古代中国呪術大全
第3章 14 女性の淫蕩や嫉妬を止める呪術
(1)
古代の止淫止嫉法術は男性の巫術(呪術)である。前者(止淫)は女性の淫蕩不貞を抑え、後者(止嫉)は女性の嫉妬を解消する呪術である。
女性は掃除などの家庭の労役を課せられ、子孫繁栄のための生育器械の役目を負わせられた。女性にのみ淫蕩を禁止し、社会は彼女らに圧迫と束縛をあたえるようになった。戦国時代以来、ますます礼制(礼儀制度)が厳しくなり、淫蕩は「七出」の一つとみなされるようになった。[七出とは妻を離縁する七つの理由]
唐代から明清代媚いたるまで法律は「三不去」(妻を捨てることのできない三つの条件)を引用することが多かった。三不去とは、妻と離婚することのできない三種の制限のこと。ただし不義の罪を犯した場合はこれに当てはまらない。統治者は淫蕩行為に対してはひどく憎悪していたのである。しかし法律によって制裁を加えても、世論によって社会的制裁を与えても、淫婦蕩婦の出現を抑えることはできなかった。ここで道徳的に、法律的に足りない部分を呪術師が補う余地が出てきた。巫術によって妻や妾の頭の痛い問題を解決することができたのである。
(2)
秦漢の頃、女性が貞操を守っているかどうかを検証する「守宮」法術というものを術士は信じていた。この種の検証は施術対象(女性)を威嚇し、未然に禍を防ぐという面もあった。守宮、すなわち壁虎は、古代において蝘蜓(えんてい)とも言った。人によっては蜥蜴(トカゲ)と混同した。術士は、壁虎は邪淫を防ぎ、後宮を守る効能があると考えた。ゆえに守宮と呼んだ。
馬王堆漢墓から出土した『養生方』には「戯」という表題の下に二種類の守宮法が列挙されている。一段目の文から守宮を新しい甕に入れ、さらに甕の中に丹砂を入れ、守宮に丹砂を食べさせる。守宮が死んだあと、研磨して粉末を作り、それを用いて女性の腕や体に点画を描く。もし節操のない行為があったなら、点画のしるしは明るさが転じて暗くなる。
別の段の文はところどころ欠けていてわかりづらいが、守宮の胴体から液汁を取り出す。それを処理したあと、守宮をかまどの前の土に埋め、そのあと色を帯びた水で守宮の汁を染め、その色汁でもって女性の腕を染める。もし女と男が戯れていたら、染めたしるしが穴だらけになり、情事に至っていたなら、しるしはすべて消えてしまう。
後漢『淮南万畢術』もまたこの方法に言及している。後世の類書はこの書を引用しているが、文字が省略されていたり、統一されていなかったりする。あるものは、「守宮で女の腕を飾るとしるしが現れる。守宮を捕えて陰と陽を合わせると、メスとオスが一つになる。それを甕の中に入れ、百日陰干しする。それを女の腕に飾ると、しるしが生まれる。男と陰陽を合わせると、ただちに消え去ってしまう」。またあるものは、「七月七日に守宮を捕え、陰干しして、井華水[朝最初に汲む井戸の水]に溶かして女性の体に塗る。しるしが現れると丹(辰砂)をこれに塗る。それでしるしがなくなれば淫ではない。しるしが残れば姦(みだら)である」。また「守宮虫を取り、丹(辰砂)を食わせ、陰干しして婦人の体に塗る。男は合して滅びる」。
全体的に見ると、『淮南万畢術』は出土した古書と比べるとさらに詳しく述べていて、具体的に必要なものを列挙している。たとえば七月七日に新しく陰陽を合わせるために一対の雌雄の壁虎を捕えるなど。百日陰干しすること、井華水を用いて陰干しした壁虎と調和させるなど。
漢代の宮廷内には恨みを持つ女がたくさんいて、それに対応するためにつねにこの術が用いられた。あるとき漢武帝はだれかと「射覆」の遊びをしていた。食事用の容器で守宮を覆い、それが何であるかを当てる遊戯だった。機知があり、ユーモアに富んだ東方朔は「これは守宮、すなわち蜥蜴(トカゲ)に違いない」と当ててみせた。漢武帝は「射覆」のために一時的に守宮を捕えるなんてことはしないはずである。宮廷内につねに壁虎を養っていたはず。何のために飼っていたのかは一目瞭然だった。
後世の術士は伝統的な守宮法術を継承するとともに、補充し、発展させてきた。晋人の張華は言う、「蜥蜴(トカゲ)あるいは蝘蜓(えんてい)。器の中に入れ朱砂で養えば、体は真っ赤になる。七斤ほど腹いっぱい食わせ、杵で何万回も搗く。女人の体につければ、ずっと消えない。部屋のみが消えてなくなる。ゆえに守宮と呼ばれる」。張華はそれに七斤もの朱砂を食わせ、杵で一万回搗くよう要求する。あきらかに伝統的なやりかたよりも具体的で、こまかい。
張華はまた伝聞について記している。「東方朔は漢武帝に、効果があるのでこれを試すべしと告げた」。「諸子百家の書簡にも広く通じた」東方朔が漢武帝に守宮法術を伝授した可能性が大きい。まさにこれゆえ、武帝の数年来の行為と心理をもとに、器に覆われたのが壁虎ではないかと推察したのである。東方朔は若い時分から「三千奏牘(そうどく)」も上書してきたため、武帝がそれを読むのにゆうに二か月を要したという。東方朔の読書は興味深いが、奏牘の中身はすべて治国治民である必要はなく、守宮検淫の類の方術がたくさん混じっていたと考えられる。漢武帝は実際、方術を偏愛していた。東方朔は武帝の寵臣であり弄臣でもあった。秘術を献じていたということだろう。
(3)
南朝道士陶弘景が記述する守宮飼育法は、張華が述べたものとことごとく同じだった。「蝘蜓(えんてい)は壁や垣根の間にいるが、これを三斤の朱(朱砂)で飼い、殺し、干して粉末にし、それを女の体に塗る。赤い痣(あざ)が現れるが、交わったことがあるなら、それらは消えてしまう。ゆえにこれを守宮と呼ぶ。蜥蜴(トカゲ)もまた守宮と呼ばれる。これらを見分けるのはむつかしい」。
一部の医書は、守宮の腹の下に赤い色が現れたとき捕えることができると述べている。『如意方』に言う、「五月五日、あるいは七月七日、守宮を取る。その口をあけ、丹(朱砂)を含ませる。腹の下が赤くなったら、陰干しして、それを粉にして女身につける。拭いても取れることはないが、もし陰陽(性的関係)があるなら脱落する」。
唐代の『漢書』の顔師古注に引用する術家の説(張華説)に言う、「(壁虎は)性的関係の乱れを防ぐことができる。ゆえに守宮と呼ぶ。俗に辟宮と呼ぶ。辟には防御の意味がある」。守宮法術は唐代に一定の影響があった。
唐代から、一部の医術家は明確に守宮法術を批判するようになった。たとえば蘇恭は守宮を飼って朱(朱砂)を婦人につけるのは間違った論と述べた。李時珍は『淮南万畢術』などを紹介しながらその方法の「ほとんどが真実でない」ことを認識していた。ただし彼は「おそらくほかに法術はない。現在まで伝わっていない」と言っている。古代には真実を有する有効な守宮法術があったとするのは幻想にすぎない。
守宮法術の形成と古代の蜥蜴(トカゲ)崇拝は関連がある。トカゲの性質はわかりやすくまた連想しやすく、性崇拝の時代にあって、圧倒的な男性的パワーをもつ霊物とみなされた。西周末期に現れた褒姒(ほうじ)神話中に、トカゲに触れた少女が、夫もいないのに孕んだというエピソードがある。これは周代の人がトカゲをオスの神性の生き物ととらえていたことを示す。のちにトカゲは雨乞い専用となるが、トカゲと見た目が近い壁虎はオス性の霊物とみなされる。壁虎と朱砂を配することによって、女性の体に永久的な貞操のしるしをとどめることができると認識される。すなわち壁虎に神秘的なオス性の力があると信ずることが、男が女の行為をコントロールするのを助けるという観念の出発点となる。
漢代の術士が、守宮には婦女を不妊にさせる効能があると認識するのと、基本的にはおなじ観念である。『淮南万畢術』に言う、「守宮、ヘソに塗る。婦人に子なし。守宮を一匹取って甕の中に入れる。蛇衣を新しい布で包み、陰に百日間干す。守宮と蛇衣をよく搗き、つばを混ぜたものを婦人のヘソに塗る。よく擦って温めると、子供はできない。
蛇衣とは蛇の抜け殻である。蛇は古代においては陽性の象徴物だった。術士から見ると、男性の唾液を守宮に混ぜ、蛇の抜け殻の粉末を婦女のヘソのなかに塗り込めるのは、陰類を征服するという意味である。それによって子が生まれなくなる。この不妊術はのちに変化して堕胎術となった。
『医心方』巻二十二に引用する『如意方』によると、守宮あるいは蛇の肝に酢(?)を配合してヘソに塗り込むと、「子があれば流産し 、なければもう起こらない(妊娠しない)」。
(4)
古代の術士は女性が人に言えないことを言わせる方法について考えていた。『淮南万畢竟』は言及する、「竹虫人を飲む。自らその誠を言う」方法に言及している。つまりそれをまとめると「竹虫三匹、竹黄(きのこ)十個を配合する。人の情(こころ)が欲しければ、大豆のような薬(草)を取り、焼いて酒の中に入れれば、飲んでも酔うことはなく、問えば、かならずそれを得ることができる」。
この法術は女性専用ではないが、術士は不義の心を引き出すのにこれを用いた。これ以外にも女性専用の法術はあった。『如意方』に言う、「白馬の足元の土を婦人の寝床、床下に人に知られず置く。すると婦人は自ら浮気の相手の名を口にする」。
『延齢経』に記される、「療奴(女奴隷)が情事を持ったとき、自ら白状させることができる」。「阿胶(ロバなどの獣皮から作られた中薬)や大黄を磨って粉にしたものを女の衣服にまく。すると女は自らしゃべりだす」。
術士は女性が淫行をおこなっているかどうかの検証法を持っていた。しかしこの法術によって女性の淫らな心を根絶できるとも信じていた。『如意方』は三種類の法術に言及している。
一つは、雄鶏の後ろ爪を用いる法。「三歳の白雄鶏の両脚の距(けづめ)を焼く。女性にこれを飲ませると、淫行はやむ。
二つは、牡荊(ぼけい)を用いる法。「牡荊の実を取り、女がこれを飲む。すなわちひたむきに愛するなり」。この処方は「淫婦をひたむきにさせる処方」という。
三つは、霊符を用いる法。陽符、これに朱書きし、心に入る。陰符、淫情を絶えんと欲し、腎に入る。これに朱書きし、服用する(あるいは身につける)といい。竹の中の白淫(薄膜)を丹(朱砂)によって赤くしたものに、空青(中薬)で書いた二つの符を飲めば、淫は絶えてなくなる。
雄鶏、牡荊はどちらも巫術の霊物であり、雄性の神力を含んだ霊物とみなされる。この淫を治す法術と守宮法術には原理的に相通じるものがある。上述の説明文を読むに、陽符は治心(心臓を治す)に、陰符は治腎(腎臓を治す)に用いられることがわかる。治心は思いを絶ち、治腎は性欲を抑制する意味合いがある。
陽符、陰符とも通常は飲み込む。ただし陰符は身につけることがある。符をつくる者からすると、陰陽の二字(二符)の加減で、陰陽の具合が決まることになる。八つの目で[神のような目で]高みから観察すると、浮気者の心に恐れが生じ、勝手気ままな考えは自然と消滅することになる。
文化が比較的遅れている地域には原始的な観念が流行している。そういった地域の淫乱防止の法術のなかに原始巫術の痕跡が見られる。袁枚は言う、「広西柳州に牛卑山がある。形は女陰に似ているので粤(えつ)人は陰を卑とし、牛卑山と名づけた。毎年大晦日になると、男女十人が新年の夜明けまでそれを守った。警備をなおざりにすると、竹や木の先でもてあそばれ、抵抗できなかった。するとその年、町の婦女はみな淫乱になった。ある町の官吏はこれを憎み、それ[山の陰部]を土で塞いだ。すると女たちは小便がうまくできなくなり、前後で漏らすようになり、傷害を負う者もあった。
山の形が人の形(陰部)と似ていることから、山と人は感応しあい、人の行為を防ぐには山を防ぐと考えた。典型的な万物交感の観念である。この巫術と、『金枝篇』に紹介されている性行為で豊作を促進する巫術と、同工異曲である。
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止嫉妬術は、止淫法術のいわば副産物である。法術の目的は男性の性的特権を維持することである。妾を持つこと、芸者遊びが公認されていた時代、女性が自分を表現し、力を発揮するのは、性愛を通じて、つまり排他的な嫉妬の情を通じるしかなかった。それゆえ古代において「よい嫉妬」は婦女特有の天性のものとされた。
嫉妬深い女は男の意思に背き、円満な家庭を破壊し、家を廃絶に追い込む危険を作りかねなかった。そのため歴代統治者はみな嫉妬が悪徳をなすとして厳しく封じ込めた。戦国時代以来、嫉妬は「七出」の理由の一つに数えられた。漢元帝皇后の母は、後漢大臣馮衍(ふうえん)の妻だったが、嫉妬が原因で放逐された。
南宋の明帝は、当朝廷の公主は「嫉妬するな」と、側近の大臣虞通に『妬婦記』を書かせ、公主の反面教材として用いた。男性の立場から、嫉妬深い女を嘲笑し、排斥する話は珍しくない。「嫉妬しないのは、婦女の道徳の基本」。歴代の文人の著作にはこういった言葉の枚挙にいとまがない。
こうしたことが叫ばれる中、兪正変らは「嫉妬は女性の悪徳にあらず」という論を提唱したが、その声は大きくなかった。道徳や法律でみだらな行為を禁ずることができないように、嫉妬の感情をなくすのは不可能だった。
嫉妬深い婦女はあとを絶たないどころか、社会の中で捻じ曲げられた残忍な恐ろしい悍女がたくさん登場することになった。嫉妬深い女や悍女の被害を受けた者たちのために、方術家は治嫉止妬法術を提供していた。
(6)
『紅楼夢』第八十回のなかで、宝玉は香菱の境遇に同情し、王道士に女人の嫉妬病を治す処方はあるかと聞いた。この問いを江湖上(世間)の薬売りに関することととらえ、海上なら守銭奴だって治せるとふざけながら答える。あだ名が「王一貼」の王道士は何と言っていいかわからず、手を叩きながら笑って言う。「処方箋がないどころか、聞いたこともないですな」。ここで作者は人物を描こうとしているのであり、医学的な処方箋を書くつもりはなく、知っている嫉妬病を治す処方を小説内に滑り込ませたのである。実際古代ではそれは嫉妬病を治す処方というより、嫉妬を止めない法術なのだった。
『山海経』「中山経」に言う、泰室の山、「その上に木あり、葉の状、棃(梨)のようだが木目は赤い。名を栯木(ゆうもく)という。服すれば嫉妬なし」。「服」は栯木の葉を身につけることを指した。すなわちこれは神樹の葉でもって嫉妬心を厭勝する神話である。
『淮南万畢術』に言う、「門冬、赤黍(きび)、薏苡(よくい)から丸薬を作る。婦人は嫉妬しなくなる」。門冬とは麦門冬(むぎもんどう)のことであり、中薬である。赤黍は黍(きび)の一種。薏苡は薬玉米ともいう。穀類の植物である。この三味治嫉妬薬物は単独で使用されることがある。たとえば『如意方』には止嫉妬術とは「牡(オス)の二十七の薏苡(よくい ハトムギ)を女に飲ませること」である。
『本草綱目』によると、麦門冬は多くの種類の疾病を治し、長期間服用すれば「身が軽くなり、気を養い、寿命を延ばすことができる」。
薏苡仁(よくいにん)は人を「軽身省欲(身を軽くし、欲を少なくする)」の効能がある。赤黍(きび)はたくさん食べても益はない。「長く食べると五臓が鈍くなり、人をよく眠らせる」。
『本草綱目』巻二十三「黍」条に『淮南万畢術』の治嫉妬処方を引用している。李時珍はこの処方は赤黍を主薬とみなしているようである。赤黍に「人をよく眠らせる」効能があると説き、李は道理があると述べている。長期服用し嫉妬を治す丸薬であり、一日中ぼんやりして眠くなり、ごく自然に力がなくなり、嫉妬することはない。
しかし『淮南万畢術』の嫉妬を治す処方は基本的に薬理でなく、意識の面では巫術によるものといえた。処方する者は三味薬が尋常でない力で嫉妬を止められると信じていた。
王一貼は賈宝玉をからかう。秋棃(梨)、氷砂糖、陳皮(柑橘類の皮を干したもの)から嫉妬を治す煎じ薬を処方し、三味薬は人を傷つけることはなく、ほんのり甘く、咳止めになり、おいしくて、「食べて百歳を過ぎたとしても、人はいずれ死ぬもの、死んで嫉妬して何になろう。まあそのときには効果があったということだ」。前漢の術士の嫉妬を治す丸薬も、その効能はこんなものだったのだろう。
(7)
古代術師は倉庚そうこう)鳥、ウグイスも一種の止嫉妬(嫉妬を止める)霊薬とみなしている。倉庚、すなわち黄鶯、黄鸝、あるいは黄鳥。『山海経』「北山経」に言う、軒轅の山に「鳥あり、その状梟のごときにて、白首、名を黃鳥という。鳴いて自ら詨(おら)ぶ。これを食せば嫉妬せず」。この種の黃鳥は神化した倉庚(ウグイス)だろう。言い伝えによると梁武帝の皇后郗(ち)氏が嫉妬深く、武帝が捕虜として捕獲した斉朝宮女らに接触することさえ許さなかった。『山海経』を読んだ人がいて、倉庚(ウグイス)を膳食してはどうか、嫉妬を治療することができると提言した。武帝がその法を試してみると、郗皇后の嫉妬は半減したという。明人楊慎は、嫉妬深い性格はなかなか治らないものと誇張し、郗皇后の伝説を根拠にいい加減な物語を編んだ。
梁武帝は術士の話を聞き、郗皇后とともに倉庚(ウグイス)を食べた。このとき倉庚の効力を試そうと梁武帝は意図的に、食べ残した倉庚をほかの夫人たちに味見させてみてはどうかと提案した。その結果、食事をしていた郗皇后の箸が止まり、食べるのをやめ、顔には怒りの表情が浮かんでいた。武帝は感嘆することしきりだった。もちろん楊慎の真意が何であろうと、この物語が倉庚の止嫉妬法に対する皮肉になっていると考えざるを得ない。
婦女の汚物は愛をもたらすものとして用いられてきたが、嫉妬を止ませるものとしても用いられた。『博物誌』にはこれについて述べられているほか、その方法にも言及がある。「婦女に嫉妬させないためには、婦人の月水(月経)を取り、それを含んだ布でカエルを包む。厠の前一尺のところで五寸ほど掘ってこれを埋める」。『如意方』に言う、嫉妬深い婦人本人の月経の布でカエルを包む。「甕の中にそれをたくさん入れて、蓋をし、厠の東側に埋める。すなわち夫を用いず」。「夫を用いず」とは、婦女が夫の心を独占することはないということである。古代の医術には「狂言鬼語」を治療するためにカエルの灰を用いるというのがあった。カエルは百邪鬼魅を取り除く神力を有すると認識されていた。厠神とカエルのパワーを借りて、嫉妬深い婦人に対しては月経の布を入れ、嫉妬深い婦人の霊魂に対しては厭鎮を実施した。
嫉妬深い女性の行動を変えるのに頭髪や霊土を用いられる。『霊奇方』に言う、ある人の頭髪をかまどの前三尺の地面深くに埋めると、その人は怒れなくなるという。この嫉妬深い婦女(妻)が「河東獅吼」(わめくこと)するのを防ぐのに広く用いられる。ゆえに『医心方』では止嫉妬術として列挙される。
『延齢経』には「女奴隷が嫉妬するのを治療する処方」について記載する。男の足元の土汚れを焼いて灰を作り、それを酒に入れて嫉妬深い女奴隷に飲ませる。これにより「(男は)百女を取り、(奴隷は)何も言わない」。
仏教には嫉妬深い女、あばずれ女を治療する化妬神呪(嫉妬をなくす呪文)があるという。ある小説には書かれている、扈統(ことう)の妻荀氏の嫉妬深さ、悪辣さが尋常ではなかった。
ある日扈統の夢の中に神が現れて告げた。「天上に『化妬神経』の書がある。孔丘、孔鯉、孔伋と孔家三代にわたって離婚しているが、その後人間世界で失伝している。今、我はそなたに伝授いたそう。そなたはまことにそれを聞くことができるのだ」。
そう語ると経典を開け、朗誦しはじめた。扈統は耳を澄ましてしっかり聞き、心にとどめた。それから毎朝経文がよまれ、三日後に荀氏は温和になった。
よまれはじめて四十九日後、荀子は大病にかかり、口から何かを吐いた。この物体は黒い漆の色をしていて、二つの頭は蛇に似て、二つの尾はサソリに似ていた。
夜になって扈統はまた夢を見た。神人は指さしながら言った。「これはそなたの妻の妬根であるぞ。今、仏力でそれを抜き取ったのじゃ。嫉妬心は永遠になくなったぞ」(『堅瓠十集』)。
小説では妬根がいかに怖いかに力点を置いて描いているが、『化妬神経』では出まかせを並べ立てている。しかし術士はなんだって呪文にできると認識していた。嫉妬を止める呪文もそうやって自ら編み出したものだった。
淫乱を止める法術と嫉妬を止める処方は浅はかで下品でさえある。常人には耐えられない経験であり、直感的検証である。ゆえにそれが流伝する範囲は小さいものだった。世間に混じって長年を過ごした老道士王一貼は嫉妬の治療について聞き、思わず笑いだしてしまった。そして従来この種の奇術は聞いたこともなかったとあきらかにし、この種の法術はつねに蔑まれたので、盛んにおこなわれることはないと述べた。