古代中国呪術大全 宮本神酒男訳 

3章 
8 蠱術(下) その解き方 

 

(1)

 蠱術を使って「謀財害命」(財物を略奪し命を害する)するという犯罪活動が出現して以降、国家はそれを厳しく取り締まってきた。『漢律』中に「蠱を実行した者、あるいは命じた者は棄市(市での処刑)に処せられる」という条文が載っている。

北魏の法では「蠱毒を成した者は男女とも斬刑に処せられ、その家を焼かれる」となっている。

隋文帝は畜造猫鬼を命じ、蠱で人を害した者は蛮族の荒廃した地に流刑になった。

唐・宋代から明・清代にかけての法律では毒蠱を罪は十悪不赦の大罪の一つとされた。畜蠱を成す者、あるいは畜蠱者をそそのかした者は死刑に処せられ、家族は流刑になった。財産は官庁に没収された。犯行を知りながら見逃していた官吏も罪に問われた。

宋太祖乾徳二年(964年)朝廷は永州(湖南省)の各県の三百以上の畜蠱をおこなう者を誰も住んでいない僻地に流刑させた。彼らが故郷に戻ってくることは禁止された。

宋仁宗福建の刑事事件の報告を受けているとき、この地方に蠱毒事件が多いことに気が付いた。ついに慶暦八年(1048年)各種の蠱を治す方法を『慶暦善治方』にまとめて公布した。

 

(2) 

 蠱を飼い、人を害するのは特殊な犯罪活動であり、官符はこれらの人々を斬首、絞首、追放などの刑に処するほか、特殊な方式で罰することがあった。北魏の法律のなかで蠱主の居室を焼き払うのは徹底的に毒素を清掃で除去する規定という意味があった。この種の処罰は一種の宗教巫術だった。明、清人の伝説では、蠱を飼う人々の大多数が特殊な能力を持っていて、一般的な刑罰で彼らに制裁を加えても、こらえることができるので、いかなる損傷を与えることができなかった。

 『述異記』が言うには、福建尤渓県で逮捕された畜蠱者(蠱を飼う者)は悪びれることなく犯罪行為を自白した。官吏は棍棒で彼をたたき、板で百回ぶったが、痛がる様子は見えなかった。のちに彼は監獄からミステリアスに逃走し、官吏は家まで行って捕まえたがすぐに逃げ出した。こうした「経験」から官吏たちは巫師に「治蠱」のやりかたを教えてもらった。しかし巫師の懲罰はいっそう残忍なものだった。

 明人の露は言った。壮族(チワン族)地区の「官」提陀潜は当地に蠱術が流行していることを知り、巫師に呪術を使って鎮圧するよう命じた。蠱をおこなう女たちを捕まえ、体を土に埋め、頭だけ露出させた。そしてロウソクの蝋(ろう)を頭に垂らし、火をつけて燃やした。彼らは蠱によって死んだ死者の魂を招き、蠱を飼う者にたしかな死をもたらすことができる。魂がまだ至っていないと認識すれば、壮族の女性で代わりになる者を探し出し、蠱を飼う者を痛罵させた。罪を犯した者は徹底的に罰せられる必要があった。 

 官府が蠱術活動に対して打撃を加えることができるのは、犯罪が事実として認定されたあとのことである。しかもただ脅すことができるだけで、蠱を解くことはできず、蠱の被害を受けた人の生命を取り戻すことはできなかった。

蠱術がさかんになるにしたがい、民間医師と巫覡(ふげき)は治療法を模索し、だんだんと蠱術を解く呪術を発見していった。これは人を害する役鬼を解毒するという特殊な呪術である。蠱を治す呪術はさらに医学的色彩を帯びていた。蠱を治すとき、しばしばそれが純粋な呪術なのか、純粋な医術なのかを判別するのがむつかしかった。というのも大半はその両方の要素を兼ね備えていたからである。

 

(3) 

 古代に流行した呪術的な治蠱法には、霊物や呪語が主に用いられた。ほかにも埋蠱などの予防諸法には巫術的性質があった。一般的な治蠱霊物や治蠱法にはつぎのようなものがある。

<ミョウガ(蘘荷)> 

 『周礼』中に庶氏は「毒蠱を駆除するために、攻祭と説祭によって、また嘉草を用いて(駆除)する」とある。この嘉草とはミョウガ(蘘荷)のことである。干宝は言う、「今の世において蠱を攻めるのに、多くはミョウガの根を用いる。たいてい効き目がある。ミョウガ(蘘荷)は嘉草ともいう。ミョウガはふつうの薬物と違い、蠱毒の患者に蠱主の名を叫ばせることができた。

干宝はまたいう。蔣士なる人物の使用人が「得疾下血」(病を得て下血)し、医者は中蠱(蠱病)と診断した。「ひそかにミョウガの根を寝床の敷物の下に置く」と、しばらくして患者はわめきだした。「われに蠱を食べさせた者、それは張小小であるぞ」。蔣士は尋問するために張小小を捜させたが、張はすでに恐れて逃走していた。

葛洪『肘後方』は結論を述べる。「中蠱者はミョウガの液を服用するか、その葉の上に寝れば、蠱主の姓名を呼ぶ」。ミョウガで蠱毒を治療する方法は、歴代の医術家も認めていた。

 

<敗鼓の皮> 

 医術家によると、破鼓皮(破れた太鼓の皮)はミョウガといっしょで、中蠱者(蠱の患者)に蠱主の名を呼ばせるという。葛洪の治療法にも「蠱主の姓名を知る治療法」というのがある。「鼓皮を取り、少し焼いてその灰を粉末にし、病人に飲ませる。病人はすぐに蠱主の姓名を呼び、病は癒える」。孫思(そんしびょう)はさらに詳しく述べている。孫氏が言うには、一部の中蠱者の病気の原因は自ら生まれた蠱によるものでなく、人によって飼われていた毒蠱によるものである。この種の蠱疾を治療するには、服薬と同時に蠱主の姓名を知る必要がある。そして蠱主には毒蠱を召喚させねばならない。「蠱主の姓名を知りたければ、敗鼓(ぼろぼろになった太鼓)の皮を焼いて灰を作り、その粉末を小さじ一杯飲ませると、蠱主の姓名を呼ぶ。そして(蠱主に)去るよう命じ、病は癒える」。

 

<鶏> 

 鶏の一般的な意味は辟邪霊物であり、同時に厭勝蠱疾の専用霊物である。鶏はよく虫を食うので、鶏の治蠱法は当時導き出すのはむつかしくなかった。孫思の記録によると、「禁蠱毒法」とは、赤い雄鶏を一羽用意し、巫師は左手に鶏を持ち、右手に刀を持ち、患者の家の門の前まで歩くと、軒下から三歩離れたところで「門尉! 戸丞!」(門丞、戸尉が一般的)と三度叫ぶ。そのあと鶏の頭を伸ばして病人の口の中に入れる。同時に念じる。「某甲(病人の名)病蠱、当令速出、急急如律令!」[急急如律令は法律のごとくすみやかに執行することを命じるという意味だが、やや曖昧]呪語を三度唱えると、刀で鶏冠(とさか)を裂き、鶏血を苦酒にそそぐ。病人がこの鶏血酒を飲めば、蠱疾は治癒する。

 もうひとつの治療法はつぎのとおり。(カシワ)の背陽皮(陽が当たる側の樹皮)と桃木の根の皮をよく煮て濃い汁を作る。それにハリネズミの皮の(焼いて作った)灰、乱髪草(草)の灰、生麻子(熟していない麻の種)の汁を入れてよくかきまぜる。早朝、中蠱者(蠱の病人)は空腹の状態でそれを服用する。しばらくすると患者は嘔吐する。嘔吐物が入ったお盆に向かってニワトリの翎(はね)を投じると、さまざまな形をした蠱虫が湧き出てくる。

 この治療法は鶏の翎(はね)を用いたものというより、鶏が蠱を制するという観念を反映したものである。古代の医術家は発熱した白鶏の血が百蠱の毒を解除できると信じていた。

 またある人によると、ひとりの異人(親戚でない他人)がつぎのような治蠱法を伝授したという。「蠱者の家に行くとき、鶏を持って門に入ります」。蠱主は訪ねてきた者が鶏を持っていることを確認すると解薬を手渡した。説明する必要はなく、多言は要しなかった。訪れた者はご飯を食べたあとこの薬を服用した。こうして蠱の病にかかる心配はなくなった。

 

(4) 

刺猬(ハリネズミ)>

 孫思が述べるようにハリネズミの皮の灰は蠱病の治療に用いることができる。ハリネズミが蠱を制するという観念は相当古くからあった。宋代の人は、ハリネズミは金蚕蠱の天敵と考えていた。蔡條は郁林州長官から聞いた話を紹介している。福建路の福清県のある人が金蚕蠱を飼っているとして某家を訴えた。官吏が捜査に行ったが、証拠を見つけることができなかった。そこである人が策を献じた。「二匹のハリネズミを投入してください。かならず捕えてくれるでしょう」。実際その策を実行すると、ハリネズミは寝床の下から金蚕を見つけた。当時の人は「金蚕はハリネズミを恐れる。ハリネズミが家に入ると、金蚕は動こうとしない」と考えた。抵抗されることはなく、すぐ捕まえることができた。この奇妙な方法をのちの学者は珍しく尊いものとみなした。知恵を使った伝統的な厭勝法の中に「ハリネズミ金蚕蠱を制す」という項目があり、李時珍は「ハリネズミ金蚕蠱を制す」伝説について詳しく記録し、金蚕蠱を治療する薬の中でハリネズミの皮がもっとも効力があると述べている。

 

玳瑁(タイマイ)> 

 タイマイは海中の生き物で、形は亀に似ている[ウミガメの仲間]。生きたタイマイからはぎとった甲羅には解毒と辟邪の効能があるという。劉(じゅん)『嶺表異録』に言う、ある人が左腕にタイマイの甲羅をつけていて、それで毒を避けることができた。ある人は言う、「飲食のなかに蠱毒があるなら、タイマイの甲羅が自ら揺れ動く」。宋仁宗のときの政府(朝廷)が頒布した医学書『図経本草』に言う、タイマイの甲羅を「すって作った汁を飲めば蠱の解毒ができる。生きたまま身に着ければ、蟲毒を逃れることができる」。タイマイの甲羅を生きたまま身に着ければ、それは巫術である。

 

<糞汁> 

 晋人張華は「婦人の月水(月経)および糞汁を飲む」、そうすれば交州夷人の矢毒を解くことができる」と主張する。蠱疾と中毒は似ていて、医術家は蠱毒の解毒用につねに糞汁を用いるという。『千金方』に言う、蟲毒に当たったら、「人の大便を少量七個、こんがりと火の色になるまで焼き、水の中で溶かしてそれを飲めば、癒える」。また強調して言う、「この治療法を軽く見てはいけない。きわめて神秘的に効果がある」。『述異記』に言う、中蠱者(蠱を病んだ者)は「自らを糞壺に投げ入れるだけでよい。ゆっくりと毒は解けていく」。糞汁治蠱法は古代の汚物駆邪術の一種である。

 

<蠱でもって蠱を治す> 

 陳蔵器『本草拾遺』に「蠱でもって蠱を治す」についての詳しい論述がある。二つのレベルのことが相互に関連しているとそこでは述べている。第一に、捕えた蠱虫をさらして干し、薬となったものを中蠱者(蠱の患者)に服用させる方法。陳氏は言う。「古人は愚かで、蠱をたっぷり作ろうと考え、百虫を甕野中に入れ、何年もたってから開ける。するとかならず一匹の虫が他の虫を食べつくして生き残っている。これを蠱と名付ける。鬼神のように姿を消すことができ、人に禍をもたらし、最後には虫鬼になる。人を噛み、その人が死ぬと、体の穴という穴から(蠱が)出てくる。しばらく待ってからこれらを太陽のもとにさらして干す。蠱を持つ人はこれを焼いて灰にし、服用する。するとたちまち癒えるという。またこの類の蠱は互いをねじ伏せようとする」。第二に、薬を作るのに用いようとする蠱は、患者体内の蠱虫を制圧するに足る強力なものである必要がある。陳氏は言う、蠱疾を治療するのに用いる蠱虫は、人を害した蠱とおなじ種類でなくてはならない。人を害する蠱虫の名称を知っていれば、それを根拠にして、蠱には蠱の原理で、対症の薬を処方することができる。蛇蠱の治療に蜈蚣(ムカデ)蠱虫を、蜈蚣蠱の治療に蛤蟆蠱虫を、蛤蟆蠱の治療に蛇蠱の虫を用いるようなものである。蠱虫が「相伏」(互いに伏せようとする)の原理を用いた薬であり、蠱疾はすべてこれで治るはずである。陳蔵器は「鬼神のように姿を消す」毒蠱をどのように入手するか説明していない。蠱病の治療法はいわゆる「毒を持って毒を制す」であり、推論から出たもので、実際的な方法とはいえない。のみならず、陳氏の推論から考えるに、蠱を飼うことに先んじて、かならず「蠱でもって蠱を治す」という結論を引き出さなければならない。

 

(5)

 ここまで列挙した治蠱霊物(蠱病を治す霊的なもの)は、古代の治蠱霊物のほんの一部に過ぎない。『本草綱目』巻四に並ぶ治蠱薬物は160種以上にのぼり、そのなかには薬物とは言い難い古鏡、雄羊の角、雄羊皮、霊猫陰(ジャコウ猫の陰部)、猫の頭骨、人の歯、ふけなども含まれ、あきらかに巫術の霊物と考えられている。

古代の治蠱医術に関して注意すべき点が二つある。そもそも虫鬼を信じるのは迷信であり、よって医療といっても巫術的な色合いが濃いことになる。たとえば猫鬼を信じる人が作った猫鬼治病方はまちがいなく破解(分析解釈)巫術の巫術だ。

『千金方』巻二十五には猫鬼治病方の例が記録されている。相思子(トウアズキ)、麻子(トウゴマ)、巴豆(ハズ)、朱砂、蠟(ろう)という五味の薬を「合搗作丸」(あわせて、搗いて、丸粒を作る)する。病人にこの丸薬を一粒口に含ませ、病人を囲うように灰土を撒き、彼の前に火の着いた柴を置く。病人は火に薬を吐き、煙が上がると火の上に十字を描く仕草をする。そして「その猫鬼はじめ皆死すべし」と唱える。丸薬にはたしかに殺虫毒薬が含まれるが、その取りまとめかたは巫術そのものである。

孫思(そんしばく)は「蠟月(ろうげつ)に死んだ猫の頭の灰」を用いて猫鬼の病気を治療する方法を説明する。一方で「外出するときは、つねに雄黃、麝香、神丹ならびに諸大辟悪薬、すなわち百蠱、猫鬼、狐狸、老物精、精魅などが永遠に人に取りつかない薬を持つ」ようにする、と述べている。これらはみな解毒の作用がある。

つぎに、蠱術迷信の基礎ともいえるが、多くの人が解毒薬を用いることを神秘化している。唐代の伝説に言う、「新州(広東新興)の郡境に薬がある。地元の人はそれを吉財と呼ぶ[一説にはこの薬草を取りに行った家奴の名だという]。諸毒および蠱を解毒する。神効無比である。毒に当たった者は夜中にひそかに二、三寸ほど取って、くだいたり、すったりして、甘草を加えてこれを煎じて飲む。吐瀉すると、癒えている。

俗に言う、薬を服用することをあまり言いたくなく、そのためこっそりと取る。なぜそうなのかはわからない。またある故事によると、ひとりの老婦人が蠱病になったあと、吉財を服用した。すると夜、夢の中に蠱鬼が現れて言った。(蠱鬼の)声が言うにはこの種の薬を服用するとかならず死者が出るという。多くの人に勇気づけられて吉財湯(スープ)を飲むと、蠱疾はついに癒えた。このように蠱病の薬は薬であるとともに、鬼を倒す武器ともなった。秘密兵器を使用していることは、虫鬼に知らせてはならなかった。それゆえ吉財を取るのはひそかに行われるのであって、けっして明言してはならなかった。

 

(6) 

<呪文> 

『千金翼方』巻三十「禁毒蠱」の節には多くの種類の呪文が並んでいる。「呪蠱毒文」には「毒父竜盤推、毒母竜盤脂、毒孫無度、毒子竜盤牙。若是蛆(うじ)蛛(くも)蜣螂(クソムシ)、環汝本郷。虾蟆(かえる)蛇蜴(トカゲ)、環汝槽栃(飼い葉桶)。今日甲乙、蠱毒須出。今日甲寅、蠱毒不神(神ならず)。今日丙丁、蠱毒不行(よからず)。今日丙午、環著本主。虽然不死(死なないといっても)腰脊偻拒(腰が曲がる)。急急如律令!」と記されている。

 ほかの呪文も猫鬼など無形の蠱術を破解するのに用いられる。たとえば「天無梁、地無柱、魘蠱我者。環著本主。一更(夕暮れ)魘蠱不能行(行かず)、一午(お昼に)魘蠱不能語(語れず)。太山昴昴(泰然として)、逐殺魅光(魅鬼を殺し尽くす)。魅翁(父)死、魅母亡。魘蠱大小、駆将入鑊湯(追って大鍋の湯に入れる)。急急如律令!」など。

 宋人張が記す。ひとりの高僧が西域を旅する途中、蠱を飼う者が開いた旅店で食事を取った。食べ物が出されると高僧は目を閉じ、呪文を唱えた。しばらくすると小さな蜘蛛が何匹か碗の底から出てきて、碗の縁を這い出した。蜘蛛を殺したところ、飯を食べ終わったあと、平穏で何も起きなかった。高僧が念じたのはつぎの呪文だった。

「姑蘇啄、摩耶啄、吾知蠱毒生四角(われ蠱毒が四角を生むことを知る)、父是穹窿窮、母是舎邪女、眷属百千万。吾今悉知汝(われ今汝のすべてを知る)、魔訶薩魔訶」。僧侶の口から出たとはいえ、父母を侮辱し、家族の事情をあばく典型的な中国式呪文である。

 ほかの文献も呪文に言及している。「閩広(閩南と広東)では蠱毒を超生という。林宰家は二つの呪文を持つ。「本師未来、祖師来未、三百六十祖、莫能吾前要反生(わが前で生に反するなかれ)、急急如律令!」「本師来一、祖師来未、呪作牛、呪吃泄草入人腸、急急如律令!」

 またもう一つさらに簡単な蠱毒を予防する方法がある。それは閩広地区にまで到り、宿を借り、飯を食べる際に、まず主人に問う、「あなたの家に蠱毒はないですか」と。このように問えば、主人は蠱術をしようとは考えない。こういった質問の形式をとる呪文は明清期に広範囲で使われるようになる。

 

(7) 

<その他> 

 清人が著した『駆蠱録』が引用する「易簡方」に言う、蠱術流行地区でご飯を食べるとき、まず箸を持ってひそかに食べ物の一片を隠し持つといい。食べつくすのを妨げることはない。食後に隠した食べ物は大通りの十字路口の下に埋める。蠱は蠱主の家に戻って怪をなす。飯を食べるときまず主人に先に箸を持つよう(先に食べるよう)勧める。あるいは食べ始める前にテーブルをコツコツと叩く。すると蠱毒の難を逃れることができる。

 『駆蠱録』が引用する「峒渓繊志」に言う「蠱の禍には神助がある。夜出て死者の魂を吸い取る。彗星のごとく光り、人家に流入する。まさにそのとき防御があることを知る。蠱を飼う家はその居を清潔にしているもの。このことを理解し、(不浄にするため)女子を座らせる。そうすれば蠱の霊力がなくなる」。これはつまり、毒蠱が飛来するとわかれば、女子が座る姿を見せるとよい、それによって飛んでくる蠱の霊験が消え失せてしまうということだ。

 古代の医書には蠱薬の処方が記されている。実際それらの一部は普通の殺虫解毒法であり、巫術的な性質はない。洪邁『夷堅志』巻二十三に載っている巴豆、白ミョウバンを用いた蠱の治療法は、虫を駆除し、解毒するには十分な効力を発揮する。しかしこの推論をもとにすべての蠱薬は巫術ではないと結論づけてしまうと、あきらかに間違っている。古代人は蠱を病理的なものと理解するとともに、巫術的な現象でもあると認識していた。古代の蠱の治療はつねに二重の性質を持っていた。

 最後に強調しておきたいのは、蠱に関して論じ方が変わってきたことである。独特な異なる意見を持つ人が現れ、蠱の神秘的な威力を信じなくなった。

『夷堅三志』「壬集」巻四「漳士蠱を食す」の節には、「漳州の某士人は、衆人の前で、ひとりの蠱主が送り出した蠱の入った包みを家に持ち帰った。夜、二匹の蛤蟆(カエル)が寝床の上に座っていた。「士は酒のさかながないなあと考えた」。そこでついに「喜んでこれらを殺して煮て食べた」。「明晩、十数匹のカエルが現れたので、少しばかり取ってまたも煮込んだ。また明晩、三十匹ほど出現し、増えるばかりでありがたみがなくなった。ついには家の中がカエルでいっぱいになり、食べるどころではなくなった」。士人は胆力があふれんばかりで、人を雇ってカエルを野外に埋めると、妖異なできごとは終わった。

「士は笑いながら言った。蠱毒の霊よ、ここに終止符を打ったぞ、と。妻はカエルを防ぐためにハリネズミを買うよう求めた。士は言った。われこそハリネズミであるぞ、これ以上何を求めるのか、と。

この夫婦の考え方はまさに理にかなっていて、うるわしいと識者は考える」。いわゆる「蠱は飛行して財を移すことができる」とか「鬼魂を役使する」といった説は、このカエル[の蠱]を食べる故事の前では色褪せてしまう。


★補注(宮本神酒男) 

<苗疆の七種の蠱>

*苗彊は、湖南省湘西の臘爾山を中心とする紅ミャオ族地区と貴州省黔東南の雷公山、月亮山を中心とする黒ミャオ族地区のこと。古代からの苗(ミャオ)族の中心地区。

(1)金蚕蠱 

 12種の毒虫を容器の中に入れ、戦わせて、最後に生き残った虫から金蚕蠱を作る。この毒にあたった者は、胸や腹に激痛を覚える。またそれらが異様に膨らむ。体の七つの竅(あな)から血が流れ、死亡する。

(2)血蠱

 身内の者の鮮血と劇毒の草薬をよく混ぜて血蠱を作る。これによって蠱を放つ者は蠱があたった者の「心智」をコントロールし、傀儡とすることができる。蠱を放った者が逆に強く噬(か)まれると、寿命が急に短くなる。禁蠱(養蠱行為の禁止と処罰)のなかでももっとも危険とみなされる。

(3)万蠹土(まんとど) 

 糞便と腐った死体を混ぜ、毒物とあわせて万蠹土を作る。世の中でもっとも毒の強い蠱とされる。毒にあたったものはみな死ぬ。

(4)噬魂蠱(ぜいこんこ)

 蠱にあたった者の霊魂を噬(かじ)ると、恍惚とした状態になる。瘋狂になり、暴れまわり、最後には体が魂の抜け殻になる。

(5)蜘蛛蠱

毒蜘蛛と草薬を混ぜて蜘蛛蠱を作る。この蠱にあたった者は、体の中に蜘蛛が這うように感じる。皮膚に赤い斑点が出て、最後に内臓から出血して死亡する。

(6)蔑片蠱(べつへんこ)

 蠱薬を塗った竹片が人の体に附着すると、その人の体に激痛が走る。蔑片蠱は膝頭から体に侵入する。足が変形し、鶴のような膝になる。4、5年以内に死亡する。

(7)泥鰌蠱(どじょうこ)

 毒の泥鰌を食べた後、おなかがかきまわされたようになる。治療が遅れたら死ぬ。