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 漢代の媚道の具体的なやりかたに関しては、『史記』「建元以来侯者年表」の中に見え隠れする。この年表の中の「宣帝侯表」は前漢後期の褚少孫が補ったもので、将陵(という侯国の)侯を列挙しているが、史子回のところで順調に史氏の妻に及んでいる。「子回の妻宜君は故・成王の孫である。嫉妬深く、侍女四十人余りを絞め殺した。女性の初子をさらって肘と膝を切り落とし、それを用いて媚道をおこなった。棄市(死刑の一種)が求刑された」。

 生まれた子の頭を斬り落とし、その肘と膝を用いて媚道をおこなったというのである。初めての子の肘、膝を用いて寵愛を取り戻そうというのは、いったいどういう観念に基づいているのか、現在において推論のしようがない。しかしはっきりとわかるのは、媚道の実施にはひどく残虐な行為を伴うことがあるということだ。

 明代の沈徳符によると、明代の方士の中には男の子の脳髄を吸って食べれば陽道復活[若返り]がなるという奇説を信じる者がいた。福建の抽税太監高寀(こうさい)は「あまねく児童を買ってひそかに殺した」。

 また方士孫太公は房中術にふけり、縉紳(官吏経験者)の仲間と遊んでいた。調熱剤を幼い男の子に飲ませ、しばらくすると、おちんちんが激しく痛み出し、膨れ上がる。痛みが局限に達したところで切り落とし、それを媚薬とした。殺した子供の数は千人にものぼるという。

 明代のこの種の方術は、漢代の「女性のはじめての子供を盗んで切ったものを媚道とする」という行為を参考にしている。両者の手法と目的はほぼ一致するので、それらは歴史的にも関係があるだろう。秦代以前から時の王朝は媚道を邪術として厳禁してきた。この種の法術は人を殺して薬を作るなど、あまりにも残虐すぎた。