した。昔の中国ならそれを蠱と呼んだだろう] 

 この蠱治療法は劇のようなところがあるが、蛇蠱患者の体内に生きた蛇がいると信じられている。しかし実際は存在するという観念があるのだ。

 

(5)

<犬蠱> 

 『捜神記』巻十二に、陽の趙寿は犬蠱を飼っていた。陳趙寿を見に行くと、大型の黄犬の群れが六つか七つ、狂ったように吠え立てて真正面から迎えた。干宝の叔母は趙寿の妻と一緒に食事をしたあと、家に戻ると吐血が止まらなくなった。桔梗湯を飲むとようやく回復した。この種の犬蠱は狂犬病ではなく、犬の形をした蠱、あるいは蠱が変成して狂犬になったと考えられる。清光緒年間に刊行された署名然犀道人の『駆蠱然犀録』は述べる。「近頃毒蠱がはやっている。犬(狂犬)は昔と比べると多い」と。狂犬はどうやら毒蠱の一種らしい。晋人の犬蠱に対する見方はおなじとはかぎらない。

 

<猫鬼> 

 隋代の医術家いわく、「猫鬼とは狸など野生の動物の精である。変じて鬼(水怪)となり、人にくっつく。人畜に仕えるのは、蠱が仕えるのとおなじで、毒でもって人を害する。その病状は、心臓や腹部に激しい痛みを感じ、内臓を食べられ、血のかたまりを吐いて、死ぬ」。猫鬼は虫の類ではないけれど、飼い方と性能は毒蠱とおなじである。

 隋文帝の時、独孤陀(どっこだ)が猫鬼を使って財を移して人を害する一案が発生した。独孤陀は独孤皇后の異母弟で、妻楊氏は楊素将軍の異母妹だった。独孤陀の母と外祖母高氏は猫鬼を作り出し飼っていた。独孤陀はその影響を受け、「性(さが)、左道を好む」と言われた。この案件が発覚する前、ある人が高氏は猫鬼を用いて人を殺している、また猫鬼はすでに独孤陀家に入り込んでいるという情報が寄せられたが、隋文帝は信じなかった。のちに独孤皇后と楊素の妻が同時に発病したので、医師らが診たところ、彼女らは猫鬼の疾にかかっていることがわかった。文帝は寄せられた情報のことを思い出し、独孤陀夫婦と皇后、楊素がひとりの母親から生まれたのではないことに思い至り、猫鬼が独孤陀から来たのではないかと疑うようになった。

調査が一段落ついたところで、独孤陀の婢女(はしため)の徐阿尼(じょあに)が真相を供述した。徐阿尼は独孤陀の母の家からやってきたのだが、いつも猫鬼を作っていた。「その猫鬼は人を殺し、死人の家の財物に潜り込み、畜猫鬼家に移動した」という。

あるとき独孤陀は酒を飲みたいと思い、妻の声でお金がないことを訴えると、独孤陀は徐阿尼に言った。「猫鬼に命じて越公(楊素)家に行かせ、お金を調達させなさい」と。阿尼は呪文を唱えて呪術を施すと、数日後、猫鬼は楊素家に飛び込んだ。

開皇十一年(591年)、独孤陀は阿尼に命じた。「猫鬼に皇后のところへ行かせよ。そして多くのものをわれのものとせよ」と。この阿尼によって猫鬼は宮廷内に引き入れられたのである。

また楊遠という者がいて、かつて徐阿尼が猫鬼を呼ぶところを目撃している。夜間、阿尼は香粥を置き、盆を匙で叩きながら呼んだ。「猫女よ、宮中のどこにいようとも、おいで」。しばらくたって徐阿尼の顔が青くなり、何かを引っ張っているように見えた。口では「猫鬼はすでにやってきた」と唱えていた。この案件は詳しく調べられ、文帝は独孤陀を平民に落とし、楊氏を罰して尼姑(あま)とした。これが開皇十八年(598年)のことである。

事前にある人が告訴して言うには、母がある人の猫鬼によって殺されたと。隋文帝は、これは妖術であり、実際に起きたことではないと認識し、怒って訴えられた人を捕まえた。独孤陀の案件が終了すると、文帝は一連のできごとは猫鬼妖術によって起こされたことと認識した。同じ年の四月、「猫鬼を飼うもの、蠱独、厭媚、野道をなすものは四裔[幽州、崇山、三危、羽山という四つの遠い地]に投じるべし」と書かれた詔書を頒布した。

 清代の学者は猫鬼病が記載されている例として「思うに、これがあったのは周、斉の時のみ」で、猫鬼は「南北朝の時の鬼病で、唐代以降は聞くことがなかった」という。この推量はおそらくそのとおりだろう。唐代の『千金要方』『千金翼方』『外台秘要』などの医学書に猫鬼病の治療法が記載されているが、唐代には参考用の文献は存在していたのだろう。

 

(6) 

<野道> 

 野道は無主遊蠱(所有者のいない、ふらついている蠱)のことを指す。その活動場所が田畑や道路であることから「野道」と呼ばれる。『隋書』「地理志」に言う、梁朝侯景の乱のあと、蠱主の大多数が滅び、多くの所有者のいない蠱が「道路に飛んでいった」。隋開皇十八年の詔書によって「野道」の行を禁じた。唐代の医学書には少なからず野道の治療の仕方が書かれている。その治療法の多くは猫鬼の治療の仕方を兼ねている。

 

(トカゲ)蠱と蜣螂(クソムシ)蠱>

 蜴蠱、すなわち蜥蜴(トカゲ)蠱、百虫が互いに食い争ったあとただ一匹残ったトカゲである。蜴蠱患者の顔の色が赤黄色で、腰や背中が重くなり、舌の上にできものができるなどの症状が現れるという。蜣螂蠱患者の顔色は青く、毒ができて蜣螂(クソムシ)に似たものを吐きだす[澤田瑞穂はうじむしと訳しているが、その根拠を私は確認できていない]。文献に記載されているものを見ると、これらの症例はそれほど多くない。

 

蛤蟆(かえる)蠱>

 隋代の医術家が言うには、「顔色は白く、青い。おなかが膨張し、さながら虾蟆(ヌマガエル)のようである。もし成虫であれば、オタマジャクシのような形のものを吐きだす。これが蛤蟆蠱である。「蛤蟆蠱の特徴は蛤蟆が精怪となることである。袁牧『子不語』巻十九「虾蟆蠱」には、ある人の頭のてっぺんから生きたカエルが出てきて人を怖がらせたという話が記されている。民間の蛤蟆蠱が持っている神秘的なイメージを反映している。

 

(7) 

 宋代から始まったのだが、畜蠱者(蠱を飼う者)は送蠱(蠱を送り届ける)の法をよく用いるようになった。蠱主は蠱と財物をいっしょに道路上に放置した。拾った者は望んでもいないのに畜蠱者の仲間入りをすることになった。

送蠱活動には送蛤蟆蠱も含まれていた。清人はこれについてきわめて詳しく描写している。「閩(びん)に虾蟆蠱があった。金蚕蠱とほぼ同じである。これに仕える者はつねに富を得ていた。それが来ると、人は道路のそばにたくさんの金帛を見た。それは送蠱だったのである。財をむさぼる者は帰ることによって蠱につかえることになった。蠱もまた従ったのである」。

送蠱者は小さな本を贈った。その本には事蠱の法(蠱につかえる法)と行蠱の術(蠱術)について紹介されていた。養蠱者(蠱を養う者)の家はよく掃除して、清潔にしなければならず、外来の宗教は信じず、ただ蠱神のみを信奉した。

「金の日になるたび、蠱神は白鳥矢のごとき糞をした。それを毒として用いて人を害した。庚辛申酉の日以外は蠱術を実践することはなかった。その毒(蠱毒)に当たった者はまずくしゃみをした。すると虫が百節五臓に入った」。

大晦日が来るたび、事蠱の家(蠱に仕える家)は鶏を生贄として蠱神を祀り、蠱主の夫婦ははだかで蠱神に向か会って礼拝した。彼らは中蠱者(蠱毒に当たった者)の数や身分を根拠として、蠱神への勘定を清算した。

「蠱の値段は、役人が銀五銭、秀才銀四両、官長銀五十両に相当する。蠱に当たった者の数が多ければ利益が大きく、少なければ小さい」。

もし蠱主が蠱を飼うことに嫌気がさしたなら、二倍の財物を蠱に送り届ければ、貪昧なる者はこれを信奉することをやめることができた。

 

(8) 

<金蚕蠱> 

 伝説によれば金蚕蠱の形状は蚕そのもので、体全体が金色に輝いている。唐代の人は、金蚕蠱は「指輪のように曲がることができ、蚕が葉を食べるように緋色の絹の錦を食べる」。ゆえに食錦虫とも呼ばれる。

 金蚕蠱術は宋代にもっとも流行した。宋人蔡絛は言う、「金蚕毒は蜀中にはじまって、湖(湖北湖南)広(広西)閩(福建)粤(広東)に浸透していった。この地方に行くのに「金蚕に嫁ぐ」という言い方があった。宋人の小説にはつぎのような話が書かれている。鄒閬(すうろう)という者が数十個の銀器が入った小さな竹かごを拾った。しばらく待っても誰も取りに来ないので、そのかごを持って家に帰り、妻に言った。「原因がないのにこれがここにあったということは、上天からの贈り物ではなかろうか」話し声が急にやんだ。腿の上で何かがうごめいていたからである。よく見るとそれは金蚕だった。いろいろと考えをめぐらしたが、解決しなかった。座っても寝ても不安だった。友人は彼にこれは金蚕蠱である、蠱を飼えばたやすく金持ちになれるぞ、と言った。鄒閬はしかし良心にそむくことをしたくなかった。拾った物の何倍もの価値のあるものを得ることができたが、手放してしまった。それで金蚕の嫁になるほどの財力はなかった。このため鄒閬箱の話をこれ以上したくなかったので、遺言を書いて金蚕を飲み込んでしまった。意外にも彼はこれで死ぬことはなく、むしろ長寿を享受することができた。

 金蚕蠱術は宋代やそのあとの時代の医学書にも反映している。南宋法医学家宋慈曽は、検死のときどうやって金蚕蠱毒を識別するか示した。彼が言うには、金蚕蠱によって死んだ場合、「死体はやせ衰え、全身が黄白色になり、眼窩がくぼみ、歯が露出し、上下とも唇が縮み、腹部もくぼむ。銀釵(ぎんさい)検査によって濃い黄色になり、角(さいかち)を用いても洗い落とせない」。また別の説でも、身体が膨張し、皮膚の肉がやけどを負ったかのように気泡が出て化膿し、舌、唇、鼻が破裂する。「これは金蚕蠱毒の症状である」と述べられている。巫術によって人命が奪われたと認定されれば、人々は巫術の被害者の遺体からさまざまな証拠を探し出すことができる。法医学をもってしても、それからのがれることはできない。

 

(9) 

<蜈蚣(ムカデ)蠱>

 洪邁『夷堅志』巻二十三「黄谷蠱毒」の条につぎのように記されている。「福建諸州の多くの人は蠱毒を持っている。なかでも福州の古田、長渓には多い。四つの種類の蠱毒がある。それは蛇蠱、金蚕蠱、蜈蚣蠱、蛤蟆蠱である。みなよく変化し、姿を隠していて、めったに現れない」。これによるとこれら蠱虫には雌雄があり、定期的に交わるという。交合する日、すなわち蠱神が降臨するとき、畜蠱の家(蠱を飼う家)は迎える準備をしなければならなかった。お盆とそれに湛える水はかならず置かなければならなかった。雌雄の蠱神は自ら飛んできて水中で交合し、あらたな毒が生まれた。蠱主は針の目で水面に浮かんだ蠱毒を取った。それは一日のうちにかならず人身に施す必要があった。「一夜を過ごすと、(蠱は)生きていけない」と言われる。これにより、もし友人が訪ねてきても、蠱主は情をかけて蠱術を施す対象を選んではいけない。実際来客がなければ「すなわち家の中のひとりが請け負うことになる」。蠱虫が人の腹の中で成長すると、中蠱者(蠱毒の患者)はすさまじい苦痛に襲われ、最後には悲惨な死を遂げることになる。「臨終の日、さまざまな形の数百の虫が目、耳、鼻、口から湧き出してくる」。中蠱者は死んだあと、霊魂は蠱神のところに行って拘束されるので、人として転生することはない。ただ蠱主のために尽くすだけになる。それは「虎の食倀鬼同然」である。「死者の屍を火葬にしても、心肺だけは残るという。それはさながら蜂の巣のようである」。以上は洪邁が漳州の蠱毒の事例に関して信仰者もよる語り口で描写したものである。蜈蚣蠱は蠱毒の一種だが、ほかの蠱毒も似たようなものと考えられる。

 注目に値するのは、洪邁が記述するように、本章第5節(偶像呪詛下)の王万里が取り上げた生妖案と蜈蚣蠱案件がよく似ていることである。この案件は宋人の蠱術の迷信を反映している。ここで煩瑣になるのを恐れず細かく見ていこう。

 宋孝宗淳煕二年(1175年)、古田の人、林紹先の母黃氏が中毒になり、命の危険にさらされた。親族のなかには伝統的な方法で病状を探ることを求める者があった。「もし中蠱であるなら(蠱に毒されたなら)床の簀(すのこ)を焼いてこれを照らせば、かならず自ら話すだろう」。この方法を実際やってみると、林の母は病気の原因について話し始めた。

 某年某月某日、黃谷の妻頼氏はある物を通じて私に蠱術をかけてきた。黃谷夫婦は蠱神を信仰していて、現在も彼らの家の戸棚の中にいる。林紹先はそれを聞いたあと、保甲[保甲制度は宋代の戸籍管理システム]の頭目にそれぞれ千人集めて黃家の捜査に当たるよう命じた。その結果黃家の棚にいくつかの証拠を捜し出した。それは銀飾の錠、五色の糸の付いたポアポエ(環、擲)、七孔の小箱、片面ずつ「五逆」「五順」と書かれた将棋の駒、合計百本の針が入った袋(十一本は針穴なし)である。官府は黃谷を捕え、厳しく尋問した。ただし刑を執行するとき、黃谷はいつも死んだふりをして、執行者が手を緩めるとすぐに目を覚ました。まるで暗闇の中で鬼が助け合っているかのようだった。のちにこの案件は官府に報告されたが、審理を担当した主簿[文書を扱う官吏]の余靖は黃谷をどうすることもできなかった。余靖は憤懣やるかたなく、また黃谷が運よく無罪になった場合のことを恐れ、怒りに任せて鋭利な刃物で黃谷の首を斬ってしまった。そして黃谷の首級を官府に差し出し、自ら処分を願い出た。官府の長官はこの状況を朝廷に報告すると、朝廷は提点刑獄司の謝師稷に特命を与え、調査させた。謝師稷とその他の官員が黃谷の未亡人である頼氏に問いただしていたとき、家の中から何匹かの大ムカデが這い出てきた。謝師稷は言った。「これで証明された」。頼氏は連行され、尋問はさらにつづいた。三日後頼氏は罪を認め、死刑に処せられた。

 

(10)

 黃谷家の家から発見された数個の物証にはどんな罪状があるとみなされているのだろうか。当時の人の解釈はつぎのようになっている。

①「五順」「五逆」と両面に書かれた将棋の駒は、黃氏夫妻が蠱術をおこなうときの占いの道具である。駒の片面に「順」とあるのは当日外来の客人に蠱術を施すことを示し、「逆」とあるのは「本家の一人が受けることを推進する」ということである。

②針鼻(針の穴が開いている頭の部分)のない針は、蠱毒を取る道具。蠱家は水面に浮かぶ蠱毒を針眼で取ることを学ぶ。このあと針眼は棄てる。11本の眼のない針が見つかったということは、黃谷がすでに11人の命を害したということである。

③五色の糸は蠱の食べ物。「蠱は喜んで錦を食べる。錦が得られないなら、これを代わりとする」。すなわち五色の糸は錦の代用品である。

④銀飾の錠は、蠱に嫁ぐとき別の人を誘って蠱の財物を拾わせるのに用いられる。「毒を他家に分けるためにこれを捨てる。得をしたと思って拾うと、鬼もいっしょに拾ってしまったことになる」。このように蠱術を信仰する者は、物事をきめこまかく見ていると解釈される。すなわち十分に黃谷の罪を証明することができる。この件が片付くと、人々は競うように訴え始めた。だれもが「(黃)谷は罪人であり、天とも通じている」と認識した。余靖は民から害を取り除き、はなはだしい功績があった。賛美する詩が作られ、その名は永遠に記憶されることになった。

 現在からこれらの「証拠」を見ると、一つとして成立するものはない。駒を使った占いは一定ではなく、蠱の実施を占うことは、現在普通に見られるコイン投げ(表か裏か)と蠱を飼うことが無関係なのとおなじである。目のない針は、女性用の壊れた針である。五色の糸や銀飾の錠はよくある装飾品である。これらが蠱を飼っていることを意味するというのは、ムカデを見ればその家でムカデを飼い、蜈蚣蠱をやっているとみなすのとおなじである。これらはみな信仰からはじまって罪を作り上げている典型的な事例と言えるだろう。

 

(11)

<虫蠱> 

 虫蠱とは、清代の一定の地区で蛇蠱以外の比較的小さくて数の多い毒虫の蠱の総称である。道光年間、江西興国県に虫蠱事件が同時に発生した。それは近隣の県にも動揺を与えた。この事件の犯人たちはつぎのように供述している。

「蠱には三種ある。瓜、虫、蛇の三つである。瓜蠱は下が瓜の形をしていて、ナツメや栗ほどの大きさ。蛇蠱は蛇の形をしたもの。回虫を思わせる。虫蠱は小さい蛇のようで、数が多いものをいう」。

 

<疳蠱> 

 清代『験方新編』巻十五にいう、「匪賊の人たちは、疳蠱を放卵、放疳、放蜂などとも呼ぶ。この習俗は両粤(広東と広西)に多く見られる。端午の日、ムカデと小蛇、蟻、蝉、ミミズ、ゲジゲジ、頭髪などをいっしょにすりつぶす。その人はつねに小さな五瘟神像を彫っていて、家の中あるいは棚にそれを祀り、毒薬を神前に置いた。蛇蠱などの粉末をごはんやおかず、酒の中に入れ、人が食べたり飲んだりする。あるいは路上に粉末を撒くと、踏みつけた人の体内に入り、内臓の表面にこびりつく……」。

こうした虫蠱、疳蠱は跡をとどめない伝説中の猫鬼、金蚕蠱とは似ておらず、毒薬と巫術の混合であることがわかる。

 

<飛蠱> 

 飛蠱とは、飛行できる毒蠱のことである。唐人張(ちょうさく)はかつてこう言った。江嶺(長江と南嶺)の間には有声無形(鳴き声は聞こえるが姿は見えない)の飛蠱がいて、自ら生まれた(人が作ったものではない)蠱である。蠱術で使用する蠱の大半が飛蠱だという。

明人の露(こうろ)は言う、蛇蠱、(トカゲ)蠱、蜣螂(クソムシ)蠱はひとたび形成されると「その後夜に外に出て、彗星のように光りながら飛んでいく。これを飛蠱と呼ぶ。光の積み重ねから影が生まれる。さながら人が生きているかのよう。それは挑生(生に挑む)と呼ばれる。影の積み重ねから形が生まれる。人と交わることができ、金蚕と呼ばれる。氏は毒蠱に高次の、あるいは低次の変幻自在の形を与える。飛行するという点からいえば、挑生も金蚕も飛蠱である。

清代の東軒主人はつぎのように書く。沈心涯は浙江の開化に行って官吏となった。ある夜、堂の中に坐していると、空中に彗星のような流れる光を見た。現地の風俗をよく知っていた彼はこう言った。

「これは飛蠱というものだろう。蛇蠱かもしれない。蠱を飼う家は蠱神を信仰し、富を得る。ただし蠱家の妻は蛇とかならず姦淫している。蛇は毎晩外に出て遊ぶ。彗星のごとく光り、人の少ないところでたまたま出くわすと、人は脳を食べられてしまう」。その形から蛇蠱と呼ばれ、性能から飛蠱と呼ばれる。飛蠱とその他の蠱を合わせて飛蠱という総称で呼ばれる。

 古代の医学書を読むと、沙射人影を含む射工(、短狐とも)に関する記述がととても多いことに気づく。医学書の多くはそれらを蠱毒に分類する。『諸病源候論』巻二十五、『本草綱目』巻四十二にはこれらについて詳細に描かれている。それによると射工は鬼怪の性質があるものの、人力でない力によって蠱が飼われ、コントロールされていることがわかる。つまり巫術的性格の蠱とはおなじでなく、伝説の鬼と化した自然発生的な毒虫である。

 古代の各地の蠱術の名称は定まっていない。たとえば清代の広東香山一帯では、蠱術は鬼薬や挑生と呼ばれた。このような分析され、影響が比較的大きな蠱種を除くと、じつに多くの蠱の名前がわかっているが、内容不詳のものが多い。たとえば『本草綱目』が示す螞蝗(ヒル)蠱、草蠱、明人張腫[に腫]『渾然子』が示す鼠蠱、鴆(ちん)蠱などがそうだ。古代には百蠱と呼ばれることがあった。毒蠱と蠱術を分類し、すべてを挙げるのはむつかしいのである。