古代中国呪術大全
第3章 16 子を授かる呪術
(1)
古代中国においては、家庭の倫理規範や思想意識はつねに支配的な大家族制度の影響を受けてきた。家庭の財産を継承する人を育て、祖先の血統を後世に伝えるのは、婚姻の主要な目的とみなされた。同時に順繰りに家庭に入るのは、すべての成人の人生の基本的な義務と考えられた。子がないということは、後継ぎがないということだった。後継ぎがないということは、祖宗の「血食」が断絶するということだった。これは無能を意味した。それは最大の不幸だった。子のない女性は「七出」(離縁)の対象となり、夫の家に対して慙愧の念を自覚した。子のない男も同様に社会から差別され、蔑視され、説明しがたい煩悶と苦痛のなかに置かれることになった。
古代の人々は出産を重要なものと考えていた。ただし出産の仕組みに関する認識は幼稚な段階にあった。歴代の医術家は不妊の原因は生理的問題ととらえていたが、同時に鬼神、命理[周易学用語。解命理論]といった神秘的な原因とも関係があると考えていた。
隋代巣元方[名医]の言葉は当時の考え方を代表している。「子のない婦人には三つのこと(要因)がある。一つに、墓を祀っていない。二つに、夫婦の年命が相克である。三に夫が病気で、妻が風疹にかかっている。どれも(それが原因で)子に恵まれない。もし墓を祀っていなくて、年命が相克なら、それを治すのに薬は効かない」。
古代医学は同居の時間と受胎の関係についても認識は正確ではなかった。馬王堆帛書『胎産書』から明代袁黄『祈嗣真詮』まで、どれも生理が始まってから三日以内に受胎が可能であり、六、七日後では不可能とする。李時珍は女性が「脇から産む」「額から産む」「背中から産む」「太ももから産む」ことができると信じただけでなく、女性は思慕が深いと夫なくして孕むことができると信じていた。こうした知識が広がる背景として、生子巫術が民間に広く流布していたからだろう。
(2)
古代に流行した生子巫術はその用途によって三つに分類される。一つは、無子の祟りの祓除、あるいは無子の疾患の治療。二つは、胎児の性別の変更。三つは、胎児の未来の運命への影響。
求子(子宝に授かりたいと願うこと)に関する祓祭活動の起源は新石器時代までさかのぼることができる。ここ数十年、考古学者は新石器時代の生殖巫術の遺物を大量に発見してきた。
伝説によると周族の始祖母姜嫄(きょうげん)は祓除無子儀式に参加した。『詩経』「生民」の「禋(いん)を行い、祀を行う。よって無子を祓う」とはこのことを描いている。「生民」の詩はまたつぎのように言及している。
「履帝武敏歆、攸介攸止、載震載夙、載生載育、時維后稷」。
聞一多は、この一節は当時の求子儀式の描写であると考えた。「履帝武」とは、上帝の脚印を押すということである。詩の帝は人が扮した上帝であり、前面で踊り、子を求めて婦女のあとを追いかけ、足跡を残す。この神力を受け、無子の祟りを祓除する。ほかの古籍の記載によれば、姜嫄が巨人の脚印の上を踏み、懐妊して子を産むという神話もある。どれも求子儀式を曲折しながらも反映している。
商代の卜辞に少なからず「〇生」という言葉が出てくる[〇はなじみのない文字だが、意味は求に近いので、以降は代替文字として求を当てたい]。
求生は祈求生育儀式である。卜辞では男の子を生むことを嘉、女の子を生むことを不嘉と呼んでいる。商代の求生は男の子を祈り求めることが多かった。求生の祭の対象となるのは高妣丙(こうひへい)、妣庚(ひこう)、妣丙(ひへい)などで、彼女らは王の妻(王后)だった。彼女らは多くの子供を育てたという面では他の妣(ひ)よりもはるかにすぐれていたので、後世の人から生育の神に奉られるようになった。
(3)
商、周、秦、漢時代の最高の生育神は高禖(こうばい)である。この神は玄鳥、すなわち通常は燕(つばめ)の化身である。商族には「天命玄鳥、降而生商」(天に生まれた玄鳥が人間界に降りて、母簡狄が商の始祖の契を生む)」の神話がある。彼らは玄鳥をトーテムとして奉じ、生育を掌る神鳥とみなした。
後世の人は男女が通じる「媒」という言葉を借りてそれを呼ぶようになり、文字においては媒を禖に改めた。これはこの生育神の威厳と神聖さを増すためだった。
周秦時代の祭高禖儀式についてさらに考察を進めていこう。仲春の月(農暦二月)、ツバメの第一陣が北方に帰るとき、天子は自ら郊外に神廟を設置し、太牢の礼でもって高禖を祀った。王后は嬪妃(ひんひ)[妾や女官など]を率いて侍祠にやってくると、祭品や器、道具などの準備を整え、天子と廟の中に同居した。数日間祭祀や求子儀礼などをおこない、結束を固めて雰囲気は最高潮に達した。
天子は嬪妃をひとりひとり(馬のように)御して、高禖の前に連れていく。あらかじめ弓と矢を受け取っていた祭司は、弓の束を持って構える。天子と官員(役人)らは並んで嬪妃に向かって敬礼する。彼女らが弓矢の威力に感化され、インスピレーションを受け、国家に戦士と英雄を増やすことに尽力できればと願う。
無子の祟りの祓除と高禖の祭祀の風俗は漢代に大流行した。漢武帝は即位後何年も子宝に恵まれなかった。このため三月上旬、自ら灞水(はすい)のほとりに行き、凶邪を祓除した。二十九歳のとき、はじめて男の子をもうけ、ついに禖神の位牌を設置し、厳重に祭った。また東方朔と枚皋にそれぞれ『皇太子生賦』と『立皇子禖祝』の祭文を書き、高禖に感謝を表すよう命じた。
「禋(いん)を行い、祀を行う。よって無子を祓う」
このような活動(天を祀り、子を授かることを願う)は古代中国で頻繁に見られたので、ここでは説明を省略したい。ただ注意しておくべきことは、祭祀と比べ、純粋な生子巫術についての言及は少ないことである。
秦代以前、芣苡(ふい)、すなわち「オオバコ」は、女性にとっては聖なるものだった。芣苡の別名は多く、今も通称は車前子である。『詩経』中の「芣苡」という詩は、女性が芣苡を採集するときの歌謡である。芣苡を採る作業をしながら詩を反復して歌う。女性にとって芣苡は特殊な用途を持つものだった。
毛亨はつぎのように解釈する。「芣苡、馬舃。馬舃、車前なり。懐任(妊)によいものである」。
『逸周書』「王会」に言う、桴苡(ふい)の木もまた宜子(女性の生育能力)があるという。「桴苡、その実は李(すもも)に似て、これを食べれば子を授かる」。
晋の孔晁の注。「桴苡を食べれば身ごもる」。
許慎『説文解字』の解釈は、「芣苡、別名馬舃。李のごとき(実を)食べれば子を授かる。
『周書』に言う。「芣苡と桴苡は同一である。「その実は李(すもも)のごとき」という桴苡は、結局神化した車前子ということである。
一方芣苡はどうして子を授かる霊物(縁起物)となったのだろうか。聞一多は緻密に分析している。「芣苡(ふい)の音は胚胎(はいたい)に近く、類似律の魔術観念を根拠に、古代の人は、芣苡を食べることで受胎し、子を授かると信じた」。聞一多は『芣苡』の主題の新しい解釈としてつぎのように述べる。「婦人は思うだけで孕むものである。芣苡を食べるだけで懐妊する。ゆえに声をかけあって採集し、これを食べる」。
当然、車前草を食べると「子を授かる」という観念がすでにあった可能性がある。のちに「胚胎」に近い名をつけたのかもしれない。いずれにせよ周人が芣苡を、子を授かる霊物(縁起物)とみなしたのは事実である。
(4)
漢墓から出土した『胎産方』が列挙する多くの求子法の大部分は巫術である。この書の中で示しているのは、「多男無女」(男の子が多く、女の子がいない)の場合、女の子が生まれるには、胞衣(えな)を、影になっている庭園の壁の下に埋めなければならない。これとは逆に、日なたになっている庭園の壁の下に胞衣を埋めると、男の子が生まれる。
もう一つの方法は、甗衣(えんい)、すなわち古代の炊事道具である甗(こしきがま)をくくりつける紐(ひも)で胞衣を縛り、壁の下に埋めれば、男の子が生まれるというもの。
胞衣を埋めて子を生む法は、つぎのようなロジックに従っている。まず胞衣に陽気(陽のエネルギー)あるいは陰気(陰のエネルギー)の影響を受けとらせる。そしてこのエネルギーを胞衣によって、胞衣と感応関係をもつ女性に渡される。これによって胎児の性別をコントロールできるようになる。
『胎産書』に言う、「求子の道いわく、九宗の草を求め、夫婦ともに酒でこれを飲む」。九宗とはすなわち九族。本人の一代のほか上輩四代、下輩四代。あるいは父族四、母族三、妻族二。九宗の草を集めて大家族の意志と力量とする。子が生まれるのを妨げようとする邪祟はかならず破壊される。
『医心方』巻二十三に治逆産方(逆子を治す医方)が引用されている。「三家の飯を赤子の手に置く。すると順(産)になる」「三家の塩を取って煮詰め、手足に塗るとただちに出る」「三家の水を取り、それを服する、あるいは手を洗うと、順に生まれる」。この医方と九宗の草で無子を治す法術とは基本的に同一の巫術観念である。
(5)
古代の巫医は赤い小豆を多方面の用途に用いた。その一つが無子の疾患の治療だった。
『玉房秘訣』に記載される求子法はもっともおかしなものである。
「婦人の無子を治すために、婦人の左手に小豆二十七粒を持たせ、右手で男子の陰頭(亀頭)を支え、女陰に入れさせる。左手で小豆を口におさめ、女は自ら陰同(通)を入れ、男の陰精が下りたら、女は小豆を呑み込む。すべてがぬかりなくおこなわれるべきである。女は男の精が出たのを知り、時間(タイミング)を失わないようにしなくてはならない。
ここにおいて赤い小豆は陽精を強化する霊異の物とみなされる。すなわち婦女が身ごもって生む男の子の霊妙な種子となる。
古代の術士は「合陰陽」の日時と生まれた子の関係を特に重視した。彼らは子丑寅卯の「子」と生子(生まれた子)の「子」の字がおなじことから、先験的に子の日を定めるのに、子を含む日にしたのである。子の日を規定するのに、とくに戊子日、庚子日、壬子日が、求子、夫婦合陰陽を行なうのに最適な日時なのである。
『葛氏方』には「婦人の不生子[子を授からないこと]を治す医方」が載っている。「戊子日に婦人に脛(すね)をさらして横になってもらい、頭を北西に向けて交接する。五月、七月の庚子日、壬子日であればさらによい。
『枕中方』はすなわち言う、「子日に生まれてほしければ、子日正午、南に向き、陰陽合わせで寝る。効験あり」。南方は陽気が充満している地であり、正午は陽気が充溢する時である。術士は求子方を練るとき、厳格に陰陽原理を追うものである。
一部の術士が強調するように、夫婦は子日に交わると同時にその他の法術を使用し、その他の霊物(縁起物)を服用する。
『新録方』に言う。「つねに戊子日の日中に陰陽を合わせ、髪を解いて振ると、たちまち得る」「。「髪を解いて振る」と似たものとしては、髪を振り払う、衣を振るなどがある。髪を解くとは、もともと一種の辟邪法術であり、秦簡『日書』や秦文公伐梓樹の神話などはこの方法に言及している。
『葛氏方』に言う、満開でない桃花を取り、陰干しすること百日、そのあとよく搗いて粉末にする。戊子日、三指で(粉末をつまんで)酒といっしょに服す」、すなわち子を身ごもる。この法術には伝統的な霊物(縁起物)である桃花を配合して交わるという隠れた意味が含まれている。
『本草拾遺』は述べる。「夫の尿のしみた土によって子が授かる。壬子日、婦人はこれを少し取り、水といっしょに服用する。この日同衾すれば、身ごもっている」。
(6)
陰陽学説の解釈から考えるに、夏暦(農暦)正月は陽気が萌え動き出す季節である。正月の雨水、正月十五日の灯盞(とうさん)は、この種の観念と関係のある男の子が生まれる霊物(縁起物)である。[灯盞とは、もともとは覆いのない油灯のこと]
『新録方』に言う、「正月、降雨が始まると、男女それぞれ一杯ずつ飲む。すると身ごもる」。
『本草拾遺』に言う、「正月十五日の灯盞によって人は身ごもる。夫婦、(他人の)灯を盗んで、自分たちの寝床の下に置いた。このことは人に知られてはいけない。この月に妊娠する」。
唐代以来、正月十五日を上元節とする道家の習慣は社会的に認められるようになった。上元の夜、灯を放つ(灯篭を飛ばす)習慣は民俗的な景観となり、灯を盗む法術もまた発展してきた。
『歳時広記』巻十二に引用する『瑣砕録』は言う。亳社(はくしゃ)、すなわち現在の安徽省亳(はく)県の巷に、上元の夜になるとつねに他人の灯盞を盗む小さい人がいた。目的は盗難の被害に遭った者から罵りを受けることだった。そして灯(ひ)を盗んだ者はこの罵りがこれ以上なく縁起がいいことを知っていた。上元の灯盞を盗むのは縁起がよく、男の子が生まれることも同様だった。縁起がよければ男の子が生まれ、男の子が生まれることは縁起のいいことのひとつだった。
仏教伝来後、民間には仏教信仰活動と結合した生子法術が少なからずあった。
『耆婆方』に言う、「つねに四月八日、二月八日、仏にお香と花を奉じれば、子孫は多く、無病である」。四月のあとに二月が来るのはおかしいので、二月八日は十二月八日の間違いだろう。四月八日は仏誕節(仏陀の誕生日)、十二月八日は釈迦牟尼成道を記念した成道節である。この特別な両日に仏像に向かってお香と花を供えるのは、仏の力を借りて無子の災いを取り除こうとしているのである。
明代の袁黄は『祈嗣真詮』で言う。子を求める者は「山川の英神、鬼神の霊にも祈り求める。どれからも力を得ている」。彼はこの書の中の「祈祷」という一篇にも、祈子呪法を並べ、自らこれらの呪法を試している。しかし袁氏が列挙する呪文には中国の神霊は含まれず、すべては仏典から採られたものである。
(7)
古代の生子法術には変女為男法術(生まれる女の子を男の子に変える法術)があった。
また古代の医家は揺るぎない信念をもっていた。三か月以内の胚子には性別がなく、懐妊後三か月以内に薬を服用し、法術を受ければ、自然に女性の胚子になるところが、男性の胚子に転じると信じていた。
漢墓出土の『胎産書』に言う、三か月の胚子を「始脂」と呼ぶ。「このとき(始脂の時期)いまだ(性別は)決まっていないが、変えることができる」。後代の医家はこの説を基準とした。
孫思邈は『徐之才養胎法』を引用して言う、「(身ごもって)三か月を始胎と呼ぶ。血脈が流れず、形が変わり、性質もはっきりせず、分化しはじめたところである。男女にも分かれていないので、三か月以内であれば、薬を服用し、方術によって性を転じ、男の子を生むことができる」。その他の医書にも同様のことが記されている。この誤った説が古代のすべての変女為男法術の理論的な基礎となっている。
胎児の性別を変えるのはそれほど困難なことではないと、古代の医家はみなしている。彼らは男の生活と密接な関係があるもの、および雄性(男性的なもの)、陽性のものはすべて女を男に変える魔力を持っていると認識していた。
秦代以前の高禖(こうばい)を祀る儀式では、嬪妃(妾や女官)に弓の束を体に掛けるよう要求した。これは携帯している物品によって性別の決定に影響が与えられた、あるいは胎児の性別をコントロールしようとしたもっとも早い記述である。
『千金方』などの書には「弓弩(いしゆみ)の弦を取り、深紅の袋に詰め込む。それを婦人の左腕に掛けるといい。あるいは、腰に掛けるといい。満百日でこれを取る」とある。これは秦代以前の古いやり方である。弓弦以外では、大刀と斧が変性霊物(性を変える霊的な力のあるもの)として用いられた。これらは弓矢と同様男性がもっぱら用いるものであり、常用したものだからである。
『葛氏方』『如意方』とも「ひそかに臥席(横になったり休んだりする床)の下に大刀を置く」。すると(生まれる子供を)女の子から男の子に変えることができる。
『霊奇方』は言う。「孕んでから」三か月未満であれば、斧を取って婦人の床の下に置く。すると(女の子が)男の子になる。
孫思邈らは斧を置く方法を紹介するだけでなく、この方法が霊験あらたかであることを証明する有力な傍証を挙げる。
「斧を産婦の床の下に置く。斧の刃は下に向ける。このことは人に知られてはいけない。信じなくても、ニワトリが卵を産むのを待てばいい。巣の下に斧を置けば、生まれてくるひよこはみな雄である」。
民間がつねに用いる方法は、夫の衣冠衣帯(正装すること)によって性別を決めるというもの。張華は言う。
「婦人が妊娠して三か月未満のとき、夫は衣冠を着け(正装で)、朝早く(陽が地平線に見え始めた頃)井戸の周囲を左回りに三周し、詳(吉祥)の影を水に映す。振り返っても、人に知られてもいけない。かならず男の子が生まれる」。
宋代の周日用はこれを補足して言う。張華が言及している方法は、女の子を男の子に変えるものであると。もし胎児が女の子であることを知っていて(女の子を男の子に変える)法術を行うのならともかく、胎児が男の子なら、この法術を行うのは無意味である。それゆえ施法の前に胎児の性別を知らなければならない。
「私は決まった方法があると聞く。決まった(懐妊してからの)時間、受胎の日時などから計算し、奇数なら男、偶数なら女である。女の子であることがわかったら、(男の子に変える)法術を行う」。
周日用の解釈によれば、三か月内の胚子はすでに性別が分かれていることを認識しているかのようだが、実際はそうではない。「男の子にする」「女の子にする」と言っても、男への分化、女への分化はすでに始まっている。
張華の説とよく似ているが、『枕中方』によれば夫の衣の帯を焼いて灰にし、それを妊婦に食べさせれば女の子を男の子に変える効果があるという。「妊娠して三か月、男の子を求める。夫の衣の帯を三寸ほど取って焼いて灰にする。井華水(早朝最初に汲んだ水)を二升、東南に向いて服用すればたいへんよい(男の子になる)」。
雄の鶏の羽根、雄の鴨の羽根も、胎児の性別に影響を与えるとして用いられる。
『如意方』に言う、「カラスの左の羽根二十本を女人の臥席の下に置く。すると男の子が生まれる」。また言う、「雄の鴨の羽根二本を取って婦人の臥床の下に置く。このことは知られてはいけない」。
『葛氏方』には一風変わった男の子の生み方が記されている。「身ごもって三か月、オンドリの溺(尿)を浴びる」。オンドリの羽根で胎児の性を変えるだけでなく、オンドリ(の尿)を使って沐浴し、同様の威力を得るのである。
(8)虫卵や卵房
雄黄(ヒ素の硫化鉱物)は古代において、疫病を除くために、虎狼を駆逐するために、鬼魅を避けるために、巫医が用いるとともに、生男霊物(男の子を生むための縁起物)としても用いられた。この法術を作った人は雄黄の雄の文字を見たのだろう。孫思邈はこの「変女為男法術」を記録する。「雄黄を一両取り、深紅の袋に詰め込み、これを帯びる(携帯する)。女は雌黄を帯びる必要がある」。
虫の卵や卵房は人類の生殖と表面的に似たところがあるので、男の子が生まれる霊物(縁起物)とされた。『胎産書』に言う、「懐妊したとき、蒿(こう)、牡(ぼ)、卑梢(ひしょう)の三つの薬を混ぜ合わせて服用すれば、かならず男の子が生まれる。すでに試したとおり」。
これは子を求める婦女が食事のとき三つのもの、卑梢、蒿草などを合わせて服用する。粉末にし、その粉を水に溶かして服用する。卑梢は、後代、一般に蜱蛸(ひしょう)、またの名を桑螵蛸(そうひょうしょう)という。[卑梢はつぎに述べるように、カマキリの卵のこと]
『産経』には14の桑螵梢を細かく砕き、それを酒といっしょに服用する生男法について書かれている。そのもととなったのは『胎産書』に書かれた方法だろう。蜱蛸、桑螵蛸とは、カマキリが桑樹上に産んだ卵、および卵を包む卵房のことである。卵房の「房の長さは一寸ほどで、親指の大きさである。そのなかが隔てられ(部屋のようになっていて)各部屋に蛆の卵のような子がある」。
古代の人はそれを用いて胎児の性別を改変しようとした。すなわち房内の「性」がどちらでああるかを妊婦に伝えようと考えたのである。ほかにも、螳螂(かまきり)またの名を当郎は、「両腕が斧のようで、当(まさ)に面と向かい合ったら回避できないことから当郎と名づけられた」。カマキリの形象が陽剛の気に満ちていることから、また当郎の名が「応当得郎」を連想したことから、カマキリの卵房はごく自然に術士から生男霊物(男の子を生む縁起物)とみなされたのである。
毛虫の卵房である「雀甕(じゃくおう)」と蜂房(蜂の巣)中の卵蛹は、漢代においては宜男霊物(男の子がよいとする縁起物)として用いられた。
『胎産書』は言う。「懐妊して三か月以内で、爵甕を呑めば、生まれる子は男の子である。いわく、爵甕中の北を背にした青い虫はこれを食べる。するとかならず男の子が生まれる。万全である」。
爵甕とは雀甕のこと。毛虫が木の上で作る繭のことである。その形は甕に似て、雀が喜んで繭の中の虫卵を食べるので、雀甕と呼ぶ。この書はまた言う。「蜂房の中の子、狗陰、干してこれを混ぜて、懐子がこれを飲む。すると懐子から男の子が生まれる」。
文中の懐子とは妊婦のことである。雀甕、蜂房と蜱蛸の構造が似ていることから、それらの霊化の原因は基本的におなじだと考えられたのである。
(9)
孫思邈(そんしばく)は方術の使用のほかに、薬を服用することで胎児の性別をコントロールすることができると述べている。医家は服薬と方術を使い分けていた。服薬に巫術的性質は必要ないのだ。ただ、彼らは変性薬物やはっきりしない原理に基づく処方を用いていた。なおかつすばらしい薬物と(そうではないものを)混ぜて用いた。本物と偽物を見分けるのは非常にむつかしかった。
たとえば一部の医師は、妊娠三か月以内に蚕屎(さんし)を服用し、東向きの楊柳の枝を佩帯し、五茄(灌木)を床の下に置き、石南草四株を取って床下に置き、宜男草(萱草)、つまり忘れ草を食用にするか佩帯すればよかった。どれも「必得男」(かならず男の子が得られる)の効果があった。こういった薬は巫術霊物(巫術の縁起物)と大きな違いはまかった。
孫思邈は「丹参丸方」なるものを挙げている。それは妊娠したことを自覚し、飲食や起居に注意を払って、胎児を守ろうとする婦人のための丸薬である。それによって、女の子の胎児を男の子に転じさせることができる。丹参丸は、丹参、人参、干姜、冠纓、甘草、犬卵、東門上の雄鶏頭など十九味の薬物に蜂蜜を加えたもの。
このなかでも冠纓(灰)[帽帯のこと。役人であることを示す]、犬卵、東門雄鶏頭の三味薬はあきらかに巫術霊物(呪物)である。冠纓の作用は夫の衣冠に相当する。犬卵は『胎産方』中の「狗陰」に相当する。東門雄鶏頭は雄鶏毛(羽根)に相当する。この三味薬によって女の子を男の子に変えるというのは巫術原理である。丹参や人参などを用いる「薬養胎」とは一線を画すことになる。丹参丸は医術と巫術の共同作業の産物なのである。
巫術の実践のなかでは、宜男霊物(男の子をもたらす縁起物)は、つねに総合的に運用する。『胎産書』には、大禹の質問に幼頻(ようひん)が回答する形式で書かれている。懐妊後三か月は、胎児の性別を決めるカギとなる重要な時期である。男の子が欲しければ妊婦に命じて「孤矢を置き、雄雉を□(射?)ち、牡馬に乗り、牡虎を見るといい」。
『産経』にも伊尹に仮託して述べている箇所は上述の文とよく似ている。「賢母が身ごもったなら……文武の兵器で遊び、弓矢を持ち、雄雉を射て、牡虎を見て、馬犬を走らせば、生まれてくる子供はかならず男の子である」。
術士からすると、妊娠三か月の婦女が、男性がつねに持つ弓矢を手にし、雄の野鶏を射て、雄の虎を見て、男の子が好きな犬馬の遊戯をして遊ぶなら、抗えないほどの力が集まり、胎児は男の子になっていくしかないのである。
(10)
古代に流行した生子巫術には、生子富貴法術(生まれてくる子供を富貴にする法術)も含まれていた。
ひとりの人間の運命が、母親のお腹の中にいるときにすでに決まっているとする観念の起源はきわめて古かった。生辰八字を根拠に、富貴と貧賤(ひんせん)および一生の間にどんな目に遭うか予測するのは命理家の方法だった。秦簡『日書』中の「生子」篇に「甲寅の生子はかならず吏となる(甲寅の日に生まれた者は役人になる)」「乙丑の生子は貧しくて病気になる」といったぐあいだ。
『医心方』巻二十四に引用する『産経』には二十余種の相子法が記されている。ただ実際は、「甲子年生、寿九十、麦を食す」「正月男の子が生まれ、兄弟を妨げる」といった怪論にすぎない。
生子富貴論とこれら予測法はどちらも、運命があらかじめ決まっているという観念の基礎のうえに成り立っていた。違いがあるとすれば、予測法は否定的になりがちであり、胎児の運命は上天で決定されるという認識があったことである。一方の生子富貴術は、超自然的手段によって胎児の運命を制御できるし、確定することができると考えた。
胎児の運命を制御するために、象徴的な霊物(縁起物)を使用する。それには虎鼻、蛤蟆(カエル)、男子の冠纓(帽帯)も含まれていた。
古い方術書『竜魚河図』は言う、紋虎の鼻を門に掛けるのは「宜官」のしるしであり、子孫はみな官印を身につけた。虎鼻を門に掛け、一年後にそれを取り、燃やして灰を作った。そして婦女にそれを水とともに服用させた。「二か月で子供あり。貴い子を生む」。
術をおこなう者はこの法は秘密であると強調する。「人に知られてはいけない。(世間に)漏らせば効き目がなくなる。また婦人がこれを見てはならない」。
陶弘景、李時珍、張宗法らはみなこの法術を信じた。虎は獣の王である。虎の鼻を掛けたのは虎の威が胎児に伝わると考えたからだった。長じてその子は出世するかもしれない。しかし「婦人はそれを見てはならない」といった要求をしたところで、何かが変わるわけではない。虎の鼻を門に掛けて、一年以内に婦人がそれを見つけないわけもなく、術士らは丹薬を使用することなく終わるだろう。
『枕中方』には方法の一つが記されている。「井戸の中のカエルを戸の上に置くと、生まれてくる子はみな貴い」。
漢晋代の術士はみなカエルが辟兵(武器を避けること)の効能があると信じていた。カエルは武器による傷害から人を守ったので、道家から見ると、権力や宝物以上に価値ある命といえた。本来カエルは辟兵霊物(武器を避ける魔除け)として用いられたが、ここでは貴い子をもたらす霊物(縁起物)となった。
(11)
術士によっては男のかぶる帽子の帯、すなわち冠纓を重視する。『玉房秘訣』は言う。
「婦人が懐妊してから三か月未満で、戊子(の日)に男の冠纓を取って燃やし、灰にして、それを酒とともに飲むと、生まれてくる子は富貴で明敏となる。これは秘の中の秘である」。
秦代以前、貴族の子弟は二十歳前後になると加冠取字の冠礼を挙行した。これによって彼らは宗族や社会から合法的な戦士や統治者として認証されたのである。こうして冠と冠纓は男子の尊厳の象徴となった。[加冠は及冠、弱冠ともいう。二十歳になれば字(あざな)をつけることができた。たとえば諸葛亮の字は孔明である]
子路の「君子は死すとも冠を免(ぬ)がず」という故事は、身分の高い男の人にとって冠と冠纓がいかに重要であるかを物語っている。冠纓とは、男性であることを示すということであり、転女為男法術(女の子を男の子に変える法術)である。孫思邈は丹参丸の古医方はまさにこのようなものであり、「富貴で明敏な子を生む」ために用いられる。それは転女為男を一歩進めた結果である。
古代術士は、特定の日時に特定の方式で合陰陽をおこなえば、貴い子を生む効果が得られると考えた。唐代の韓翊(かんよく)が夏暦二月の「乙酉日の日中に、頭を北に向け合陰陽をすると、貴い子が得られた」のはその一例である。
伝統的な巫術の考え方からすると、産婦および嬰児と胞衣の間には永久につづく感応関係があった。胞衣の埋蔵方式は子供に大きな影響を与えた。それゆえ胞衣をどのように埋蔵するかが重要になった。これと関連した巫術行為には、胞衣埋蔵の禁忌があり、また埋蔵によって子供の吉祥に満ちた運命が確定する。
後者の法術と預致胎児富貴の法術(胎児に富貴をもたらす法術)はすべておなじというわけではない。それは子供が生まれたあとにおこなわれる。胞衣の埋蔵は分娩のあとにおこなわれるので、このうちの一つについて述べよう。
漢墓から出土した『雑療方』に「禹の胞衣埋蔵法」が詳しく述べられている。また選ばれた埋蔵法である「禹蔵図」が付せられている。この法術の大意は、胞衣の埋蔵は「小時」と「大時」を避け、「死位」にない数字より大きな吉日を探し出さなければならない、ということである。[一日は24の小時、12の時辰(大時)に分けられる]
分娩のあと、すぐに流水、あるいは清潔な井戸水を使って胞衣を何度も洗い、そのあとへその緒も繰り返し洗い、水を完全に切る。きれいな古い小盆に胞衣を入れ、別の小盆で虫が入らないようにきっちりと蓋をする。最後にきれいな、朝日が当たる、日当たりのいい場所に小盆を埋める。この処理の仕方のように、聡明で智慧があり、肌の色もよく、病が少ない嬰児が生まれるだろう。
のちに術士は胞衣埋蔵法を改良して、器の中に古銭などを入れるようになった。
『産経』に言う、胞衣を埋蔵しようとするなら、まず清水でよく洗い、良質の深紅の絹織物できれいな胞衣を包む。新しい甕の底に「子貢銭」を5枚入れる。文字の面は上にする。そして包んだ胞衣を入れる。新しい瓦の蓋をして、泥土を塗って密封する。[埋葬の場合銭を入れるのは彼岸に行くための船賃だが、埋蔵する胞衣を入れた甕に入れる場合、子が立身出世することを願うのだろう。貢には出世の意味がある。商売がうまく、政治的才能にもたけた孔子の弟子子貢にかけたかどうかはわからない]
そのあと埋胞図をよく見て、吉日と方位を選定し、男性が土を掘って胞衣を埋める。坑(あな)の深さは三尺二寸がよい。土で埋めたあと堅くなるまでよく搗く。
「この法に従えば、子供は長生きし、美しく、才能があり、善良で、知恵があり、富貴な者になるだろう」。
『産経』は筆やニワトリの雛(ひな)を埋め、また土偶を埋めながら子供の父は祷詞を口ずさんだと記す。これは伝統的な埋胞法である。筆をいっしょに埋めるのは子供に文才を持ってほしいからである。なぜ雛と土偶を埋めるのかははっきりしない。しかし施術者にはそれぞれの解釈があるはずである。