犬の磔(はりつけ)による邪気祓い 宮本神酒男 編訳

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この写真は昔(1950年代)、邪気祓いではないが、神判のために犬を磔にしたもの。右写真の両前脚が切断されていることに留意したい。貴州省のミャオ族の村。

 いわゆる六牲のなかでも、犬はもっとも攻撃性に富んでいながら人間に馴化された動物である。家犬は門を守り、猟犬は野獣を捕殺することができたので、その能力が巫術に転用されても不思議ではない。殷・西周の時代、犬の犠牲は祭祀に頻繁に用いられ、殷には「殺犬陪葬」(犬を殺して死者とともに埋葬すること)の風習があった。

 本当の意味での犬の邪気祓いが多く見られるようになるのは、春秋時代以降である。春秋時代の初期、秦の徳公は「伏祠を作り、村の四門で犬を磔(はりつけ)にして蠱(こ)の災いを防ぐ」と言い、後漢の服虔は「周代に伏祠なく、犬を磔にして災禍を防いだのは秦がはじめである」と述べた。

 秦の徳公が用いた磔法は、犠牲のからだを刀で引き裂いて祭る方法で、その源は殷代の卯祭や西周の○辜にたどることができるが、磔にするのは犬とは限らない。犬、羊、豚にさほどの区別はなく、どれも犠牲としては珍しくなかった。(*○は副+副の左部

 秦の徳公の磔の方法はひとつではないが、犬の犠牲によって災禍を防いだ。というのは、犬を使わなければ、蠱の災いを防ぐことはできないと考えられたからだ。犬の犠牲は供え物であるだけでなく、呪術的な性質を帯びていた。

 漢代以来、犬を磔にすることによって邪気祓いするという習慣があった。後漢の鄭衆が言うには、『周礼』「大宗伯」中の○辜は漢代の「犬の磔でもって邪気を祓う」に相当するという。晋の郭璞によれば、当時、路上でよく邪気祓いのために裂かれた犬の屍骸を見かけたという。漢代から晋代にかけて、犬を磔にして邪気を祓うことが流行していたということだ。これは習慣化していたので、磔ということばは邪気祓い儀式の代名詞にまでなった。『汝雅』「釈天」によれば「邪気祓いの儀式は磔」だった。

しかし犬を磔にすることによって、どうやって災禍を防ぐというのだろうか。古代の学者はかつて五行思想によって説明しようとした。唐の賈公彦は「犬の磔で邪気を防ぐのは、犬は西の金に属し、金は東の木、風を制するので、犬は風を防止する」と言う。犬と五行のうちの一行をあてるのは、戦国・秦・漢のときが分岐点だった。ある人に言わせれば犬は南方の牲であり、火に属す。『墨子』「迎敵祠」や賈誼『新書』「胎教」もこの説を支持している。ある人に言わせれば犬は西方の牲であり、金に属す。応邵『風俗通義』「祠典」は明確に「犬は金畜である」と断言した。ふたつの論が争い、後者が勝ったように思われる。すなわち賈公彦の「犬は西の金に属す」が優勢である。

犬は金に属し、風は木に属す(『周易』説卦)、そして金は木に克ち、犬は風を止める。中国の巫師は陰陽、五行、八卦などを使って巫術に合理性をもたせている。しかし実際それを応用するとなると、そうそうはうまくいかない。

 犬を磔にして風(邪気)を祓うというのは、「村の四門で犬を磔にし、蠱の災いを防ぐ」のバリエーションである。この「犬を磔にして風を祓う」はさらに発展する。『本草綱目』巻四八引用の『感応志』は「黒犬の皮を焼き、これを掲げると、すなわち風やむ」と記しているが、「犬を磔にして風を祓う」の影響を直接受けているといえるだろう。

 犬の邪気祓いから巫師たちは「妖怪は犬を嫌う」ということを学んだ。この原理を応用したことによって、犬の邪気祓いの呪術が生まれた。晋の張華はこれを念頭においてつぎの物語を描いた。

<晋の恵帝のとき、燕の昭王の墓前で一匹の千年斑狐が、司空張華の才覚が衆を抜きん出ていることを知り、若い書生に化けて訪ねることにした。張華はその書生の弁舌が立つことただならないのを見て、その正体に疑問を抱き、ひそかに人をやって調べさせた。しばらくして、博学で知られた雷煥が張華に対し提言した。

 「もし彼が妖怪ではないかと疑うのなら、猟犬で試してみてはどうか」

 張華は人に猟犬をひいてこさせ、書生にかみつかせた。しかし書生は犬を恐れることは微塵もなかった。張華はそのさまを見て言った。

「聞くところによると、妖怪は犬を嫌うというが、犬が識別できるのは数百歳の妖怪までだという。千年の老妖怪がその姿を現すためには、千年の枯れ木を燃やして照らさなければならない」

 張華は人をやって燕の昭王の墓前の千年の木を燃やし、その炎で照らすと、書生は原形の斑狐の姿を現した。>(『捜神記』巻十八)

 猟犬の妖怪に対する力には制限があるが、その前提として「妖怪は犬を嫌う」がある。それが巷間に流布していたからこそ、「千才以下の妖怪は犬を恐がる」という設定が成り立つのである。

 「妖怪は犬を嫌う」という観念は後世の小説にも反映されている。明代の陸燦はこういうことを書いている。

<呉の富某は死んで一年後、霊魂となって家に戻り、子どもの料理や家事を手伝った。毎日朝から晩まで苦労を惜しまなかった。しかし霊魂は犬を恐れるもの。毎晩墓に戻るときは、家の下男が送っていった。ある晩たまたま送る人がなく、霊魂だけで墓に戻ろうとしていたとき、悪い犬の群れが襲い掛かってきた。富某の霊魂は叫んで樹上に飛び上がり、その瞬間跡形もなく消えてしまった。それ以来霊魂は戻ってこなくなった。>(『庚巳編』巻三)

 古代伝説では、家犬は妖怪の九頭鳥の克星である。九頭鳥には、姑獲、天帝女、夜行遊女、隠飛鳥、鬼鳥、鬼車などの別名がある。

<伝説によればこの鳥はもともと十の頭を持っていたが、犬にかまれて頭をひとつ失ったため、九頭鳥と呼ばれる。春から夏にかけて、天気雨(晴天なのに雨)と遭うたびに九頭鳥は村から上空に飛び上がる。そのとき犬にのどをかまれているため、血が滴り落ちているという。血がどこかの家に落ちると、その家は災害を蒙る。>

 九頭鳥は人の魂を掠め取るのが得意だという。とくに子どもが好きで、さらってこれを養う。子どものいる家では、血のあとを衣につけ、(犬にかまれた)目印とするという。

 宋代の詩人梅堯臣は『古風』のなかで九頭鳥について書いている。

<犬にかまれて首をひとつ落として以来、いまにいたるまで血が流れ続けている>

<その血が滴り落ちると、その家はかならず没落する>

 宋代の周密は、ある人がこの鳥を捕獲したことがあるという。

<身は丸く箕のごとし。十の首があるが、九つの頭しかなく、ひとつには頭がない。鮮血が滴り落ちていて、首からはそれぞれふたつの翼が生えている。飛ぶときには十八の翼が競うようにはばたき、傷つけあってしまう。>

 九頭鳥は凶悪だが、犬を恐がるという弱点を持っているので、対処はしやすい。

 南朝の頃、正月になると鬼車が飛んでくると人々は考えた。そこで夜になると、

<家々で床を鳴らし、戸を叩いた。そして犬の耳をねじり、ロウソクの火を消し、邪気を祓った。>

 犬の耳をねじるのは、九頭鳥の天敵が妖怪を駆逐できることを知らしめるためである。

 

 犬の血を用いて妖怪を駆逐するのも古代ではよくみられる巫術だった。漢代にはすでに<正月、白い犬の血で不吉なものを取り除く><白犬を殺し、その血で門に題字を記す>といった風習があった。白い犬の血を使用することが強調されているが、それは五行説の観念から来ている。

 五行説によれば、西、秋、白色はみな金行であり、犬は金畜である。白犬は金に金が加わったことになり、殺傷能力が高まり、邪悪なものに対しより攻撃的な力を発揮することになる。

 葛洪の『肘後方』によれば、からだが冷えて、あるいはぬくもって病気にかかった六、七日後、熱が異常に高くなり、悪い霊が魂を奪おうとする。白犬が背中を破って血を吸い、熱に乗じて胸に入るが、冷めると出て行く。

 古代の医師は、白犬の血が魔の起こした病気や小児癲癇、悪性のできものなどを治すと認識していた。これらの療法と巫術の犬の邪気祓いは関連がある。古代方術師の黄色い犬の血を使った療法は迷信の度合いが強かった。

 伝説によれば、三国時代の神医華陀は黄犬の血を用い、患者の口から蛇に似た蛇でない虫を取り出した。このことから見るかぎり、華陀の療法は医術というより巫術である。

 明から清にかけての時代、犬に対する感情は特別なものがあり、犬の血の迷信は増えこそすれ、減ることはなかった。

『本草綱目』は<方術家は犬を「地厭」とし、一切の邪気を祓う>と記している。

 清代の栄葷によると、麻城の医師趙時雍に幼子があった。幼子は、自分は三年前に死んだ劉泰寧の生まれ変わりだと言い始めた。劉氏の生前のことをよく知っていたので、評判は高くなり、毎日たくさんの熱狂的な人々が訪れるようになった。趙時雍はしかしこれは不吉なことではないかと考え、犬の血を幼子に噴きつけた。すると「劉泰寧」は何も話さなくなったという。

 清代の黄均宰は記した。蛟竜が地に卵を産みつけたため、付近は

<冬、雪が固まらず、春、草が生えず、鳥もまたやってこない。上方に気があり、朝は黄色く、夕方は黒ずんでいた。その声は雷のようで、秋の蝉が手の中で鳴いているかのようでもあった。そのため金の太鼓、火の武器、犬の血、汚物などによってこれを鎮め、土を掘って(卵を)取り除くことができた。>

 犬の邪気祓いはもともと巫師が発明したもののはずだ。しかし、墓穴を掘るとでもいうのか、つねに犬の邪気祓いを行うと、それは巫師にかえってくる結果に終わってしまうのだ。古来より法術の使い手は犬肉を食べないようにしていたが、しばしばその禁を破ったため、能力を失ってしまうことがあった。

 元代、民間の巫師劉先生は別の巫師王万里に、生きた魂をコントロールすることができる呪符(おふだ)を伝授した。

「牛と犬の肉は法を破る。食べるのはしばらく避けなさい」

 巫師は犬の肉、犬の血を恐れていたので、聡明な人々はこれらのものによって巫師たちの妖術を解くことができた。

 『聊斎志異』の一編「妖術」は、妖術によって人を害そうとする卜者と、犬の血で妖術を破ろうとする一般人の対決の物語である。

<豪放な于公は人からアドバイスをもらい、執拗な卜者に犬の気で対抗しようとした。卜者は隠形術によって姿を見えなくしたが、于公は馬上から犬の血をばらまいた。すると卜者の姿が現れた。その頭には犬の血がべっとりとついていたが、目だけはらんらんと輝き、仁王立ちしていた>

 清代末期になると、巫術の信徒たちは犬肉と犬の血を避けるようになっていた。下記の文は義和団運動について書かれた記事である。

<三日、牛家荘の(義和拳の)拳民たちが一月近く取り調べを受けているとき、県令はひとりの拳民に黒犬の肉の麺を一碗食べさせ、それによってついにその法術を破ることができた。城内には県令に復讐をしようと各村から人が集まってきたが、老李村からはとくに数百名が武器を持ち、大砲を2台担いで参加し、県令を殺した。その勢いは恐ろしいほどだった。(作者の)弟や土豪は制止しようとしたが、彼らは東林寺を占拠、滞留し、城内に千貫の罰金を課そうとした。官吏も土豪も東林寺におもむいて叩頭し、祭壇を拝んで、謝罪した。>

 義和団が汚職まみれの官吏を攻めるのであるが、事件をつぶさに見ると、県令が黒犬の肉麺を食べさせて拳民の法術を破ったことが、暴動の引き金となったのはまちがいない。義和団は呪符や法術を信じ、その法術は政治・信仰と関連していたので、拳民の法術をはずかしめるということは、彼らの信仰や組織をはずかしめるということだった。一碗の黒犬肉麺が暴動を引き起こしたのには、こういった背景があったのである。