古代中国呪術大全 宮本神酒男訳
第3章
11 盗賊を制圧し、逃亡犯を捕まえる呪術
(1)
超自然的な手段を用いて盗賊を制圧し、逃亡犯を捕えるのは、東周[前770-256]の時代に出現した新しい呪術の現象である。戦国時代、古代の宗教組織とその他共同体組織は全面的に瓦解し、各家庭が社会基本単位となるとともに財産の私有化が進み、同時に貧富の格差が広がった。人口が爆発的に増え、社会保障のない遊民的群衆が増えた。すると各地で盗賊が蜂起し、国家は盗賊を懲罰することで治安を維持したが、対応に次第に疲弊するようになった。社会や国家を満足させるために、呪術師は盗賊に対する呪術を研究するようになった。彼らは防盗(盗賊を防ぐ)、厭盗(盗賊を制圧する)、捕盗(盗賊を捕える)といった呪術を開発することになった。[原文は呪術師が術士、呪術が法術」
睡虎地秦簡『日書』甲種「盗者」篇では、専門家が盗賊はどんな容貌か、どんな場所に隠れるのか、盗賊を捕まえられるか、といった推断を論述している。それが依拠している論理は、十二の場所がそれぞれ動物に対応していることである。のちの人がいう十二生肖(十二支)だ。たとえば某日に窃盗を働いた人はその容貌の特徴と隠れた場所がその日の属する生肖の特徴と一致するという。「盗者」にはつぎのような描写がある。
<子日属鼠>
この日の盗賊は口が長くとがっていて、ひげはまばら、手なぐさみが好きで、色黒、顔はそばかすだらけ、耳にはかさぶたができている。家の庭にはゴミや雑草がうず高く積もっている。
<丑日属牛>
盗人はでか鼻で、首が長く、腕が大きい。猫背で、目の上にこぶがあり、牛の牧草地の草木のなかに隠れている。
<寅日属虎>
盗人の体は強権で、ひげはまばら、顔に黒斑があり、四肢はそろっていなくても塀に飛び上がることができる。また肩ががっしりしていて広いが、素焼きの瓦の合間に身を隠している。盗難に対処するため、西側の防犯を重視し、西門は朝閉じ、夕に開ける。
<卯日属兎>
盗人は顔が大きく、頭が大きく、頬が高い。鼻は膿の病気(蓄膿症)があり、草むらに身を隠している。この日盗賊に備えて北側の防犯を重視し、北門を朝閉め、夕に開ける。
辰日から亥日までの盗人の描写はだいたい似たようなものなので、あえて引用することもないだろう。『盗者』には特筆すべき点が二つある。一つは、午日属鹿、未日属馬、申日属環(猿)、酉日属水(雉)、戌日属羊と、のちの属相の観念が異なること。申酉戌亥の盗みは「夙(朝早く)に得て、莫(暮れ)には得ず」、すなわちこの盗賊を早朝に捕えることができるが、晩には捕えることができないということになる。
『日書』乙種には『盗者』と似た記述があり、冒頭には「盗」という表題がついている。どの干支の日に盗賊の状況がどうなっているかについては異なっている。甲日、乙日、丁日についての説明や文字には欠損がある。辛日、壬日、癸日については触れられていない。おそらくこの部分は欠落しているので、「天水放馬灘秦簡」を参照しながら『日書』甲書の関連する部分で補填することになる。
「盗」篇の内容は以下の通り。
甲日、盗難にあう。盗人は西方の家屋のなかでぶらぶらしている。彼は五人家族を養っている。娘か母親は巫婆(ウーポ)すなわち巫女である。家の門の西北にあらたに三人の盗賊が現れる。
乙日、盗難にあう。盗賊は三人。そのうちの一人が室内に入る。東方から侵入して窃盗をおこなう。逃げ去るとき、何か物を残す(「放馬灘秦簡」で補えば、辛日、壬日、癸日もおなじ。
丙日、盗難にあう。盗人は遊び人である。男やもめでなければ、やもめである。家は西方にあり、耳にはかさぶたがある。歯が折れたばかりだ。
丁日、盗難にあう。盗人は女性である。家は東方にある。臀部に傷のかさぶたがある。五人家族を養っている。
戌日、盗難にあう。家は南方にある。常習の盗人の仕業で、かつて塀に登るとき、歯を折っている。
己日、盗難にあう。盗賊は三人。子はすでに死んでいる。(盗人は)家でぶらぶらしている。
庚日、盗難にあう。盗賊は成年男子で家は西方にある。家の北側の塀に別の堅固な建物がある。この人物は汚くて不潔。肌は黒い。
辛日、盗難にあう。盗賊は外部からやってくる女で、捕まえることができない。
壬日、盗難にあう。必ず捕えなければならない。盗賊は男。草を刈っているとき、捕まえると死人が出る。
癸日、盗難にあう。盗人は女。品行がよくない。捕まえられる。
(2)
干支の日によって盗人の状況を推測していたが、理解しがたいのは、当時の術士が盗難にあった日と盗人の名前を関係づけていたことである。『盗者』は言う、子日の盗人には鼠、鼷(ケイ)、孔、午、郢(エイ)、丑日の盗人には徐、善、走+豦(キョ)、以、末、寅日の盗人には虎、貋豸+旱(カン)、貙(ク)、申、卯日の盗人には兎、竈、陘(ケイ)、突、垣、義、酉という名前が多い。
甲日の盗人には耤、鄭、壬、強、当、良、乙日の盗人には舎、徐、可、不水(フスイ?)[水はゴン編に水。この字はどこにも見当たらない]、亡尤(ぼうゆう)。
このように天干地支によって盗賊の名を推し量ることができる。
盗賊の見かけの特徴、隠れる場所、住居の方角、性悪、性別、家庭の状況、名前を知ることができれば、捕まえやすい。つまり『日書』に述べる盗人を推測する方法とは、捕盗術[盗人を捕える法術]であり、捕亡術[逃亡する者を追捕する法術]である。
すでに述べたように、漢代の術士の間では「祝盗方」(盗難の被害に遭わないよう祈る方術)が伝えられた。これは桑樹の東南の枝から作った匕首(あいくち)の表面に北斗七星を描き、術をおこなう者は夜間、さんばら髪で中庭に立ち、北斗の方を向いて、匕首を手に持ち、盗賊に対して呪詛する。
漢哀帝のとき息夫躬(そくふきゅう)はこの法術によって盗人に厭勝をかけた。盗人がこれによって制圧されたかどうかわからないが、息夫躬はこれによって皇帝を呪詛したと誣告(虚偽告訴)され、獄につながれ、急病を得て死亡した。母親も死刑に処せられ、妻、子は現在の広西合浦に流刑になった。
(3)
晋代にある人が葛洪に聞いた。道術を使いこなすが、道徳を会得していないので、名山に身を隠す(こもって修行する)ことができない。こんな世情で純朴でない盗賊ばかりの社会になってしまった。出現する災禍をどうやったら防げるだろうか、と。
葛洪はそれに答え、三種の厭盗法を列挙した。
「つねに執日(黄道吉日)に六癸(の方向)の土、百葉の薫草、門戸の泥一尺を取れば、すなわち盗賊は来ない」
『日書』「秦除」によると、正月未日、二月申日、三月酉日、四月戌日、五月亥日、六月子日、七月丑日、八月寅日、九月卯日、十月辰日、十一月巳日、十二月午日をひとしく執日とする。葛洪が言う執日とは、正月から十二月までのすべての執日のことを言う。六癸とは方位の概念である。『抱朴子』「登渉」は『遁甲中経』を引用して言う。「六癸を天蔵とし、六已を地戸となす」と。六癸は術士が盗賊に対してつねに言及する方角である。
清代の張宗法『三農記』巻二十一に言う、「執日(吉日)、天星の方から土を取り、薫草、柏葉を門戸の上のほう一尺に塗り込む。盗みを遠ざけることができる」と。この法術はあきらかに葛洪から出たものである。そして六癸は「天星方」とも称せられる。この二つは同一である。
第二の法は、「市南門の土、および歳破土[歳破は八つの方位神の一つ]、月建土を取ってこね合わせる。朱鳥地の土をつけて、厭盗とすることができる」。「破」「建」とは、どちらも建除法[古代術数家が天象を根拠に人や物事の吉凶禍福を占う方法のこと]の概念である。「歳破土」とは、その年の破日に取った土のこと。「月建土」はその月の建日に取った土のこと。「朱鳥地」とは南方を指す。三種の土をこねて土偶を作る。それを南面に置いて固定する。
第三の法は、避難することに重点を置く。「急いで生地に入り、とどまる。憂いは何もない。天下に生地はある。一つの州に生地はある。一つの郡に生地はある。一つの県に生地はある。一つの郷に生地はある。一つの里[古代の行政単位]に生地はある。一つの宅[家]に生地はある。一つの房[部屋]に生地はある」。生地は、災難を避けて生存するための方位を指す。葛洪はどのようにして生地を推算するのか述べていない。ただ彼はどこかに生地があることを信じてはいた。ある人はたずねた、部屋のなかに生地はあるのですか、あまりにも狭すぎるのではないですか、と。葛氏は答えた。書物のなかでも言われているではないか、「急いで車軾に隠れる」と。車軾[車の前面の横木]の中にさえ生地(隠れるところ)があるのに、部屋のなかにないはずがなかろう、と。
(4)
『酉陽雑俎』「怪術」に引用する『雑五行書』に言う。「亭部(見張り番)が土をかまどに塗れば、水、火、盗賊を防ぐことができる」。また『三農紀』巻二十一に言う。「社壇の土を宰官自らが取って城門に塗ると、盗賊は境界を越えて侵入することができない。人家は門戸に(土を)塗り込めば、盗難は起こらない」。後者はあきらかに前者から抜き取って書いたものだ。「亭部」と「宰官」はどちらも盗賊を取り締まる担当の官員である。盗賊は官員(役人)を怖がるので、「亭部土」が厭盗の神力を持つのである。(この種の呪術は鼠を制するのにも用いられる。第3章15節参照)
民間が伝える辟盗呪術にはほかに撒鵲巣灰(カササギの巣を焼いて灰にしたものを撒く)と癸丑造門(癸、丑の日に家を訪ねる)などがある。『俚俗集』巻三十九「焼鵲巣」の乗に「元日、カササギの巣を取り、焼いて灰にして内側に撒く、すなわち盗難を避けることができる」。同書の巻四十一に「癸丑造門」の条があり、『墨子秘録』を引用して言う。「蠟月癸丑日造門、盗人は入ることができず」。この二つの方法はどちらも、どういう原理に依拠しているのかはっきりしない。
古代呪術士は呪文で盗賊を制することを好んだ。息夫躬が用いた祝盗方が呪文を含んでいたのは間違いないが、実際にどういうものだったかは、記載されていないためわからない。
『千金翼方』巻三十の「禁賊盗」という節には、二つの呪法が書かれている。そのうちの一つは、遠行を準備し、まず地面に「壇」を描く。すなわち家の庭に六尺平方の壇を、野外に縦横六十歩の壇を描く。壇内に十二辰位を設置し、当人は甲地(東)に立ち、姓名を呼びながら言う。「某よ、某へ行きたいだろう、討伐するとき、神よ、我を守り給え。吉昌(すこやかで、つつがなし)なり」。三度「乾」という字を唱え、大きな声で「青竜下!」[青竜は竜族でなく四霊の一つで東方を守護する神明]と叫んだあと、呪文を唱える。
「六甲九章、天円地方。四時五行、青赤白黃。太一為師、日月為光。禹前開道、□尤辟兵。青竜侠挙、白虎承衡。熒惑先引(けいわくせんいん)、辟除不祥。北斗誅罰、除凶去殃。五神導我、周遊八方。当我者死、向我者亡。欲悪我者、先受其殃。吾受北斗之孫、今日出行、乗青竜、出天門、入地戸、遊陰中、履華蓋、去寇賊。矛盾刀、戟戟弩、見我嶊伏、莫取当御。急急如律令!」。
この呪文から察するに、「寇賊」を主な対象とする厭勝の方法である。財物を盗む「盗」と人身に傷害を与える「賊」はしばしば関係があり、賊を禁ずる呪法は、盗を禁ずる呪法を
妨げるものではない。
清代、「山東の李鼎和は賊盗を防ぐ呪文を得て、羈旅路宿をしても、(賊盗の害を)予防することができた」。姚伯昂、梁章鉅らはまさにこの呪文を妙法とみなし、選りすぐって記した。この種の呪文には、「七七四十九、盗賊満処走、伽藍把住門、処処不着手。童七童七奈若何!」、さらに呪いをかけて要求する、「清晨日の出のとき、東方に向かって四十九遍黙念せよ。鶏、犬、婦人にこれを見せてはいけない」。
(5)
古代道士は盗賊を厭鎮するために鎮宅符籙を常用していた。窃盗をおこなう者はかならず部屋に入る。もし部屋に魔力をかけていれば、盗人が入ろうとしても、逆に後退してしまう。すなわち芽生えかけていた盗難の禍は消えることを意味する。
『太上秘法鎮宅霊符』には厭盗四符が記されている。第一符は「盗賊不侵万事称意」の符、第二符は「厭盗賊驚恐人」。盗賊を厭鎮する符のほか、二つの符がある。すなわち第三符は「厭盗賊口舌無端之鬼」、第四符は「厭疾病盗賊虚耗之鬼」。
厭盗法術と相関関係にあるのが捕亡法術である。『日書』「盗者」はある観点から犯罪者を捕獲する方法について述べている。漢代の術士は、逃亡者の衣服から帯を抜き、その裏に磁石を付けて、井戸の中や居室に吊るした。すなわち逃亡者を吸い寄せるためである。「磁石を井戸に吊るすと、逃亡した人は自ら戻ってくる。逃亡人の帯を取ってその裏に磁石を付けて井戸の中に吊るせば、逃げた人は帰ってくる」「逃亡した人の帯を取ってその裏に磁石を付け、室内に吊るすと、その人が戻ってくる」(『太平御覧』に引用される『淮南万華術』より)。
逃亡者を磁石で呼び戻すことができるというのは、磁石の魔力の迷信である。逃亡者の衣服の内側に磁石を置くのはまさに典型的な接触巫術である。のちの招亡法の中には磁石を即座に取り消すというのがある。「逃げた人の衣服を取って、井戸の中に垂らせば(犯人は)自ら戻る」。この揮衣法、懸衣法などは、どれも伝統的な招魂礼の影響を受けている。さらには「甑帯麻(そうたいま)で奴婢の衣の背中一尺六寸ほどを縫う。すると逃走しようという気持ちはなくなる」。
甑帯麻は甑(こしき)を運ぶためにくくりつけられた麻縄のことである。この甑帯麻にはくくりつける意味があり、おのように奴婢の魂をくくりつけることを表している。これは逃亡を防止する方法である。
一部の術士は、逃亡者の姓名をさかさに書いたり、官印をさかさに押したりするのが手っ取り早い逃亡者の捕獲法と信じている。「逃げた奴隷を捕まえるために奴隷の姓名をさかさに書く。あるいは逃げた囚人を捕まえるために印をさかさに押す。そうすれば簡単に捕まえることができる」。逃亡者の姓名をさかさに書いて書付に貼る。あるいは姓名を想念し、逃亡者の霊魂に影響を与え、転倒させ、混乱を与え、遠くへ逃げないようにする。逃亡犯を累積する公文上の官印をさかさに押す。それは官府に神威があるかのように見せるためである。