解説    宮本神酒男 

 私は何年か前、W・S・マーウィン著(北沢格訳)『吟遊詩人たちの南フランス』という紀行本を買い、その繊細な抒情性が気に入って、いまでもときどき開いては読んでいる。しかしこのピュリッツァー賞詩人がチョギャム・トゥルンパの名声をあやうくした大スキャンダル事件の当事者であったことは、ごく最近まで知らなかった。

 チョギャム・トゥルンパが他のチベット仏教の亡命ラマと違うのは、チベット仏教という狭い枠にとどまらず、ヒッピー世代の、あるいはビート世代の米国の(世界の)寵児となったことである。ギンズバーグやケルアック、バロウズといったビート・ジェネレーションのひとりに含めたくなるほど当時の、そしてのちの社会に影響を与えている。もし亡命することなくチベットのカム地方にとどまっていたなら、ミパムやジャムゴン・コントゥルのような大学者になっていたかもしれないが、このふたりと同様チベット以外ではまったく知られていなかっただろう。

 ビート世代ではとくにアレン・ギンズバーグと仲が良かった。チョギャム・トゥルンパをグルと崇める同性愛者であったギンズバーグから、ベッドをともにしないかという提案があったというから、ほとんど一線を越えかけた仲だった。

 いわば社会の名士となったチョギャム・トゥルンパではあったが、彼には自らも認めるクレージー・シッダ(狂気の成就者)という側面があった。クレージー・シッダというのはトゥルンパの発明品ではなく、インドにはアヴァドゥータ・ヨーギンという伝統があった。フォイアスティンが『聖なる狂気』という著書のなかで多数の実例を挙げているので具体的にはそちらを見ていただきたい。フォイアスティン自身、アディ・ダ(ダ・フリー・ジョン)の弟子であった時期があるので、聖なる智慧のすさまじさが身に染みてわかっていたにちがいない。この邦訳には含まれていないが、新しい版ではサティヤ・サイババとともに、麻原彰晃が「スピリチュアル・テロリスト」としてクレージー・グルの仲間入りを果たしている。

 チベットのクレージー・シッダことニュンパ(瘋狂僧)は、チョギャム・トゥルンパにとってはより身近な存在であったはずだ。もっとも知られたニュンパは、ミラレパの詩と伝記の作者として知られるツァンニュン・ヘールカ(14521507)とドゥクパ・クンレー(14551507)である。

 ドゥクパ・クンレーのエピソードはインドのアヴァドゥータ・ヨーギンと比べるとずっとマイルドである。彼が南のほうの有名なストゥーパを巡礼で訪ねたときのこと、僧侶たちが何かについて論議していた。しかし彼にはストゥーパの端に腰掛けている美しい女のほうが気になった。ストゥーパに礼拝しようとしない彼にたいし僧侶が文句をつけると、ドゥクパ・クンレーはストゥーパでなく女性のほうに礼拝をしはじめた。

 タントラ経典のなかで女は「智慧の本性」なのだから、彼にとっては崇拝するのは当然のことだった。またマンダラに入るとき、象徴的な意味で女性の太もものあいだに入っていくのだから、女性は崇拝されるべきものなのだという。

 ドゥクパ・クンレーの狂気の智慧とチョギャム・トゥルンパの狂気の智慧はおなじもの、同質のものだろうか。あるいはチョギャム・トゥルンパのときおり見せる常軌を逸したふるまいは成就者の証しなのか、それともカルト・リーダー(ときには終末カルト・リーダー)の資質を見せているのだろうか。

 このできごとの主役は詩人W・S・マーウィンとデイナ・ナオンである。禅仏教は体験ずみの彼らがチョギャム・トゥルンパに惹かれ、興味を持ち、チベット仏教を体験的に知りたがっていたのはまちがいない。

しかしまず、「エゴの熱い血を楽しんで飲みなさい」とか「夜になったら教えの曲解者の大動脈を切りなさい」といったフレーズに衝撃を受ける。チベット密教ではこういったおぞましいフレーズに出会うことがあるが、ここで表面的なものに心をかき乱されているようでは真理を見ることなどできないのだ。

 ハロウィンの夜、決定的な事態にいたる。チョギャム・トゥルンパは参加者全員が「仮面をとる」すなわち服を脱ぐことを提案する。このとき別の部屋で帰り支度をはじめていたマーウィンとデイナは呼び止められ、群衆に襲われ、彼も割れたボトルを振り回して戦うものの、床に押さえつけられ、チョギャム・トゥルンパの前まで引きずられる。彼らは公衆の面前で全裸にさせられる……。

 もっとも理解しがたいのは、こんなことがあったにもかかわらず、彼らは逃げ出すどころかセミナーをつづけたことである。「そのとき被った精神的な外傷があまりに大きすぎて、まともにものを考える力を失っていたのだろう」とフォイアスティンは推測している。もしかするとマインドコントロールの影響下にあったのかもしれない。これだけのひどい、みじめな体験をすると、そのあとどんな困難な状況に陥っても自分は乗り越えられると思ってしまうものである。

 マーウィン本人以上に激怒したのは詩壇の人々、とくにロバート・ブライとケネス・レックスロスだった。彼らはチョギャム・トゥルンパを「わいせつなペテン師」と呼んだ。結局怒っている人々とトゥルンパのあいだで仲介役をせざるをえなかったのはアレン・ギンズバーグだった。実際、トゥルンパの「狂気の智慧」を説明し、詩壇の人々を納得させるのは至難の技だった。

 平和愛好家(運動家)だったマーウィンは、温和で、おとなだった。彼は1977年につぎのような公式見解を発表している。

 

トゥルンパにたいする私の感情といえば、最初から複雑なものだった。彼の驚くべき才能には、徹頭徹尾、讃嘆。そして疑念。それは大きくなって測り知れない不安となった。それを彼が利用としていることへの懸念。思うに、少なくとも、私は彼からなにかは学んだ。(私が学んだと思われているものは、それがすべてではない)彼を通して何かを学ぶことはできた。そのことは非常に感謝している。しかし私はだれにたいしても、彼の生徒になることは勧めない。彼の健康を願う。

 

 究極的には、マーウィンはトゥルンパを許すことはなかったろう。彼はもともと禅仏教が好きだったが、トゥルンパと会ってから、チベット密教の影響が彼の作品に反映された痕跡がまったくなかったからである。ふたつのまったく異なる世界があるとき、両者が交わらない方がいいという場合もあるのだ。

 トゥルンパにはそのほかにも、性の乱れやアルコール依存症についても悪い噂がつきまとっていた。トゥルンパが後継者に指名したトマス・リッチは男女を問わず多数と性交渉をもち、結果的にエイズをまきちらすことになってしまった。トゥルンパ自身、弟子たちと性的関係をたびたび持ったとされる。グルと弟子(生徒)の乱れた関係はよく見られる。最近もビクラム・ヨガの創始者ビクラム・チョウドリーのセクハラ問題が米国では大きな話題になっていた。(ヨーガというよりエクササイズ。室温を高く設定するので、ホット・ヨガと呼ばれる)

 これだけの材料を並べると、まるで私がチョギャム・トゥルンパを否定しているかのように聞こえるかもしれないが、私は彼の天才的なところを賞賛したい。常識をひっくり返し、奇矯なふるまいをするのは、クレージー・シッダの特色なのだから。しかしそこに終末カルトの姿を見て、不安に駆られる人も少なくなかったろう。1978年のガイアナの人民寺院の集団自殺は、カルト集団の恐ろしさを人々に思い起こさせたはずだ。

 トゥルンパをどう評価しようと、彼は1987年におそらくアルコール中毒による合併症でこの世を去っている。そのあとを継いだのは長男のサキョン・ミパム・リンポチェだった。彼は父親の天才的なところは受け継いでいるが、奇矯なふるまいは受け継いでいないのだ。その結果のサキョンの挙措に不安を覚えることなく、父親譲りの説得力のある講話を聞くことができるのだ。考えてみれば彼は血統的にいっても純粋なチベット人でなく、チベット人と英国人のハーフであり、何といっても米国生まれの米国育ちの米国人なのである。