(2)

 漢代の術士は禹字の符や禹字の印による蛟竜の辟除に慣れていた。伝説によれば大禹は治水のために「地を掘ってこれを海に注ぎ、竜蛇を駆ってこれを沼地に放った」。術士はこのことから連想し、竜蛇は大禹を恐がっているので、禹字を用いて蛟竜と風波を制圧することができると考えた。


 応劭『風俗通義』は「五月五日に五彩絹を腕に着ける」という習俗と屈原の記念とは関係があると言及している。呉均『続斉諧記』によれば、漢代の人はお米を盛った竹筒をセンダンの葉で覆い、竹筒のまわりに彩絲をぐるぐる巻いて、それを水に投げて屈原を祭った。人々は蛟竜がもっともおそれているのはセンダンの葉と彩絹と認識していたので、彼らが屈原にささげた祭品をふたたび盗み取ろうとはしないだろうと考えた、また五彩絹は漢代に流行した辟邪霊物でもあった。応劭、呉均は漢代の人々が駆蛟活動をするにおいて彩絹を応用したことを描いた。


 晋代の葛洪は、「海や川をわたるとき、蛟竜を避ける法」について詳しく論じている。葛氏が述べるのは四つの方術である。

 一、洗濯。大きな川を渡る前、川辺に水で満たした容器を置く。それに鶏子(たまご)を入れ、さらに雑香粉末を加える。そしてむらなくよくかき混ぜたあと、それで体を洗い、衣服を洗う。「すなわち風波蛟竜を恐れず」。

 二、佩符(はいふ)。川を渡るとき「東海小童符」「制水符」「蓬莱札」「六甲三金符」「皆却水中之百害也」を佩帯(身につけること)する。帛の上に星辰図と「大」の字、あるいは「有北帝書」と書く。また「風波蛟竜水虫也」と書かれた符を佩帯する。

 三、禁呪。川に臨んでの呪文。「巻蓬巻蓬、河伯導前辟蛟竜、万災消滅天清明」。また「五木禁」。この内容は不明。

 四、神剣の佩帯。葛氏が引用する『金簡記』に言う、五月丙午日中に五石すなわち雄黄(鶏冠石)、丹砂、雌黄(石黄)、礬石(明礬石)、曾青(アジュライト)をよく搗いて粉末にし、「金華池」で水に濡らす。そのあとそれと銅鉱石を「六一神炉」に入れ、送風しながら精錬する。まず桂木を燃料とし、銅ができたあとふたたび「剛炭」を用いて重煉する。童男童女によって薪を加え、火を持続する必要がある。鉱石を溶かしたあと、童男童女によって銅に水をそそぎ、銅が自然と両段に分かれるようにする。一段凸になった部分を「牡銅」と呼び、一段凹になった部分を「牝銅」と呼ぶ。牡銅から鋳造した剣が雄剣で、牝銅から鋳造した剣が雌剣である。それぞれ長さは五寸五分となる。五行の体系の中で、数字の五と土を相配し、「土の数を取って」剣を鋳造する。つまり土が水に克ち、水精を圧伏する。渉江渡海するとき、左に雄剣を、右に雌剣を佩帯する。「すなわち蛟竜、巨魚、水神はあえて人に近づかない」。