古代中国呪術大全 宮本神酒男訳
第3章
10 隠身呪術
(1)
隠身呪術はおもに十分に兵禍を防ぎ、危急を救うのに必要とされ、作られるものである。その用途を見るに、御敵辟兵術(敵を防ぎ兵を退ける呪術)の範疇に入るようだ。
古代の隠身術には「坐在立亡」(坐れば姿が見え、立つと見えなくなる)と「移形易貌」の二種類があった。坐在立亡とは、公衆の面前で突然その体を消すことである。一説には隠身者はこのとき衆人のなかにいるとも、昇華して雲の上の人になっているとも、九地の下に入ったともいわれる。移形易貌とは、呪術師が本来の形を変え、草木や動物、水、火、老人、子供、女性に変身するともいう。この呪術の目的は真の形象を隠すことである。他人には識別しがたく、古代の呪術師はこれらを「隠淪(沈)の道」「隠形変化」の術と呼ぶ。
隠身術と他人を攻撃する呪術は同じではない。その宗旨は自我を改変することである。隠身術は神力を借りて、隠形霊物の力量と才能を完成させなければならない。追及するのは土行孫(『封神演義』の登場人物)式の隠遁術であり、その本質は巫術に属す。
(2)
隠身術の記述は後漢代に始まる。『淮南万畢術』に言う、「螳螂(カマキリ)が蝉(セミ)を捕えようと待ち構えるとき、木の葉で身を隠す」。セミを捕える機会を伺うカマキリは木の葉で身を隠すという特殊能力を持っている。人もある種の木の葉によって自分の体を隠すことができる。これはまさに坐在立亡[端座して念仏を唱えながら遷化すること。あるいは立ったまま合掌して往生すること]の術について述べているのである。
『淮南万畢術』にまた言う、「牛胆(胆汁)を目に塗ればそれがだれであるかわからない」と。この一節は移形易貌術について語ったものだ。
『太平御覧』はこの一節に注釈を付けている。「八歳の黃牛から胆を取り、二寸の桂を胆に入れると、百日で薬となる。巧みに刻んで丈夫の人像を作り、目の下に触れさせる。女性の像を作って頭の上に載せる。子供の姿に彫って、あごの下に置く。そして五色の袋の中にそれらを詰め込む。まず斎戒をおこなう。このことは人に知られてはいけない」。
考えるに、注釈の「巧みに」以下の文ははなはだ不明瞭だ。しかも文全体が「目に塗る」とかかわりがない。注釈の後半で「丈夫の人の像を作り」「女性を作り」「子供を作る」と述べているが、二重の意味を含んでいる。すなわち巧みに牛胆を浸した二寸の桂木を刻んで男、女、子供の形を作る。また顔を変えるのは、男、女、子供に変身するためである。男に変身するには、木を刻んで男の人形を作り、目の下を桂木で触れる。女に変身するには、木を刻んで女の人形を作り、頭の上にその桂木を載せる。子供に変身するには、刻んで子供の人形を作り、あごの下に置く。姿形を好きなように変えられるので、人には「それが誰であるかわからない」。
隠身術をおこなうには、呪術師個人は並々ならぬ巫術能力の素質が要求される。その難度も当然きわめて高い。前漢以前はこの法術はほとんど見られなかった。呪術師が関心を寄せる真正の隠形術は道教が形成されたあとのことである。古代の道士は隠身術の研究を重視し、彼らはすでにこの種の秘法を身に着けていた。
三国時代の伝説的道士介象は「姿を隠し、沿う草木鳥獣に変身することができた」。呉王孫権は介象を武昌に招き、礼を尽くし、辟兵術を伝授してもらったほか、自ら隠形の術を学んだ。孫権は一定の期間学んだあと、霊験を得ることができた。「試しに後宮に戻り、殿門を出入りしたが、誰にも姿が見られなかった」。
(3)
葛洪は隠淪[身体を見えなくすること]の道について詳しく述べている。彼は坐在立亡の術を神道五種の一つと認識していた。ただしこの法術は延年益寿[長生きすること]に関しては効がなく、戦乱が差し迫っているときのみ役に立った。避難するときほかによい方法がなければ「これを使うしかない」。葛洪は鄭隠[?~302]や道経の一部から得た主な坐在立亡の術を列挙する。この法術には符、薬、その他霊物を用いることや特別な方角にいることなどが含まれる。たとえばつぎのような例を挙げる。
「大隠符」を服用してから十日後、体を左に回転すると、見えなくなる(隠没無形)。つぎに右に回転すると、また体が出現する。
怡丸(いがん)や蛇足散(だそくさん)を身体に塗る。
離母の草を懐に入れる。
「青竜草を折りたたみ、六丁神のもとにひれ伏す。竹田の中に入り、天枢[大熊座α星A北斗七星の星。貪狼星]の土を執る。河竜を訪ね、石室を造り、雲蓋の暗い陰に陥る。清冷の淵で身を隠し、幽闕(ゆうけつ)の道を通る」
青竜、六丁などの具体的な意味はかならずしも明確ではない。ただし方位の概念が含まれているのは間違いない。
「乱世を避け、名山に身を隠す。上元(元宵節)丁卯日をもって、憂いがないものとする。名いわく陰徳の時、またの名、天心の時、隠身し、跡を消すことができる。白日(太陽)が消え、日月が光を失い、人も鬼も(その姿を)見ることができなくなる」。ここで強調しているのは、術をおこなうときの日にちの選定の重要性である。
山林に入ると、左手で「青竜」の方向の草を取り、半分ほどを切って、「逢星」の下に置く。そして前に踏み出して禹歩で「明堂」を経て「太陰」に入る。三度「諾皐(だくこう)よ、太陰将軍よ。ひとり曽孫王甲に術を与えよ。ほかの人に与えてはいけない。人に甲を見せても、薪の束にしか見えない。甲が見えなければ、それは人でない(鬼)からである」と唱える。呪文を唱え終わると、手の中の草のもう半分を地上に置き、左手で土を取り、鼻孔や体の中部位に塗る。このあと右手で草を持ち、自らを覆う。そして左手を前に置く。さらに禹歩で六癸の方向に歩き、閉気(体内に気を閉じ込める)站定(岩のように動かない)をなす。すなわち「人も鬼も見ることができない」。
葛洪が指摘するように晋代に流伝した移形易貌術に関する論書のなかでも、もっとも長いのは『墨子五行記』である。この書はもともと五巻あり、のちに仙人劉根(君安)が「鈔取其要」(要旨をまとめる)によって一巻とした。
「その法、薬を用い、符を用い、人を上下に飛行させ、どこにでも隠れさせ、婦人には笑みを浮かべさせ、老人にはしかめ面をさせ、子供には遊ばせる」。
『玉女隠微』一巻には「形を変え、飛禽走獣および金木玉石となる」法術について述べられている。この書の伝授は「曲折難識」、すなわち自分のものとするのはきわめて難しかった。漢代には『淮南万畢術』などの方術書が書かれたが、どれも詳しさでこの書に及ばなかった。
葛洪の説く移形易貌術のなかでももっとも奇怪なのは「白虎七変法」だ。三月三日に殺した白虎の頭皮、生きたラクダの血、虎血、紫綬、履組、流萍の六種のものが三月三日に混ぜて土の下に植えられた。芽吹いた草は成長して胡麻に似た実を結んだ。ふたたび種を植えると成長してまた違う草になった。種を植えるたびに草の形状と実は変異した。連続して七度植えると(七変化はここから生まれた)「すなわちこのことを用いて移形易貌は可能になり、飛んだり沈んだりは意のままだった」。
この文を分析すると、紫綬は大印上の紫色の結いヒモ、履組は鞋(ぞうり)のヒモ、流萍は水萍(浮草)の一種を示している。これらと虎皮、虎血、ラクダの血を配合して移形易貌の神薬を作る。どういった原理に基づいているのかはわからない。道士はこれら六種の雑多なものの関係を把握して、辛抱強く七度も混ぜて植える。彼らの高度な想像力と法術に対する熱意があるからこそできるのである。
(4)
時代の発展にしたがって、道家の隠身術の研鑽は日増しにきめ細かくなっていった。『雲笈七籤』巻五十三所収「太上丹道精隠地八術」に八種の隠形方法が記されている。具体的には蔵形匿影、乗虚御空、隠淪飛宵、出有入無、飛霊八方、解形遁変、回辰転玄、隠景儛天である。これはセットで成り立っている法術だ。この書の作者いわく、隠地八術はもともと清境秘法で、「太上玉晨高聖君」によって「九玄」から学び、七千年が過ぎて太極真人ら神仙に伝えられた。授法のときは誓いが立てられた。「口口相授、不得妄伝、子不示父、臣不奉君」(口から口へ伝授する。妄りに伝えることは許されず、子が父に示すことはなく、臣下が主君に奉ることもない)と。この八種隠身術はパターン化されたものなので、ここでは二つを例示するにとどめたい。
<蔵形匿景>
立春[2月4日前後]の日の平旦[太陽が地平線上にある頃]時分、室内の東北角に座り、紫雲が東北角艮宮の位置から降下し、家全体を包み込み、内も外も一面真っ暗になったと想像しよう。 しばらくたって今度は紫雲が麒麟のような九色の獣に変成し、目の前で揺れ動いていると想像してみよう。つぎに三十六回叩歯[伝統的な養生法。歯を合わせてカチカチと鳴らす]をして、小声で呪文を唱える。「回元変影、晩暉幽蘭、覆我紫墻、蔵我金城、与気混合、莫顕我形(もとの姿を保ったまま形を変えよ。ランのごとき夕暮れの光を照らし、わが紫の壁を覆え。わが黄金の城を隠せ。気と混じりあい、わが姿があらわになることがないようにせよ)」。
呪文を念じ終えると、九度気を飲み、目を見開き、雲気を消除する。最後に「霊飛玉符」を服用する。一年修練すれば体を隠すことができるようになる。
いったん危難に遭遇したなら、艮宮の位置に立ち、「本命上土」を取り(生年の干支の土を取る。たとえば子年に生まれた者は北方の子の位置の土を、寅年に生まれた者は東方寅位の土を取る)、自ら遮り、自ら覆う。ふたたび立春に修練し、そのような想像をして、呪祷する。すなわち雲気で人体を覆い隠す。そうすれば人に発見されることはない[つまり透明人間になる!]。
<乗虚御空>
春分の日、正午頃、部屋の中に入り、東の方を向く。目を閉じて濃厚な青色の雲気が飛輪のように東方震宮の位置から降下して家の中に充満し、家の内外が一面真っ暗になるさまを想像する。しばらくして、青気が変化して二匹の蒼竜となるさまを想像する。そのうちの一匹がわが左耳にあり、わが体にまとわりつく。ついで叩歯すること36回。小声で神明に祈る。「騰玄御気、輪転八宮、坐則同人、起則入室、覆我碧宵、衛我神竜、映顕我形、通霊洞冥、呑咽九霊、永得無窮」。
呪文を念じ終えたら、九度気を吸い、目を見開き、霊符を服用する。二年修練すれば、「乗虚駕空」(虚空を駆ける)が可能になる。危難に遭遇すれば震宮に立ち、干支の年の位置の土を取って自ら遮る。そして春分に修練し、想像をし、神明に祈る。すると「大気のように見える」驚くべき効果が得られるだろう。
(5)
地隠八術は日時、方位、呪語、叩歯、咽気、撮土に関するもので、比較的整然としていて、あきらかに葛洪が記した隠身術が発展したものである。閉目内思(目を閉じて黙想すること)は道士が常用する修練法の一つ。同時にそれは邪悪なものを除き、祓う方法でもある。地隠八術の中における思考の力と気の力は非常に大きく、常人が想像するのはむつかしいほどだ。
古代小説やわずかな正史のなかに隠身術に関する描写がある。これらはこの種の秘法に古代人がいかに夢中になり、焦がれていたかを反映している。伝説によると、唐玄宗は著名な道士羅公遠から隠形の術を学んだ。しかしながらどんなに学んでも水準に達することはなかった。隠形のとき帯を露出することはなかったが、巾角(冠)が見えてしまった。玄宗は立腹し、羅公遠がすべてを伝授しなかったと責めた。羅は殿柱のなかに身を隠し、玄宗が徳を失ったからだと言い張った。玄宗は柱を破壊させたが、柱の土台石から羅の声がいっそう大きく響いた。柱の土台石を持ってこさせると、それは透けて見え、中に一寸ばかりの羅公遠が動いていた。柱の土台石を壊すと、十数個の石の破片になったが、そのすべてに羅の姿があった。玄宗が謝罪すると、石の破片の羅の姿も消えた。のちに四川で宦官が羅にばったり出会ったが、羅は楽しそうに談笑した。羅は宦官に頼んでその内容を玄宗に伝えた。それ以降は、冗談もほどほどにするということだった。
ほかの小説にも書かれている。唐代盧山道士茅安道の二人の弟子が老師から隠形洞視の術を学んだ。そして下山して潤州長官韓滉の官府に行って言いがかりをつけたが、隠形術がうまくいかず、韓滉に捕えられてしまった。茅安道は官府にやってくると、硯台の水を口に含んで、枷(かせ)をはめられ、鎖につながれた二人の弟子に噴霧した。すると二人は二匹の黒いネズミとなり、官府の前をめくらめっぽうに走った。安道は迅速に巨大な鷲となり、二匹のネズミを両脚でつかむと、沖のほうへ飛んで行った。
当時の権力者は民衆の暴動を鎮圧する力がなく、盗賊が異なる術を駆使することを口実に自分の責任を逃れようとした。包汝楫(ほうじょしゅう)『南中記文』に言う、「綏地(すいち)には蔵形術を駆使する常習犯の泥棒が射て、面前でも姿が見えなかった。また盗賊の劉伝宝は幻術や障眼匿形(目くらましと、姿を消したり変身したりすること)を得意とした。毎回法術を用いて去っていった」と。常習の盗賊を捕えようとしても捕えきれないのは、彼が蔵形術を有していたから。これはあきらかに口実だが、こういうことを口実とするのは、多くの人が蔵形術を信じていたということだろう。
魏の頃、邯鄲淳の『笑林』という書があった。この書のなかで窃盗をおこなう者を「自らを葉で隠すカマキリ」と風刺している。
唐人段成式によれば「呪術師(術士)は口々に風狸杖を用いても翳形草(えいけいそう)を得るのは難しいと言っている」と。翳形草はおそらくカマキリの身を隠す葉や葛洪が言う離母の草と近い隠形霊物だろう。唐代の呪術師はこの種の草が手に入りにくいことを承知している。道士が難易度の高い隠身術を考え出してからは、葉で隠すようなお粗末な方法はアピールを失い、嘲笑の的となった。[風狸というのは風から生まれた伝説中の獸。風狸杖は風狸だけが見つけることのできる神草]
古代民間では、隠身術は妖邪術と考えられた。隠身に対して犬の血を撒けばこの術を破解できると認識していた。『聊斎志異』「妖術」にも似た方法が書かれていた。犬の血で隠形術を破解するのは別の呪術を破解する呪術である。それは隠形術と同様、人間性や生活のなかの人間のばかげた側面を反映している。