古代中国呪術大全 

3章 18 富を得て、願いをかなえる呪術 

 

(1)

 原始社会の形成において古い法術(呪術)を比較すると、致冨術(富を得る法術)はもっとも遅く登場した巫術の一種といえる。春秋時代以前、個人の富を得たいという欲望は宗族組織と原始的財産分配方式による歯止めがかかり、十分に発展することがなかった。

戦国時代以降、宗族体系が崩壊し、商品経済が空前の活況を呈し、幽霊のごとく社会生活のあらゆるところに姿を現した。貪欲に利潤を追い、富を得たいという欲望が増して、餓鬼のように下腹を膨らますことになった。

これと同時にたまたま金持ちになったり、運よく金持ちになったりする一方で、わけもなく一晩で成金になったりするケースもあった。また普通のやりかたで富を追及する信念を失い、努力なしで一攫千金を夢見たり、超自然的な手段で富を得ようとしたりする輩もいた。これは致冨(富を得る)の渇望が自己コントロールへと変貌する過程であるといえるだろう。このような強烈な致冨欲望が現れたとき、致冨巫術(富を得る巫術)が作られたのである。

 

(2)

 漢代の術士が唱えた致冨術(富を得る法術)のひとつに、青蚨環銭法がある。古代ではつねに銭を青蚨(せいふ)と呼んだが、これが由来である。

 『淮南万畢術』に言う、「青蚨とは戻ってくる銭のことである」。

 『説文解字』は言う、「青蚨、水の虫、銭を戻す」。

 青蚨の習性と青蚨の使用法に関して晋の干宝は詳細に説明している。「南方に虫あり。名を□(□は虫偏に禹)、またの名を□蠋(□は虫偏に則)、あるいは青蚨という。形はセミに似るが、やや大きい。食べると辛みがあっておいしい。

草の葉に蚕ほどの大きさの子(虫)が生まれる。その子を取ると、母親はどこにいようと飛来する。そこでひそかに子を取っても、母親はかならず気づく。母親の血を八十一枚の銅銭に塗り、子の血を八十一枚の銅銭に塗ると、市で物を買うとき、先に母の銅銭を用いても、あるいは子の銅銭を用いても、皆飛んで戻ってくる。この循環に終わりはない。ゆえに『淮南子術』はこれを還銭とし、青蚨と名づけた。

 ほかの一部の古籍は、青蚨のまたの名を魚伯、蒲虻というと言及している。青蚨の血を銅銭に塗り、小銭を甕の中に投げ入れるか、頭巾に包んで、東に延びる陰になっている壁の下に埋める。三日後にそれを取り出して血を塗る。

 『本草綱目』には青蚨図が付いているが[別表]、陳蔵器によればこの虫は「南海」に生まれている。術士の認識では青蚨の母虫と子虫の間には超常的な感応力がある。子虫が捉えられたら、どんなに遠く離れていても、正確に子虫の近くまで飛んでいく。

 ここまでの認識で終わっていればよかった(段成式がそうである)。後の人が異議を唱えることもなかったろう。しかし術士は青蚨の習性の描写に満足がいかず、青蚨の特異な能力を利用して、少しの投資から大きな利益を得ようとした。

彼らは青蚨から青蚨の血を考え出し、また青蚨の血を銅銭に塗り込むと、互いに引き合うと考えた。また母子81枚ずつの銅銭に血を塗るという規定を決めた。そして血を塗るまえに、三日間銅貨を埋めるよう要求した。彼らは青蚨銭が財物を移すことのできる飛蠱に見える霊物であるとみなした。いわば博物学の知識が変じて巫術となったのである。

 

(3)

 青蚨還銭(せいふかんせん)法術には独特な考え方が反映されているので、注意が必要だ。青蚨還銭の原理でいえば、母銭と子銭は相互に、双方向に引き合う。ただ法術をおこなう者は、自分に有利な面だけを考えればいい。

彼らは母銭か子銭で支払いをする。これらの銭が(渡った相手から)、自分の持っている子銭や母銭に引き寄せられて戻ってくればいいのである。逆に、自分の持っている銭が飛んで相手方のところへ行くなどとは夢にも思わない。自分の持っている八十一枚の銅貨が吸い寄せる力を持っていることのみ考え、相手方の八十一枚の銅貨にも吸い寄せる能力があることを忘れている。

もし青蚨の特長が、母虫が子虫を探し求めることなら、青蚨銭の特長もまた、母銭が子銭に飛んで戻ってくることである。そんなにも合理的にできているなら、母銭でだけ払い、子銭は手元にキープすればいい。しかしあらゆる方術書が例外なく母銭でも子銭でも払っていいと書いている。どんなことがあっても、どんなお金で払おうとも、結局は術士の手に戻ってきて、元通りになるのである。

もし青蚨銭と血を塗った者が一方向に飛んで吸い付く関係を持っているなら、その意味するところは、青蚨の血ではなく、血を塗った者が、銅貨を吸い寄せる特異な力を持っているということである。これは青蚨の血が互いに吸い寄せるという特長を否定するに等しい。

本質的には、お金もちになることと破産することの両方の可能性がある法術である。一方的にお金持ちになる法術としているだけである。術をおこなう者が勝手に(破産する法術でなく)お金持ちになる法術と決め込んでいるに過ぎない。これと、豚肝塗竈致孝術(ブタ肝と泥をかまどに塗って孝行させる法術)は、類似した巫術の手法を用いることで、相通じるものがある。

 

 唐宋時代、『初学記』や『太平御覧』など少なからぬ同様の書が青蚨還銭の物語を収録している。編集者らがこの伝説を収めたのは、面白いと感じただけでなく、人に青蚨の言葉の縁起を知らせる意味もあった。これらの法術はすべてが幻に過ぎないというわけではないのだ。当然、実際の応用している面から言えば、青蚨還銭術はほかの流行した巫術と異なり、伝説本体が変化し 発展してきた。

 『太平広記』巻四七七が引用する『窮神秘苑』が言うには、青蚨銭で金銀珍宝の類を買うことはできないと。「もし金銀珍宝を買えば、銭は戻ってこない」。おそらくこの書の作者は青蚨還銭法術をおこなう者が貪欲すぎるのを恐れ、捕捉するかたちで戒律をつけ足したのだろう。

 

(4)

 魏晋南朝時代、「蜻蜓(トンボ)変じて青珠となる」という伝説が流行した。『博物誌』「戯術」に言う。「五月五日、家の下に、頭を西向きにトンボを埋める。埋めて三日、食べないでいると、青い真珠と化している。正門の下に埋めるともいう」。いわゆる「埋至三日不食」だが、三日食べることができないのはトンボを埋めた者である。

 晋司馬彪『荘子注』は似た話を収録し、ある童子がトンボの頭を埋め、食べずに舞い、舞ながら「これぞまさに珠なり」と叫んだ。その痴れたさまを見た者は笑った。

 一部の道士はとくに「青色大眼(青い大きな目)」のトンボを信仰した。トンボの目だけが青珠に変成すると考えた。

 明代の術士は赤いトンボから房中(房中術)の薬物を製造した。地面にトンボの頭か目を埋めれば、それが青い珠になっているという。トンボを埋めるのは、富を得る近道なのである。とはいえこの法術は青蚨還銭術と比べると検証しやすいこともあり、それほど広がることはなかった。

 

(5)

 古代によく見られる致冨巫術は交感原理から出発している。主なものは埋霊物(まいれいもつ)、塗霊土(とれいど)、呪符を用いた諸法術などである。

 

<埋霊物(神秘的な力のあるものを埋める> 

 埋霊物の法術の中で埋蚕沙(さんしゃ)法術はもっともよく見られる。蚕沙とは、蚕の屎(糞尿)のことである。

『竜魚河図』に言う、まさに蚕沙を住宅の亥の方向、すなわち西北の下に埋める。「大富になる(大金持ちになる)。生糸を得る。吉利(縁起がいい)である」。

 甲子の日、一斛(こく)二斗の蚕沙で宅を鎮める(亥の方位に埋める)。「大吉。千万の財を成す」。

 『枕中方』に言う、「蚕沙を亥の地に埋めれば、家は大金持ちになる」。蚕沙を埋めるのは、もともと同類相感の原理によって生糸を獲得するためである。生糸は多くの場合、自ら富を得るものである。のちに一般的な意味の致冨術に転化した。前節で述べたように、古代の医師は蚕沙によって、女を男に変じる霊薬を作った。これは蚕沙致冨法術が変化した方術である。

 

 方士は牛角、鹿鼻、鳥、五穀、李木炭(すももの木から作る木炭)を埋めれば富が得られると考えた。

 『如意方』に言う。「牛角を宅に埋めれば、冨(を得られる)」「鹿鼻を建物の隅に埋めれば財を成す」「鹿骨を門や厠(の下)に埋めれば、銭を得る」「鳥を庭に埋めれば、富ませることができる」「五穀各二升を堂に埋めれば、銭や財を集めることができる」「李木炭三斤で門の下を掘り、これを埋めると、百倍富ませられる」

 牛角を埋めるのは牛が多いからであり、五穀を埋めるのは穀物が多いからであり、鹿鼻、鹿骨を埋めるのは「禄」(給料。鹿と同音)が多いからである。この致冨法術はわかりやすい。しかし鳥を埋める法術、李木炭を埋める法術については理解しがたい。

 

 漢代の術士はすでに黄石鎮宅法を編み出していた。のちの人は六畜繁殖において埋黄石が有利であるという観念を押し広めた。

 『如意方』は「黄石六十斤を亥子(い・ね)間の地面、および鶏小屋の下に置く。すると六畜業がうまくいく」と述べる。六畜旺盛で家庭は衣食住に足りる。埋蚕沙、埋黄石の法術はどちらも「亥地」あるいは「亥子の間の地」に霊物を埋めることを強調する。つまり五行学説とも関係する。

亥と刑殺[死刑に処すこと。ただここでは命理学の用語として用いている]の組み合わせによって、北西の方角から殺気がやってきて、蚕と六畜の生長に不利である。それゆえ蚕沙、黄石を亥位に埋めて、殺気を鎮圧する必要がある。この意味を説明すると、蚕沙が蚕の生長に感応して作用するほか、黄石にも邪気を圧伏し、鎮める力がある。

 

 『霊奇方』の記述によれば、ある致冨法術はより典型的な交感巫術である。「他人のいい田んぼが欲しいなら、戊子の日にひそかに買券を作り、田んぼの中央に埋める。田んぼの主はかならず田んぼを売る」。

 ひそかに買地券を作り、手に入れたい田んぼの中央それを埋める。その土地の主人はいつのまにかその土地を売っている。買券を作った者は、相手に売らざるを得なくさせて、容赦なく値切り、田んぼを(安く)獲得することができる。

 

(6)

 霊土を用いて冨がもたらされる方法は、漢代にはあった。『淮南万畢術』は言及する。「二月上壬の日、道の土を取り、井華水と混ぜ、その泥を蚕小屋の四つの(よう)すなわち格子窓に塗るのは、名を菀窳(えんわ)という蚕神に適している(蚕神を喜ばせて生糸を大量に生産する)」。

 『如意方』に記された宜蚕法術もこれと大同小異である。ただ四牖が四角(よすみ)に変わっただけである。二月第一壬の日、道の土と井華水を混ぜ、その泥を蚕房の四角、あるいは四面の窓に塗る。蚕神にとっては大いに利益がある。というのも生糸がたきさん生産されるのである。

 この種の宜蚕法術の影響はとても大きく、霊土を倉に塗る、あるいはかまどに塗るといった致冨法術はこれから派生したと考えられる。

 後世の富を求める人が重視した霊土は、裕福な人の田んぼや屋敷の土だった。彼らはこの種の土によって裕福な人の財運が自分の家にやってくると信じていた。

 『枕中方』は言う。「立春の日に富裕な家の田んぼの土を取りかまどに塗る。人を富裕にすることができる」。清代に至ると、一部の農学家はなおもこの法術を伝授していた。

 張宗法の『三農紀』巻二十一は紹介する。「除夜の日に富裕な人の田んぼの土泥をかまどに塗る。招財もおこなわれる。七月の丑の日、富裕な人の家の庭の土を取ってかまどに塗る。人に知られてはいけない。こうすれば富が得られる」。

 土を取る日時に変化があるほか、基本的精神や伝統的な法術の部分は完全におなじである。冨をもたらす霊物である土は春牛の土である。張宗法が言う「春、牛角上の土を戸の上に置く。家族に吉をもたらす。蚕もよく生産される」はその一例である。

 

 富をもたらす霊物は多く、用いる方式も「埋める」「塗る」だけに限らない。たとえば「ブタの耳を掛ける」なんていうのもある。夏暦(陰暦)十二月、「ブタの耳を堂の梁の上に吊るす。すると人は富む(お金持ち位なる)」。

牛馬を呼んで、粟豆を撒く者がいる。「元旦の日が昇る頃、門前で牛馬やその他の家畜を呼んで来させると、粟豆を灰の中に置き、これを家の中に撒く。そして牛馬を招くように言う」。

 牛馬の骨を焼く者がいる。「牛馬の骨を焼けば、大貴である(大いなる富が得られる)」。

 食器に画をえがく者がいる。除夜の日の夜、石灰を用いて打穀場、道路、居室内で豊作を祈願する。これらの方術に共通する特長は象徴に祈願する手法である。

 

 致冨法術はとくに日時の威力を重視する。『枕中方』に言う、「老子いわく、つねに戊子の日に馬を買う。丑の日にこれに乗る。代々馬が絶えることはない」。

 『霊奇方』は戊子の日にひそかに地券を買って埋めることを要求した。また前述のように、戊子の日に「合陰陽」することで子を求める法術をおこなうことを要求した。こうしたことから術士は、戊子の日におこなうことに尋常ならざる意義があると考えていたことがわかる。

 

(7)

 財を成すことを夢見る術士は、呪符を用いて目的に達することを忘れはしない。『如意方』に言う、春の甲午、乙亥の日、夏の丙辰、丁丑の日、秋の庚子、辛亥の日、冬の壬寅、癸卯の日、その夜半に北斗に向かい、祈祷し、呪を唱える。「ある物が欲しければ、すなわちおのずと得られる」。具体的な呪文は記していないが、おそらく「欲しいある物」か、その験(望みがかなうこと)に関することだろう。

 『太上秘法鎮宅霊府』には多くの招財進宝や畜、蚕を守る霊符が記されている。典型的な致冨符を図(別図)に示したい。第一図は「招金銀入宅、富貴、不逢殃禍」(金銀を招く、わが宅に入れ。富豪にさせてくれ。災いには遭わないように)に用いる符。第二図は「招金銀入宅、大富貴」(金銀を招く。わが宅に入れ。大富豪にさせてくれ)に用いる符である。

 

 富を求めるのが目的の祭祀が民間で大流行していた。『五行書』は「ブタの頭を祀ることで、巨大な富を得ることができる」と述べている。

 明清の時代、趙公明、五顕神、劉市仙官ら財神らを祀る宗教活動はよく見られるようになった。これらの宗教活動は比較的低級の迷信活動と言えるだろう。

 

(8)

 巫術の実践の発展に伴い、致冨術からより効果が大きい如願術が派生した。人生のすべての願望が実現するには、基本的に富があることが必要になってくる。それゆえ如願術と致冨術は密接な関係がある。

 『如意方』に記す「あるものが欲しければおのずと得られる」はすでに致冨方であり、如願術であるともいえるのである。

 『五行書』の「ブタの頭を祀ることで、巨大な富を得ることができる」も、「発財致冨」(お金をもうけて金持ちになる)ということである。ほかの方術書のなかで「五月戊辰の日にブタの骨で(かまどを)祀る。如意を求める」というのも同じである。

 おなじ種類の巫術の効果が無間に開かれる。本職が致冨なら、これが拡大して、如意でないものはなくなる。術士の手の中でこの二つの法術は、厳格に境界を示すものではない。

 

 葛洪は言った。名山に入るとき、甲子の日、あるいは月の開日、除日、五寸四方の五色の模様を染めた絹織物を岩に掛け、「求めれば必ず得られる」。これは五色の布の辟兵長寿術(武器による害を避け、長寿を得る法術)が変じてできた如意法術である。[開日は開通順利の日の意味。除日

 

(9)

 南北朝の頃、元旦に銅銭を通した縄を木の竿の端に結び、それを手に持ってゴミ屑[食べたあとの骨や殻など]のまわりを何周か回り、そのあと杖をゴミ屑の上に放った。こうすればすべて願いの通りになると考えられた。

 隋朝の頃、北方に似た習俗があった。正月一日の夜、「如願」を追求する人がゴミ屑の傍らに立つと、ほかの一人が竿を持ってゴミ屑を叩いた。そしてゴミ屑に代わって痛みを訴えて叫んだ。あるいは細い縄で人形を縛り、ゴミ屑に向かって投げつけた。

 小説『録異伝』に記す、盧陵商人の区明は彭沢湖を過ぎたとき、自称青洪君の神仙に招待された。去る際に青洪君は区明に何がほしいかと聞いた。区明は人から聞いたことを思い出し、「如願」のものと答えた。青洪君は出し惜しんでいるように見えたが、区明に如願を授けた。じつはそれは若い女の奴隷だった。区明は如願を得て、有求必応(求めれば必ず応じる)、「数年にして大金持ちになった」。[台湾では至る所に「有求必応」の文字を見かける。これは低級の神、有応公、有応媽を祀ったもの]

 このあと区明は「しだいに傲慢になり、如願を愛さなくなった」。ある年の元旦早朝、如願の起床がやや遅く、区明は(怒って)手に木の杖を持って殴りかかった。如願はあわててゴミ屑(糞尿)に頭から突っ込み、それ以来顔を出すことはなかった。そして区明は貧民に没落してしまった。

 この物語が出現したということから、如願追求が広範囲で流行していたこと、当時の人の精神に大きな影響を与えていたことがうかがえる。しかし物語そのものは、如願法術の由来が何であるかいかなる真剣な説明をしていない。現在から見ると、新年に竿でゴミ屑を打つとか、ゴミ屑五向って人形を投げつけるというのは駆邪法術である。

 秦簡『日書』が触れているのは、桃竿を用いて哀鬼と飄風の気を駆逐することができること、桃竿を用いて居室の四隅と中央を叩けば災禍をのがれることができることだった。また桃の人形が大魅に倒れかかると、それは駆逐された。除夜、あるいは元旦に桃枝を(居室に)置いた。これは秦代以前から代々伝わる習俗である。

 後漢の頃、毎年年の終わりになると、朝廷は公卿や将軍に桃竿を分かち与えた。こうしたことと魏晋以来の如願法術との関係を分析すると、如願法術の起源が辟邪術であるという結論が導き出せる。

 暗くて汚い場所はすべて妖魅なるものの棲むところとみなされる。ゴミ屑の山も例外ではない。はじめ、人間は一年の平安を保証するために、元旦の日に桃竿や桃人形でゴミ屑中の妖魅を駆逐した。これと桃枝や桃板を放置する新年習俗はもともと違うものではなかった。のちに桃木に対する崇拝が弱まると、一般的な竹竿や人形でゴミ屑を打ち叩くようになり、こうした活動には新しい意味が付与されるようになった。これらは邪悪を除き、平安を保証するためのものだった。現在の言葉なら「如願以償」(願いがかなって満足すること)、とくにお金がもうかって金持ちになることをいう。こうして伝統的な巫術的な手法は新しい「効き目」を持ち、如願術と呼ばれるようになる。

 

 宋代に至っても、蘇州には元旦や除夜に杖でゴミ屑を叩いて願いがかなうよう祈る習俗が完全に残っていた。宋代の范成大『臘月村田楽府十首』は「打灰堆」(灰の山を叩く)の習俗を詠んでいる。

詩の前文を引用すると、「(呉の人は)除夜が明けた暁、ニワトリが鳴き、婢(下女)が杖を持って糞混じりの土を叩いたあと、商売がうまくいくよう祈りながら言葉を述べた。これがいわゆる打灰堆である。これのもとは彭蠡(ほうれい)地方[鄱陽湖か]の清洪君廟の如願故事であるが、呉のもと、今に至るまで(この習俗は)廃れていない」。

 『打灰堆』の詩はつぎのように描く。「除夜が終わり、暁の星が輝く頃、願いがかなうよう糞をかきあつめた盛り土を(杖で)叩く。灰を叩くと籬(まがき)にそれが飛び散る。春節の新しい衣装が汚れてしまうが人は気にしない。おばあさんはまず三度祝いの言葉を口にし、我らの家長が富みさかえますようにと唱える。軽い舟が商売のために出発し、重い船になって戻ってくる。母牛は仔牛を連れて歩き、ニワトリはヒヨコにエサをやる。野生の蚕の繭(まゆ)が糸を発し、麦は二つの穂を出す。短い衣は長い衣(長袖の衣)に作り替えることができる。しかしその年の下女は(汚いものに)我慢ができず、私の話にも聞く耳を持たないようだ。もしわが願いがかなわないなら、あなたに任せて彭(ほうれい)湖に戻るとしよう」。

 

 呪符を用いて如願を追及する行為に関しては、あまりはっきりしない。『太上秘法鎮宅霊符』に星、日(太陽)、鬼などの符号を組み合わせた霊符が記されている。それには文字の説明がある。

「此符大招経求遂意」(この符は、求遂意符、すなわち望みのものを求める符である。それを大いに招く)

 大招とは大いに招致するという意味である。これを作った人の考えでは、この符は如意符と名づけられるものだった。

 

10

 唐代の宗居士が言う、博徒がサイコロを振るとき、「伊蹄弥蹄弥掲羅蹄」という呪文を一万遍唱えれば、「彩随呼而成」(呼ぶにしたがって現れる)の神効が得られるという。博徒に一万遍も呪文を唱えさせてから賭けさせるとは、博徒の忍耐力を高評価しすぎである。それゆえ宗居士が示した呪文はほぼ戯言といっていい。極論すれば、賭博を戒めているのかもしれない。しかし後世の少なからぬ人はこの呪文を重要なものとみなした。彼らはこの冗談のような代物を如願法術と考えたのである。彼らが各自の著作にそれについて書くと、広く流行することになった。

 魏晋時代の如願法術は、中国巫術史上で象徴的な意味を持つ。如願法術は伝統的な巫術が持つすべての効能を持っている。術士が想像しうるかぎりの巫術の最高地点と最大の優越性を体現している。それによって中国の巫術が他の追随を許さない頂点に達したのである。

如願法術が編み出されたてから千年のうちに、巫術の手法は新しくなり、種類も増加した。ただどれも数量が増えただけの変化で、伝統的な意味合いを突破するものではなかった。20世紀80年代に至り、現代の巫覡は「信息(インフォメーション)」「能量(エネルギー)」といった科学述語を盗用し、伝統的な鬼神観や巫術手法をあらたに解釈しなおした。中国巫術にあらたな変異が発生したことをそれは示している。

 

 民間信仰の伝統から見ると、大衆文化のレベルや人類の精神の欠陥などを角度分析すると、巫術活動は急に姿を消すようなものでなく、一方で社会矛盾から突発的な流行の社会変動を作り出すこともできるのだ。しかし予言といってもいいのだが、中国固有の「怪力乱神を語らず」の文化伝統の抑制のもと、巫術は過去に存在せず、現在も大きすぎる力を持つことができなかった。現代の巫術は、大量のはやりの宗教用語と科学用語を用いて自己を塗り固め、奇怪な様相を呈している。ただし超自然力と精神万能の吹聴をやめるのは不可能である。でたらめな治療を施したところで、生まれながらの不治の病を根本的に治療することはできないだろう。

 巫術は永遠に秘密めいていて陰鬱な性格があり、人を健康的な、明るい、高尚な精神生活へと導くことはできない。正常生活からすれば容認できない陰鬱な空気がむしろ彼らにとっては          心地よいのである。これにより、現代巫術がどんなふうに変わったにせよ、「門庭冷落」(客が来なくて寂れた様子)にして「領土日狭」(家の敷地が狭い様子)といった、困窮した、危機的状況にあるのにはちがいがない。