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 古代において民間に伝わる媚薬は少なくとも十数種あったとされる。その大部分は花、草、鳥、虫だった。

草(ようそう)> 

 『山海経』「中山経」に言う、天帝の女(むすめ)姑の山に死す。死後変じて草と成す。この草の葉は幾重にも重なり、黄色い花が咲き、実はネナシカズラとよく似ていた。これを服すると人に媚びるようになった。郭は注釈で草は「荒夫草」とも言い、これを服すると人は媚(人を好きになること)となる、「人を愛するようになる」と述べている。この「服」は「身に着ける」ことをいう。

 は一部の文献で誤って詹草(せんそう)と記されている。『博物誌』「異草木」に言う「右詹山、帝女詹草と化す。その葉ふくよかに茂り、萼(がく)は黄色、実は豆のごとくあり、身に着けた者は人に好かれるという」。これは『山海経』中の古䍃山(すなわち姑山)が右詹山となったものであり、䍃()草も詹草となった。


<砂俘(さふ)> 

 「砂(さだ)」ともいう。媚草の一種といえる[ミミズのような虫]。陳蔵器『本草拾遺』に言う、「砂俘、または倒行拘子という。蜀人はそれを俘郁と呼ぶ。乾燥した土に孔を開けると、眠ったまま動かなくなる。それを取って枕の中に入れると、夫婦は愛を悦び合うようになる」。

五代時代の孫光憲はこの一節を引用し、彼の妾の一人が砂俘を得たが、試したことはないと述べている。のちに孫光憲は成都に遊び、旅籠で草薬を売る李山人と知り合った。孫は現地の若い連中がみな必死に李山人に会おうとし、高価な薬を買っていくのを見て、その薬は何かと聞いた。李は「媚薬だ」と答えた。孫がさらに問い詰めると、それが砂俘ということがわかった。

 孫光憲は『本草拾遺』に書かれていたことを思い出し、陳蔵器の話にも根拠があることを認識した。李山人が秘密を厳守したので、孫は砂俘の用い方がわからなかった。

 孫氏は言う、「武陵山は媚草を産する。無頼の徒は銀をこれと交換し、それによって男女を発狂させる[興奮させる]。それは大惨事といえるだろう」。このことから、砂俘の効能は媚草とほぼおなじとみなせる。

 周亮工『書影』巻五も陳蔵器を引用している。ただその文はわずかに異なっている。「陳蔵器『本草』に言う。砂子は砂石中に生まれる。大豆のような形で、背中にとげがあり、さかさに進むことができる。いつも寝ていて動かない。生きたままこれを取り、枕の中に置くと、夫婦が相悦ぶことになる。蜀人はこれを浮郁と呼ぶ」。つまり媚薬の中心となっているのは砂俘の子である。周亮工はまた湯若士の『武陵春夢』の詩を引用する。「細語(かすかなことば)春情夜の紅を惜しむ。人の眠りを妨げる五更の風。あくる朝翡翠色の中州の前に立ち、沙を取って枕の中に置く」。最後の行で説明しているように砂俘を枕に置く方法は古代には流行っていたようだ。


 <鶴草> 

 晋稽含『南方草木状』巻上に言う、「鶴草、蔓が生え、花は淡黄色、萼は浅紫色、葉は柳に似ているが短い。夏に開花し、形は飛ぶ鶴のごとし。嘴、翅(はね)、尾、足、どれも万全である。南海を出て、媚草という。上に虫あり。蛹から赤黄色の蝶となる。女子はこれを隠し持つ。これを媚蝶と呼ぶ。夫の慈しみを高めさせることができる」。

 稽含は鶴草から生まれる虫や蝶に夫をなびかせる効能があることを強調している。鶴草自体にどれだけの力があるかについては説明していない。唐の人はこの草を鶴子草と呼び、草自体に夫をなびかせる作用があるとみなしている。

唐人段公路は『北戸録』のなかで、鶴子草は「南人これを媚草と呼ぶ。これはすばらしいもので、懐子や夢芝と比較することができる」。当地の婦女はこの草を干したあと顔の装飾物の代わりに用いたという。段氏が言及した懐子や夢芝もまたあきらかに媚草である。見た目も中原の人が使う媚草と似ていた。


無風独揺草> 

 『歳時広記』巻二十二に『本草拾遺』を引用する。「無風独揺草、これを身に着ければ夫婦は愛しあうようになる。嶺南に生まれ、頭は弾のようで、尾は若鳥の尾のよう、両方合わせるとぴったり符合する。見ると自ら動くので、ゆえに独揺草と呼ぶ」。

 独揺草から媚薬が作られる。ある人々がそれを見るとかならず「両方が合わさり、人が自ら動いているように見える」ので、特別な思いと無関係でないようだ。独揺草の産地に関しては古書にも諸説がある。嶺南説以外にも、大秦国(ローマ帝国)説なんていうのもある。ある人は「五月五日に野山に出ると、これを見つけることがある」という。またある人は言う。「この草は独活(うど)の苗(若い状態)である。雍州の谷間や隴西南安などで採れ、蜀漢のものがよいとされる。この草は風があっても動かず、無風でも自ら動くという。そのため独揺草と呼ばれる」。

 『酉陽雑俎』「草篇」は舞草に言及している。「雅州は舞草を産する。独茎(一本茎)で三枚の葉から成るが、葉は決明(薬材)に似ていて、一枚の葉は茎の端にあり、二枚の葉は茎の半ばで対になって生えている。人が近づいて歌ったり、手のひらをたたいて歌を聞かせたりすると、葉はかならず動き、舞っているかのように見える」。

 『本草綱目』巻二十一に言う、舞草とはすなわち虞美人草、独揺草とおなじ種類に属すと。李時珍は、独揺草は『山海経』の草と同一と推測する。『本草綱目』巻十三の草薬鬼督郵またの名独揺草という記載も、無風で自ら動くという特性を示している。ただしそれと愛を起こさせる無風独揺草は別物である。


<桃朱術> 

 桃朱術(術の音は住と同じ)は草薬の青(うまさく)の一種。『歳時広記』巻二十三が『本草拾遺』を引用する。「桃朱術の種子を取って身に着けると、女性は夫に愛されるようになる。薬草園のなかで、それは芹の花のように細く、角のような紫色の種が生まれる。鏡に向かってこれを敲くと、種子は自ら生まれる。五月五日にこれを手中に収める」。『本草綱目』巻十五「青」の条に付された「桃朱術」のなかに陳蔵器の説明が付されている。


子(こうし)> 

 『本草綱目』に言う、「榼子は蔓(の植物)である。種の核を取り、衣に着ける。すると人を恋に迷わせる」。


<相憐草(そうりんそう)> 

 宋人周密『癸辛雑識』「続集」巻下に引用する周子功が言う、南丹州(広西南丹)の「山中に相憐草を産する。媚薬ななり」と。暗いなか、相憐草を少しばかりある人物の身に投げつける。すると「草の心がその人について離れなくなり、あきらめなくなる」。周子功はまた言う、彼はかつてこの草を得たことがあるが、「試してみようと、のちに徐有功(640―702)はこれを取りに行ったという」。

 媚草の種類は上述のものだけではない。名をとどめるだけのものもある。たとえば段公路『北戸録』が言及した「(草冠に)草」「左行草」など。

名称がわからず、媚薬であることだけ知られているものもある。たとえば『歳時広記』巻二十二に引用する『投荒録』に言う、番禹のある人が端午を過ごしていると、街中で「相念薬」売りの大きな声が聞こえた。これはもともと少数民族の媼(おうな)が売る「山中異草」。この草は金持ちの婦女相手専門に売る「媚男薬」なのである。五月五日に採った異草はとくに神のごとき効果があると言われ、価格がぐんと上がった。ゆえにお金持ちの家のみが買うことができたのである。

 また文人の誇飾が言うには、滇南[雲南南部]の少数民族の婦女は「男を喜ばせる媚薬を作るためにこれを試してみる。部屋の東と西に一つずつ大きな石を置く。それにこの薬を塗ると、夜になればふたりは合わさることになる。その薬もさまざまな草を合成したものである」。

 このほかにも、古代の詩人はつねに紅豆(相思子、トウアズキ)を題材に詠唱し、それは愛の気持ちを起こさせるものとみなされたが、後世になってその意味合いは変化したと考えられる。