古代中国呪術大全 

3章 13 愛のまじない(下)媚薬 

 

(1)

 古代の愛のまじないのもう一つの系統は特殊な愛の霊物を身につけることである。専用の愛の霊物は「媚薬」と称される。前節に列挙した髪・爪や桃木、黄土など多くの巫術で使われる霊物と異なり、幻覚をもたらし、外部の人を引き寄せる場合を除いて、媚薬はその他の巫術が持つ効能を持っていない。

 ある物が媚薬と認定されるとすると、それには二つの原因がある。まず、この動植物の性質や活動と人間の恋愛行為はよく似ている。人はそのなかに隠れた神秘的な致愛の力を認め、この力を借りて自分の魅力を増し、直接的に相手の感情に影響を与え、相手が自然に、能動的にだれかを愛する気持ちを高め、恋愛関係、夫婦関係が強固なものになる。

 独揺草(pubescent angelica)は人を見て自ら動く、すなわち無風でも自ら揺れる。愛する者はこれを身につけ、自ら動く性質(人を好きになる気持ち)を相手方に伝えたいと願う。

 鴛鴦(おしどり)は雌雄相思相愛で、離れずに暮らすことから、愛のまじないをおこなう者はオシドリのハート型の尾を身につけ、男女が惹かれあう神通力を得たいと願う。この男女の愛を深めるのは媚薬である。そしてこれと関連する致愛術(愛のまじない)は模擬呪術に属する。

 つぎに、愛の霊物とみなされるものがあるなら、それは純粋に偶然にすぎない。甲という者がある物を身につけていて、ちょうど異性から好意的な目で見られたとき、乙という者は、甲の幸運はこの物と関係があると考えるだろう。乙が甲のまねをすると、それを見たさらに多くの人がならうだろう。時間は要するが、この物は愛の霊物と同等と認められるだろう。

 

 媚道と関連した「媚薬」は、「春薬」とおなじではない。唐、宋の人は「媚薬」を「相念薬」と呼ぶこともあった。これは他人の心をコントロールする呪術の霊物だった。人に影響を与える生理機能のある房中術の薬物ではなかった。

 明人の随筆のなかには、房中術の薬を「媚薬」とする例もある。これは意のままにするということだろう。「媚」の字のもとの意味は、ふたりが愛慕しあうのを喜ぶということであり、媚薬の使用は薬の作用を求めることでなく、呪術の原理に基づくということである。

 媚薬が装飾となることも付け加えたい。「江離と薜芷とともに、秋蘭を着けて」と表現するとき、それは美学であって、呪術ではない。この知識に基づけば、『左伝』の「蘭に国香あり、人はこれを媚として服用する」で言及する蘭草を媚薬とみなしている。

 

(2) 

 古代において民間に伝わる媚薬は少なくとも十数種あったとされる。その大部分は花、草、鳥、虫だった。

草(ようそう)> 

 『山海経』「中山経」に言う、天帝の女(むすめ)姑の山に死す。死後変じて草と成す。この草の葉は幾重にも重なり、黄色い花が咲き、実はネナシカズラとよく似ていた。これを服すると人に媚びるようになった。郭は注釈で草は「荒夫草」とも言い、これを服すると人は媚(人を好きになること)となる、「人を愛するようになる」と述べている。この「服」は「身に着ける」ことをいう。

 は一部の文献で誤って詹草(せんそう)と記されている。『博物誌』「異草木」に言う「右詹山、帝女詹草と化す。その葉ふくよかに茂り、萼(がく)は黄色、実は豆のごとくあり、身に着けた者は人に好かれるという」。これは『山海経』中の古䍃山(すなわち姑山)が右詹山となったものであり、䍃()草も詹草となった。

 

<砂俘(さふ)> 

 「砂(さだ)」ともいう。媚草の一種といえる[ミミズのような虫]。陳蔵器『本草拾遺』に言う、「砂俘、または倒行拘子という。蜀人はそれを俘郁と呼ぶ。乾燥した土に孔を開けると、眠ったまま動かなくなる。それを取って枕の中に入れると、夫婦は愛を悦び合うようになる」。

五代時代の孫光憲はこの一節を引用し、彼の妾の一人が砂俘を得たが、試したことはないと述べている。のちに孫光憲は成都に遊び、旅籠で草薬を売る李山人と知り合った。孫は現地の若い連中がみな必死に李山人に会おうとし、高価な薬を買っていくのを見て、その薬は何かと聞いた。李は「媚薬だ」と答えた。孫がさらに問い詰めると、それが砂俘ということがわかった。

 孫光憲は『本草拾遺』に書かれていたことを思い出し、陳蔵器の話にも根拠があることを認識した。李山人が秘密を厳守したので、孫は砂俘の用い方がわからなかった。

 孫氏は言う、「武陵山は媚草を産する。無頼の徒は銀をこれと交換し、それによって男女を発狂させる[興奮させる]。それは大惨事といえるだろう」。このことから、砂俘の効能は媚草とほぼおなじとみなせる。

 周亮工『書影』巻五も陳蔵器を引用している。ただその文はわずかに異なっている。「陳蔵器『本草』に言う。砂子は砂石中に生まれる。大豆のような形で、背中にとげがあり、さかさに進むことができる。いつも寝ていて動かない。生きたままこれを取り、枕の中に置くと、夫婦が相悦ぶことになる。蜀人はこれを浮郁と呼ぶ」。つまり媚薬の中心となっているのは砂俘の子である。周亮工はまた湯若士の『武陵春夢』の詩を引用する。「細語(かすかなことば)春情夜の紅を惜しむ。人の眠りを妨げる五更の風。あくる朝翡翠色の中州の前に立ち、沙を取って枕の中に置く」。最後の行で説明しているように砂俘を枕に置く方法は古代には流行っていたようだ。

 

<鶴草> 

 晋稽含『南方草木状』巻上に言う、「鶴草、蔓が生え、花は淡黄色、萼は浅紫色、葉は柳に似ているが短い。夏に開花し、形は飛ぶ鶴のごとし。嘴、翅(はね)、尾、足、どれも万全である。南海を出て、媚草という。上に虫あり。蛹から赤黄色の蝶となる。女子はこれを隠し持つ。これを媚蝶と呼ぶ。夫の慈しみを高めさせることができる」。

 稽含は鶴草から生まれる虫や蝶に夫をなびかせる効能があることを強調している。鶴草自体にどれだけの力があるかについては説明していない。唐の人はこの草を鶴子草と呼び、草自体に夫をなびかせる作用があるとみなしている。

唐人段公路は『北戸録』のなかで、鶴子草は「南人これを媚草と呼ぶ。これはすばらしいもので、懐子や夢芝と比較することができる」。当地の婦女はこの草を干したあと顔の装飾物の代わりに用いたという。段氏が言及した懐子や夢芝もまたあきらかに媚草である。見た目も中原の人が使う媚草と似ていた。

 

<無風独揺草> 

 『歳時広記』巻二十二に『本草拾遺』を引用する。「無風独揺草、これを身に着ければ夫婦は愛しあうようになる。嶺南に生まれ、頭は弾のようで、尾は若鳥の尾のよう、両方合わせるとぴったり符合する。見ると自ら動くので、ゆえに独揺草と呼ぶ」。

 独揺草から媚薬が作られる。ある人々がそれを見るとかならず「両方が合わさり、人が自ら動いているように見える」ので、特別な思いと無関係でないようだ。独揺草の産地に関しては古書にも諸説がある。嶺南説以外にも、大秦国(ローマ帝国)説なんていうのもある。ある人は「五月五日に野山に出ると、これを見つけることがある」という。またある人は言う。「この草は独活(うど)の苗(若い状態)である。雍州の谷間や隴西南安などで採れ、蜀漢のものがよいとされる。この草は風があっても動かず、無風でも自ら動くという。そのため独揺草と呼ばれる」。

 『酉陽雑俎』「草篇」は舞草に言及している。「雅州は舞草を産する。独茎(一本茎)で三枚の葉から成るが、葉は決明(薬材)に似ていて、一枚の葉は茎の端にあり、二枚の葉は茎の半ばで対になって生えている。人が近づいて歌ったり、手のひらをたたいて歌を聞かせたりすると、葉はかならず動き、舞っているかのように見える」。

 『本草綱目』巻二十一に言う、舞草とはすなわち虞美人草、独揺草とおなじ種類に属すと。李時珍は、独揺草は『山海経』の草と同一と推測する。『本草綱目』巻十三の草薬鬼督郵またの名独揺草という記載も、無風で自ら動くという特性を示している。ただしそれと愛を起こさせる無風独揺草は別物である。

 

<桃朱術> 

 桃朱術(術の音は住と同じ)は草薬の青(うまさく)の一種。『歳時広記』巻二十三が『本草拾遺』を引用する。「桃朱術の種子を取って身に着けると、女性は夫に愛されるようになる。薬草園のなかで、それは芹の花のように細く、角のような紫色の種が生まれる。鏡に向かってこれを敲くと、種子は自ら生まれる。五月五日にこれを手中に収める」。『本草綱目』巻十五「青」の条に付された「桃朱術」のなかに陳蔵器の説明が付されている。

 

子(こうし)> 

 『本草綱目』に言う、「榼子は蔓(の植物)である。種の核を取り、衣に着ける。すると人を恋に迷わせる」。

 

<相憐草(そうりんそう)> 

 宋人周密『癸辛雑識』「続集」巻下に引用する周子功が言う、南丹州(広西南丹)の「山中に相憐草を産する。媚薬ななり」と。暗いなか、相憐草を少しばかりある人物の身に投げつける。すると「草の心がその人について離れなくなり、あきらめなくなる」。周子功はまた言う、彼はかつてこの草を得たことがあるが、「試してみようと、のちに徐有功(640―702)はこれを取りに行ったという」。

 媚草の種類は上述のものだけではない。名をとどめるだけのものもある。たとえば段公路『北戸録』が言及した「草」「左行草」など。

名称がわからず、媚薬であることだけ知られているものもある。たとえば『歳時広記』巻二十二に引用する『投荒録』に言う、番禹のある人が端午を過ごしていると、街中で「相念薬」売りの大きな声が聞こえた。これはもともと少数民族の媼(おうな)が売る「山中異草」。この草は金持ちの婦女相手専門に売る「媚男薬」なのである。五月五日に採った異草はとくに神のごとき効果があると言われ、価格がぐんと上がった。ゆえにお金持ちの家のみが買うことができたのである。

 また文人の誇飾が言うには、滇南[雲南南部]の少数民族の婦女は「男を喜ばせる媚薬を作るためにこれを試してみる。部屋の東と西に一つずつ大きな石を置く。それにこの薬を塗ると、夜になればふたりは合わさることになる。その薬もさまざまな草を合成したものである」。

 このほかにも、古代の詩人はつねに紅豆(相思子、トウアズキ)を題材に詠唱し、それは愛の気持ちを起こさせるものとみなされたが、後世になってその意味合いは変化したと考えられる。

 

(3)

<カササギ> 

 漢代の術士はカササギの脳を愛の気持ちを起こさせるもの(致愛霊物)とみなしていた。『淮南万畢術』は言う、「鵲脳(カササギの脳)は相思相愛にさせる。雌雄のカササギを一羽ずつ捕え、四つの方法で炙り、丙寅の日に人とともに酒を飲む。酒の中にカササギの脳を入れれば、互いに相手を思うようになる」。

 『太平御覧』巻九十二に引用する「鵲脳、人に相思わせる」に注がある。「カササギの雌雄一羽ずつの脳を取り、これを焼いて、酒の中に入れ、飲ませればすなわち互いに思わせるようになる」。鵲脳の用い方というのは、これを焼き、その灰を酒に入れて飲ませるということである。つまり直接用いるというわけではない。

 南朝道士陶弘景もまた言う、「五月五日、鵲脳を取り、(酒などに)入れ、術家がこれを用いる」。術家が鵲脳を使うといっても、結局愛の気持ちを起こさせる活動を行なったにすぎない。のちに一部の人はカササギの愛の能力を応用し、鵲巣(カササギの巣)や巣の中の石を用いた。

 『如意方』に言う、「戊子の日、鵲巣を取り、この家の下の土を焼いて燃え屑を作る。それを酒とともに服用すれば、夫婦は互いに愛するようになる」。『投荒録』に言う、鵲巣に二つの小石があり、「鵲枕」と称すと。五月五日に探し当てた鵲枕はもっとも類まれな媚男薬とされた。ご婦人方はたまたまこれを(市場で)見かけると、「耳飾りから金のかんざしを抜いて」惜しげもなく、すぐに手に入れた。

 鵲脳、鵲巣、鵲枕は、多くの種類の観念によって作られた媚薬とみなされる。古代民間では、カササギは「鳴きながら上下に飛び、音を感じて孕み、見るだけで抱き合う」と認識された。すなわちカササギの身ごもりと孵卵は、鳴き声を出し、見ることによって引き起こされるのである。なぜ鵲脳を使用するかといえば、相手の気持ちをひそかに引き寄せる効果が見込めるからである。カササギの巣はつねにカッコウや九官鳥などの鳥に占拠される。『詩経』に「巣のあるカササギを守るのは、ここにいる鳩を守るということ」と詠じられるのはこのことである。

致愛術(愛のまじない)中の鵲巣の灰(鵲巣を燃やして作った灰)というのは、その代用品である可能性もあるが、鵲巣を占拠する鳩を徹底的に消滅させるという意味もある。一般的な媚薬と違って、鵲巣にはほかに巫術にも使われる。たとえば医家はそれが「精神錯乱や狐憑き、蠱毒」の治療に使われると認識する。春節には鵲巣灰を門の内側に撒き、泥棒の侵入を防ぐ。

 

<カッコウ> 

 カッコウの異名は非常に多い。秦代以前の文献では一般的に「鳲鳩(しきゅう)」と呼ばれている。『本草拾遺』に言う、「布谷(カッコウ)は鷂(ハイタカ)に似て尾が長く、雌牡飛んで鳴き、翼で相払い打つ」と。雌雄のカッコウの脛の骨を水中に入れると、それらは自ら互いに近づく。この特徴は疑う余地なく愛を欲する者たちのことを連想させるだろう。陳蔵器、段公路ら以下のような致愛(愛情を起こさせる)方法を紹介する。

 五月五日、雌雄のカッコウの脛の骨を取り、男はそれを身体の左側に着け、女は右側に着ける。すると夫婦は愛しあうようになる。

 呪術師によってはカッコウの脳とその他の霊物を配合して媚薬を作る。『物理小識』が引用する明代に流布した『秘抄』という書に述べられている。紫という名の野狐がいて、毎晩ドクロを頭に戴いて、北斗に向かって礼拝した。野狐の心臓、カッコウの脳、犬の口の中に生じる媚肉を用い、それに麝香を加え、その香りをかがせれば、昔の恋人のことを思い起こさずにはいられない。この法術を解くには、冷水を思い浮かべるだけでよい。

 

<オシドリ> 

 鴛鴦(オシドリ)を愛情の象徴とするのは中国人の伝統だ。オシドリの心臓と尾が致愛霊物とみなされるのは当然のことだった。『竜樹方』に記される。「オシドリの心臓を取り、陰に干すこと百日、腕に吊るす。人に知られてはいけない」、するとたちまち愛を呼び起こすだろう。『千手観音治病合薬経』に記される方法はつぎのようなものだ。「オシドリの尾を取り、大悲像の前で一千八十遍呪を唱え、身にそれを帯びる」。この方法を考えた人はオシドリの尾にさほど効果がないことを知っていたのだろう。それゆえこの術をおこなう者はオシドリの尾を手にもつだけではだめで、観音の前で一千遍以上呪を唱えるべしなどと言うのだろう。

 

<細鳥> 

 細鳥は神話の中の鳥である。漢魏時代の小説『洞冥記』に記す、漢武帝の元封五年、勒畢国の使者が細鳥を貢物としてささげた。一尺平方の玉籠に数百羽の鳥が入れられていた。細鳥の大きさは大縄ほどで、形はオウムに似て、鳴き声は黄鵠(黄色いクグイ。死者を蘇らせる大鳥)に似て、数里も轟く。意外にも、十日以内にこれらの鳥はすべて飛び去ってしまった。あちこちで探し回ったが、連れ戻すことはできなかった。

 つぎの年も細鳥はすぐに宮廷内を飛び回るか、垂れ幕に集まるか、宮廷人の袖の上にとまった。宮廷内の妃や妾はみな喜び、それを「蝉(せみ)」と呼んだ。衣服の上に細鳥がとまった宮廷女はすべて武帝の寵愛を受けた。

武帝の晩年、細鳥がつぎつぎと死んだが、それでも死んだ細鳥の皮は珍品とみなされた。「その皮を服用すると、丈夫(愛人)から愛情がそそがれた」。細鳥伝説は神話に属するとはいえ、影響は相当大きかった。段公路や李時珍はこの伝説を記録したが、世界にはこの類の霊物があることを確信していた。

 

(4)

<媚蝶> 

 稽含『南方草木状』によれば、媚蝶、すなわち鶴草上の虫が変じて飛蝶となるという。段公路『北戸録』は媚蝶に関してさらに詳しく描写する。毎年春になると、鶴子草がはびこり、その草の上に一対の虫が生まれ、草の葉を食いちぎっていく。南方の現地住民はこの虫を捕え、女性の化粧箱の中に入れる。すると蚕が鶴子草を食んでいるように見える。虫は老いて衰えて赤黄色の飛蝶に変じる。女性は飛蝶を捕え、身につけ、細鳥の皮をつけるのと同じ効果が得られる。ゆえにこの蝶は「媚蝶」あるいは「細蝶」と呼ばれる。

 

<紅飛鼠(赤いムササビ)> 

 唐代の劉恂『嶺表録異』に言う、「紅飛鼠、交趾(ベトナム北部)や広州(揚州南部)、管州(鄭州)、瀧州(現・広東羅定県)にいる。背と腹には深くて柔らかい毛が生え、肉と翼は浅黒く、赤い芭蕉の花の中に隠れている。一羽を捕まえれば、もう一羽は逃げない。南中の婦人はこれを買い、身につける。それで媚薬となす」。一羽を捕まえればもう一羽は逃げないとは、一羽捕まえれば、もう一羽は自ら網に身を投じ、捕えられるという意味である。紅飛鼠(赤いムササビ)は雌雄がつがいとなり、離れようとしない。紅飛鼠はまたの名を「紅蝙蝠」という。段公路『北戸録』には紅飛鼠の条があり、劉恂が述べるものとまったくおなじである。名前が違うだけで、同一のものなのである。

 

<龐蜂> 

 『嶺表録異』はこうも言う、「龐蜂は山野に生まれる。多くは橄欖樹の上にあって、形はセミのようで、腹は青く薄く、その名を自ら呼ぶ。ただしその声を聞けばすぐに捕えることができる。人はよい値段でそれを買い求め、媚薬とする」。李時珍は龐峰を青蚨(せいふ)の一種とみなす。ゆえに『本草綱目』巻四の「青蚨」の条に収録されている。李は「龐蜂」を「龐降」と書いているが、これは伝承の誤りだろう。

 

蛗螽(ふしゅう)> 

 蛗螽、またの名を負蠜(ふはん)、蚱蜢(さくもう バッタ)。よく飛び跳ねるイナゴの類の害虫。『詩経』「草虫」の冒頭の章で「草虫は喓喓(ようよう)と鳴き、蛗螽(ふしゅう)は趯々趯(やくやく)と飛ぶも、いまだ君子は現れずに、心々(ちゅうちゅう)と憂える。また人と会う気にならず、会わなくなり、わが心は落ち込むばかり」と詠まれている。詩のすべてが女性のことを思う気持ちをうたったもの。また会ったあと憂いが喜びにかわるさまを詠んでいる。詩のなかで蛗螽(ふしゅう)、すなわちイナゴが飛び跳ねはじめている。詩人は蛗螽に特別な意味を持たせているのである。

 『本草拾遺』の中に奇妙なことが書かれている。イナゴ(蛗螽)とミミズは異類だが、同じ穴にいると、(ミミズの)雌雄が交わるという。これはイナゴ(蛗螽)に「人を互いに愛させる」効能があることを示している。具体的には五月五日、イナゴ(蛗螽)を捕えてミミズと交配させると、「夫婦がこれを身につければ互いに強く惹かれる」という。

 宋代陸佃『埤雅』巻十「螽」の条に、『詩経』を根拠にさらに詳しく言う、「草虫は上風の中で鳴き、負蠜(ふはん)は下風の中で鳴く。すなわち風によって変化する」。イナゴ(蛗螽)と草虫が互いに愛慕しあうかのような言い方だが、これはさすがに牽強付会といえるだろう。

 

<吉丁虫> 

 『本草拾遺』に言う、「吉丁虫は甲虫である。背は緑色、甲の下には羽根がある。嶺南の賓州、澄州などに産する。人これを捕え、帯びれば、人と愛し合うことができる。すなわち媚薬である」。

 

<金亀子(コガネムシ)> 

『北戸録』巻一「金亀子」の条に言う、「金亀子は甲虫である。五、六月に草蔓の上に生まれる。楡の実ほど大きく、よく見れば本物の金である。亀子がつがいになれば、虫が死んでも、金色が消えるとともに蛍光が残る。南の人は粉を養い、その粉で互いに親しい関係になるという」。この書では金亀子が媚薬になると断言しているわけではないが、李時珍は「人を好きにさせる」のところを引用している。李時珍は「吉丁の類であり、媚薬である」と断じ、「刀豆のように大きく、頭部は鬼に似て、甲は亀のように黒く硬い。四つ足で角が二本生え、体は泥金によって成っているかのよう。また蛗虫が変化したかのように見える」と詳しく描写する。

 唐宋の頃には少なからぬ人が金亀子に言及している。李時珍が、それが媚薬であると述べるのは根拠があってのことである。

 

腆顆(てんこ)虫> 

 陳蔵器は言う、この虫は嶺南から出ると。「そのさまは屁盤に似て、褐色で、身は平たい。これを帯びれば人を愛させることができる。かの人たちはこれを重んじる」。

 

<叩頭虫> 

 晋人傅咸(ふかん)は『叩頭虫賦』を書き、その中で言う、「叩頭虫、とても小さい虫だけれど、教えてやれば叩頭する。叩頭するからといって傷つけると、不吉である。ゆえにこれを害してはいけない」。この虫を媚薬とすることで、相手方に従順で、言いなりになることを伝えることができる。

 南朝の劉敬叔『異苑』巻三に言う、「叩頭虫、形と色は大豆のようで、呪文をかけて叩頭させ、血を吐くよう教えることができる。殺してしまうと不吉である。これを身につければ人にわき目もふらずに愛させることができる」。

 

<蜘蛛> 

 『延齢方』に言う、「蜘蛛1匹、鼠婦(ワラジムシ)14匹を素焼きの器の中に入れて百日陰干しする。それを女性の衣に塗れば、夜になればかならず女性自らやってくる」。これは蜘蛛の「粘性」から来る方法である。古医書には「七月七日、蜘蛛の巣を取り、着衣の襟の中に入れる。その人に知られてはいけない。それは忘れないで記憶にとどめる」方法である。これと蜘蛛とは「致愛原理」において共通している。蜘蛛の巣の「粘性」が記憶力と共通しているということなのだが。

 鼠婦とは潮虫(ワラジムシ)のことである。陸佃『埤雅』はこの虫について食用にすれば「人を淫らにさせる」と述べている。『延齢方』のやりかたは、蜘蛛とワラジムシの両方のパワーを活用しているということだ。

 

 媚草と同様、古代民間に伝わる鳥虫類の媚薬は、上述のものだけでなく、相当たくさんある。唐人蔣防が選んだ伝奇『霍小玉伝』に述べられているように、霍小玉の亡魂が薄情な李益に復習をする。そのとき門の外から李益の妻盧氏にお盆が投げ込まれる。お盆の中には「相思子(トウアズキ)2個と叩頭虫1匹、発殺(はつさつし)一つ、驢駒媚少々が入っていた」。[発殺觜が何かはわかっていない。また北宋の釈賛寧『物類相感志』によると、驢駒媚は、子ロバが生まれる前、口の中に含まれている肉のようなもので、媚薬の効能があるという]

 李益は妻の盧氏がひどく殴られる様子を見ていたが、結局夫婦仲が悪化してしまった。まさに周亮工が述べるように、紅豆、叩頭虫、それに発殺觜、驢駒媚は、唐代においては媚薬の代用品であったに違いない。結局それらが何であるかはわからないけれど。

ほかにも、古代には超性愛的な致愛法術(愛のまじない)があった。たとえば『霊奇方』には「豚の皮と尾を一寸三分ほど取り、衣服の袖に入れる。するとすべての人が愛するようになる」はこのことを指す。